小説をガイドブック代わりに、登場人物たちの足跡を辿りつつ、時には寄り道もして、写真や観光資料、地図データなどを基に、舞台となっている世界各地を紹介しながらバーチャルに巡礼する、【小説 de いながら旅】の第9シーズン。高田崇史の『古事記異聞シリーズ』を取り上げて、旅の舞台を日本に移したシーズンの第3部です。第1部、第2部のいながら旅を引用する場合は、それぞれ前々旅、前旅と表記します。また、『日本書紀』を引用する箇所に頁数を記載している場合は、前々旅のガイドブックの項で紹介した井上光貞監訳の『日本書紀 上』(中公文庫)の頁数です。
この旅のガイドブック

今回(第3部)の旅のガイドブックは、民俗学を学ぶ大学院生の主人公橘樹雅(たちばな みやび)が研究テーマの本質を探求するためゆかりの土地を巡る『古事記異聞』シリーズの3作目『京の怨霊、元出雲 古事記異聞』で、当初2020時年7月に講談社ノベルス『古事記異聞 京の怨霊、元出雲』として刊行されていた作品を、前作と同様、文庫化(2021年9月)に伴い、プロローグと他の章の一部を入れ替えるなど構成や表現を見直し、主要な登場人物に松本救助作画によるキャラクターイメージを与え、題名の主複を入れ替えて発行されたものです。

雅は、研究のテーマ「出雲」を追い、元祖ともいうべき元出雲があるという京都を訪れ、京都に強制的に連行されていた出雲族の存在も知ります。またもや殺人事件に関わり、「言霊」について考えさせられます。出雲編3作目の本作では、亀岡の出雲大神宮からスタートして、出雲族の集落があったという鴨川の西側へも足を延ばし、かつて水野研究室に在籍していた金澤千鶴子と知り合い、彼女に同行してもらって、上加茂・下鴨の周囲で多くの「出雲」に出会います。今回は、今年(2025年9月)に京都や亀岡を訪れて実地に巡礼してきましたので、その時の写真も利用して(画像下の引用元リンクは省略)、4travelに掲載した旅行記と連携させながら、いながら旅を行いたいと思います。
なお、雅が千鶴子と民俗学談義をしたり、警察が関係者を尋問したりする部分については適宜割愛し、登場人物が舞台となる場所を訪れる部分を中心にいながら旅を進めます。また、見出しや章節の区切りは、私が付けたものであり、小説のそれとは必ずしも一致していませんので、ご留意ください。
プロローグ
3月も残りわずか、主人公橘樹雅は、4日間で出雲及び奥出雲の30か所以上の神社旧跡を巡り、担当教官の御子神伶二から、「櫛」の謎を解いて褒められたのも束の間、「元出雲」という新たな課題を提示されるとともに、出雲に関する謎が殆ど解けていないと改めて宣告され、出雲から戻って1週間後、1泊2日の旅程を組んで京都に向かいます。東京発の新幹線に乗った雅は、富士山の青く美しい姿を眺めながら、出雲でのフィールドワークを振り返ります。

出雲国の歴史上最大のハイライトともいうべき素戔嗚尊の八岐大蛇退治や大国主命の国譲りのエピソードが『出雲国風土記』に一行も書かれていないという謎はまだ解けていません。
第1章 積乱雲は今にも
1 狐の窓
京都山王大学の学生森谷将太がホームから転落して電車に撥ねられて死亡したのは、阪急電車嵐山線の松尾駅でのことでした。同駅は、1928年に新京阪電車嵐山線の松尾神社前駅として開業、1943年に阪急電車の駅となり、1948年に本作当時の名称「松尾駅」に改称しましたが、2013年の駅番号導入時に「松尾大社駅」と改称しています。

将太は、その3日前、狐の形をさせた指を特定の手順で組み合わせて作った窓から覗き、呪文を唱えて相手の正体を見破るという「狐の窓」を、民俗学研究室の加茂川瞳准教授に対して行い、真っ黒い烏の姿を見たと怯えていたのです。狐の窓は、夜風さららの同名コミックエッセイや安房直子の児童文学『きつねの窓』のベースとなっており、作中にあるように、民俗学者の柳田國男の『こども風土記』(柳田國男全集12)の「狐あそび」や『現代日本文学全集12』の「狐飛脚の話」に記述がある民間伝承です。

将太に誘われて一緒に狐の窓を行った牧野竜也は、2階の民俗学研究室の窓から自分たちのことを見下ろしている加茂川准教授を目撃していました。
2 亀岡へ
京都駅に到着した雅は、32番線ホームでJR嵯峨野線に乗り換え、亀岡に向かいます。各停でも30分ほどです。奥出雲の亀嵩と今回の亀岡、出雲で巡った神社の神紋の多くが亀甲を基礎にしており、全てに「亀」があり、何らかの理由でつながっているのではと考えるのでした。

因みに、作中に出てくる嵯峨野トロッコ列車は、JR山陰線の複線化によって使われなくなった線路を利用して、トロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅を結ぶ嵯峨野観光鉄道として平成3年(1991年)に開業した嵯峨野観光線で、京都から乗る場合は、JR嵯峨野線で嵯峨嵐山駅で降りるとすぐ隣がトロッコ嵯峨駅です。

雅は、座席に腰を下ろし、これから向かう、丹波国一の宮で、本来の社名を「大八洲国国祖神社(おおやしまのくにくにのみおやじんじゃ)」という出雲大神宮の資料を確認します。社殿の創建は平城遷都の前年である和銅2年(709年)、主祭神は大国主命とその后神の三穂津姫命(みほつひめのみこと)で、『丹波国風土記』逸文に「元明天皇和銅年中、大国主命一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述があったことから「元出雲」と呼ばれており、吉田兼好の『徒然草』にも「丹波に出雲といふ所あり」と記述されています。写真の保津川は、三穂津姫命の名前に因んでいます。

亀岡駅に到着すると、駅前から亀岡市ふるさとバスに乗り換えます。北口ターミナルの6番乗り場から乗車します。

出雲大神宮までバスで15分足らずです。
第2章 離れ雲は帰らず
3 出雲大神宮
作中では、出雲大神宮前のバス停で降りた雅が道の前方に見える大きな白い鳥居を目指して歩いたとありますが、後に紹介するとおり、雅が訪れた2008年当時に写真の鳥居は建立されていないはずなのですが・・・。

丹波国一の宮、出雲大神宮は、御蔭山の山麓、京都府亀岡市千歳町出雲に鎮座します。

バス停から大神宮に向かって歩いていくと、すぐ右手に注連縄が張られた簡素な鳥居から階段状の小道が伸びています。

上の境内案内図にも記載されていますが、小道を上った先には、明治42年(1909年)に建立された社殿創建1200年記念石碑が立っています。

千年宮鳥居
出雲大社のものに負けないくらい立派な社号標とともに立っているのが、平成26年(2014年)に社殿創建1305年を迎えた記念事業として、平成28年(2016年)10月に建立された千年宮鳥居です。

社名石碑・さざれ石
鳥居をくぐって参道の右側には、「丹波國ーの宮 出雲大神宮」の文字が刻まれている自然石の社名石碑があります。作中にある「名神大社 元出雲」の文字は、右の立て札にはありますが、石碑にはありません(後に紹介する西鳥居近くの石碑と間違えたのでしょう)。

社名石碑のの右側には、出雲の熊野大社参道にもあった(前々旅第24節)、国歌『君が代』に唄われるさざれ石が置かれています。平成29年(2017年)に奉納されたもので、雅が訪れたときはありませんでした。

社号標
参道を進むと、左側に「國弊中社出雲神社」と刻まれた社号標が立っています。

なでうさぎ
社号標の先に、大国主命に助けられた「因幡の白兎」に由来する、「しあわせ、なでうさぎ」が立っています。飛び跳ねる兎は、運気の上昇や飛躍を象徴することから、なでることで幸せが訪れ、また、自分の身体の痛い部分と同じ所をなでると痛みや病気を除去するとも言われています。

由緒書き
こちらが雅が読んだ由緒書きです。

作中にあるとおり、主祭神である大国主命とその后神である三穂津姫命の2柱のほか、天津彦根命(あまつひこねのみこと)と天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)が祀られおり、三穂津姫命は、天祖高産霊尊(てんそ たかみむすびのみこと)の御女で国譲りの際に天祖の命により后神となった天地結びの神とあり、国譲りの所以により出雲と大和両勢力の接点である丹波の国に祀られたのが当社で、崇神天皇の時代に再興され、元明天皇の時代に社殿を造営したとあります。
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一の鳥居
次にくぐったのが享保3年(1718年)建立のーの鳥居です。

金文字で「出雲大神宮」と書かれた風格のある扁額が掛けられています。

手水舎・真名井のいずみ

コロナ禍の影響で手水舎の柄杓を撤去しているところが多いですが、今回訪ねた際、この大神宮では柄杓が復活していました。

手水舎の左手を奥に行くと、霊験あらたかな名水と有名な真名井のいずみがあります。こちらの岩からは四方に水が噴き出しますが、水が汲めるところは別にあります。

夫婦岩
泉のすぐ横にあるのが夫婦岩で、作中にあるように、岩に掛けられた注連縄には、五円王がぶら下がった赤い紐が結び付けられています。雅は、岩の前で縁結びを一心に祈ります。

大国恵比須舎
雅が訪れたときにはありませんでしたが、夫婦岩の左側には、社殿創建1305年を記念して平成26年(2014年)に建立された大国恵比須舎があり、大国さんと恵比須さんの木像が祀られています。

雅は、正式な参拝順序に則り、左手(西)に進んで一旦境外に出て、摂社の黒太夫社に向かいます。
黒太夫社・祖霊社
こんもりとした林を朱塗りの低い瑞垣が囲んでいます。

注連縄が掛かった白木の鳥居の向こうに、一間社の小さな社が二つ見えます。雅が訪れた当時は、朱塗りの鳥居だったようです。作中にあるように、立っている幟には「猿田比古神 導の神 大山祇神 山の神」と書かれています。

雅は、正面の低い石段を5段上って、まずは黒太夫社(くろだゆうしゃ)を参拝します。由緒書によると、大山祇神(おおやまづみのかみ)は伊邪那岐神と伊邪那美神が神生みをしたときの子神で、すべての山を統括する偉大なる山の神、猿田比古命は天孫降臨の際に道案内をした導きの神で、一般に天狗のような特異な容貌をした神とあります。この地域の氏神を祀っているので、本殿に先立って参拝するのが正しい順序なのだそうです。雅が疑問に思った「黒太夫」という名前の由来については、社伝や文献に明確な記述はないようです。

黒太夫社の左手前にあるのが、祖霊社で、出雲大神宮歴代の神職、役員、総代氏子及び特別崇敬者の物故者を顕彰して祀っている社のようです。

西鳥居
来た道を戻ってくぐるのが朱塗りの西鳥居です。

参道の右側にある、こちらの自然石の社名石碑には、「丹波國ーの宮 名神大社 元出雲 出雲大神宮」の文字が刻まれています。

社務所
社務所に寄って、御神体山の磐座への入山受付をします。氏名、住所及び電話番号を記入し、入山料1人100円を支払います。

雅が受け取って首から掛けたという白い襷というのがこれです。入山許可証のようなものですね。社務所には、リーフレットや案内図も置かれています。

拝 殿
明治11年(1878年)に造営された拝殿は、檜皮葺き、入母屋造り、妻入りの舞殿形式の建物で、4月18日の花鎮祭(はなしずめのまつり)や10月21日の例祭には、巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。

本作では取り上げられてはいませんが、拝殿脇には、舟の形をし、注連縄が張られ、寄り添うように樹木が植えられた、舟岩と呼ばれる巨岩があります。海を越えて神々が降臨するという古来からの神話に由来し、出雲族が海を渡って丹波にやってきたという伝承を象徴しているとも言われています。

本 殿
本殿前の中門は、檜皮葺き、切妻造り、中入りの四脚門です。

他の神社でも見られますが、ここでもその年の干支の大きな絵馬が飾られています。

拝所から覗き込むと、朱塗りの本殿の階段上の右側に、雅が見た「鎮魂詞(いのりのことば)幸魂奇魂 守給へ幸給へ(さきみたま くしみたま まもりたまへ さきはへたまへ)」と書かれた木板があります。「神語」といい、出雲大社など大国主命を祀る神社でお祈りする際に三唱される唱詞です。また、左右には、徒然草の236段に上人が無駄な涙を流したと記述された獅子と狛犬が置かれています(もちろん当時のものではありません)。

本殿の参拝を終えた雅は、拝殿手前から右手に向かいます。今回訪れたときには、この案内板が置かれていました。

「鎮守の杜」という額が掛かった石造りの明神鳥居をくぐって進みます。雅が訪れたころは素朴な神明鳥居だったようです。

一間の向拝を設けた、檜皮葺き、流造平入り三間社の本殿は、重要文化財に指定されています。

雅は、本殿横までの道を手前から右に逸れる上り坂を崇神天皇社に向かいました。
崇神天皇社
こちらがこの大神宮を再興したという第10代天皇の崇神天皇を祭神とする末社の崇神天皇社です。雅が訪れたころには周りの瑞垣はなかったようです。

見世棚造り一間社の小さな祠です。左の由緒板によれば、同天皇は、大和朝廷の基礎を確立した事績から「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称され、また、「丹波の國を平定」の記述は、雅が調べたように、前々旅(第6節)で紹介した崇神天皇6年の二神遷座に関連します。

なお、崇神天皇こそ実在した最初の天皇と推測されており、その業績を神格化したのが初代神武天皇ではないかとも考えられています。
春日社
本殿横までの道に戻り、石鳥居をくぐって本殿の裏手に向かいます。

春日社は、作中にあるように、朱色の瑞垣に囲まれた中に(雅が訪れたころ、正面は注連縄でした)、紙垂の下がった注連縄を掛けられて鎮座する巨大な岩です。

祭神は、左の由緒板にあるとおり、天変地異に優れ、雷・地震の神とされ、大国主命に国譲りを交渉したことで知られる建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ=武甕槌神)と、興台産霊神の子神で、岩戸隠れの際に祝詞を奏上したことで知られ、藤原氏の祖神で春日明神とも呼ばれる天兒屋命(あめのこやねのみこと)の2柱です。

古 墳
春日社の左手奥に横穴式古墳があります。5世紀から6世紀前の成務天皇代の古墳と推定されます。

磐 座
雅は遠くから眺めただけのようですが、春日社前から左へ進んだところに、パワースポットとして有名という、紙垂の下がった注連縄を掛けられた磐座(いわくら)があります。

瑞垣の向こうは神域とされ、立入禁止ですが、神職に案内をお願いすると、磐座にも触らせてもいただけるようです。

春日社に戻って、右に向かいます。
稲荷社
次に、まず白木の鳥居をくぐります。

すぐの場所に、お決まりの朱塗り鳥居が目を引く稲荷社があります。

こちらも岩の上に見世棚一間社の小さな祠が載っています。祭神は、もちろん食物を司る神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。

御蔭の滝
稲荷社のすぐ左側、雅が立ち寄った御蔭の滝は、龍神の神を祀っており、いくつもの岩を積み重ねた頂上辺りから滝の水が流れ落ちています。本作では、弁財天社のある神池に流れ込んでいると説明しています。

稲荷社の手前の鳥居まで戻って、右に登っていきます。
上の宮
明神鳥居をくぐると、鳥居に対し直角に大きな社が建っています。ともに「櫛」の文字を冠された、素戔嗚尊(櫛御気野命)と奇(櫛)稲田姫(櫛名田比売)の夫婦神が祀られている上の宮は、向拝を設けた流造平入りの一間社で、擬宝珠に文化10年(1813年)の創建と刻まれているようです。雅が目を通した由緒書はこちらです。

雅は、立派な社殿を前にして大きく柏手を打って参拝し、この出雲大神宮でも、本殿よりも上の場所に素戔嗚尊を祀る社が置かれていることから、出雲大社と同じように本来の主祭神は素戔嗚尊なのだろうと考えるのでした。

次は、いよいよ奥の院ともいえる御神体山の磐座へ向かいます。
御蔭山(御神体山)
こちらが作中にある、神域なる神奈備山への入口に立つ、白木の柱に竹を渡した鳥居です。雅が見た、ここから先は必ず社務所でもらった襷をかけて入山するようにとの注意書きもあります。

急な坂を上った後、平坦な砂利道を進みます。

続いて、雅が訪れたときにはなかった(令和4年(2022年)建立)「國祖國常立尊」大鳥居をくぐって進みます。

雅が行き当たった、注連縄が掛かり、山の斜面にいくつもの磐座が見えたという場所がここです。ここから先は禁足地とされています。

雅が読んだ立て札によれば、この磐座群は、丹波国の桑田の宮に立てた天の御舎からこの御神体山「御影山」に遷った國常立尊(くにのことたちのみこと)の象徴として皇祖より1万年以前からこの地に鎮座しているとあります。

雅は、磐座信仰における岩が何者なのか改めて調べてみなくてはと考えながら山を降りました。
笑殿社
本殿に向かう道から逸れて雅が向かったのが、明神鳥居が立ち瑞垣に囲まれた、こちらの末社の笑殿社です。雅が訪れたころの瑞垣は朱色だったようです。

小さな一間社で、由緒書にあるように、祭神は、大国主命の子神にして、国譲りを進言し、恵比須様としても知られる事代主命(ことしろぬしのみこと)と、大国主命と共に国造りを行い、薬や酒、温泉を作り、病気の治療法を伝えた医薬の祖神の少那毘古名命(すくなひこなのみこと)です。作中には祓殿との記述がありますが、社伝等からはわかりません。

真名井のいずみの脇からなでうさぎの横に出る道を下り、弁財天社に向かいます。
弁財天社
朱塗りの鳥居をくぐって、神池に架かる赤い欄干の橋を進むと、小さな一間社、弁財天社があります。

祭神は、弁財天と同体とされる市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、天照大神と素戔嗚尊が高天原の天真名井(あまのまない)で行った誓約(うけい)で生まれた宗像三女神の一神です。

神池の方から眺めた弁財天社です。背後には御神体山が聳えています。

社務所で白い襷を返却した雅は、バスで亀岡駅まで戻ります。

見落としがないか研究室に確認の電話をすると、御子神から、元出雲を見たら次は当然京都市内だと言われ、賀茂川の西岸にあるという出雲郷に向かいます。別名「怨霊の寺」と呼ばれる出雲寺もあるようです。
4 糺の森
ここから後編の京都市内ですが、出雲郷を訪れる前に、今回雅が関わることになる事件現場の下鴨神社の周辺をサイドトリップします。
加茂大橋の北側、賀茂川と高野川が合流する三角州を鴨川デルタといい、緑地公園(鴨川公園)になり、両岸との間には亀や鳥の形をした飛び石が並べられており、ドラマ等のロケ地としてよく登場する場所です。

下鴨東通を北上すると、賀茂御祖神社の社号標と一の鳥居が見えてきます。

北へしばらく歩くと、右手に、下鴨神社の学問所絵師であった浅田家の住宅を社家建築の歴史的資料として再現した、鴨社資料館・秀穂舎があります。

御蔭通に達すると、境内案内図があり、その先に世界文化遺産の石碑が置かれた、糺の森の入口が見えてきます。糺の森を含む下鴨神社全体が世界遺産「古都京都の文化財」の構成遺産の一つとなっています。

平安京以前の原野を伝えるという糺の森は、約12万4千㎡の原生林全域が国の史跡としての指定を受けています。名前の由来については、作中にある「偽りを糺す」からきているとするもののほか、河合神社の祭神の多多須玉依姫(ただすたまよりひめ=玉依姫命)の名に由来するとか、室町時代の『諸社根元記』に記された「浮島の里、直澄(ただす)」など諸説あるようです。

5 下鴨神社
賀茂川の下流にあることからそう呼ばれる下鴨神社は、主祭神は、神武天皇の東征に際し、八咫烏に化身して先導したとされる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と、その娘で賀茂川で禊ぎをしているときに流れてきた丹塗矢(本作では、大物主神としている)を拾い、これに感精し賀茂別雷命を生んだ玉依姫命(たまよりひめのみこと)の2柱で、賀茂氏一族の祖神を祀ることから、正式名を「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」といいます。賀茂別雷命を祀る上賀茂神社こと賀茂別雷神社とともに賀茂神社と総称され、山城国一の宮です。

奈良の小川に架かる石橋を渡ります。

参道右側に2か所設置されている、舟形磐座石の御手洗(直澄)で、樋には糺の森の主と呼ばれていた樹齢600年の欅が使われており、覆屋の透塀は崇神天皇7年ころに造替した瑞籬の記録を基に再現されたものです。

二の鳥居(南口鳥居)が見えてきます。

鳥居をくぐって左側に、国歌『君が代』に唄われるさざれ石が置かれています。前々旅第24節、第3節に続き、3回目の登場ですね。

重要文化財に指定されている楼門は、高さ13m、檜皮葺き、入母屋造り、三間一戸の門で、東西の廻廊とも21年ごとに式年遷宮ごとに造替され、寛永5年(1628年)以降は解体修理して保存されてきています。

桁行四間梁間三間の檜皮葺き、入母屋造りの舞殿では、葵祭の際、勅使が御祭文を奏上し、東游(あずまあそび)が奉納されます。

下鴨神社の権禰宜の亀井克典は、毎朝の日課に従い、東回廊から御手洗池を見回っていました。御手洗川には、朱塗りの欄干が美しい輪橋(そりはし)が架かり、袂には、尾形光琳の代表作《紅白梅図屏風》のモチーフになったとされる通称「光琳の梅」があります。


御手洗池の水が湧き出る井戸の上にあるのが、井上社(御手洗社)で、かつて賀茂川と高野川の合流地点近くにあったものを応仁の乱後にここに遷座されたのです。祭神は、祓戸の大神の一柱である瀬織津姫です。

7月の土用になると清水が湧き出て水量が増えるというのが「鴨の七不思議」とされており、湧き上がる水泡の姿を団子にかたどったものが「みたらし団子」の発祥とされます。3月の流し雛、5月の斎王代禊の儀、7月のみたらし祭(足つけ神事)、8月の夏越神事の舞台となります。

御手洗池に近づいた亀戸は、池に浮かぶ京都山王大学文学部の牧野竜也の遺体を発見します。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2章の続き、第6節からいながら旅を続けます。
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