『さらば死都ウィーン』をガイドブックとしたいながら旅も、この投稿が最終回です。第3部の続き、第35節からいながら旅を続けます。いよいよヴォーゲル誘拐作戦が実行されます。
第3部 灰の川 (続き)
35 ウィーン
ベッカーは、ナヴォトを弁護士オスカル・ランゲとして無事ヴォーゲル宅に引き入れます。そこへマンフレッド・クルズを名乗り、イスラエルの諜報員の一団からヴォーゲルを保護し、安全な場所に退避させるために警官を派遣したとの電話が入ります。ヴォーゲルが自ら自宅を出るように仕向けるガブリエルの策略でした。
ボディーガードに抵抗されますが、ナヴォトがボディーガードを倒し、エレベーターに逃げ込んだヴォーゲルをオデットとザルマンとともに拉致します。そして、ヴォーゲルに本名をエーリック・ラデックと白状させるのでした。
36 ウィーン
ウィーン ~ ボイスドルフ
サイレンを鳴らしてヴェーリンガー通りに向かい(方角は西ではなく北)、北東に進路を変えてドナウ川を渡り、郊外に入ります。写真は、同通りの北角に、1898年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位50周年を記念して建てられた、ウィーン・フォルクスオーパーです。
その後、サイレンと閃光灯を消して、ミステルバッハ、ヴィルファースドルフ、エルドベリの村々を過ぎ、ボイスドルフに差し掛かりました。写真は、1787~88年に皇帝ヨーゼフ2世の命令により建て替えられたエルドベリ教区教会
ボイスドルフを過ぎて、松林を東に向かいます。車両待避所に待っていたキアラが乗るフォルクスワーゲンのバンに横付けし、ナヴォトはラデックに鎮静剤を注射して、ザルマンと共にラデックをバンの床下のコンパートメントに入れます。
そのころ、意識を取り戻したボディーガードからの知らせを受けたクルズは、国境等のセキュリティレベルをカテゴリー2に引き上げた上、ラデックから渡された殺し屋の電話番号に電話するのでした。
チェコ国境 ~ ポーランド国境
キアラは、検問所で国境警備員から執拗に質問を受けますが、バンの荷台に何もないとわかり、無事チェコの国境を通過します。
ミクロフの鉄道駅前のバスの待合所で待機していたガブリエルを助手席に乗せ、高速道路を北に向かいました。
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通過したブルノ(Brno)は、かつてプシェミスル家が支配し、モラヴィア辺境伯領の中心地となり、現在は憲法裁判所や最高裁判所などが置かれるチェコ共和国第2の都市。標高282mの丘の上のシュピルベルク城は、13世紀後半オタカル2世によって建設され、第二次世界大戦中、ナチスによりチェコ人が投獄された場所で、チェコ文化遺産に指定されています。
また、ペトロフの丘にあるのが、街のランドマークであり、10czkコインのモデルにもなっている、聖ぺテロ聖パウロ大聖堂。モラビア州で最も有名なゴシック様式の教会で、特徴的な鋭く尖った2つの塔に上ることもできます。
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そして、オストラヴァ(Ostrava)は、ポーランドとの国境に近いモラヴィア・シレジア地方にある、チェコ共和国第3の都市。石炭採掘で栄えた工業都市で、ヴィートコヴィツェ製鉄所があるドルニ・ヴィートコヴィツェ(Dolni Vitkovice)は、ヨーロッパの産業遺産に認定されており、ユネスコの世界遺産候補にも名前を挙げられています。溶鉱炉の一番上に聳え立つのは、2015年完成の高さ78mボルトタワー
幹線道路の北、ランデクの丘には、かつてのミハル炭鉱が生まれ変わったランデク・パーク鉱業博物館があります。
ポーランドとの国境を越えたところで、ガブリエルは、ラデックをコンパートメントから出しました。
37 東ポーランド
ダフヌフ
車は、ポーランドの東部、ダフヌフ、ジュクフ、ナロル、そして、ベウジェツへと進んでいきました。ラデックは、意識と無意識の間を行き来しながら、窓から見える景色にかつての記憶が去来していきます。ダッハナウと訳されているダフヌフ(Dachnów)は、ポーランド南東部のサブカルパティア県ルバチュフ郡に位置する、タルノグロード高原にある村で、写真は、町の中心部に、1929年に建てられた木造のギリシャ・カトリック教会の聖十字架高揚教会
ジュクフ
ダフヌフから北へ約8.5km。ズコウと訳されているジュクフ(Żuków)は、同じルバチュフ郡の村。村の東の三叉路には、写真のような十字架が立っています。
その東の道沿いには、1767年に建てられた木造教会、コワローカの聖母マリア生誕教会があります。
ナロル
ジュクフから北東に約15km。ナロル(Narol)も、同じルバチュフ郡の町で、町の北端には1776年にウォシ伯爵によって建てられた馬蹄形の宮殿があります(参考動画)。
ベウジェツ
ナロルから北東に約9.5km。ベウジェツ(Bełżec)は、ポーランド東部のルブリンから南東へ114km、トマシュフルベルスキー郡にある村で、SS警察高級指導者オディロ・グロボクニクが計画したラインハルト作戦を実行するため、最初に絶滅収容所が設置された場所です。戦前から使われていた鉄道が通り、木材の積み出し用に使われていた駅があり、殺戮の現場としては格好の場所でした。収容所は、駅の南西、引き込み線に沿った場所に、1941年11月1日から同年12月22日にかけて建設され、活動を停止した1942年12月までの間に、約60万人のユダヤ人を殺害しました。ナチスは、1943年6月までに建物等を解体して痕跡を隠蔽しました。現在、その場所はベウジェツ歴史博物館となっています。
敷地は、縦275m、横265mと狭く、収容者を受け入れ、服を剥ぎ取ったエリアとガス室しかなかったのことです。博物館の入口を入ると、跡地いっぱいに砕石(人間の灰も含まれているとのこと)が敷き詰められ、殺害された犠牲者の墓標となっています。中央の通路は、かつてのガス室に通じる「死の道」を示しています。手前は、セメントで固められたレールで、ユダヤ人が連れてこられたすべての方向を示しています。
砕石の周りのコンクリートには、犠牲者が移送されてきた各地の地名を示す立体の文字が並んでいます。
収容所の廃止、証拠隠滅に当たって、SSは、壕の中から死体を掘り起こし、建物を解体した木材とレールで櫓を作って焼却し、灰となった骨を壕に戻し、敷地に植林を行いました。博物館を入って左側には、遺体を焼いた櫓のレプリカがモニュメントとして置かれています。
SSが植えた木は撤去されましたが、敷地の右側には、当時から植えられていた樫の木が虐殺を目撃した証人として残されています。
展示室は、博物館の入口を入って右手にあります。犠牲者家族の写真が釣り下げられ、かつてのベウジェツ駅舎、貴重品の預かり証、脱衣所に掲示されていた注意書き、ガス室で使われたシャワーヘッドなどの展示があります。
そして、一番奥には、「この場所が1942年2月から12月までの間にヨーロッパ諸国から連れてこられた60万人のユダヤ人と1500人のポーランド人が殺害された絶滅収容所である」と記されたレンガ色の石碑だけが置かれた、400㎡程のコンクリートむき出しの薄暗い部屋があります(博物館・展示室については、大内田わこ著『ホロコーストの現場を行く ベウジェツ・ヘウムノ』も参照させていただきました)。
ウフルスク
ベウジェツから北に約125km。次に通り過ぎたウフルスク(Uhrusk)は、ウクライナとの国境に近い、ルブリン県ヴウォダワ郡にある村。写真は、村の東端にある、聖母マリア生神女就寝教会です。
ボラ・ウフルスカ
更に北へ約3km。ヴォラ・ウフルスクと表記されているボラ・ウフルスカ(Wola Uhruska)も、同じヴウォダワ郡にある村で、写真は、その中心部にある聖霊教区教会です。
ソビボル
更に北へ約22km。ソビボル(Sobibór)は、同じヴウォダワ郡にある村で、第二次世界大戦中、村の外に2番目の絶滅収容所が建設された場所です。ここでは約25万人のユダヤ人が殺害されました。1943年10月14日に起こった囚人の反乱の後、活動を停止し、ナチスは赤軍から隠蔽するため収容所の殆どを破壊しており、現在は、跡地にゾビボル博物館や記念碑が整備されています。
ビジターセンターの前には、旧収容所への行き止まりの線路が残されています。
三大絶滅収容所の中で唯一、ソビボルではガス室跡が見つかっており、ガス室までの道(追悼の道)には、両サイドに無数の石の慰霊碑が置かれています(写真は過去のもので、2023年記念碑の整備に伴い改修されています)。
ソビボル蜂起から80周年となる2023年10月14日に合わせ、ガス室跡や記念碑(灰塚)が再整備され、また、以前ガス室跡近くに設置されていたミエチスワフ・ヴェルターによる母親と子供の像が博物館の敷地に移設されました。
シェドルツェ
ゾビボルから北西に約150km。シデルシェと訳されているシェドルツェ(Siedlce)は、ワルシャワの東90kmに位置する、マゾヴィア県にある市で、かつて多くのユダヤ人が暮らしていましたが、1942年8月には約1万人のユダヤ人がトレブリンカに強制送還されて殺害されています。写真は、中心部にある旧市庁舎の建物を利用したシェドルツェ地域博物館です。
この街には、75mの2つの尖塔が特徴的な聖母マリアの無原罪懐胎の大聖堂があります。
ソコウフ・ポドラスキ
シェドルツェから北へ約30km。ソコルフ・ポドラスキと表記されているソコウフ・ポドラスキ(Sokołów Podlaski)は、同じくマゾヴィア県の町で、第二次世界大戦中、多くのユダヤ人がドイツ当局によって設けられたゲットーで殺害され、トレブリンカ絶滅収容所にも移送されました。写真は、町の中心にある聖母マリアの汚れなき御心の大聖堂です。
ディボウ ~ コソフ・ラッキ
更に北へ約25km、途中、ダイボウと訳されている、マゾヴィア県ソコフ郡にある小さな村、ディボウ(Dybów)を通り過ぎ、ソコルフ・ラッキとされる、同じソコフ郡のコソフ・ラッキ(Kosów Lacki)という町に至ります。写真は、町の中心部にあるネオゴシック様式の聖母マリア生誕教会
コソフ・ラッキの町を通り過ぎて、幹線道路を離れ、森の中に入って停車すると、ガブリエルは、ラデックの拘束を解き、森の中を連れて歩きました。
38 トレブリンカ、ポーランド
ワルシャワから北東に約90kmの森の中、作中にあるように、奥に向かって幅5mほどの道が伸び、(収容所のフェンスのラインを示すとされる)大きな石碑が等間隔で立ち並んでいます。トレブリンカの駅から引き込まれた支線の跡地には、枕木とプラットホームが石で再現されています。ガブリエルは、ラデックに実際にここで何が起こったかを聞かせてもらいたいと話します。
二人が歩いて入ったという、石碑の点在する一帯。トレブリンカで絶滅させられたユダヤ人コミュニティの名が刻まれています。
作中に出てくるワルシャワの名が記された最も大きな石
中央には、「Never Again(二度としない)」の記念碑が立っています。
黒い玄武岩が敷き詰められている大きな長方形の窪み。イスラエルには行かない、自分を殺してすべてを終らせろと叫ぶラデックに、ガブリエルは、この神聖な土地では駄目だと言い、イスラエルの監獄で一生を過ごし、ホロコーストの研究者に秘密作戦・1005についてすべてを語ることになると話すのでした。
史跡としての整備は最小限に留められ、トレブリンカ博物館のほかパンフレットなどを販売する売店が散在する程度です。
トレブリンカ強制収容所は、ベウジェツ、ソビブルと共に、東ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って設置された三大絶滅収容所の一つで、最後に設置されました。1942年7月23日の開所から70~90万人のユダヤ人が殺害されたとされますが、1943年8月2日に発生した囚人による武装蜂起を契機に施設の建物はすべて爆破解体され、死体の焼却や植林など証拠隠滅工作がされました。
第4部 アブ・カビールの囚人
39 ヤッフォ、イスラエル
ラデックの収容先として選ばれたのは、テルアビブの南、ヤッフォ(ヘブライ語)の郊外にあるアブ・カビール(Abu Kabir)という名の一画に位置する、テルアビブ拘置所でした。1937年にイギリスがイスラエルに委任統治していた時代に建てられた建物のようです。作中(第40節367ページ)には灰色の高い塀に囲まれ、その周囲に鉄条網が張り巡らされていたとありますが、Googleのストリートビューによれば、北側外壁には写真のように(落書き?のような)ペインティングがなされています。ラデックの逮捕が公表され、彼がルードヴィヒ・ヴォーゲルであることもマスコミに暴かれ、モスクワのスパイあるいは二重スパイだったという情報も流されます。
ガブリエルは、ラデックの罪状告白の初日まではイスラエルに留まるように命ぜられ、今回の事件の公式な報告書を作成します。エリ・ラヴォンは、ウィーンの病院からエルサレムのハダサ大学病院に移されており、ガブリエルが報告書を書き終えた日に意識を回復します。写真は、エルサレムの南西、アインカレムにある病院
宿泊しているセーフハウスに戻ると、ラデックが会って話したいというモーシェ・リビンからのメッセージが留守録されていました。
40 ヤッフォ、エルサレム
ガブリエルは、アブ・カビールの拘置所を訪れます。写真の場所が入構を許可された外玄関でしょう。面会したラデックは、ウィーンで逮捕される直前に掛けてきたマンフレッド・クルズの偽物の電話のこと、ビルケナウからの行列の中にいた女が証人で、ガブリエルの母親ではないかと尋ねた後、ヤド・ヴァシェムに出発します。
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ガブリエルは、母の絵を〈ホロコースト博物館〉に寄贈することを決め、ツファットのツィオナから絵を受け取り、ヤド・ヴァシェムに運んでから、オリーブ山に父母の墓を参りました。オリーブ山は、聖書に度々言及され、橄欖山(かんらんざん)とも訳される、エルサレム東郊にある丘陵で、150,000以上もある墓は、ユダヤ人のための最大にして世界最古のユダヤ人墓地。手前の円錐形の岩窟墓は、ダビデ王の3番目の息子アブサロムの墓です。
その後、ローマ行きの夜行便に乗ります。
ベン・グリオン国際空港(TLV)からレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港(FCO)までの夜行便は、ウィズ・エア・マルタのW68288便(飛行時間は3時間55分、機材はA321neo)がありましたが、現在は運航していません。
41 ヴェネツィア・ウィーン
翌朝、ガブリエルは、ヴェネツィアのカナレシオ地区、サン・ジョヴァンニ・クリソストモ教会の聖ヒエロニスムのチャペルに戻りました。フランチェスコ・ティエポロにベッリーニの祭壇画の修復の完成まで三、四か月はかかると言い、あと1回だけ出かけると話すのでした。
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それから3週間後、ウィーン1区のアンティーク時計店に小包が届けられます。キアラは、ルノーのセダンから時計職人に電話を掛け、マックス・クライン、それとエリ・ラヴォン、レベッカ・ガジェット、サラ・グリバーグの友人と名乗り、携帯電話から爆破信号を送りました。
キアラは、リンク通りでガブリエルを拾うと、彼に爆破信号を送らせなかったのはウィーンで再び死の重荷を背負わせたくなかったからと話し、涙を流しました。ガブリエルは、爆発が起こったときに考えていたのは家族のことではなく、キアラのことだと話し、彼女の涙を拭ったのでした。
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第4シーズンのいながら旅は、以上で完結です。次の旅を楽しみにしてお待ちください。
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