高田崇史の小説『鬼統べる国、大和出雲 古事記異聞』de いながら旅(3)

● 高田崇史
● 高田崇史古事記異聞鬼統べる国、大和出雲

 昨年は、【小説 de いながら旅】実践&取材旅として、3月にポルトガルを、9月に京都をリアルに旅し、実践結果は4travel.jpに、取材結果はいながら旅の第7シーズン(第23~25節)、第8シーズン、第9シーズン第3部に、それぞれ利用して投稿しました。

 今年は、60年に一度巡ってくる「丙午」で、江戸時代の八百屋お七の逸話から「丙午に生まれた女性は気性が荒く、夫の寿命を縮める」といった迷信が広まり、前回の1966年(昭和41年)には産み控えによって出生数が大幅に減少するなど、迷信・俗説と強く結びついてきた干支ですが、火の要素が重なることから「情熱的でエネルギッシュ」な年になるとも言われ、様々な分野での発展を期待したいところです。

 さて、『鬼統べる国、大和出雲 古事記異聞』をガイドブックとする、第9シーズン第4部のいながら旅は、この投稿で最終回を迎えますが、雅たちは大神神社や「大和出雲」の謎の核心に迫ることはできるでしょうか。第5章からいながら旅を続けます。


第5章 諸行無常の天水

9 野見宿禰

 第一旅(第22節)に暗示したとおり、野見宿禰がキーマン的な存在となってきました。研究室にいた担当教官の御子神伶二や助教の波木祥子から雅が聞いた話を含め、宿禰のことを整理しておきましょう。

 第一旅(第18節)で紹介した野美社の由緒書や『新撰姓氏録』、『続日本紀』天応元年(781年)の条によれば、出雲国造の始祖でもある、天穂日命の14世の子孫とされ、また、菅原道真の直系の祖先とされています。また、出雲国飯石郡野見郷の出身であるとする説に対し、作中では『出雲国風土記』の飯石郡の項に野見郷という地名はないとしていますが、確かに7つの郷の中にその名はありませんが、山野の中に「野見」という野が記されています。そして、野見宿禰は本名ではなく、王権に恨みを抱く「宿根」の意味だったかもしれないとのことです。

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 『日本書紀』によれば、宿禰は、垂仁天皇7年7月7日に召された天覧相撲で、当麻蹴速のあばら骨を踏みくだいて殺し、蹴速の土地を賜り(腰折田という名の由縁)、そのまま朝廷に仕えます(上296・7頁)。御子神が最大の謎としたのは、使者が「即日」宿禰を連れ戻り試合が行われた点で、その日のうちに島根の出雲から連れ帰ることは物理的に不可能とする池田雅雄の説を紹介して、宿禰は長谷から都祁(つげ)地方にかけての『大和出雲』の豪族だったと話します。

日本相撲協会ウェブサイトから引用)

 次に問題としたのは「埴輪」です。御子神は、写真の「出雲人形」にも言及します。前説で雅たちが注目した説明板にあった土人形のことです。『日本書紀』(上304・5頁)によれば、垂仁天皇32年の皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)薨去に際し、宿禰は、君主の陵墓に生きた人を埋めるのはよくないと奏上し、出雲国から土師を呼び寄せ、埴土で人馬や器物を造らせて献上し、殉死に代えることを勧め、採用されます。これが埴輪で立物(たてもの)とも言います。この功績により、宿禰は土師の司に任じられ、土師臣の姓を賜り、土師連らは天皇の喪葬を掌ることになります。しかし、池田雅雄によれば、日葉酢媛命陵も含めて大和の多くの古墳から人形埴輪は出土されておらず、宿禰の埴輪殉死説は否定されており、考古学者の小林行雄は、土師氏が始祖である宿禰の功績を言い立てて自分たちの社会的地位を引き上げようとした創作だと言い切っています。

奈良・桜井の歴史と社会から引用)

 御子神によると、桜井市出雲を除き三輪山周辺から『大和出雲』の名称がなくなったのは、豊臣秀吉による太閤検地の影響だと言うのです。一方、北に峠を越えた高原、都祁こそが天孫降臨した高天原だという伝承もあり、大神神社の奥の院も祀られていたとのことでした。また、波木からは、神が身罷った山、それが三輪山の名の意味だと聞きます。


10 白山神社

 白山神社は、正式名を「白山比咩神社」という旧村社で、祭神は白山比咩(第一旅(第1節)に登場した黄泉比良坂で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲裁をしたという菊理媛神と同一神とされます)と菅原道真で、旧初瀬街道から参道が伸びています。

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 参道が国道で分断されているという変わった神社で、国道165号線の手前には、「泊瀬朝倉宮伝承地」の解説板が立っています。第21代雄略天皇は、武烈天皇同様、『日本書紀』には暴君として記述されていますが、政治的・軍事的能力に優れ、専制王権の強化を進めたともされています。

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 白山神社境内に入って右手にも「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の説明板があります。作中にあるとおり、朝倉宮の比定地としては他にも候補があるものの、日本浪漫派の桜井市出身の保田輿重郎がこの神社付近を候補地としたとしていますが、近年は巨大建造物跡が発見された西方脇本遺跡の方が有力視されているようです。

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 近くには、雄略天皇の歌で始まる『万葉集』発祥の地として、保田輿重郎の揮毫による萬葉集發燿讃仰碑が建立されています。雅が御子神たちと電話している間に一人で参拝した千鶴子がデジカメで撮影した石碑です。

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 千鶴子が次に見せた画像は、上の写真の奥に見えている、雄略天皇の歌碑でした。こちらも保田輿重郎の筆によるものだそうです。

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 こちらが境内奥にある、入母屋造りの入口のある瓦屋根の拝殿です。

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 拝殿背後の本殿は、銅板葺き、朱塗りの春日造り一間社ですが、両サイドに美しい絵が描かれ、装飾彫刻も見られます。

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 二人は、タクシーの運転手から聞いた素盞嗚神社に向かいます。初瀬川の川向う、大和朝倉駅の近くにあり、車で約6分です


11 素盞嗚神社

 素盞嗚神社は、後で訪ねる玉列神社の境外末社です。創建や由緒等はわかりません。簡易の屋根のようなものの向こうに立つ、社名扁額が掛かる白い石鳥居をくぐると、石段の参道が延々と続いています。

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 作中にあるように、石段の参道は、上に向かって直角に折れ曲がっています。

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 石段を上ったところには、鬱蒼とした緑の木々に覆われた拝殿があります。

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 こじんまりとした本殿の背後には、御神体と思われる巨岩の磐座が見えます。

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 続いて、神宮寺である慈恩寺の境内にあるという玉列(たまつら)神社に向かいます。車で約6分です


12 玉列神社

 安永年間建立の鳥居の手前には、「官幣大社 大神神社 攝社玉列神社」と刻まれた社号標が立っています。雅は、本社から2km近く離れた、しかも境外末社を持つ境外摂社ということに驚きますが、大神神社からは南東に当たり、拝殿の向きとは無関係でした。

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 二人がまず目を通した由緒書はこちらです。祭神の玉列王子神は、本社三輪の大物主大神の子神で、「玉列」は玉を貫ねる、魂貫=魂を受け継ぐとの意味だそうです(本作では、魂までも引き裂かれた神とありますが)。創祀年代は不詳ですが、『延喜式』にも見られる初瀬谷における最古の神社で、昔から玉椿大明神として信仰を集め、毎年3月には椿まつりが開かれます。

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 この神社の神紋が水野教授から怨霊の紋だと教わった「三つ巴」の神紋で、また、ほぼ間違いなく怨霊が鎮座していると言われる「若宮」と呼ばれる神社であることから、雅は、玉列王子神も親神の大物主神と同様に怨霊神ではないかと考えますが、参道は折れ曲がってはいないようです。

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 雅たちは通り過ぎたようですが、左手に祓戸神社がありますので、先に参拝します。

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 石段を上って、瓦葺き、切妻造りの拝殿に向かいます。掛かっている神社幕にあるのが「長尾右三つ巴」の神紋です。

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 なお、石段の右脇にあるのは、「誕生さん」と呼ばれ、古くから子宝石として信仰を集め、また、初宮詣の際にこの石の周りを廻りながら「ヘイチョウ カイチョウ・・・」と3度唱えれば元気で健やかな子に育つと言われる、誕生石です。

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 拝殿背後の石段を上ったところには、珍しく鳥居が立ち、その後ろに、安永2年(1773年)に改修された、立派な男千木を載せた檜皮葺き、春日造り一間社の本殿が鎮座しています。拝殿は北向きなので、親神のいる奥津磐座のある三輪山山頂を遥拝しています。

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 その後、二人は境内摂社の金山彦神社愛宕神社猿田彦神社に参拝します。

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 また、帰りぎわに見かけたという、素盞嗚神社遥拝所の立て札はこちらです。

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 玉列神社が三輪山山頂を拝しているように、大神神社拝殿もどこかを拝しているはずだという雅に、千鶴子は、それは「大和出雲」全体であるような気がすると話し、それを前提に次に進みましょうと話します。前出の地図に現在の「出雲地区」を書き入れると、次のような感じです。

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 二人はJR桜井駅から天理に向かいます。


第6章 御所遥か薄墨衣

13 石上神社

大鳥居

 石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山の西の麓、標高266mの布留山(ふるやま)の北西麓の高台に鎮座し、天理駅から車で約6分程度です。鬱蒼とした常緑樹に囲まれる中、存在感のある社号標が立つ角を過ぎると、「布都御魂大神」の扁額が掛かる、高さ7m、最上部の笠木の長さ10m、柱の直径76cmの檜の立派な大鳥居が見えてきます。いずれも昭和3年(1928年)に昭和天皇の御大典を記念して建立されました。

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参道・鏡池

 『記紀』では「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」、中世には「布留社(ふるのやしろ)」、『延喜式』には「石上に坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」とある、日本最古の神社の一つで、物部氏の総氏神として信仰されてきました。布都御魂(ふつのみたま)大神、布留御魂(ふるのみたま)大神、布都斯魂(ふつしみたま)大神を主祭神とし、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣命(いちかわおみのみこと)を配祀しています。

石上神宮公式サイトの印刷用PDFから切り抜き)

 二人は、放し飼いの鶏たちが遊び回る、鏡池の畔を歩いて奥に向かいます。この池には、後醍醐天皇が吉野に都落ちする際の逸話から、別名を馬魚(ばぎょ)と呼ばれる、背部が緑青色であるほかは銀白色の鯉科の淡水魚、奈良県の天然記念物に指定されているワタカという魚が生息しています。

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 雅たちは、社務所に立ち寄り、由緒書が載ったパンフレットを入手します。

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 二人が手と口を漱いだ手水鉢です。

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拝殿・本殿・禁足地

 石段を上ると、拝殿へと向かう楼門は横を向いており、ここで参道が左に90度折れることになります。

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 神仏習合されていた時に鐘楼門とされていた、檜皮葺き、入母屋造り、二階建て一間一戸の楼門は、文保2年(1318年)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。正面に掲げられている「萬古猶新」の額は山縣有朋の筆によるものです。

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 楼門をくぐると、正面に桁行七間梁間四間、檜皮葺き、入母屋造りの拝殿が建っています。本殿に配祀されている白河天皇がこの神宮の鎮魂祭のために、永保元年(1081年)に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたもので、国宝に指定されています。

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 かつては本殿がなく、後方の禁足地を御神体である神剣「韴霊(ふつのみたま)」が鎮まる御本地と称して奉拝されていましたが、明治7年(1874年)に菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、顕出した神剣などを奉斎するため、大正2年(1913年)に本殿が造営されました。拝殿の背後に、男千木と奇数本の鰹木を載せた、檜皮葺き、流造りの本殿が見えます。

Googleマップから切り抜き)

 この写真では「布留社」の文字はわかりませんが、剣先状の石の瑞垣が並んでいるのは確認できます。東西44.5m、南北29.5m、面積約1300㎡の地を禁足地として、神域の中でも最も神聖な霊域とされます。

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出雲建雄神社

 楼門を戻って、正面の石段を上ると、右手に摂社の出雲建雄神社拝殿があります。興福寺大乗院末寺で廃寺となった内山永久寺の鎮守社であった住吉社の拝殿を大正3年(1914年)に移築したもので、拝殿と言いながら背後に本殿はありません。保延3年(1137年)建立とされる、檜皮葺き、唐破風向拝を持つ切妻屋根の拝殿で、桁行五間梁間一間の中央に一間分の馬道(めどう)と呼ばれる土間・通路を設けた割拝殿という形式で、国宝に指定されています。

Wikimedia Commons

 春日造り一間社の出雲建雄神社本殿は、反対側の石段の上の鳥居の向こうに鎮座しています。天武天皇の御代、布留川の上に八重雲が立ちわき、 光り輝く神剣が現れて「今この地に天降って、皇孫を保じ諸民を守ろう」 と託宣されたという、草薙剣の荒魂を祀っています。江戸時代には、 本宮の祭神布都斯魂大神の子神と考えられ、「若宮」と呼ばれていました。

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 その右隣にある、ひと回り小さい一間社は、末社の猿田彦神社で、かつては祭王御前と呼ばれ、布留山に祀られていましたが、明治10年に現在地に遷座しました。主祭神の猿田彦神のほか、明治43年に住吉社の祭神の筒男三神、 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、 高靇神(たかおかみのかみ)を合祀しています。

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参 道

 参拝を終えた千鶴子が出雲建雄について確認するため、帰りの参道で立ち寄った鏡池脇の休憩所というのはここです。作中にあるとおり、拝殿前にあった舞殿を昭和15年(1940年)に移築したもので、今の屋根は銅板葺となっています。『古事記』(景行天皇の条 254頁)と『日本書紀』(崇神天皇60年の条 上278頁)とでは、原因と登場人物が違うものの、同じ流れで出雲建雄は謀殺されてしまいます。次田真幸によれば、元々出雲地方に伝わる説話らしいですが、その出雲はここ大和出雲なのでしょう。

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 大鳥居の手前に昭和43年に建立された『万葉集』の「未通女(おとめ)らが 袖振山の瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は」の柿本人麻呂の歌碑があります。千鶴子は、万葉集にある、溺れ死りし出雲娘子を吉野に火葬りし時に人麻呂の作った歌二首に、何故出雲の子供を遠い吉野に葬るのかずっと違和感を持っていたが、出雲がこの辺りのことであれば何の問題もない、本来の出雲は間違いなくここ大和にあり、想像以上に大きな国だったのかもしれないと話します。

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 二人は、奈良市内に戻って今日一日のことをまとめることにして、大鳥居をくぐってタクシーを捕まえようと県道方向に戻ってきたところ、先ほどのタクシーの運転手が待っていました。


14 真実の出雲

 タクシーの運転手粕谷は、忘れ物を持ってきたと言って車に案内し、鏑木団蔵と名乗り、御前と呼ばれる老翁に引き合わせます。団蔵は、出雲を調べている二人が真面目に学ぼうとしているとわかり、他人に聞かれない場所で、誰も書き残していない「真実の出雲」を話しておきたいと語ります。二人は怪しく思いながらも、団蔵の申し出を受け、奈良駅まで送ってもらう車中で話を聞くことにします。写真は、参道から県道51号への出入口の角に立つ、明治16年(1883年)建立の社号標です。

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 団蔵は、石上神宮を「駆け込み寺」であり、当時最新鋭の武器庫であったと切り出し、奈良市の都祁には、大神神社の奥の院とされる雄神神社があると話します。サイドトリップしてみましょう。

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 祭神は出雲建雄神で、大神神社と同様、山を御神体としています。神社のある雄雅山と東の牝雅山を合わせた、野々神岳という山です。

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 出雲建雄神は、布都斯魂大神の子神で、石上神宮で出雲建雄神社が若宮と呼ばれていることに、雅は「怨霊!」と反応しますが、参道は折れ曲がってないみたいです。若宮が怨霊と結び付けられることについて、団蔵は、「若」は同じくわかいと読む「」と同義で、巫女が祈り踊る姿を表しているが、「夭」は「わざわい」とも読むと話します。

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 本殿がないのも大神神社と同じで、こちらが拝殿です。

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 拝所の奥に「金銀銅鐵」の額が掛かっていますが、団蔵によれば、雄雅神社は別名「金銀銅鐵社」といい、祭神である出雲建雄神が鉄に精通する神であったことを伝えているとのことです。

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 拝殿の背後には、狛犬と鳥居があるだけで、御神体の山は禁足地とされ、頂上に窟があり、神使の蛇が住むとされています。

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 逆に、二人に学習した結果を尋ねると、千鶴子は、大山祇神=素戔鳴尊や大山咋神=饒速日尊が統べた国が本来の出雲で、ここ大和に存在したが、彼らはやがて謀殺され、後を継いだ大国主命や事代主神、建御名方神の代に、八咫烏・賀茂氏の裏切りにより滅ぼされてしまった、島根の出雲は神々が流竄(るざん=島流し)にあった土地であり、記念碑に過ぎないという見解を話し、団蔵にどうして大和出雲が本来の出雲であると主張することを躊躇うのかと訊きます。

 団蔵は、真実に近づいても陰惨な歴史が顕になるだけで碌なことはないと主張し、葛城市にある当麻蹴速塚の案内版に書かれている「勝者必ずしも優ならず時には勝機や時運に恵まれず敗者となることもある。勝者に拍手をおくるのはよい、だが敗者にもいっきくの涙を涙をそそぐべきではないか」という言葉を引用し、辛酸を舐めた蹴速の子孫も表舞台に出ることを拒否しているように、自分たちはわざわざ波風を立てず静かに暮らしたいだけなのだと語ります。

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 それに対し、雅は、その考えを真っ向から否定するのではなく、京の出雲郷から逃げ出した人々は「隠国」であるここ大和出雲を目指したことがわかったとして、団蔵たちは逃亡した出雲臣たちの子孫か彼らを必死に匿った人々の子孫だと言って、朝廷の圧力に屈しない高いプライドを持った崇高な人々であり、「素晴らしい」と表現します。

 最後に、大神神社の拝殿は大字出雲の辺りを拝んでいると推察する千鶴子に対し、団蔵は、「磐座」とは神の墓だと説明し、ダンノダイラも火葬場を意味する「蓮台野」で、あの一帯は大きな墓地だったと言って、大神神社の拝殿は、出雲の人々のその「墓地」を拝んでいるのだと話します。千鶴子がもしかして大神神社は両墓制にいう「詣り墓」なのかと尋ねると、団蔵は、そういう名称が付けられる以前からの風習だと答えます。

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 奈良駅に到着すると、団蔵は、何か面白いことに気がつくかもしれないと言って、率川神社の参拝を勧めて二人と別れます。二人が聞いた話を公表するとしても、歴史の流れとして少しずつ真実が顕になっていくことは止められないし、彼女たちなら深く悲しい歴史と真面目に向き合ってくれると感じていました。千鶴子も、雅に、出雲郷や出雲寺の悲惨さや哀しみを知っているあなたこそ論文に書くべきだと言い、二人で率川神社に向かいます。


エピローグ

 翌朝、団蔵は、いつものように率川神社に参拝します。境内には、6月の三枝祭(別名「ゆりまつり」)の案内板が立てられています。第2節では、この祭の由来を祭神の媛蹈韛五十鈴姫命が暮らした三輪山の麓、狭井川付近に笹百合が咲き誇っていたという神話を紹介しましたが、団蔵によれば、「サイ(サヒ)」が鉄の古語で、産鉄地の山に山百合が多く生えることからサイグサというようになり、鉄がたくさん採れたことを祝う祭が「サヒ草祭」だったとのことで、雅たちならすぐに解明しただろうと感じます。

「ぽんぽこぽんのB級放浪記」から引用)

 拝殿での参拝を済ませた団蔵は、大神神社遥拝所の石板の前に立ち、いつもと同じように出雲の安寧を祈りました。この遥拝所は、隣のかえる石に刻まれている方位からもわかるように、真南を向いており、南南東よりにある三輪山の方角からはずれていますが、雅たちもきっと確認したことでしょう。

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 団蔵は、続けて、西北西と東南東を向いて、島根の出雲大社と三重の伊勢神宮を遥拝しました。作中にある、明治8年(1875年)に起こった率川神社の所属を巡る争いというのは、平安時代以降、率川神社は春日大社を管理する興福寺の支配下に置かれていたところ、明治の神仏分離令に伴い、それまでの支配実績を根拠として傘下に置こうとする春日大社と、祭神の親子関係に基づく縁故を主張する大神神社が論争したというものです。それほどまでにこの神社を摂社にしたかった理由は、団蔵によれば、出雲大社と伊勢神宮を結ぶライン上に鎮座している奈良唯一の神社であるという立地にあるとのことです。雅たちは、そのことに気づいたでしょうか。

(本書Kindle版から引用)

 団蔵は、雅たちに「伊勢を知らぬと、出雲の半分しか分からぬな」と言ったが、実はもう一つ知っておかなければならないものがあり、それを知って初めてこの国の全てが分かると考えながら、もう一度心を込めて祈るのでした。


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 第9シーズン第4部のいながら旅は、ここまでです。今回の旅では、千鶴子と共に訪ねた大神神社で、拝殿が御神体である三輪山山頂を向いていないことに気づいたことから謎解きをスタートさせ、長谷寺から初瀬街道沿いのスポット、そして、石上神宮へと巡り、出雲ムラや野見宿禰に関する伝承から、かつて「大和出雲」が存在していたことを知り、団蔵の話から「真実の出雲」を認識するに至りました。出雲編は完結しましたが、出雲をより知るため、一体分身の関係にある「伊勢」に手を伸ばすようです。第5部では、『陽昇る国、伊勢 古事記異聞』をガイドブックとして旅を続けます。

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