パスカル・メルシエの小説『リスボンへの夜行列車』de いながら旅(4)

● パルカル・メルシエ
● パルカル・メルシエリスボンへの夜行列車

 『リスボンへの夜行列車』をガイドブックとする、いながら旅第8シーズンも、この投稿が最終回です。プラドの人生の分岐点ともなったフィニステレ岬を訪れ、ポルトにも立ち寄ります。故郷に帰ることを決めたグレゴリウスは、リスボンで交わった人々に別れを告げ、エステファニアのいるサラマンカを経由してベルンに戻ります。

 なお、スマートフォンでご覧いただいている場合、駅周辺の画像でGoogleマップ掲載のものの引用元(画像下のキャプションに「ブラウザ版Googleマップ」と表記したもの)は、アプリ版のGoogleマップでは表示されないようですので、必要に応じてブラウザ版でリンクを開く設定にするなどしてご覧ください。


第3部 試 み(続き)

43 フィニステレ岬への旅

 コインブラ __ フィニステレ

 旧市街のカフェに座ってカモミールティーをすすり、食べ物を口に入れ、ホテルに戻ります。写真は、旧市街のヴィスコンデ・ダ・ルース通りにある老舗カフェ〈ニコラ・デ・コインブラ〉です。

(2025年の旅行時の写真)

 2時間後、日没に目覚めたグレゴリウスは、リスボン行きの列車が翌朝までないことがわかり、衝動的にフィニステレ岬に向かいます。駅の営業所でレンタカーを借りると、34年ぶりに車を運転して、2回エンストしながらも、高速道路をヴィアナ・ド・カステロまで走破し、ミーニョ川の国境を過ぎ、トゥイからビーゴ、ポンテヴェドラを越え、パドロンからノイアまでの山道を走りました。写真は、グレゴリウスも通過したであろう、ビーゴ湾にかかるランデ橋です。

(2025年の旅行時の写真)

 空を覆う雲を通して朝の光が射し始めたとき、フィニステレに辿り着き、漁師たちのボートが繋いである港で、車を降りました。グレゴリウスが漁師たちに混じって煙草を吸い、彼らに自分の人生に満足しているかと尋ねると、彼らは「この人生以外に知らないしな!」と言って大笑いします。グレゴリウスも声を合わせて涙が浮かぶほど笑うのでした。

Googleマップ

 グレゴリウスは、村の宿で午後まで眠り、夕暮れ時までに岬まで行き、岩に腰を下ろし、日が沈むまで見つめていました。「地の果て」を意味するフィニステレ岬は、サンティアゴ・デ・コンポステーラから90kmの距離にあり、巡礼者の最終目的地ともなっており、写真のとおり、ブーツや服を置いていく巡礼者もいるようです。

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 近くには、「フィニステレのブーツ」と呼ばれる記念碑もあります。

Googleマップ

 岬は、中世には「暗い海(オ・マール・テネブロソ)」と呼ばれた大西洋に落ち込む急峻な崖になっています。依然としてホメロスの言葉を思い出すことができないグレゴリウスは、ひびが入ったのは記憶ではなく、理性ではないだろうか、一つの言葉が抜け落ちてしまったからといって人が理性を失うことなどということがあり得るのだろうかと自問するのでした。

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 故郷を恋しく思ったグレゴリウスは、プラドとエステファニアがここまでやって来たとはとても思えない、あり得ないと思いますが、映画では、二人は下の画像の崖に到着し、ここで別れます。

(98分33秒)
 フィニステレ __ ポルト

 岬に辿り着くまでとは一変し、グレゴリウスは、無事にコインブラまで運転して戻ることなどできないと感じますが、翌日、なんとか休憩を挟みながら車を走らせます。ところが、ヴィアナ・ド・カステロで、ホメロスの言葉が舌先まで出かかって思わず目を閉じ、対向車線にはみ出しあやうく正面衝突しかかってしまいます。写真は、高速道路と交差する、ヴィアナ・ド・カステロ県を流れるリマ川です。

Googleマップ

 その後、なんとかポルトまで辿り着きます

 ポルト

 グレゴリウスの経路から外れますが、街を少し巡りましょう。港湾都市ポルトは、首都リスボンに次ぐポルトガル第2の都市で、1996年にポルト歴史地区が世界遺産に登録されており、映画『魔女の宅急便』に出てくる街のモデルの一つでもあります。

(2025年の旅行時の写真、以下同じ)

 ドウロ川に架かる世界遺産ドン・ルイス1世橋は、エッフェルの弟子テオフィロ・セイリグが設計し、1881〜86年に建設された、幅8m、上層395m、下層174mの2階建て構造のです。

 ドウロ川を渡って、歴史地区の中央の丘の上に立つのは、1110年頃に建設が開始されて13世紀に完成したポルト最古の建造物の一つ、ポルト大聖堂です。外観や双塔はロマネスク様式、回廊や礼拝堂はゴシック様式、玄関はバロック様式と建築様式が混合しています。聖堂の前には、晒し台(ペロリーニョ)が立っています。

 インファンテ・ドン・エンリケ通りの北側には、1383年フランシスコ会修道士により建設が始められ、ポルトガル王フェルナンド1世が拡張して、1410年に完成したゴシック様式のサン・フランシスコ教会があります。

 内部は、写真撮影不可ですが、天井や壁はターリャ・ドゥラーダと呼ばれる金泥装飾が施されており、約600kgの金を使用したと言われています。

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 こちらは、聖ヨセフを頂点にユダ王国の12人の王からダビデ王の父イサイの横臥像につながる、「キリストの木(ジュッセの樹)」という祭壇です。

(2025年の旅行時購入した絵葉書)

 長崎における殉教の場面を表わした祭壇もあります。

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 北隣には、19世紀に新古典主義様式で建設され、国定記念物に指定されているボルサ宮があり、前の広場中央には、エンリケ航海王子の記念碑が立っています。

(2025年の旅行時の写真、以下同じ)

 バイシャ地区に移り、サン・フェリペ・デ・ネリー通りの南側には、高さ75.6mのクレリゴスの塔がそびえ立っています。255段の階段を上ると、ポルトの美しい街並みを一望することができ、この街のランドマークとなっています。

 ゴメス・テイシェイラ広場に向かうと、側壁がアズレージョに覆われたカルモ教会と、幅1.5m強のカーサ・エスコンディーダ・ド・ポルトによって繋がれたカルメル会教会を見ることができます。広場中央に見えているのは、ライオンの噴水です。

 2025年の旅行時には訪れることはできませんでしたが、ほかにもアズレージョが美しい教会がありますので、紹介しましょう。こちらは、サンタ・カタリーナ通りとフェルナンデス・トマス通りのにあるアルマス聖堂で、1929年にエドゥアルド・レイテが15,947枚のタイルを使って聖フランチェスコと聖カタリナの生涯を描いた、全面アズレージョの教会です。

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 続いて、サンタ・カタリーナ通りを南へ下った、バターリャ広場の北側にある、1739年完成のバロック様式のサント・イルデフォンソ教会です。

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 物語に戻って、グレゴリウスは、ポルトのレンタカー営業所の女性に頼み込んでそこで車を返し、駅に向かいます。ポルトのサン・ベント駅は、建築家ホセ・マルケス・ダ・シルバがフランスのボザール様式の影響を受けて設計し、1916年に開業しました。駅前北側にもアズレージョのファサードが印象的なコングレガドス教会がありますが、2025年訪問時、駅前は大規模改修工事中でした。

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 ホルヘ・コラソが2万枚のアズレージョを使って11年かけて完成したホールがとても美しく、世界で最も美しい駅に選ばれています。2025年に訪れましたので、じっくり紹介しましょう。因みに、映画『ポルトの恋人たち 時の記憶』でも、117分過ぎにこの写真と同じ角度でホールが映っています。

(2025年の旅行時の写真、以下同じ)

 この駅は、北部のミーニョ地方の玄関口であり、また、南部のドウロ地方への玄関口にもなっており、天井には各地方の方向を示すMINHOとDOVROの文字があります。

 正面エントランスの左右のアズレージョには、北部の人々の暮らしの様子や田園風景が描かれています。

 こちらのアズレージョの右側一番奥でギターを演奏している人物が作者のホルヘ・コラソです。

 列車がリスボンに向かって動き出すと、グレゴリウスは、背もたれにぐったりと頭を預け、リスボンで皆に別れを告げなければならないことを思いました。

 車輪の回る短調な音に助けられ、グレゴリウスは、物思いから解き放たれて、失われた言葉が突然出てきます。それは、『オデュッセイア』第22歌の終盤に載っている ”リストロン”でした。広間の床を磨くための鉄のたわし

 2025年の旅行時に撮影したポルトのほかの写真は、こちらを参照してください。


44~48 別れのとき

 リスボンに戻ったグレゴリウスは、交わった人たちに別れを告げて回ります。当初は別れの言葉だけを告げていましたが、形が残るものを残すべきと考えたのか、望遠レンズ付きのカメラを買い、写真を撮っていきました。彼が最初に写真を撮って記録に残したのは、サパテイロス通りのオケリーの薬局。向かいのカフェからズームでオケリーの姿を収めようとしました。彼がチェスクラブに出かけた後、明かりのついたままの薬局も

(2025年の旅行時の写真)

 そして、プラゼーレス墓地近くにある蔦に覆われたコウチーニョの古い家。窓にコウチーニョの姿はありませんでした。それで近くのプラゼーレス墓地でプラドの家族の墓の写真を撮りました。

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 メロディの家は、フラッシュをたいて写真を撮ります。窓の向こうに男の姿が見え、呼び鈴を鳴らすのをためらい、城の高台からリスボンを写真に収めます(サン・ジョルジェ城からの街並みです。撮ったのは夜景ですが)。

(2025年の旅行時の写真)

 リセウにも行って、イスファハンの写真を剥がし、プラドの教室から見える女学校や逆向きの写真を撮りました。

lh3.googleusercontent.com

 テージョ川を渡り、ジョアン・エッサと、チェスの名対戦をなぞって、別れのときを過ごしました。

(2025年の旅行時の写真)

 最後にアドリアーナを訪ねると、アマデウがスペインから戻った後に書いた3枚のテキストを、「これはすべてを壊してしまいます。兄はもう、兄自身ではありませんでした。うんと遠くへ持っていって」と言って、グレゴリウスに手渡すのでした。


第4部 帰 還

49 リスボン __ サラマンカ

 小説では、リスボンを発つグレゴリウスをプラットホームで見送ったのはシルヴェイラですが、映画では、マリアナ・エッサでした。彼女は、グレゴリウスに、ここに残ればいいのにと話します。

(106分11秒)

 壁が赤く塗り替えられていますが、ホームのこの場所です。

(2025年の旅行時の写真)

 列車がヴィラール・フォルモゾ駅に入り、国境を越えようとするとき、グレゴリウスは、アドリアーナから最後に手渡されたアマデウのテキストを読みます。駅舎は、ロシオ広場やベレンの塔ジェロニモス修道院ペーニャ宮殿コインブラ大学バターリャ修道院などポルトガルの名所が描かれた、青と黄色のアズレージョに覆われています。

ブラウザ版Googleマップ他の画像

 テキストには、エステファニアと別れたときのことが書かれていました。彼女は、アマデウが貪欲すぎると、自分はそんな旅をしたいとは思えない、それはアマデウの旅であって、ふたりの旅にはなり得ないと言ったそうです。アマデウも、自身の幸福のために走る道のりで、他者を自分の人生の礎石、水運び人にすることはできないと考えたようです。そして、フィニステレにいたときほど、意識が覚醒していたことはなかったとし、自分の競争が終わったとわかったと記しています。

(104分12秒)

 サラマンカへ向かう途中、グレゴリウスは眠り込み、目が覚めた瞬間、めまいに襲われます。駅に着くと、グレゴリウスは立ち上がり、トランクを下ろし、めまいが通り過ぎるまで待って、プラットホームへ足を踏み出しました。


50 サマランカ

 サラマンカは、マドリードの北西約200km、トルメス河畔の高台に位置し、ローマ時代の交易路「銀の道」の中継地として栄えた歴史あるで、旧市街は1988年に世界遺産に登録されています。

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 グレゴリウスが泊まったホテルの部屋からは、旧大聖堂新大聖堂がともに見えたということですが、トルメス川の向こうから芸術的歴史建造物に指定されているローマ橋とともに眺めるのがベストショットです。

Wikimedia Commons夜の画像
 サラマンカ大学

 翌日、エステファニアに会うために出かけたサマランカ大学は、1218年にレオン王国のアルフォンソ9世によって設立された、現存するスペイン最古の大学です。最も古いオスピタル・デル・エストゥディオ(学問院)の正面ファサードには、カトリック両王と呼ばれるイサベル1世とフェルナンド2世のメダリオンのほか様々な人物や紋章などが草花文様とともに浮き彫りにされた、1534年に完成したプラテレスコ様式の精巧なレリーフを見ることができます。

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 グレゴリウスは、中庭の回廊に溢れる学生たちを横目に、エステファニアが講義を行っている講義室へ向かいます。講義が終わった彼女に声をかけ損ねますが、勇気を出して彼女の部屋を訪ね、プラドの本を取り出し、プラドの人物像を完全なものとするため、エステファニアから話を聞かなければならないという誘惑に勝てなかったと告白します。

Googleマップ

 エステファニアは、当時のことを話そうという気になれるかどうか、プラドの本を読んで考えてみると言って、グレゴリウスから本を借り、その夜改めて彼女の家に来るようにと答えます。

 サラマンカ大聖堂

 グレゴリウスは、旅行案内書を買って、修道院を見て回ったということですが、修道院に限定せず、サラマンカの名所からいくつか紹介しましょう。まずは、すぐ近くにある大聖堂に向かいましょう。

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 大きなアーチの下に精巧に装飾されたプラテレスコ様式の傑作と言われる新大聖堂のメイン(西側)ファサードが出迎えます。キリスト降誕と公現の場面を描いたレリーフが見事です。因みに、北側ファサードのラモス門の左側には、1992年の修復時に追加された、宇宙飛行士とアイスクリームを手にしたファウヌスの彫刻があるそうです。

Googleマップ

 聖母被昇天に捧げられた新大聖堂は、旧大聖堂が手狭になったことから、1513年から1733年にかけてゴシック様式を基調にルネサンスやバロックの様式も取り入れながら、3つの身廊と左右に多くの礼拝堂を配置した構造で建設されました。

catedralsalamanca.org

 中央身廊の中央には、ホアキン・ベニートとアルベルト・デ・チュリゲラが設計し、1710〜33年に建設されたバロック様式の聖歌隊席が置かれています。

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 メインチャペルには、1624年にエステバン・デ・ルエダによって制作された聖母被昇天像が掲げられ、祭壇にサラマンカの守護聖人サン・フアン・デ・サアグンとサント・トマス・デ・ビジャヌエバの遺骨が納められた銀の壺が置かれています。

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 豪華な装飾の丸天井やメインチャペルの多色金箔の天井も見どころの一つです。

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 旧大聖堂として知られる、サンタ・マリア大聖堂へは、新大聖堂を通り抜けていきます。レコンキスタ後の1149年から建設が始まり、3つの身廊と翼廊を備えたラテン十字型の構成で1236年に完成しました。建物全体はロマネスク様式ですが、丸天井部分にはゴシック様式が取り入れられています。

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 聖母マリアの誕生からキリストの最後の審判までの生涯が53枚の絵画に描かれた、ダニエル、サンソン、ニコラスのデリ兄弟による主祭壇画や、最後の審判を描いたニコラスによるドーム画は必見です。

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 サン・マルティン礼拝堂では、ゴシック様式の素晴らしい壁画を見ることができます。

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 旧大聖堂の建物では、翼廊の上にある「雄鶏の塔」と呼ばれる特異な円錐形をしたドームという見どころもあります。16本の柱が付いたドラム型構造の上に設置されており、外側は鱗片装飾が施された円錐形をしており、その名は塔の上の雄鶏の風見鶏に由来します。

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 旧大聖堂の南側が入口となっている「イエロニムス」というツアーで、新旧カテドラルの身廊の階上や屋上、塔、鐘楼を巡ることができます。

 ラ・クレレシア

 旧市街の中心部へ向かう途中ラ・クレレシアのバロック様式のファサードがそびえ立っています。現在サラマンカ・ポンティフィカル大学となっている、王立聖霊大学だった建物(聖心サント教会)です。

Googleマップ他の画像

 大学の回廊も趣きがあります。

 貝の家

 ラ・クレレシアのには、貝の家と呼ばれる、壁面に多数のホタテ貝の彫刻が装飾された建物があります。サンティアゴ騎士団所属の騎士の館として、後期ゴシック様式にルネサンス(プラテレスコ)様式を取り入れ、1493年から1517年にかけて建設されたもので、現在は図書館として利用されています。

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 ホタテ貝はサンティアゴ(聖ヤコブ)の象徴です。

 マヨール広場

 旧市街の中心にあるのがマヨール広場です。スペイン継承戦争における支援に感謝したフェリペ5世が造営を命じ、チュリゲラ家によって1729〜55年に建築された、スペインで最も美しいと言われる広場の一つです。

Wikimedia Commons他の画像

 北側が市庁舎になっています。

 サン・エステバン修道院

 続いて、大聖堂から東へサン・パブロ通りを渡ったところにある修道院に向かいます。コロンブスがサマランカ大学で航海研究を行った際に滞在したという、サン・エステバン修道院は、1610年に奉献されたドミニコ会の修道院です。こちらのファサードも、プラテレスコ様式の傑作の一つとされています。

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 主祭壇は、1692年にホセ・ベニート・デ・チュリゲラが設計した代表作で、チュリゲラ様式の記念碑的な作品の一つです。

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 ドゥエニャス修道院

 サント・ドミンゴ通りを渡って北西にある、簡素な外観の修道院が、フェルナンド・アルフォンソ・デ・オリベラの妻フアナ・ロドリゲス・デ・モンロイによって1419 年に設立された、ドゥエニャス修道院です。

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 この修道院では、1533年に建てられた、2階建ての回廊が見どころです。2階の柱の上に掘られた怪物などの彫刻が必見です。グレゴリウスも、回廊を歩きながら、プラドが辿った一歩を理解しようと試みます。

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 エステファニアの家

 グレゴリウスが訪ねていくと、エステファニアは、古典文献学についての話を聞きたがり、次々と質問してきましたが、しばらくしてついに話し始めます。ジョルジュ・オケリーやアマデウとの関係、アマデウとフィニステレ岬で別れたときの話も聞かせてくれました。映画では、スウェーデン出身の女優レナ・オリンが現在のエステファニアを演じています。

(93分4秒)

 彼女の表現を借りれば「雪崩が起き」、アマデウは彼女のことを何度も抱きしめましたが、彼が求めていたのは彼女のことではなく、人生でした。彼女の記憶、考え、想像、夢、すべてを知ろうとし、生のエネルギーを吸収しようとしたのです。彼にとって彼女は人ではなく人生の舞台であって、彼女を連れていこうとしている旅は、彼ひとりのためだけの、魂の場所への内的な旅でした。そして、彼女は、彼の生への餓えに恐れを抱き、彼は貪欲すぎて、一緒に行くことはできないと告げたのでした。

(100分34秒)

 グレゴリウスは、エステファニアとの別れ際に、小説ではプラドの最後の原稿を、映画ではプラドの本『言葉の金細工師』を、渡すのでした。


51 サラマンカ __ ベルン

 グレゴリウスは、サラマンカで暮らすことを思いつき、アパートを見て回りますが、結局、タクシーで駅に向かいます。イルンへの列車に乗り込むと、座席に座ったとたん眠り込みます。写真は、サラマンカ駅の入口前に設置された、彫刻家ペドロ・レケホ・ノボアによる中世の騎士像です。

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 目が覚めたのは、列車がバリャドリド駅に停まったときでした。車室に入ってきた若い女性のトランクを荷物置き場に載せてやり、女性が座ってフランス語の本を読み始めると、グレゴリウスは、マリア・ジョアンから渡されたプラドの原稿を読み始めます。

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 女性にポルトガル語の「グロリア」が宗教的な意味での「至福」と取れるかと質問したのは、ブルゴスを出発したときでした。本作の刊行当時、ブルゴスの駅は、町の中心部の南に1902年に開業した駅でしたが、同駅は2008年に閉鎖され、現在はレジャーセンターとなっています。

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 次に到着したのは、サン・セバスティアン(バスク語での正式名称はドノスティアで、駅名もサン・セバスティアン=ドノスティア駅と併記)でした。ビスケー湾に面するサン・セバスティアンは、スペインとフランスの国境を越えた都市地域バスク・ユーロシティ・バイヨンヌ=サン・セバスティアンの首都となっており、国際的な映画祭やジャズフェスティバルが開かれるなど観光地として知名度を高めています。

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 5週間前に列車を乗り換えたイルン駅に到着します。グレゴリウスがパリ行きの列車に腰を下ろすと、さきほどの女性も同じ列車を選び、グレゴリウスの車室に入ってきます。彼女はゆっくり本を読みたいから鈍行列車を選んだということでしたが、グレゴリウスがそうした理由はベルンに到着し、病院のベッドを予約するのが嫌だったからでした。

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 真夜中過ぎにパリに到着すると(モンパルナス駅のことです)、彼女の提案で一緒にリヨン駅までタクシーに乗ります。

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 リヨン駅からジュネーヴに向かいます。

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 ジュネーヴのコルナヴァン駅に着くと、彼女の重いトランクを持ってあげ、スイス鉄道の車両に乗り換えました。

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 ローザンヌ駅に到着すると、彼女は楽しかったと言って列車を降りていきました。

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 グレゴリウスは、ベルンまで半時間ほどのフリブール(独仏言語の境目の町で、ドイツ語ではフライブルクといいます)に着くと、喉が締め付けられるような感覚を覚え、リスボンで見た情景を回想します。

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 ヨーロッパの中でも歴史の長い古都で、フリブール駅は、1862年に開業し、1872年に建てられた旧駅舎(写真)は、スイスの地域重要文化財(クラスB)に指定されています。

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 ベルンに到着すると、グレゴリウスは、まるで鉛の中を歩いているような気がするのでした。


52 故郷に触れる

 グレゴリウスは、リスボンで撮った写真を自宅で見直しながら、視線の下で過去が凍りつき始めたのに気付きます。これから記憶が過去を選択し、並び替え、修正し、偽るようになり、後からそれがわからなくなるだろうと感じ、これまでの一生を過ごしてきた街で一体どう過ごせばいいのだろうと考えるのでした。

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 突然、ベルンの写真を撮り、これまでともに暮らしてきたものを形に残したいと思い至り、フィルムを買って、レンクガッセの通りを歩き回りました。写真は、地区の南端にあるベルン大学です。

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 こちらはファルケンプラッツの公園です。

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 こちらはベルン応用科学大学の建物です。

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 翌日も、写真を撮るため旧市街に出掛けます。ブーベンベルク広場を避けるために通ったのは、ベルン大学構内からエレベーターで駅のホーム北口に降り、駅を横切る経路でした。

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 旧市街では、ミュンスターにも行きました。1405年に大火に見舞われたベルンの復興の象徴として建設されたのがベルン大聖堂です。1421年から長い歳月をかけて1893年に完成した後期ゴシック様式の建物で、高さ100.6mの尖塔はスイスで一番の高さです。

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 正面入口には、彫刻家エアハルト・キュングによるレリーフ《最後の審判》があります。

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 内部は、後期ゴシック様式の3廊式の身廊です。

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 内陣を飾る、受胎告知からキリストの復活を描いたステンドグラスも必見です。

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 そして、フィルムを写真店に持っていった帰りに、ブーベンベルク広場へ行くと、記念碑の前で立ち止まり、広場に触れることができるかどうかを確かめますが、昔と同じ感覚にはなれませんでした。

Googleマップ

 〈ホテル・ベルヴュー〉のレストランで出来上がった写真を取り出すと、写っていたのは、グレゴリウスとはなんの関係もない見知らぬ景色だったのです。

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 ドクシアデスの診療所で日曜日の晩の入院を決めると、翌日、グレゴリウスは、以前死産を経験し、癌の手術を受けたという元妻のフロレンスに会いに行きます(彼女のアパートはゲレヒティッヒカイト通りにあります)。サラマンカで修道院に行ったことは話しましたが、入院のことは告げませんでした。

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 入院当日、午前中、ジョアン・エッサに電話して入院することを話すと、彼は、問題があるとは限らないし、もしあったとしても、誰も君を病院に閉じ込めておくことはできないと言って、勇気づけてくれます。

 病院に送ってくれたドクシアデスに、グレゴリウスは、命に関わるような深刻なものが見つかったらどうしようと不安を打ち明けますが、ギリシャ人医師は、「私には処方用箋がまる一冊あります。検査を担当するのは、最高の医師です」と言って励ましてくれます。グレゴリウスは、プラドが「人生とは、我々の現に生きているものではなく、生きていると想像しているものだ」と書いていたことを思い出します。そして、病院の玄関でドクシアデスに手を振り、中に入るのでした。


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 第8シーズンのいながら旅は、以上で完結です。次の旅を楽しみにしてお待ちください。

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