第2部の続き、第24節からいながら旅を続けます。
第2部 名前のホール (続き)
24 ブエノスアイレス
サンテルモ地区は、ブエノスアイレスで最も古い地区(バリオ・スール)の一つで、スペイン植民地時代からの歴史的な建物や石畳の道などがいまだに残り、ボカ地区と共にアルゼンチン・タンゴ発祥の地と言われます。写真は、地区の中心ドレーゴ広場。タンゴのストリートパフォーマンスが見られたり、日曜日には骨董品などの蚤の市(フェリア・デ・サンテルモ)が開かれたりと賑やかです。
ガブリエルが改革運動家でジャーナリストのアルフォンソ・ラミレスに会ったカフェは、市松模様の床に四角い木のテーブルが不規則に配置され、漆喰の壁に据えられた棚に空のボトルが並び、扇風機が澱んだ空気を掻いており、ステーキが食べられることから、ドレーゴ広場に面した〈Bar Plaza Dorrego〉ではないでしょうか(Tripadvisorには閉業となっていますが)。
そして、大きなガラス窓が面している、騒々しい通りというのがサンテルモ地区の目抜き通りにあたるデフェンサ通りでしょう。
ガブリエルを乗せて、ラミネスがフォルクス・ワーゲン・シロッコを走らせたのは、アルゼンチンの独立記念日である1816年7月9日にちなんで名付けられた7月9日大通り。片側8車線もあり、最大幅約140mと世界で最も広い道路です。写真は、コリエンテス通りとの交差点にある共和国広場で、1936年に市創立400周年を記念して建てられた、高さ67.5mのオベリスクがあります。
ディケ川の方へ曲がり、ハーバー沿いの通りの建物に向かいました。旧イミグランテス・ホテルは、19世紀から20世紀にかけてアルゼンチンに渡ってきた移民を宿泊させたホテルで、1995年に歴史的建造物に指定され、現在、移民総局と移民博物館になっています。チェラの部屋と呼ばれる移民者カードの保管庫からオットー・クレブスが1963年12月に渡ってきていたことを示すカードが見つかります。
ラミレスは、ガブリエルと共にサンテルモ地区のアパートメントに戻ります。写真は、ドレーゴ広場の東、ウンベルト1世通り沿いにある、ブエノスアイレス市内で最も古い教会の一つ、1734年創建のサン・ペドロ・テルモ教会です。
ラミネスは、電話をかけ、クレブスのその後の行方を探索し、彼がパタゴニア北部のバリローチェ郊外の村に住民登録をし、1982年に死亡していたことをつきとめます。ガブリエルは、自分の目で確認するため、バリローチェに行くと言うのでした。
25 ブエノスアイレス・ローマ・ウィーン
ドレーゴ広場の北西、サン・テルモ市場は、1897年から130年以上の歴史を誇っており、市の歴史的建造物に指定されています。建築家フアン・アントニオ・ブスキアッツォによる建物は、鉄の枠で出来た大きな天窓が特徴的で、中央の大きなドームがとても美しい。
ラミレスのアパートメントでの会話を盗聴し、ガブリエルを望遠カメラで撮影した男は、ウィーンに連絡します。
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ローマのサンタ・マリア・デッラニマでは、ウィーンからの電話を知らせた修練士が時計職人を伴って小さな中庭を横切ります。この中庭にはローマ時代の石棺などが保存されています。
ウィーンの依頼人からの指示は、アルゼンチン行きの便に乗り、バリローチェに向かうガブリエルを先回りするようにとのことでした。
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首相候補ピーター・メッツラーは、デモ隊を避けることなく、ケルントナー・リングにある〈ホテル・インペリアル〉の正面玄関を入り、オーストリア自由党の党大会に向かいました。
元々は、ヴュルテンベルク公フィリップのために、アーノルド・ゼネッティが設計し、1863年ハインリヒ・アダムの指揮で建てられたイタリア・ネオ・ルネッサンス様式の建物でした。
26 バリローチェ、アルゼンチン
サン・カルロス・デ・バリローチェは、ブエノスアイレスの南西約1600kmに位置する、ナウエル・ウアピ湖畔の風光明媚な町。もとはパタゴニア地方のイエズス会の最初の布教地で、20世紀初頭にスイス系、ドイツ系の移民が入植し、南米のスイスとも呼ばれます。第二次世界大戦後、多くの元ドイツ国防軍やナチス党の戦犯容疑者がが亡命しました。
バリローチェ新聞社を訪ね、オットー・クレブスの死亡記事から、彼がプエルトブレストで観光牧場を経営し、1983年11月に亡くなり、そこのカトリック教会の墓地に埋葬されたことがわかります。
ガブリエルとキアラがチェックインしたホテルは、サン・マルティン通りのホテル〈NH・バリローチェ・エーデルワイス〉でした。
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プエルトブレストは、ナウエル・ウアピ湖の反対側、チリとの国境付近にあります。バリローチェからプエルトブレストに行くには、リャオ・リャオ半島のプエルト・パニュエロでボートに乗り、18kmを航行する必要があるとされ、作中のように車では行けないようです。
小説では、喫茶店で道を尋ね、村の西の外れに建つ山の聖母マリア教会を訪ねますが、実際のプエルトブレストには、喫茶店や教会はなく、〈ホテル・プエルトブレスト〉と〈Barranco de los Huillines〉というレストランがあるのみです。
教会でルーベン・モラレス神父からクレブスの話を聞き、墓石に収められた彼の写真を見て、ここで死んだクレブスがラデックとは別人であったことが明らかとなります。そこへ殺し屋が足早に丘を下ってきます。銃を取り出そうとしたとき、松林からサブマシンガンを携えたアメリカ英語を話す二人の男が現れます。殺し屋は踵を返し、ガブリエルらは救われます。
第3部 灰の川
27 プエルトブレスト、アルゼンチン
アメリカ人に連れられて、ガブリエルとキアラは、チリとの国境を越え、アンデス山脈を太平洋方面に向かいました。写真は、途中のプエルト・バラスの街からジャンキウエ湖越しに見たオソルノ山、中央の教会はイエスの聖心教会です。
アンクード湾の北端、プエルトモントの街に着きます。ここからも「チリ富士」ことオソルノ山が見渡せます。
ガブリエルらがガルフストリームG500に乗り込んだ郊外の飛行場というのは、エル・テプアル国際空港のことでしょうか。
時計職員は、ウィーンの依頼人に対し、何がどうなっているのかさっぱりわからないと報告します。
28 田園地方、ヴァージニア
ガブリエルらが連れていかれたのは、合衆国ヴァージニア州の田園地帯にあるCIAの隠れ家でした。作中に具体的な場所を特定する記述はありません。玄関ホールで、シャムロンがCIAの作戦副長官エイドリアン・カーターと共に一行を出迎えます。写真は、ファームビルの東、アポマトリックス川に1854年に建設されたハイ・ブリッジ
カーターは、戦後、ソ連に対する諜報経験を買われて合衆国に迎い入れられたラインハルト・ゲーレンがラデックをゲーレン機関に雇い入れたこと、片腕となったラデックを逮捕させまいと、ラデックにルートヴィヒ・ヴォーゲルの身元を与えるとともに、偽のラデックをローマに送り込んで、ヴァチカンのルートを利用してシリア、アルゼンチンへと誤った手掛かりを残したことを明かしました。
次期首相候補のピーター・メッツラーがラデックの息子であり、ラヴォンはその事実を暴こうとしたために殺されかけたことがわかります。ガブリエルは、その弱みを利用してラデックに自らイスラエルに行くよう差し向けると主張し、シャムロンは、多くのナチ党員がオーストリアへ逃亡する際に持ち去ったホロコーストの略奪品を隠したチューリッヒの銀行口座の25億ドルも返してもらうことにすると宣言しました。
29 エルサレム
ガブリエルは、シャムロン、キアラと共に、ロッド空港から首相のオフィスに向かい、ラデックの身柄を確保する作戦について説明しました。レブは反対しましたが、首相は、ホロコーストの証拠を消し去るべくラデックが犯した罪を彼自身の口から世界に告白させるため、ウィーンで騒ぎを起こすことなく連れてくるよう命じました。イスラエル首相の公邸は、ベイト・アギオンと呼ばれ、現在はエルサレムのリハビア地区のバルフォア通りとスモレンスキン通りが交差する南東角にあります。
解散後、首相は、シャムロンを捕まえ、ラデックが来ることに同意しなかったら、ガブリエルに始末させろと話します。
30 ウィーン
マンフレッド・クルズは、ウィーン5区、シュテバー通りのルートヴィヒ・ヴォーゲル宅に向かいます。22番地にはグレーストーンの大邸宅は実在しません。
31 チューリッヒ
ヘラー・エンタープライズ社とシステックワイアレス社との合併という話を仕立て上げ、その最終交渉の会場として選んだのが5つ星ホテル〈ザ・ドルダー・グランド〉。シャムロンがルドルフ・ヘラー翁を、キアラが彼の個人秘書のイタリア女性エレナを、ガブリエルがグリーンの瞳のケップルマンを演じました。そして、警備主任のオスカル・ランゲとされたのがウージ・ナヴァトです。
コンラート・ベッカーを計画に引き入れるために一計を案じたもので、彼と関係を築いていたCIAの協力を得て彼を呼び出しました。ヴォーゲルの誘拐に協力するように迫り、ナヴァトをヴォーゲルの家に引き入れてくれればよいと話します。
32 ミュンヘン
ガブリエルとシャムロンが指令基地として入った古いアパートメントは、ミュンヘンのレーヘル地区と呼ばれる一画にありました。英国庭園の南に位置し、「ミュンヘンの最も古い郊外」とされ、1724年に市に組み込まれた地域です。写真は、同地区の中央をマックス・ヨーゼフ広場からマキシミリアネウムまで東西に走るマクシミリアン通りの東側中央に立つマクシミリアン2世の記念碑と、ティールシュ通りの奥に見える、ミュンヘン最大のプロテスタント教会の聖ルカ教会です。
二人は、日に1度、英国庭園を散歩しました。英国庭園については、前旅(第1節)で紹介したとおりです。中央に見えるのは、1836年に建てられた小さなギリシャ風の寺院モノプテロス寺院です。
急流を見下ろした橋の欄干というのは、前旅(第6節)にも登場する英国庭園の南端、イザール川の支流アイスバッハ(人工川)の出口の石段が定在波を生み出し、世界で最も有名なリバーサーフィンのスポット(アイスバッハヴェレ)となっているアイスバッハ橋でしょう。
二人が訪れた閑散としたビアガーデンについては、木のテーブルという以外の情報がなく、特定できません。アルトシュタット=レーへル地区のビアホールといえば、マリエン広場からも近い、創業1589年の老舗〈ホフブロイハウス〉が知られていますが、観光客の利用も多く、閑散という表現からは程遠くなってしまいます。
アイスバッハ橋から指令基地のアパートメントに戻る途中に立ち寄ったとすると、住宅街の小さな通り沿いにある〈タッテンバッハ〉という小さなお店などが考えられます。シャムロンが首相の考えを伝えると、ガブリエルは、ラデックが怪物であるとしても殺したくはないと話します。
CIAのエイドリアン・カーターが訪ねてきて、作戦プランの詳細を尋ね、長官が自ら陣頭指揮を執りたがっていると伝えます。ガブリエルが歯軋りするシャムロンを横目に説明すると、カーターは、我が陣頭指揮官がチームリーダーになろうとする前に行動を起こすよう示唆し、ガブリエルは、チューリッヒのナヴォトに電話を掛けます。
33 ウィーン・ミュンヘン
写真は、ヴォーゲルの邸宅があるとされる、ウィーンのシュテバー通り22番地にある実際の建物入口です。ベッカーは、ヴォーゲルに電話を掛け、メッツラーの勝利が確実となったので、資産分配の手続を早めることにしたと言って、オスカル・ランゲという名の弁護士を伴ってヴォーゲル宅を訪ねる約束を取りつけます。
ヴォーゲルは、オスカル・ランゲの身元を確認しますが、彼はチューリッヒに実在する弁護士でした。〈オフィス〉が各地に抱えるユダヤ人支援者(サイアン)の一人に成りすましたのです。
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写真は、ミュンヘンのレーヘル中心部にある聖アンナ修道院教会です。バイエルン旧市街で最初のロココ様式の教会で、現在の建物は、第二次世界大戦後、1979年までに再建されたものです。
その向かいには、ガブリエル・フォン・ザイドルの設計により1887~92年にネオ・ロマネスク様式で建てられた聖アンナ教区教会があります。
ミュンヘンの隠れ家では、ベッカーの電話の録音音声を確認し、翌朝(木曜日)、ガブリエルはキアラと共に隠れ家を出発します。
34 チューリッヒ
金曜日の1時4分前、ベッカーとナヴォトは、クローテン空港(ZRH)にタクシーで向かいますが、雪による一時運航休止により、搭乗したウィーン行きが発ったのは2時45分になりました。現在、チューリッヒ~ウィーン間に就航しているスイスインターナショナルエアラインズに該当の便はありません。飛行時間は80分で、機材はA320又はA321(写真)、E195
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二人は、4時過ぎにシュベヒャート空港(VIE)に到着し、モルデカイが運転する黒のメルセデスのセダンに乗り込み、ヴォーゲル宅へ向かいました。
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一方、ガブリエルは、チェコのミクロフという名の古い街にいました。モラヴィアの宝石と呼ばれる、オーストリアとの国境付近にある街で、中世はリヒテンシュタイン家が治めていました。彼が立っていたとする中世の城壁というのは、後に(第36節339ページ)キアラと待ち合わせた場所から徒歩圏内にあるとすれば、ミクロフのシンボル、ミクロフ城でしょうか(この城は、1719年の火災で焼き落ちており、その後に再建されたものですが)。
そして、オーストリア側のボイスドルフという村の近くの森の傍らには、キアラがフォルクスワーゲンのバンに乗って待機していました。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第3部の続き、第35節からいながら旅を続けます。
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