第2部からいながら旅を続けます。グレゴリウスは、プラドの本を読み進めるとともに、彼と関わりのあった人々を訪ね、彼の人物像や彼と関わって生きることがどんなだったかを聞いていきます。
第2部 邂 逅
13 アドリアーナ
映画では、リスボンに来てすぐに(自転車との接触事故よりも早く)プラドの診療所を訪問します。

上の画像に映っている、ライオンの取っ手が付いている扉は、前節に紹介したホテルのものと同じですね。

目の前に現れたアドリアーナは、全身黒ずくめの背の高い女性で、高齢ながら尼僧を思わせる厳しい美貌はギリシア悲劇から抜け出してきたかのようで、黒いダイヤモンドのように輝く窪んだ瞳から苦々しい視線を放ち、内面からは氷のように冷たい激情がほとばしっていました。映画では、シャーロット・ランプリングが年老いたアドリアーナを好演しています。グレゴリウスは、プラドの本を取り出し、フランス語で、この人が暮らした場所を見て、彼を知っていた人と話して、こんな素晴らしい文章を書くことができる人がどんな人だったか、この人と生きることがどんなものだったを知りたいと、訪問の理由を説明します。

2階の広間に通されると、グレゴリウスは、これまで見たこともないような完璧な広間の様子やプラドの図書館とも言える壁一面の本棚に感銘を受けます。アドリアーナは、死んだ兄のことを話せる人間をずっと待っていたかのようにとめどなく、兄の苦しみ、献身、情熱、そして死について語りました。

続いて、屋根裏のアマデウの部屋に行くと、そこはアマデウが亡くなったときのままの状態で、過去に引き戻されたアドリアーナはアマデウが書いたものを見せてもらえなかったことのへの怒りからか、唐突に敵意さえ感じさせる調子で、ひとりにしてくださいと言うと、グレゴリウスを帰します。

上の画像に映っている階段も、前節に紹介したホテルのものと同じです。
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最後に、アドリアーナは、グレゴリウスに名前と宿泊先を尋ねました。
14 ジョアン・エッサ
グレゴリウスは、アドリアーナ以外にもプラドのことをよく知る人たちを見つけようと、アリアナ・エッサに電話し、プラドと同じくレジスタンス活動家であった伯父のジョアンにプラドのことを知らないか話を聞きたいと申し出ます。すると、彼女は、新しい知り合いができるのは伯父にとってよいことだと賛成し、彼女の代わりにマリア・ジョアン・ピレシュのシューベルトのソナタの新盤のCDを届けるという訪問の口実をくれます。おそらく《楽興の時》や《2つのスケルツォ》とカップリングされている《第14番ピアノ・ソナタ》のCDではないでしょうか。

ジョアン・エッサの老人ホームがあるカシーリャスは、テージョ川の南岸に位置し、Google検索したところ、複数個所に高齢者専用住宅があるようです。

写っている赤い吊り橋が、1962〜66年に建設された、長さ2,277mの4月25日橋で、フェリーからも眺められます。開通当初は、サラザール橋と呼ばれていましたが、カーネーション革命の後、革命が起こった日に因んで名称が変更されました。

そして、対岸の丘の上に見えているのが、サラザールの命により1959年に建造されたクリスト=レイ像です。ブラジルのコルコバードの丘のキリスト像の建造に触発されて造られたもので、門の形をした基礎の高さは75mあり、頂上に立つ高さ28mのキリスト像は、フランシスコ・フランコ・デ・ソウサが設計したものです。

グレゴリウスは、ジョアンに、自分の出身地と職業、マリアナと知り合った経緯を英語で説明し、プラドの本を取り出して著者の写真を見せ、彼のことを尋ねます。映画では、トム・コートネイ演じるジョアン・エッサと談話室のような部屋で話をします。画像検索してみましたが、ロケ地の場所はわかりませんでした。

グレゴリウスは、ジョアンのために紅茶を入れますが、歪んだ手でもカップが持てるように半分を一気に飲み干して渡します。すると、ジョアンは、震える手で紅茶を飲み、プラドとの思い出を語り始めます。プラドは、汚名返上のためにレジスタンスに参加したが、レジスタンスに必要な忍耐力に欠けていたと言い、あの「無神論者の神父」は、たとえ結論がどれほど暗いものであろうとも、いつも物事を最後まで考え抜き、自分をずたずたにするようなところがあり、ジョアンとジョルジェ以外に友人はいなかったと話しました。

ジョアンは、これからも訪ねていいかと尋ねたグレゴリウスに黙ってうなずきますが、差し出された手には握手せず、両手をポケットに突っ込みます。グレゴリウスは、リスボンに戻る途中、何も目に入らず、耳にも聞こえず、人生で一番長い一日が終わろうとしているような気分で、アウグスタ通りをロシオ広場まで歩き、ホテルに戻るのでした。
15 プラドの父アレシャンドル
グレゴリウスが、アマデウ・デ・プラドの父で、判事をしていたアレシャンドル・オラシオ・デ・アルメイダ・プラドの死について、過去の新聞記事を調べにきたのは、1864年に創刊された、ポルトガルでも歴史のある新聞社『ディアリオ・デ・ノティシアス』でした。同社の編集部は2016年に移転しましたが、建築家パルダル・モンテイロが設計した旧本社の建物は、マルケス・デ・ポンバル広場に近いリベルダーデ大通り沿いに残っています。この建物は、新聞社のためにゼロから設計されたポルトガルで最初の建築物です。2025年旅行時にリベルダーデ大通りを通った際、雨の中、車窓から見ることができました。

実習生のアゴスティナのサポートを受けて、1954年6月20日の地方欄に法務省による彼の死亡発表記事を見つけます。記事の横には彼の写真があり、鉄のような厳しさと、岩のごとき首尾一貫性を持った、判事として存在する以外になかったような男の顔がそこにありました。自身に対する無頓着さ故に長くサラザールに仕えることができたのか、残虐なサラザールに手を貸した自分を最後には許せなくなったのだろうかと感じ、グレゴリウスは、長期闘病の末に死去との文字に怒りで体が熱くなるのを感じるのでした。最後に、アゴスティナに、判事の死亡広告に載っていた住所への道を尋ねます。
16 メロディー(リタ)
プラド判事の屋敷は、宮殿とまでは言えないものの、半円アーチの付いた窓がいくつも並ぶ四角い塔を備えた、広さと影と静寂に満ちた楽園のような屋敷で、背の高い杉の木々が枝を張り出していました。その場所は明らかではありませんが、148頁の記述から、城を挟んでバイシャ地区とは反対側にあるようです。
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城というのは、第1旅(第26節)で紹介した、サン・ジョルジェ城(写真手前)のことで、上の写真は、城から東側を見渡したものです。

屋敷には、アマデウがメロディーと呼んで可愛がっていたとジョアンが話していた、16歳年下の妹リタが住んでいました。彼女はプラドの本のことは知らなかったようで、姉アドリアーナへの嫌悪感を示します。そして、兄の本に出てくるマリア・ジョアンこそ、兄が一生プラトニックに心を寄せ、兄の秘密をすべて知っている人間だと話します。また、兄はまさに記念碑のような人間で、彼を愛するのは難しかったと語ります。それから自分のこと、父や兄との思い出について話し、兄からの手紙を見せてくれ、もっと多くを知りたいというグレゴリウスの思いをわかりながら、別れの握手を求めるのでした。
グレゴリウスは、城のそばのベンチに腰を下ろして、アマデウが妹に送った手紙に出てきたバルトロメウ神父を探さなくてはならないと考えます。そして、ホテルへ戻る途中、チェス盤を買うのでした。
17 プラドが通ったかつてのリセウ
グレゴリウスは、新聞社に出かけ、アゴスティナに調査を依頼すると、バルトロメウ神父が1935年ごろ教鞭を取っていたかつてのリセウ(高等学校)を見つけ出し、教会にも連絡を取ってくれた結果、神父がその日の午後に会ってくれることになります。
グレゴリウスは、まず市内から外れた東の方にあるかつてのリセウに向かいます。古く背の高い木々に囲まれた、薄い黄色の壁を持つ校舎は、バルコニーはなく、塔の上の鐘がホテルにはそぐわないけれど、19世紀のグランド・ホテルのような佇まいと形容されています。Google検索した中高等学校の中で、背の高い木々はありませんが、その他のイメージが近いバージカ・ド・ベアト学校を、シャブレガスのグリーロ通りに見つけました。

映画では、バルトロメウ神父が今もいる、こちらの建物を訪ねています。

リスボンの西のカシアスにある、カルトゥーサ修道院のようです。

小説のグレゴリウスは、閉鎖された学校の中に入り、校長室の机の引き出しから聖書を見つけます。持ち出そうとしますが、結局引き返し、元の引き出しに着ていたセーターを敷いて、その上に聖書を置きます。それから、バルトロメウ神父のいる施設に向かうのでした。
18 バルトロメウ神父
バルトロメウ・ロウレンソ・デ・グスマン神父は、ベレン地区にある教会経営の介護施設に住んでいました。施設名や住所はわかりません。ポルトガル語で「ベツレヘム」を意味するベレン地区は、サンタマリア・デ・ベレンとも呼ばれ、リスボン中心部から6kmほど西に位置する地区で、ここにはどのガイドブックにも掲載されている、ポルトガルが栄華を極めた大航海時代を物語る3つの歴史的建造物があります。
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ジェロニモス修道院
一つ目は、エンリケ航海王子が建設した礼拝堂の跡地に、マヌエル1世がローマ教皇から大規模な修道院を建てる認可を受けて1502年に着工し、ヴァスコ・ダ・ガマが開拓したインド航路によってもたらされた東方交易による富も注ぎ込んで、百数十年もの年月を費やして完成し、聖ジェロニモス騎士団に引き渡された、マヌエル建築の最高傑作、ジェロニモス修道院です。後に紹介するベレンの塔とともに、1983年に世界遺産に登録されています。

1584年に訪れた天正遣欧少年使節団も感嘆したという、スペイン人彫刻家ジョアン・デ・カスティーリョによって造られた南門。聖ジェロニモスの生涯が彫られたティンパヌムを支える中央の柱には、エンリケ航海王子の像が置かれ、アーチの上には聖母マリア像を中心に40体以上の繊細な彫刻が並んでいます。

2025年訪問時は改修工事のため入場できませんでしたが、フランス人彫刻家ニコラ・シャントレーヌによって1517年に建造された正面左方の西門からサンタ・マリア・ベレン教会に入場してみましょう(教会は入場無料)。門の左側にはマヌエル1世、右側に王妃マリアの像、上部には、左から受胎告知、キリストの降誕、東方三博士の礼拝のレリーフがあります。

西門を入ってすぐ上には聖歌隊席があり、キリストの磔刑像が掲げられています。

ラテン十字型をした三廊式の教会内部。リブ・ヴォールトの天井を支えるヤシの木を模したような6本の柱には、海をモチーフにした模様も刻まれています。

入場してすぐの両脇には、彫刻家コスタ・モタ・ティオによって制作された著名な2人の棺が安置されています。左側にあるのが、中央にカラベル船のレリーフが彫られたヴァスコ・ダ・ガマの棺です。

反対の右側にあるのが、棺の中央に彫られた筆と竪琴のレリーフが彼が作り上げた叙事詩や戯曲を象徴している、ポルトガル最大の詩人ルイス・デ・カモンイスの棺です。

内陣は、王家の霊廟となっていて、左側にはマヌエル1世と王妃マリア、右側には息子のジョアン3世と王妃カタリナの棺が安置されています。主祭壇には、ロウレンソ・デ・サルゼードによるキリストの受難と東方三博士の礼拝を描いた祭壇画があります。

修道院に向かうと、中庭を囲む55m四方の回廊が見えてきます。2階建ての構造で、1階はフランス人建築家ディオゴ・ボイタックが、2階はその死後に引き継いだジョアン・デ・カスティーリョが手掛けました。アーチや柱には天球儀や異国の動植物など大航海時代を象徴するモチーフの装飾で埋め尽くされています。
なお、1階北翼には、1985年にここに移された、フェルナンド・ペソアの墓もあります。

回廊に続く、奥行き50mほどもある広々とした空間は、修道士の食堂として使われた共同室で、黄色と青色のアズレージョが美しく残っています。

発見のモニュメント
2つ目は、修道院の目の前にある、発見のモニュメントです。建築家コッティネッリ・テルモと彫刻家レオポルド・デ・アルメイダが1940年の国際博覧会を記念して制作し、エンリケ航海王子没後500年の1960年にコンクリートで再建された、52mの記念碑です。

先頭でカラヴェル船の模型を右手に持ち、右脚を踏み出して前方を見据えているのがエンリケ航海王子、東側2番目がアフォンソ5世、東側3番目がヴァスコ・ダ・ガマで、東西に合計で33体の彫像があります。
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東側の後ろから2番目には、日本で宣教を行ったフランシスコ・ザビエルもいます。
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広場の石畳には、ポルトガルが発見した国が、発見の年とともに描かれた世界地図があります。

もちろん日本もありますが、発見の年は、種子島への鉄砲伝来の1543年ではなく、ポルトガル船が豊後国神宮寺浦に漂着した1541年が刻まれています。
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記念碑7階の展望台(10€)には、エレベーターで上ることができ、ジェロニモス修道院の全景や4月25日橋などを見渡すことができますが、訪問時は改修工事のためクローズでした。
ベレンの塔
最後に紹介するのが、正式名を「サン・ヴィセンテの砦」といい、デージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として、マヌエル1世の命によりフランシスコ・デ・アルーデが設計して1515~20年に建設された、地上4階地下1階、高さ約35mの建造物、ベレンの塔です。司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、この塔を国家と女性を象徴する微笑を造形化させたものと表現し、テージョ川に佇みつくす公女に例えています。

2025年の旅行時に撮影したベレン地区のほかの写真は、こちらを参照してください。
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バルトロメウ神父は、教師たちがアマデウのことをどのように感じていたか、アマデウの性格、マリア・ジョアンとのこと、親友ジョルジェ・オケリーのこと、アマデウの葬儀のことを話し、最後にアマデウが卒業式でした演説の写しを渡してくれます。
19 真夜中のリセウ
バルトロメウ神父のもとを去ったグレゴリウスは、何か心に引っかかるものを感じて、ホテルには戻らず、プラドの演説をあの寂れた学校で読みたいと思い、金物屋で一番明るい懐中電灯を買って、再び郊外のリセウに向かいました。そして、講堂に入ってベンチに腰掛けると、神父から渡されたプラドの演説の写しを、懐中電灯の光の中で読み始めるのでした。写真は、第17節で紹介したベアト学校と同じ敷地にあるサン・バルトロメウ・ド・ベアト教区教会です。

映画の卒業演説も、教会の身廊のようなところで行われました。

地下鉄もなくなり、グレゴリウスは、寒さで凍えそうになりながら講堂で一夜を過ごします。
20 ルイ・ルイス・メンデスの治療
ホテルに戻ったグレゴリウスを待っていたのは、アドリアーナからの会いたいという手紙でした。彼が訪ねていくと、彼女は、テープレコーダーに録音されたプラドの肉声を聞かせてくれ、プラドの診療室を見せてくれます。グレゴリウスは、聞いてよいものか迷いながら、あえて危険を冒して、プラドの人生の転機となった、秘密警察ルイ・ルイス・メンデスを治療したときのことを尋ねます。ウンベルト・デルガードの殺害の主謀者とされていたメンデスが瀕死の重症で診療所に担ぎ込まれたのは、1965年8月、プラド45歳の夏のことでした。プラドは、石のように硬直し、顔を手で覆った後、背筋を伸ばして、救命措置を施し、救急車に引き継ぎました。

集まっていた人々から「裏切り者!」と罵られ、プラドは、自分は医者だと言い、彼もひとりの人間だと叫びますが、トマトが投げつけられ、ひとりの女がプラドの顔に唾を吐きかけました。何度も何度も。映画では、ジャック・ヒューストンが若きプラドを、ベアトリス・バターダが若きアドリアーナを演じています。

アドリアーナは、あれが何よりも辛かったと語った後、「あんなこと書かない方がよかった。考えてさえほしくなかった。兄を壊してしまった」と話し、プラドが書いた原稿を持ってきて渡してくれます。
22 ジョルジェ・オケリー
グレゴリウスは、バイシャ地区のサパテイロス通りにあるという、プラドの親友だったジョルジェ・オケリーの薬局に向かいました。アウグスタ通りの1本西側の通りで、ドアと窓枠が濃い緑と金色という店舗はありませんが、Googleマップのストリートビューで探索したところ、166番地に〈バラル薬局〉という店舗が見つかり、現地にも訪れました。グレゴリウスが入った通りの向かいのカフェとしては、〈オ・アルコ〉というレストランがあります。

映画のジョルジェの薬局は、こちらのレトロな建物で、グレゴリウスは前の広場のオープンカフェから様子をうかがいます。

マルヴィラ地区のダビド・レアンドロ・ダ・シルバ広場にある、1910年に建てられた、アベル・ペレイラ・ダ・フォンセカ協会のワイン倉庫で、ワイン大聖堂とも呼ばれる、ファサードが特徴的な建物で、現在はイベント会場などとして利用されているようです。

午後遅くなって、ジョルジョは、電灯をつけたまま薬局を出て施錠し、角を曲がってコンセンサン通り沿いにバイシャを突っ切り、アルファマ地区へと入り、時を告げる3つの教会の前を通り過ぎました。一つ目の教会は、恐らくコイセンサン通りからマダレナ通りを渡った坂の途中にある、サンタ・マリア・マダレナ教会でしょう。

二つ目は、リスボンの守護聖人パドヴァの聖アントニオ誕生の地に建てられた、サント・アントニオ教会だと思います。現在の教会は、リスボン地震後の1767年以降、マテウス・ヴィセンテ・デ・オリヴェイラによってバロック=ロココ様式で再建されたもので、正面に立っているのが聖アントニオの像です。

そして、三つ目がその直ぐ後ろに続く、カテドラルこと、リスボン大聖堂です。同聖堂については、第1旅(第26節)で紹介しました。内部は、2025年訪問時のこちらの写真を参照してください。

ジョルジェが3本目の煙草を踏み消した、サウダージ(郷愁)という名の通りはこんな坂道です。右側に階段の路地が見えますが

映画でも、ジョルジェがこんな路地の階段を上っていきます。

ジョルジェが入っていったのは、チェスクラブでした。ジョルジェから尾けてきた理由を訊かれ、グレゴリウスは、プラドの本を見せます。

連れていかれたジョルジェのアパートで、グレゴリウスがプラドという人間であることがどういうことなのかを知りたいと話すと、ジョルジェは、プラドとの出会い、卒業演説のこと、妻ファティマのこと、マリア・ジョアンのこと(姓がアヴィラと判明します)、忠誠心のこと、そして、プラドが買ってくれた薬局のことを語ってくれました。薬局の電灯がつけっぱなしであったことを指摘すると、ジョルジェは、あれはわざとで、貧乏の中で育ったことに復讐しているんだと話すのでした。
第3部 試 み
24 ベルンに戻る
月曜の朝、グレゴリウスは、急に不安に襲われ、チューリヒへ飛びました。現在、リスボンからチューリヒまでは、ポルトガル航空やスイス・インターナショナル・エアラインズなど複数便が運航しており、3時間前後で到着します。

チューリッヒ中央駅からベルンまでは、1時間から1時間20分程度です。

アパートに戻ると、ケーギ校長から、グレゴリウスがいなくてギムナジウムが寂しいという内容の手紙が届いていました。グレゴリウスが戻ってきたのは、再び自分のよく見知った場所にいたいと思ったからでした。しかし、ケーギの手紙のせいで、何故だかその望みが難しいものに思われるのでした。

ブーベンベルク広場に行って、広場を3周し、映画館、郵便局、ブーベンブルク記念碑、プラドの本に出会ったスペイン語の古書店、路面電車の停留所、聖霊教会、そして、1881年設立のデパート〈LOEB〉、あらゆる方向に目を向けてみましたが、出発前にはここのことなら何でも知っていると思えた広場にもう触れることができないと感じるのでした。

クライネ・シャンツェを通ってブンデステラッセに出ました。同公園には、1906年に万国郵便連合25周年を記念して、フランスの彫刻家ルネ・ド・サン=マルソーによって設置された、万国郵便記念碑を見ることができます。

ところが、キルヒェンフェルト橋が通行止めになっていたため、〈ホテル・ベルヴュー〉のレストランで食事を注文します。

それから、モンビジュー地区へ回って、ギムナジウムへ向かいました。モンビジュー橋は、1962年に開通した長さ337.5mの橋です。校舎内に忍び込み、教室に入ると、この学校の生徒だったときの記憶がよみがえってきます。その後、職員室に行き夜の闇を見つめていると、何故だかオケリーの薬局が目に浮かび、衝動的に電話をかけます。

再びモンビジュー橋を渡って、ベーレン広場に到着します。旧市街の中心部、北側はヴァイゼンハウス広場、南側はブンデス広場に接続する広場で、中央には、1901年にブンデス広場の北西角から移された噴水があります。

因みに、中央駅からベーレン広場に通じるシュピタール通りの中程には、アルブレヒト・デューラーの木版画に基づいて、1545〜46年にハンス・ギーングが制作したバグパイプ吹きの噴水があります。貧しい音楽家たちを称えたもので、つま先に穴の空いた靴を履いた男がバグパイプを演奏しています。

グレゴリウスは、ゲレヒティッヒカイト通りに向かって歩き出します。観光名所を通りますので、ゆっくり見ていきましょう。ベーレン広場からマルクト通りへ抜けていく門が、1256年に新たな西門として造られ、1641~44年に再建された牢獄塔です。後期ルネサンス様式の塔で、1897年まで牢獄として使用されていたことから、この名前で呼ばれています。

牢獄塔を抜けて東にあるのが、1545〜46年にハンス・ギーングによって建てられた、ベルンの最初の病院の創設者アンナ・ザイラーを記念する、アンナ・ザイラーの噴水です。

マルクト通りを東進したところに、こちらも1543年にハンス・ギーングが制作した、甲冑を身にまとった兵士の像が置かれた、射手の噴水があります。射手の噴水という名前は、兵士の足もとで銃を構える小熊に由来します。

続いて東に見えてくるのが、1191年に街の西門として建設され、「ツィットグロッゲ」の愛称で呼ばれる時計塔です。ベルンで最も有名なランドマークで、時計塔の時計は1218年から時を刻み続けてきています。東面の天文時計と仕掛け時計は、1530年に造られたもので、毎時56分から正時までの4分間にからくり時計が動きます。

時計塔の東側には、1535年にハンス・ギーングが制作した、ベルンの創始者ツェーリンゲン公ベルトルト5世を記念した、ツェーリンゲンの噴水があります。馬上試合をするときの甲冑を付けた姿でツェーリンゲン家の旗を掲げていますが、兜の下は熊なんです。

クラム通りの中程にあるのは、1544年にハンス・ギーングが制作した、旧約聖書の士師記に登場する英雄サムソンがライオンの口を引き裂く様子を表している、サムソンの噴水です。

こちらは、クラム通りとクロイツ通りの交差点近くにある、クロイツ通りの噴水です。現在の噴水は、1778〜79年に制作された4代目です。

ゲレヒティクカイト通りの中程には、1543年にハンス・ギーングが制作した、正義の女神ユスティティアの像を頂く正義の女神の噴水があります。「物事を先入観で見ない」という公平と正義を表す目隠しをして、右手に裁きの剣を、左手に正邪を判断する秤を持ち、足元には、それぞれ神政、君主制、貴族制、共和制を象徴する、教皇、スルタン、皇帝、市長の像があります。

同通りには、元妻のフロレンスのアパートがあり、ちょうど彼女が夫と一緒に帰ってくるところを目撃します。髪が白くなり、40代半ばだというのに50歳にも見えるような服を着て、さえない感じの男と一緒なのを見て、胸の内に怒りが湧き上がるのでした。
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次の日、グレゴリウスは、かつて家庭教師の職に応募したことがあった工場経営者のシュニーダー夫妻を探し当て、エルフェナウに訪ねていきます。エルフェナウは、ベルンの南の郊外に位置し、ロシア大公夫人が、1814年に庭園建築家ジョゼフ・ベルンハルト・バウマンに依頼して設計されたイギリス式の景観公園(エルフェナウ公園)があり、重要文化財に認定されています。

グレゴリウスは、全く筋違いのことをしていると感じながら、イスファハンの気候を尋ねたりしていると、夫妻は思い出を共有してくれたことに感激し、イスファハンの写真集を渡してくれます。
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その次の日、グレゴリウスは、ジュラ地方のムティエ行きの列車に乗ります。

そこはグレゴリウスがかつてチェスのトーナメントで負けた町でしたが、チェス会場だった場所を見つけることはできませんでした。
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次の朝、グレゴリウスは、チューリヒ行きの列車に乗って、11時少し前に離陸する飛行機で、午後早い時間にリスボンに着きました。

現在のチューリヒ発のリスボン便では、イージージェットのU27644便が該当します。ヨーロッパにおける輸送人員がライアンエアーに次ぐ第2位の格安航空会社です。
25 リスボンに戻る
ホテルに戻ったグレゴリウスを、アドリアーナからの手紙、かかってきた電話の伝言3件、ナタリー・ルビンから送ってもらった本の包みが待っていました。包みを解いて、ポルトガル語の文法書を読み、続いてポルトガルの歴史の本を開きました。そして、夜遅く、ロシオ広場に立ち、いつかブーベンベルク広場と同じように触れることのできる日が来るだろうかと考えるのでした。

場面は違いますが、映画の中でも、ベンチでアマデウの本を読みふける場面で、夜の広場が映ります。第6節で紹介したサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台です。

同じ場所で撮った写真がこちらです。

小説のグレゴリウスは、ホテルに戻る前に、サパテイロス通りへ行き、明かりが灯るオケリーの薬局を覗くと、月曜日の夜に職員室からかけた電話が見えました。
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今回の投稿での旅はここまでです(第21節及び第23節は割愛しています)。次回、第3部の続き、第26節からいながら旅を続けます。
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