第2章の続き、第6節からいながら旅を続けます。御子神から教えてもらった賀茂川の西岸にあるという出雲郷ほかを訪れます。今年(2025年)50回を迎える「京の夏の旅」などを利用して巡ったときの写真もご覧いただきたいと思います。
第2章 離れ雲は帰らず(続き)
インターネット等で出雲郷や出雲寺を調べた雅は、京都駅で地下鉄烏丸線に乗り換え、かつて近くに上出雲寺があったという上御霊神社のある鞍馬口に向かいました(10分強です)。こちらを参照してください。
6 猿田彦神社
雅は、社号標の横に立つこぢんまりした神明鳥居に惹かれて、猿田彦神社の小さな社に立ち寄ります。祭神は、猿田彦大神と天鈿女命(あまのうずめのみこと、猿田彦大神の后神)です。
作中後半にここが京洛三庚申の一つと言われるとの記述が出てきますが、猿田彦の「猿」の字が「庚申」の「申」に通じ、また、猿田彦が塞の神と同視されているところ、別名で書かれる「幸神(さいのかみ)」が「こうしん」とも読めることに由来します。ただ、現在、京都三庚申と言えば、右京区の「山ノ内庚申堂」と言われる猿田彦神社の方を指すようです。

作中にあるように、由緒書は文字が擦れて殆ど読めませんが、桓武天皇の勅願によって創建され、かつては広大な敷地を持ち、将軍足利義満の奉幣も伝えられるなど由緒ある古社で、応仁の乱以後度々火災に遭い、寛政5年(1793年)に現在地に移されました。

すだれのような注連縄が掛かる、笠木も貫も楕円形の神明鳥居をくぐります。

短い参道の奥に、桟瓦葺きの拝殿があります。

千鳥破風の向拝には、「猿田彦大神宮」という扁額が掛かっています。

格子戸を覗くと、御簾の向こうに銅板葺きの流造り一間社の小さな本殿が建っています。私が訪れたときはお酒だけでしたが、この写真では、作中同様、綺麗な花が飾られていますね。

よろしくお導きくださいと祈り、神社を後にします。
7 上御霊神社
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊の祟りであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われていました。上御霊神社は、平安遷都(794年)に際し、桓武天皇の勅願により、平安京の守神として、不運のうちに亡くなった弟の早良親王(崇道天皇)を祀ったのが始まりで、その後、井上内親王(光仁天皇皇后)、他戸親王(おさべしんのう、光仁天皇第四皇子)、藤原大夫人吉子(きっし)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麻呂、火雷神(上の6柱の荒魂)、吉備真備(きびのまきび。雅が疑問視としたとおり、真備には憤死の事実はなく、祀られた諸神の和魂と解釈されています)を加えて八所御霊が祀られ、その後明治天皇により5柱が増祀されました。こちらも参照してください。
石鳥居
東へ2分ほどで、「御霊神社」とだけ刻まれた社号標が立つ、石鳥居に辿り着きます。

説明板
こちらが鳥居前の説明板で、作中にある「上出雲寺」の記述があります。天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とする出雲族が平安遷都以前に出雲地方から丹波を経て移住して、この地は「出雲郷(山背国愛宕郡)」と呼ばれるようになり、出雲族の氏寺として出雲寺が創建され(延暦年間に伝教大師が開創したとも言われます)、その後上下二寺に分かれ、上出雲寺は上御霊神社の境内付近にあって(鎮守社であったとも言われます)荘厳な伽藍を誇った大寺とされ、現在も境内から当時の瓦が出土されることがあり、下出雲寺は相国寺辺りにあったと考えられています。出雲族は、紙漉きなど優れた技術を身につけていたとみられ、平安京の貴族や朝廷の下級役人に仕え、鉄製品を生産していたこともわかっていますが、平安時代初期にその勢力は衰退したとされています。

応仁の乱勃発地の石碑
石鳥居の右側には、「応仁の乱勃発地」の石碑があります。応仁の乱は、文正2年(1467年)1月18日に畠山政長がこの神社の境内(御霊の森)に陣をしき畠山義就と戦いを交えた御霊合戦が発端となったとされています。

楼門(西門)
鳥居をくぐった参道の先に見えるのは、作中には四脚門とありますが、四脚門は後に紹介する南門の方で、西門は寛政年間に再建されたという楼門です。京都府神社庁サイトでも写真があべこべに貼り付けられています。現在は銅板葺きですが、檜皮葺きで朱塗りの門であったころもあるようです。
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門の中には弓を携えた随身(矢大臣・左大臣)の神像が安置されています。

参 道
手水舎を過ぎると、参道左手には、元禄3年(1690年)に参詣したときに詠んだという「半日は神を友にや年忘」の松尾芭蕉の句碑があり、ほかにも富士谷御杖の詩碑や新村出の句碑も見られます。

神楽殿
門をくぐった正面にあるこの神楽殿(舞殿)を回り込んで本殿に向かいます。作中にあるように、生け花が飾られることもあるようです。内側の長押には、百人一首の絵札のような絵が掲げられています。

本 殿
雅が参拝した、入母屋造り、唐破風向拝付きの本殿は、享保18年(1733年)に建立された内裏賢所御殿を宝暦5年(1755年)に下賜されたもので、戦後に焼失しましたが、昭和45年(1970年)に再建されたものです。

摂社・末社
本殿参拝後、雅は摂社・末社にも参拝しました。こちらは本殿北側にある、花御所八幡宮で、足利幕府の花の御所にあった八幡宮を移したもののようです。

その右隣にある、上御霊天満宮です。

その右隣には多度神社、貴船社などがあります。

更にその右隣、壁の軒の下に、春原社、荒神社、稲葉神社、今宮社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀社、厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、吉田神社、日吉大社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、賀茂神社、鴨神社の名札が並ぶ、長宮三十社です。

こちらは、厳島神社で、宗像三女神とともに平清盛の母の祇園女御が祀られています。

本殿裏側にある、神明鳥居のある、神明神社です。

最後は、本殿南側にある、福壽稲荷神社です。

暴れん坊将軍や長七郎江戸日記などのロケ地によく使われる場所のようです。

清明心の像
本堂の南には、木々に囲まれた中に、中国宋代の学者司馬温公の甕割りの故事を造型した、清明心(きよきあかきこころ)の像があります。昭和54年(1979年)に国際児童年を記念して、世界の子供たちに生命は物質よりも尊いとの精神を改めて認識してもらいたいとの思いで奉献されたものです。

絵馬所
神楽殿の南に、宝暦年間に寄進された内裏賢所権殿を造り改めた、絵馬所があります。皆川淇園、小林雪山などの著名画師の作品が掲げられています。

応仁の乱発端・御霊合戦旧跡の石碑
絵馬所の向こうには、参拝を終えた雅も見た「応仁の乱発端の地・御霊神社」と書かれた説明板と「應仁の乱發端 御靈合戦舊跡」と彫られた自然石の石碑が置かれています。石碑の表字は、応仁の乱東軍総大将細川勝元の末裔に当たる元首相細川護熙の筆によるものです。

四脚門(南門)
こちらが1623年頃に伏見城から移築したという四脚門(南門)で、梁上両側に豊臣家家紋の「五三桐」の透し彫りが残っています。

雅は、出雲寺に向かうべく上御霊神社を後にします。

雅は道に迷ったようですが、上の時計付きの道標が立つ角を寺町通りへ曲がり、上御霊神社から歩いて6分ほどです。
8 出雲寺
道に迷っていた雅は、かつて水野研究室に在籍していたという金澤千鶴子に出会い、彼女の道案内で出雲寺に辿り着きます。作中にあるように、ごく普通の民家のもののような瓦葺きの山門が塀がない状態で建っています。出雲寺は、山号を光明山といい、廃絶した上出雲寺の旧仏「出雲路観音」を、神仏分離令に伴い明治5年(1872年)に上御霊神社から遷して安置しています。

門には「浄土宗 出雲寺」の表札が掛かり、庇の下の左端に「厄除阿彌陀如来」と刻まれた寺号標が立っています。

山門をくぐり、民家の庭のようなところを進むと、右手の樹木の間に「いつもし(出雲)観音」と「聖徳皇太子四十二歳御作」の石碑が見えます。

また、前庭に稲荷や石の地蔵を祀った祠が並んでいました。千鶴子は、出雲郷は、国譲りという大きな戦いに敗れた国の民である出雲臣が住まわされた強制収容所のようなところで、女性たちは性を奪われ、その逃亡を手助けした者が殺されるような場所で、その土地に出雲寺が建立されたと話しました。

雅は、出雲寺が彼らの怨念を鎮めるための寺、まさに「怨霊の寺」だったと認識し、右手にある「出雲路観音」と大書された額が掛かるお堂に向かって手を合わせ、深々とー礼しました。私が訪れたときは、庭木の剪定作業中でした。

雅は、千鶴子の豊富な見識に感心し、どこかで話を聞きたいと申し出ると、千鶴子は、下鴨神社の摂社の出雲井於(いのへ)神社に誘います。
9 出雲路橋
二人は、出雲路橋を渡って行くことにします。出雲路橋西詰まで歩いて10分足らずです。

交差点に到着すると、南側には、これから向かう「賀茂御祖神社」の道標が立っています。

交差点を渡った北側には、「志波む桜碑」という石碑が立っています。明治38年(1905年)に日露戦争戦勝を祝い行われた京都府師範学校による5000本の桜(師範桜と言います)と楓の植樹事業を記念して建てられたものだそうです。

また、北側には、「出雲路鞍馬口」の石碑が立っています。鞍馬街道の出入口にあたり、「京の七口」の一つで、出雲路口ともいい、室町時代には「艮口」とも呼ばれ、関所が置かれました。

昭和58年(1983年)に架けられた出雲路橋で、青銅の擬宝珠が飾られたこちら(北西)側の親柱には、「出雲路橋」の銘が刻まれています。出雲の阿国が出雲路辺りに生まれたという伝承もあります。

橋を渡り終えると、鞍馬口通りを一直線に進みます。出雲井於神社へは歩いて10分足らずです。
第3章 むら雲の雲囲い
10 御手洗池
京都府警捜査第一課の加藤裕香巡査と先輩の瀬口義孝警部補は、下鴨神社に到着すると、駐車場(写真右側奥)から現場の御手洗池へ向かいました。

作中には出てきませんが、こちらは御手洗川の上に跨って建つ、桁行4間梁間3間の檜皮葺き、入母屋造りの橋殿です。寛永5年(1628年)の式年遷宮で再建された重要文化財で、御蔭祭のとき御神宝を奉安する社殿で、現在は、名月管弦祭や正月神事などで神事芸能が奉納される社殿としても使用されています。

朱塗りの鳥居とその向こうに見えたという朱塗りの欄干が架かった輪橋です。神様しか渡れないということで、紙垂が下がった縄が張られています。

到着した御手洗池には、水際まで降りることのできる10段ほどの石段が両岸にあります。

池の近くに横たえられた牧野竜也の遺体には、頸部に扼痕が残り、軽い頭部挫傷が見られ、絶命後に池に突き落とされたものと思われました。また、石段には争った痕跡も見つかりました。
11 三井神社
千鶴子と雅は、下鴨神社の由緒を確認しながら、下鴨中通りを越えて真っ直ぐ進み、瀬口警部補らと同じく神社の西側に至ります。こちらが雅たちが手と口を浄めた、船形磐座でできた手水舎、御手洗(三本杉)です。古来より糺の森の三本杉から湧出した神水と伝わる名水とされ、杉の古木で復元した三本杉を水樋(写真左)として使っています。

作中には、西鳥居をくぐって手水舎を使ったように記述されていますが、西鳥居は手水舎や愛宕社、稲荷社、印納社などの先に立っています。

雅たちは、素通りすることなく、『山城国風土記』に「蓼倉郷三身社(たでくらのさとみつみのやしろ。奈良時代から平安時代にかけてこの辺りは奈良時代から平安時代にかけて蓼倉郷と呼ばれていたことに由来蓼倉郷と呼ばれていたことに由来)」と、『延喜式』に「三井ノ神社」とある、三井神社に参拝します。

いずれも寛永6年(1629年)に造替された重要文化財の流造り一間社で、中社に賀茂建角身命、東社に下鴨神社には祀られていない賀茂建角身命の妻の伊可古夜比売命(いかこやひめのみこと)、西社に子の玉依姫命の三神が祀られています。

左側には、末社として、奥から、諏訪社(建御方神)、小杜社(こもりしゃ、水分神(みくまりのかみ))、白髪社(しらひげしゃ、猿田彦神)の3社があります。

参拝を終え、境内を進んだ雅たちが見たのは、大きく翼を広げたような造りの舞殿と、その向こうに立つ鮮やかで立派な朱塗りの楼門でした。

雅は、千鶴子に促され、本殿に向かいます。
12 下鴨神社本殿
本殿への最初の祓所である中門をくぐります。寛永5年(1628年)ころに造営された重要文化財の檜皮葺き、切妻造りの四脚門で、左右には雅楽を奏した楽屋(がくのや)があります。

弊殿前には、小さな七つの言社(ことしゃ)が配置されており、干支毎に大国主命の別名の守護神が割り当てられ、自身の干支に応じて参拝するようになっています。

雅も自分の干支の丑の守護神の大物主神の言社を拝みながら通りました。
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こちらが式年遷宮により寛永6年(1629年)に造営され、国の重要文化財に指定されている、檜皮葺き、正面中央に軒唐破風を備えた入母屋造り、間口7間、奥行2間の幣殿です。

幣殿と本殿との間は廊下でつながれていますが、参拝できるのは東西2つの本殿の中間の場所1か所だけで、本殿を正面から拝むことはできません。

国宝に指定されている本殿は、文久3年(1863年)の式年遷宮で造営された、檜皮葺き、流造りの高床式の三間社(二間の身屋と一間の通り庇)で、扉の右に金の体に緑のたてがみの獅子、左には銀の体に青のたてがみの狛犬が置かれています。西本殿には賀茂建角身命、東本殿には玉依姫命が祀られています。

普段は非公開ですが、今年(2025年)は「京の夏の旅」で特別公開されました。
13 出雲井於神社
雅が感心したとおり、出雲井於神社には、境内摂社ながら独立して手水舎が備わっています。

雅が目を通したこちらの由緒書によれば、出雲井於神社は、建速須佐之男命(素戔嗚尊)を祭神とする式内社で、山城国愛宕郡出雲郷の総社だった神社で、「井於(いのへ)」とは鴨川のほとりのことをいうことから、出雲郷の鴨川のほとりの神社という意味になります。また、比良木社とも呼ばれ、厄年に神社の周りに献木すると、全てが柊になって願い事が叶うとして「何でも柊」が京の七不思議に数えられています。
なお、「井於」の真の意味と「何でも柊」になる理由については、後に千鶴子が謎を解いてくれます。

「開運厄除の神 比良木社(出雲井於神社)」と書かれた社号板が立ち、檜皮葺き、入母屋造りの拝殿があります。

四方に金色のつり灯籠がぶら下げられ、御簾が掛けられた、舞殿のような拝殿の奥には、作中にあるように、朱塗りの瑞垣が取り囲み、左右に灯籠が立っています。

檜皮葺き、一間社流造りの本殿の前面には白い神社幕が下がった拝所が設けられています。雅が社内での重要さに驚いたのも当然、現在の社殿は、寛永6年(1629年)の式年遷宮に際し、先(天正9年(1561年)造営)の本宮本殿を移築した、下鴨神社の中で最も古い社殿で、国の重要文化財に指定されています。

本殿左右には、末社が控えており、写真は、左(南)側の檜皮葺き、見世棚造り一間社の橋本社で、玉津島神を祀っています。

井於神社を後にして、御手洗池に向かう途中、千鶴子が声を掛けたのは、殺人現場に臨場していた高校の同級生の瀬口警部補でした。千鶴子と雅は、瀬口警部補と加藤巡査と別れて、御手洗池の見学を諦め、楼門をくぐります。
14 相生社
南口鳥居の手前で、大勢の女性たちが列をなしていたのは、造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祀る相生社でした。

社の左側には、4代目の「連理の賢木(れんりのさかき)」が祀られており、根元には子供の木も芽生えているようです。縁結びの神の神威によって2本の木が1本に結ばれたものと言い伝えられており、京の七不思議に数えられています。

縁結び、安産子育て、家内安全に御利益があることで有名ですが、雅は、歩きながらの遥拝で通り過ぎました。表参道を歩いていると、千鶴子に出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)に誘われ、途中河合神社に立ち寄ります。
なお、瀬見の小川を西に渡った、毎年5月に騎射流鏑馬神事が行われる馬場には、歴代斎王神霊社や雑太社(さわたしゃ)、鴨社神宮寺の旧跡などがあります。
15 河合神社
下鴨神社の摂社、河合神社は、高野川と賀茂川の合流する地にあることからそのように呼ばれていますが、『延喜式』に「鴨川合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそべ)神社」と記された名神大社で、正式名は「小社宅(おこそべ)神社」といいます。

主祭神には、神武天皇の母、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀っています。下鴨神社の主祭神の玉依姫命とは別の神です。美麗の神とされ、安産、育児、縁結びなどのご利益もある、女性の守護神として信仰を集めています。

正面中央にある舞殿です。千鶴子が話したように、古い文献には、上賀茂、下鴨のほかに「中賀茂」という名称があるようですが、位置的には下鴨神社が中社で、河合神社は下社ということになるかもしれません。

境内左側にある六社です。右(北)側から、諏訪社(建御方神)、衢社(みちしゃ、八衢毘古神・八衢比売神(やちまたひこのかみ・やちまたひめのかみ))、稲荷社(宇迦之御魂神)、竈神(かまどのかみ、奥津日子神・奥津比売神)、印社(霊璽)、由木社(少彦名神)で、かつては別々に祀られていましたが、江戸時代の式年遷宮の際に一棟に相祀されました。

作中にあるように、河合神社は、随筆『方丈記』を記した鎌倉前期の歌人、鴨長明ゆかりの神社であり、雅たちが訪れたころは、境内右側に長明が晩年過ごしたと言われる方丈庵の復元が展示されていました。現在は、糺の森に整備された鴨社神宮寺の旧跡の庭園内に移設されています。

雅は、拝殿に進み、千鶴子と共に参拝します。

本殿は、檜皮葺き、流造り高床式の三間社で、延宝7年(1699年)の式年遷宮時に造営されたものです。

右側が高龗神(たかおかのかみ)を祀る貴布禰神社、左側がサッカーの守護神としても有名な、八咫烏命を祀る任部社(とうべのやしろ)です。

雅が見つけた丸い手鏡の形をした絵馬は、普段使っている化粧品で化粧をして奉納する「鏡絵馬」です。

雅は、日を改めて参拝しようと心に決めて、千鶴子と共に河合神社を後にして、出雲路幸神社に向かいます。歩いて13分程度です。
なお、河合神社の神門の前には、先に紹介した三井神社と同じ、賀茂建角身命、伊可古夜比売命及び玉依姫命の三柱を祀る三井社(別名 三塚社)もあります。
16 出雲路幸神社
途中、下鴨西通の葵橋東詰には、敷地内を御手洗川が流れる京都家庭裁判所があります。

寺町通りを右折する角には、「幸神社」の社号標が立っています。

東西の細い路地の途中に、「幸神社」の扁額が掛かる石の明神鳥居が見えてきます。

雅が見た由緒書は字が擦れて殆ど読めなかったようですが、現在までに新しく設置されたようです。この由緒書によると、出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)は、主祭神が猿田彦大神で、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、造化三神の一柱で、日本神話に最初に現れる創造神)、天照大神、瓊瓊杵尊、少彦名神、可美葦牙彦舅命(うましあしかびひこぢのみこと、造化三神の次に現れた4番目の神)、大国主命、事代主神、天鈿女命が相殿されているようです。日本最古の縁結びの神を祀るとされ、起源は神代に遡り、白鳳元年(661年)に再興され、平安遷都時に御所の鬼門(北東)に当たる地に守護神として出雲路道祖神(いずもじさいのかみ)という名称でが造営され、江戸初期に改名して現在地に遷座したようです。出雲の阿国が稚児巫女として仕えたともあります。

手水舎は、門を入って左手にあります。

鳥居の後ろに立つ「皇城鬼門除 出雲路幸神社」という社号標を横目に、屈折した参道を進みます。参道が折れ曲がっているのは、怨霊を祀る寺社の特徴の一つだとされ、それを知っている(次の旅で詳しく紹介されます)雅は違和感を覚えます(縁結びの神とされていることとのギャップでしょう)。

奥の一段高いところに、門構えのような拝所が設けられた、瓦葺切妻造りの社殿が鎮座し、作中にあるように、石灯籠や狛犬の周りに白石が敷かれています(私が訪れたときは、繁った萩に石灯籠や狛犬が覆われていました)。

拝所の格子から覗くと、社殿の前に盛り土があり、神社幕の向こうに小さな祠が見えます。

作中にある、男女を表す陰陽石というのはこれのことでしょうか。

本殿の右に回ると、北東角にこの猿の彫刻があります。猿は「魔が去る」に通じ、鬼門封じの魔除けとなると考えられており、京都御所の北東角に造られた「猿が辻」、この猿像、比叡山麓の赤山禅院の屋根の上の猿、比叡山延暦寺(日吉大社)の神猿(まさる)と、鬼門のライン上に四重に猿が配置されています。

稲荷社や三天社などの摂社は、境内右側にあり、小さな社が6社並んでいます。

右手奥にあるのが、石神(しゃくじん)さんです。

こちらにも夫婦岩のようなものが置かれています。
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2つ上の写真の左奥にも見えていますが、こちらが作中にある「猿田彦大神」と刻まれた石碑です。藤原実方を蹴殺した伝承については、こちらに記述があります。

雅は、千鶴子と夕食を一緒にすることになります。
なお、幸神社の社名の意味については、後に千鶴子が謎を解いてくれます。
第4章 疾風雲は混沌と
17 先斗町
雅は、千鳥紋の入った提灯が灯る先斗町を訪れ、千鶴子が予約してくれた小ぎれいな日本料理屋の個室で、地ビールで乾杯すると、出雲井於神社の「何でも柊」の謎の答えを尋ねるところから千鶴子との民俗学談義を始めます。

千鶴子は、柊は古語の「疼(ひひらく)」からきており、「虐く」でもあり、本質は「痛む」だと話し、主祭神が素戔嗚尊で、朝廷から虐待されて痛みを負ったから、周りの木が全て痛む木になってしまうのだと雅を納得させます。一方、雅は、出雲井於神社の「いのへ」という名称についても、鴨川の畔という以外に何か意味があるのではないかと素朴な疑問を投げかけるのでした。

そして、前旅エピローグでも紹介した、素戔嗚尊の八岐大蛇退治や大国主命の国譲りの話が出雲国風土記に一行も書かれていないことについて、千鶴子は、『丹後国風土記』逸文と能の『羽衣』の対比を例に示して、一方しか見ていないと把握できないが、それらを同時に読み解くことで真実の歴史が見えてくると説明し、八岐大蛇退治などの話が載っていないこと自体が重要なポイントだと話します。

また、千鶴子は、今日訪ねた出雲寺についても、『宇治拾遺物語』に出てくる「出雲寺別当、父の鯰になるたるを知りながら殺して食ふ事」の話を出し、水野教授風に解説してくれます。

雅は、千鶴子に誘われたバーで、出雲路幸神社は道祖神の「塞神社」を良い字である「幸」に変えたものだと思っていたが、「辛い」という意味もあるのではないかと投げかけ、千鶴子から「幸」にはその場所にいるように縛る「手枷」の意味があること、そして、朝廷はそれほどまでに塞の神である猿田彦神と天鈿女命に恐れおののいていたということを引き出します。
また、千鶴子は、『日本書紀』神代下の第9段「即ち天鈿女命、猿田彦神の所乞の随に、遂に侍送る」を引用して、猿田彦神が天鈿女命に殺されたと話します。猿田彦神が殺されたということは、こちらに言及があるものの、神話や伝承にはなく、一般的には、伊勢の阿邪訶(あざか)で貝に手を挟まれて溺死したとされています。

バーを出て雅のホテルに向かう途中、千鶴子は、雅の素直な姿勢を見て、止めてしまっていた研究を続けてみようと思い直したと話し、明日も雅に付き合って京都を案内すると約束して、ホテル前で別れます。
第5章 問答雲は夢にも
18 糺の森
翌日、下鴨神社の糺の森の大きな杉の古枝で首を吊った、京都山王大学民俗学研究室助教の戸田香の遺体が見つかります。彼女を個人的に知っていて、そのため現場に向かうと千鶴子から電話があり、雅も一緒に行くことになります。

千鶴子は、雅に、字統からわかった出雲井於神社の「井於」の意味を、首や足に枷を掛けられて、死鳥の羽がかかった縄をめぐらされ、悲しみに心が晴れることのない出雲の神(素戔嗚尊)を祀っているということだと説明して、だから周囲の木々が全て「疼」になるのだと話します。そして、『日本書紀』神武天皇2年の条(231頁)に葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)とある人々が祖神として祀ったとあり(出雲井於神社の由緒書)、葛野主殿県主は八咫烏の子孫で、賀茂氏と同族とみられていることから、出雲臣と賀茂氏との関係が、この近辺に彼らの痕跡が多く残されている理由も含めて分かってきたと告げるのです。
19 言 霊
社務所に到着すると、そこには京都山王大学民俗学研究室の前田教授と加茂川准教授が来ていました。前田教授は、瀬口警部補の事情聴取に対して、戸田香が自殺するとは考えられないと語り、因幡の白兎は「素兔」であるべきだと主張していたことを例に挙げます。
前田に代わって説明を始めた加茂川に対し、千鶴子は、言葉や文字に対する姿勢を根拠に加茂川さんが戸田さんに影響を与えていたのではなく、その逆だったと指摘し、戸田さんの死についてもっと知っているのではないかと迫りました。すると、前田教授は、戸田が牧野竜也の殺害を告白するとともに、自分は自殺するつもりはなく、自分の身に何かあったときは加茂川に問い質してほしいという戸田からの手紙を見せました。

ところが、戸田を殺したのかと問う前田教授に対し、加茂川は殺したのではなく、戸田が終末を言挙げしたので、口を閉ざしてもらった、正当防衛だったと主張します。この世界において言葉こそが最重要なのだからと。
それに対し、雅はそれは違うと声を上げます。声を出せない親猫が見えなくなった子猫を案じて声とも言えない叫び声を発したところ、子猫が走り寄ってきたエピソードを話し、言葉は「現世(うつしよ)」における一つの事象に過ぎず、本当に重要なのは「現世」の背後にある「幽世(かくりよ)」におけるやり取り、すなわち祈りであり、相手への愛情だとし、出雲臣たちの逃げた子供に向けた無事に逃げて欲しいという祈りも同じで、祈りを伴わない言葉は空虚な楼閣に過ぎないと話したのです。
加茂川は、大きく溜息をつき、猫たちが今どうしているかを尋ね、雅が飼っていると聞いて安心すると、罪を認めるのでした。
20 全く逆の話
京都駅に到着した雅と千鶴子は、駅構内の喫茶店に入り、民俗学談義を続けます。

祖神である天照大神や快く国を譲った大国主命を宮廷から退去させたという『日本書紀』の崇神天皇6年の二神遷座の記述(265頁)に疑問を持った雅は、天照大神は天皇家の祖神ではないという仮説を示し、百姓が流亡し反逆する者が出たから二神を遷したのではなく、全く逆で、二神を追い出した方が先で、それに人々が怒り、朝廷に反逆したり都を去ったのではないかと考え、元出雲や元伊勢など転々としているのが証拠だと話します。そして、その事実を誤魔化すために『書紀』の時系列を入れ替えたのだと。

一方、千鶴子は、出雲臣と賀茂氏との関係について、次のように話します。熊野にいた賀茂建角身命たち(天神系の賀茂氏)は、神武東征の機会に天皇を先導して、大物主神(三輪神)の一族(地祇系の賀茂氏)が暮らしていた大和国の葛城にやって来て、同じ先祖を持つ三輪神の一族を滅ぼしたものの、その後裔と衝突して定住できず、移動したのが山城国の上賀茂・下鴨で、朝廷はその賀茂氏を出雲臣の監視と怨念の封じ込めに利用したのだと。また、第7節で紹介した上御霊神社の祭神の吉備真備についても、賀茂氏である賀茂忠行・保憲の祖先と言われており、それ故に怨霊ではないのに、出雲臣の怨念を抑えるために祀られたと説明します。

そして、千鶴子は、朝廷は、用済みとなった賀茂氏も抹殺して上賀茂・下鴨両社に怨霊神として祀り、人々にその怨霊を直接拝ませない工夫をしたと言って、上賀茂・下鴨両社の境内図を示して、第12節で見た、本殿を正面から拝むことができない形になってことを説明します。

前田教授からの電話を受けたという御子神から電話があり、雅は、古代の我が国における言霊の位置付けについて尋ねます。逆に、意見を求められ、半信半疑だと答えると、そのスタンスで正しいと言われます。

雅は、千鶴子に見送られて新幹線ホームに向かいました。
エピローグ
東京に戻って数日後、千鶴子から事件の顛末を報せるメールが届きます。森谷将太がホームから転落した原因は脳梗塞で、彼が狐の窓から見えた真っ黒い烏というのも、その前駆症状である一過性黒内障とのことでした。
雅は、最後にあった、奈良の三輪に行って新しい視点で三輪や出雲を見つめ直すとのメッセージを見て、思わず千鶴子に電話をします。そして、伊勢の神と三輪の神が同体と聞いて、是非にと頼み込んで、4月の頭に二人で奈良の大神神社を訪ねることになるのでした。
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第9シーズン第3部のいながら旅は、ここまでです。今回の旅では、元出雲である出雲大神宮から「怨霊の寺」こと出雲寺、上賀茂・下鴨周辺の出雲関係の寺社や史跡を10か所ほど見るとともに、京都に強制的に連れてこられた出雲族とその監視役を担いながら最後には根絶やしにされた賀茂氏の存在を知り、猿田彦神にも触れました。次は、千鶴子と共に大和における「出雲」を探し求めるようです。第4部では、『鬼統べる国、大和出雲 古事記異聞』をガイドブックとして旅を続けます。
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