高田崇史の小説『鬼統べる国、大和出雲 古事記異聞』de いながら旅(2)

● 高田崇史
● 高田崇史古事記異聞鬼統べる国、大和出雲

 第3章からいながら旅を続けます。


第3章 輪廻交差する里

4 檜原神社

 二人は三ツ鳥居について話を始めますが、同じ形状の鳥居がある、大神神社摂社の檜原神社にサイドトリップしましょう。狭井神社の鳥居手前から山の辺の道を北方へ約20分です

Googleマップ

 こちらの南鳥居に到着します。ここからも境内に入れますが、石畳の細い通路を通って西側に回りましょう。

Wikimedia Commons

 石段を数段上って、社号標が横に立つ注連柱に掛け渡した立派な注連縄をくぐります。

Googleマップ

 赤い瑞垣の右前に立つ由緒書にあるとおり、檜原神社は、第一旅(第6節)で紹介した崇神天皇6年の二神遷座(前旅では雅が独自の仮説を考える(第20節)端緒になっています)により、磯城神籬(しきひもろぎ)を立てて初めて天照大神を皇居外に祀った倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)の伝承地であるとし(先ほど見た社号標にもその記載あり)、天照大神が各地を巡幸して伊勢神宮に鎮まった後は「元伊勢」と呼ばれています。

Googleマップ

 瑞垣の中、左側には、大神神社の末社で、昭和61年(1986年)に創建された豊鍬入姫宮があります。祭神は、崇神天皇の皇女であり、天照大神をこの地に遷して、御杖代(みつえしろ、斎王の起源)として33年間奉祀した豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)です。

Googleマップ

 そして、瑞垣の奥側中央部分にあるのが、本殿も拝殿もないこの神社において唯一神聖視され、神籬(ひもろぎ=神様が宿る木)がある神域を隔てるように立つ、高さ約3.1mの三ツ鳥居です。伊勢神宮から式年遷宮した際の古材を譲り受けて昭和40年(1965年)に復元され、同神宮の平成25年(2013年)式年遷宮による別宮の倭姫宮の参道鳥居の古材を用いて2015年に建て直されたものです。大神神社のものと違い、御扉はなく、柱の間がすべて格子戸のようなもので塞がれています。

Wikimedia Commons

 参拝を終えたら、注連縄越しに、真西にある二上山の景色も見ておきましょう。春分・秋分の日ころには、夕日が雄岳と雌岳の間に沈む大和を代表する夕景色が見られるそうです。

Googleマップ

 物語に戻ります。

~~~~~~~~~~~~~~~

 雅は、安芸の宮島の嚴島神社本殿裏手にある不明門(ふみょうもん又はあけずのもん)と呼ばれる開かずの門のことを思い出したと言います。不明門は、嚴島神社で唯一の瓦葺きの建造物で、切妻造り、丹塗り両開き唐戸、幅5mの四脚門です。玉垣で囲われた後園(うしろぞの)と呼ばれる立入禁止の杜への出入口で、弥山(みせん)と神社の間を行き来する祭神だけが通れる門とされていますが、雅は、神々も通さない、すなわちで市杵嶋姫命たち怨霊神の降臨を封じている門ではないかと解釈し、大神神社の三ツ鳥居も、怨霊神である大物主神が三輪山から降りてくるのを防いでいるものと考えれば、山頂を向いている必要はないのではないかと言うのです。

 千鶴子は、面白いと言いつつ、鳥居はそれでいいが、拝殿についてはそれでは説明がつかないと話します。

「広島ぶらり散歩」から引用)

 それで、地図で大神神社から東方向に何かないか確認したところ、延長線上に長谷寺を見つけ、大物主神とは何も関係ないものの、折角近くに来ているので、訪ねてみることになります。

Googleマップ

 千鶴子から、長谷寺や長谷(初瀬)、柿本人麻呂の歌に出てくる「隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)」について話を聞きながら、長谷寺駅に到着します。桜井駅で乗り換えて三輪駅から15分位です

~~~~~~~~~~~~~~~

 その頃、団蔵のもとに、大神神社と狭井神社で拝殿が三輪山山頂を拝していないことを質問し、長谷に向かった雅たちのことを報告する連絡が入り、彼は監視の継続を命じます。


5 長谷寺

長谷寺駅

 長谷寺駅も、三輪駅同様、小さな駅です。

ブラウザ版Googleマップ

 二人は、歩いて長谷寺に向かいます。入山受付所まで約23分です。千鶴子は、「隠口(隠国)」には黄泉国や隠れ里、「泊瀬」には墓場の意味があると話しますが、雅は、そんな土地に何故紫式部や清少納言ほか多くの人がこぞって参拝したのか疑問に思います。

ブラウザ版Googleマップ
仁王門

 後陽成天皇の宸筆による勅額が掛かり、三間一戸入母屋造り、本瓦葺きの立派な仁王門に迎えられます。平安時代、一条天皇の頃に創建されましたが、その後度々焼失し、現在の門は、明治22年(1889年)に再建されました。両脇に仁王像、楼上に釈迦三尊像、十六羅漢像を安置しています。 門前の受付所で入山受付を行います。入山時間や入山料はこちらを参照してください。

Googleマップ

 こちらが略縁起です(雅が訪れたときは仁王門の前にありました)。長谷寺(正式名は豊山神楽院長谷寺)は、朱鳥元年(686年)天武天皇の勅願により道明上人によって創建された、山号を豊山(ぶざん)と称す真言宗豊山派の総本山で、西国三十三観音霊場8番札所です。

Googleマップ
長谷寺ウェブサイトから引用)
登 廊

 仁王門をくぐると、399段の登廊が続きます。長歴3年(1039年)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、煩悩の数にちなんで108間(200m弱)の長さがあります。上中下の三廊に分かれており、中廊・下廊は、明治22年(1889年)に再建されたものです。

Googleマップ他の画像

 長谷型灯籠が吊り下げられた登廊は、途中で折れ曲がって、中廊、上廊へと繋がります。雅は、本尊の観世音菩薩が怨霊のわけはないから、折れ曲がるのは、それ以外の何かがいるのだろうと考えます。

Googleマップ

 雅が登ったころは、ちょうど周りの桜が満開だったようですが、この寺は牡丹が有名で、現在約150種・7000株の牡丹があり、4月中旬から5月中旬にはぼたんまつりが開かれます。

Googleマップ

 こちらが雅が見逃したという、古今和歌集に「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」と詠んだ紀貫之の故里の梅と、その左側にある、小林一茶が寛政10年(1798年)の元旦に詠んだ「此裡(このうち)に春をむかへて 我もけさ 清僧の部也(なり) 梅の花」と詠んだ小林一茶の句碑です。中登廊の上の広場にあります。

Googleマップ

 雅たちはひたすら石段を上って、ようやく登廊を上りきると、この場所に到着します。

Googleマップ
納経所・御朱印所

右手に進んだ本堂手前には納経所・御朱印所があり、二人はこの近くで一息入れたようです。

Googleマップ
本 堂

 登廊の出口の上は鐘楼になっており、右側の繋廊から本堂に向かいます。東大寺大仏殿に次ぐ大きさという本堂は、いずれも本瓦葺き入母屋造りの正堂と礼堂で構成される双堂形式の複合仏堂で(正堂が桁行9間梁間5間、礼堂が桁行9間梁間4間)、平入りの正堂正面に左右千鳥破風付きの妻入りの礼堂大屋根が取り付き、正堂側面に裳階として回り込む複雑な構成となっています。

Wikimedia Commons

 本堂は創建後に7度火災で焼失し、豊臣秀長の援助で再建した天正16年(1588年)の建物も再建され、現在の建物は、徳川家光の寄進により慶安3年(1650年)に再建されたものです。妻入の拝所がある礼堂の正面には懸造りの舞台が付属しています。

Wikimedia Commons

 正堂と礼堂の間の通路を進みます。

Googleマップ

 雅が圧倒された御本尊は、高さ10.18mの十一面観世音菩薩立像ですが、神亀4年(727年)に聖武天皇の勅願により徳道上人が近江国高島郡の岬に漂着した楠の霊木を使って造られた後、本堂と同様度々焼失し、現在の像は天文7年(1538年)に造立されたものです。

Wikimedia Commons

 ここが礼堂で、千鶴子によれば、平安時代にこの四方に蚊帳や薄い几帳のようなものを吊って参籠し、跡継ぎが欲しい商家の奥さんたちが大勢の若い男性と共に ”お籠もり” した板敷きの間です。

Googleマップ他の画像
舞 台

 二人は、参拝を終えると、礼堂から舞台に向かいました。「大悲閣」と大きな額に書かれており、「大悲」とは、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の慈悲の心又は観世音菩薩の別名を表します。

Googleマップ

 舞台の中央に移動すると、左右には緑の山々が、右手奥には五重塔が見渡せます。この写真のように雅が訪ねた頃には桜も見えたことでしょう。

Googleマップ他の画像

 正面下方には、緑の中をうねる龍のように見えたという登廊の屋根が仁王門まで続いています。

Wikimedia Commons

 二人は、本堂を出て弘法大師御影堂などがある裏手の道へ回りました。

Wikimedia Commons
弘法大師御影堂・本長谷寺・五重塔

 こちらが、真言宗宗祖の弘法大師の1150年御遠忌(ごおんき)を記念して、昭和59年(1984年)に建立された、銅板葺き、総檜造り、正面に一間の向拝を設けた宝形造りの弘法大師御影堂です。

Wikimedia Commons

 さらに進むと、本長谷寺(もとはせでら)があります。道明上人が天武天皇の病気平癒を願って『銅板法華説相図』を鋳造し、初めて祀った精舎(石室)が建てられた場所です。

Googleマップ

 隣にある五重塔は、明治9年(1876年)に焼失した三重塔跡の北側に、昭和29年(1954年)に戦後日本に初めて建てられた、塔身の丹色と相輪の金色、檜皮葺屋根の褐色が背景とよく調和した純和様式の整った形の塔で、昭和の名塔と呼ばれております。

Googleマップ

 雅は、大神神社の創建より長谷寺の建立の方が後の年代なので、長谷寺自体に何かあるとは考えていなかったが、千鶴子から地元の古老から聞いた話だという「長谷寺の本質」(詳しくは小説で)を聞き、この長谷(泊瀬)の地は、単なる「果て瀬」などではなく、「死と再生の国」であり、大神神社はやはりこの地を拝しているのではないかと感じるのでした。

二本の杉・俊成碑と定家塚

 二人は、恐らく元々の参道と言われる東参道を通って、境内裏手まで足を延ばし、『源氏物語』玉鬘の帖(玉鬘が長谷詣の道中、かつて亡き母夕顔に仕えた右近と椿市で再会し、共に長谷寺に参拝し、初瀬川のほとりにある二本杉の前で和歌を詠み交わした(説明板参照))に基づいた能『玉鬘』に登場する二本の杉(ふたもとのすぎ)を見学します。

Googleマップ

 少し進むと、親子で並んで立っている、藤原俊成碑と定家塚があります。藤原定家は、「年も経ぬ いのるちぎりは初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」との歌を詠んでいます。

Googleマップ

 大神神社や大物主神など「出雲」に関係する史蹟や痕跡を何も発見できなかった二人は、寺の入口近くの喫茶店で地図を広げてもう一度確認します。すると、雅は、地図上の一点を見つめ、震える指で、長谷寺の裏手、初瀬川を渡った場所にある素盞雄神社を指し、出雲大社と同様、大神神社も三輪山を拝むふりをして実は素戔鳴尊を拝んでいるのではないかと訴えるのでした。

Googleマップ

 千鶴子も首肯し、二人は素盞雄神社に向かいます。仁王門から歩いて4分位です


6 素盞雄神社

 初瀬川に架かる朱塗りの連歌橋を渡ります。その名は、長谷寺の僧侶が與喜(よき)天満神社境内の菅明院で開かれた連歌会に行くために渡ったことに由来し、かつては太鼓橋だったようです。左側の親柱には「古河野辺」とあり、作中では埋葬地を連想していますが、『源氏物語』玉鬘の中で右近が歌に詠んでおり、輿喜怒天満神社ウェブサイトによれば、この橋付近の初瀬川をいうそうです。左手には、後に紹介する銀杏の大木が聳えています。

Googleマップ

 橋を渡って直進すると石段があり、途中から続く自然石の石段が輿喜天満神社への道で、雅たちは左に折れました。

Googleマップ

 左手の坂を上ってすぐに見える、「隠国の初瀬の小国」とある、玉鬘神社です。ただ、現在のように整備されたのは平成30年(2018年)のことで(説明板参照)、雅たちが訪れたときは、作中にあるように庵の跡地のようだったのでしょう。

Googleマップ

 さらに進むと、白い石鳥居が立ち、いずれも「素盞雄神社」と刻まれた扁額社号標が見えてきます。二人が手と口を清めた手水舎も左に見えています。

Googleマップ

 境内正面にあるのが、切妻造りの入口を設けた重厚な瓦葺きの拝殿です。祭神は、もちろん素戔嗚尊です。

Googleマップ

 瑞垣の向こうにある本殿は、男千木を載せた茅葺き屋根の一間社ながら、周囲の緑に映えて美しい朱塗りの社殿です。本殿前の階段の右側の地面には、雅が気になったという、紙垂が下がる注連縄が張られた、囲いがなく今にも壊れそうなトタン屋根の祠があります。

Googleマップ

 境内左手に立っているのが、川向うから見えた銀杏の大木です。説明板によれば、天然記念物に指定された初瀬のイチョウの巨樹で、樹高約40m、目通り周囲7.15m、枝張り南北約23m・東西約21m(1990年現在)の県下最大の銀杏です。

Googleマップ

 千鶴子が驚いて雅に読むように見せたこちらの由緒書によれば、素盞雄神社は、輿喜天満神社創建に際し、輿喜山(大泊瀬山)が天照大神降臨の山であり、素戔嗚命の霊を鎮める必要があるとして、天暦2年(948年)に創建されたとあり、大神神社創建のころには存在しなかったことがわかり、大神神社の参拝者には実はこの神社に鎮座する素戔嗚命を拝ませているという雅の説は根底から覆ってしまいました。

 雅は、先程見た祠がかつて素戔嗚尊を祀っていたのではとも考えますが、千鶴子から大神神社からわざわざ拝むようなものではないと否定されます。

Googleマップ

 境内右手後方の一段高いところにある小さな社は、由緒書に明治初年(1868年)に長谷寺境内から遷したとある十二社明神と、明治41年(1908年)に鍋倉神社ともに合祀された鍋倉神社末社の秋葉神社で、桟瓦葺きの覆屋の中に春日造りの社殿が納められています。

 なお、延喜式内社である鍋倉神社は、祭神の大倉比賣命(おおくらひめのみこと)は大国主命の子神である下照姫命(したてるひめのみこと)の別名とされ、平成30年(2018年)に背後の山腹に社殿が再興されました。

Googleマップ

 二人は、重い足取りで素盞雄神社を後にしますが、二人の後を目つきの鋭いスーツ姿の男が尾行していました。


第4章 三神山水先案内

7 三輪素麺と柿の葉寿司

 二人は、門前通りの小綺麗な食事処に入り、三輪素麺と柿の葉寿司を注文し、地ビールを飲みながら、原点に戻って検討を再開します。写真は、建物が国の有形文化財に登録されているカフェ・レストラン〈長谷路〉です。

(左上から、Googleマップ/①

 千鶴子は、そもそも三輪山は本当に神体山なのかと問題提起し、三輪山が神体山だというのは江戸時代の儒学神道家の山崎闇斎が言い出してからで、それまで三輪山全体を神とする思想はなく、山にある奥津磐座、中津磐座、辺津磐座といった「磐座」をこそ神として奉斎していたと話します。

 次に、大神神社の拝殿はどこを奉拝しているのかについて、この長谷までなら実際に訪ねてくればよいので、長谷寺や素盞雄神社を遥拝していると考えるのは間違いだったとし、かつ、日本最古の神社の一つである大神神社が創建に際して奉拝する社などあり得ないとしたら、それ以外の何か・・・。雅が、太陽の昇る方向、伊勢ではないかと話すと、千鶴子の目が光り、この近くを初瀬街道、すなわち伊勢街道が通っていると言いながらも、伊勢方面ではなく、逆に桜井や三輪に戻った方が何か見つける可能性があると話します。

 そして、桜井まで初瀬街道沿いをタクシーで回ることになります。最初に向かったのは十二柱神社で、車で5分足らずです


8 十二柱神社

 写真は十二柱神社に向かう旧初瀬街道(右側)の手前にある三叉路で、左上に「出雲」という交差点名の標識が見えます。雅が見たのはこの標識かもしれません。

Googleマップ

 旧初瀬街道を行くと、進行方向右側に石灯籠社号標が立つ、十二柱神社の参道入口が見えてきます。十二柱神社は、創建年不明の旧村社で、かつては神殿がなく、ダンノダイラと呼ばれる高地集落にあった磐座を奉斎していたとされています(こちらを参照)。

Googleマップ

 雅たちが駐車場から回った、十二柱神社正面はこちらで、石段を登って、左右に出雲式の狛犬(勇み型ではありません)が置かれた石鳥居をくぐります。

Googleマップ他の画像

 狛犬をよく見ると、太った男の像が狛犬を支えています。二人がこの時に見たものではなく、後から見た説明板によれば、左右各4体ずつ、全て異なる姿型を写実的に力強く表現した力士像で、土師部(はしべ)の子孫が土器作りの技能と経験を石材彫刻に活用した、相撲と埴輪を集大成した傑作とありますが、千鶴子は、何百年以上も出雲と呼ばれた地で狛犬を支え続けさせられたことを悲惨に思い、眉根を寄せます。因みに、文久元年(1861年)に作られたもののようです。

Googleマップ

 境内正面には、龍や唐獅子の飾り瓦を載せた重厚な瓦屋根で、唐破風向拝を設けた切妻造り平入りの拝殿があります。

Googleマップ


 拝殿後方の一段高いところには、銅版葺き、朱塗りの春日造り一間社の本殿があります。祭神は、国常立神など神世七代(かみよのななよ)の神と天照大神など地神五代の神、合わせて12の神々を祀っています。

Googleマップ

 本殿の左右には、2社ずつ朱塗り一間社の境内社があり、写真の左側金刀比羅山社厳島社で、右側愛宕社金山彦社です。

Googleマップ

 雅たちは参拝しなかったようですが、拝殿の右側奥に、第25代武烈天皇を祀る、境内社の武烈天皇社があります。朱塗りではありませんが、他の境内社と同じ造りの一間社で、屋根の正面に菊の御紋があり、扉の前にはユニークな平たい顔の狛犬が置かれています。

Googleマップ他の画像

 社のすぐ前には、「武烈天皇泊瀬列城宮趾」の石碑が立っており、この付近に皇居である泊瀬烈城宮(はつせのなみきのみや)があったと伝えられています。そして、作中には、十二柱神社に到着する手前の道路脇に立っているとされています(2008年当時はなかったようなので、その後にここに移設されたのかもしれません)が、「泊瀬列城宮伝承地」の説明板2基もここに見られます。

Googleマップ

 武烈天皇は、『古事記』(437頁)には、長谷(はつせ)の列木宮(なみきのみや)を皇居としたことと系譜しか記されておらず、欠史十代の一人とされており、『日本書紀』(581頁)には、暴君として記述されていますが、武烈天皇の血統ではない継体天皇の即位を正当化するための創作とする説もあり、説明板にもあるように真偽のほどは定かではありません。

Googleマップ

 こちらが雅たちが見た2枚目の説明板です。

Googleマップ

 雅たちが向かったのは、神社参道の東側にある野見宿禰の五輪塔でした。野見宿禰と言えば、第一旅(第18節)で紹介した、垂仁天皇(同天皇7年)に召されて当麻蹴速(たいまのけはや)と天覧相撲を行って勝利した相撲の始祖(神様)です。塔の高さは2.85mあり、各石の四面に単独梵字仏が刻まれ(計20体)、地輪に1字1石経が納められています(説明板参照)。

Googleマップ

 説明板は、雅たちが見た擦れてしまったものから綺麗なものに付け替えられています。野見宿禰が試合をしたのは4世紀前半のことと推定されること、相撲跡カタヤケシは現在の桜井市の穴師という場所であること、この五輪塔は、古くから宿禰の古墳と伝わる塚(その場所は、後で紹介する説明板に出雲村の塔の下とあります)の上に鎌倉時代初期に建立されたもので、明治16年(1883年)にこの場所に移されたこと、宿禰がここ出雲村の出身で、土師氏の始祖であることが説明されています。

Googleマップ

 そして、光に反射して読みづらいという、石に刻まれた説明書きというのは、南に少し離れた駐車場(参道の脇)にある、こちらの相撲開祖野見宿禰顕彰碑の裏側のことでしょう。作中では読み飛ばしていますが、説明書きの中に、『日本書紀』には宿禰を出雲国から召したとあるものの、歴史地理の視点から(4世紀前半の交通事情を考慮すると)、相撲伝承地まで峠を越えて5kmという大神神社の山裏に当たるここ出雲村から招聘されたと考えるのが書紀の「即日、宿禰を召す」の記述に符合するとの相撲博物館館員の史家池田雅雄の説を紹介しています。

(左から、Googleマップ/①

 そして、こちらが二人が最後に注目し、千鶴子がデジカメで撮影した説明板です。石鳥居前の石段の脇に立っています。三輪山の東方1700mの嶺の上にあった古代の出雲集落をダンノダイラといい、年に一度全村民が登って先祖を祀り偲んだことや、野見宿禰が出雲村に住み、古墳時代の殉死の悪習を廃して埴輪に改めたこと、明治の始め頃まで土人形作りが受け継がれ、地場産業として栄えたことなど「出雲ムラ」の伝承が記載されています。

Googleマップ

 こちらがダンノダイラにある磐座です。

Googleマップ

 雅が半ば茫然としながらタクシーに乗り込んだ後、運転手が話した「五輪塔由来」にも記載されていたかつての宿禰塚は、桜井東中学校の東南角に立つ「野見宿禰塚の由来」の説明板によると、そこから西南へ150mの場所で、直径20m以上もある豪壮なものであったとのことで、塚を取り壊し、中にあった朱を捨てたところ、初瀬川の水が3日3晩赤く染まり、親子勾玉や埴輪、直刀、土器などが出土したとも伝えられています。現在、その場所には、「野見宿禰塚跡」の石碑が置かれています。

Googleマップ

 野見宿禰が住んでいたという「出雲村」の存在を示す伝説に触れるという思いもしなかった展開となり、千鶴子から宿禰についての深く繊細な情報が欲しいと言われ、雅は、研究室に電話してみることにします。タクシーは、次の目的地の白山神社に向かいます。国道165号を西へすぐです


********************************

 今回の投稿での旅はここまでです。次回、第5章からいながら旅を続けます。

\ 最新情報をチェック /

コメント

PAGE TOP