第1部の続き、第10節からいながら旅を続けます。
第1部 コーヒーハウス・セントラルの男 (続き)
10 ウィーン
ガブリエルがレンタカーを放置して処分したのは、国連ウィーン事務局の近く。ニューヨーク本部、ジュネーブに続き、3番目の事務局として1980年に設立。国際原子力機関 (IAEA)など多くの国連機関の本部が誘致され、治外法権地域のウィーン国際センターを形成しています。
イスラエル大使館の男と待ち合わせたのは、ホーフブルク宮殿の中庭、プルンクザールへの入口がある、ヨーゼフ広場でした。中央には、彫刻家フランツ・アントン・フォン・ツァウナーによるヨーゼフ2世の騎馬像が立っています。中に入ってみましょう。
2階の閲覧室で、エルアル便に乗せてシャムロンに届けるようにと、ヴォーゲルの別荘で手に入れたものなどを渡します。プルンクザール(国立図書館)は、皇帝カール6世の下,フィッシャー・フォン・エアラッハ父子によって1723~26年に建設された、全長77.7m,幅14.2m、高さ19.6mの、バロック建築による図書館では最大のホールで、20万冊の所蔵を誇る、世界一美しい図書館の一つです。ホールの中央には、カール6世の彫像が立ち、ダニエル・グランによる天井画も見ものです。
マックス・クラインに電話しても応答がなかったので、彼のアパートメントを訪ねると、管理人から、午前中はシナゴーグにいると言われ、ドナウ運河を渡って、ユダヤ人地区へ向かいます。しかし、シナゴーグに彼の姿はありませんでした。1区にあるシナゴーグ、シュタットテンペルは、建築家ヨーゼフ・コーンホイゼルによって1824~26年建設されたもので、通りから遮蔽された楕円形のドームで、12本のイオニア式の柱がギャラリーを支えています。第二次世界大戦を生き延びた市内で唯一のシナゴーグです。
シナゴーグ入口の警備員に促され、ザイテンシュテッテンガッセ4番地、両脇に鉄製門灯があり、ドアの上に青地に金文字のヘブライ語の看板がある〈ウィーン・ユダヤ人コミュニティセンター〉に向かいますが、そこにもクラインは来ていませんでした。
受付係のナタリアから聞いた、老人たちが溜まり場にしている、19番地にある〈ショッテンリンク〉というカフェですが、写真のとおり、現在ショッテンリンク19番地にその名のカフェはなく、GoogleMap上の情報によれば、同名のカフェは2012年以前に閉店になったようです。
そのカフェでもクラインを見つけられなかったガブリエルは、クラインのアパートメントに戻り、管理人に部屋の鍵をあけてもらいます。すると、頭にビニール袋が被せられたクラインがベットに横たわっていました。警察の事情聴取はなんとか切り抜けましたが、ホテルに戻ったガブリエルをBVTのマンフレッド・クルズが待っていました。
11 ウィーン
クルズがあれから13年分歳をとったとのことから、第3節で述べたとおり、現在は2004年ということになります。彼は、ガブリエルに2度とこの国に足を踏み入れないと約束したはずだと言い、荷物をまとめてシュヴェヒャート空港を3時に発つエルアル便に乗って帰れと告げました。
ウィーンの南東18kmに位置するウィーン国際空港(VIE)のことですが、現在、エルアル航空には10時35分(LY362)か21時35分(LY364)の便しかありません(機材はB737)。
第2部 名前のホール
12 エルサレム
ガブリエルは、ロッド空港(ベン・グリオン空港)で待っていたレヴの部下を振り切り、迎えにきたシャムロンの車に乗ってエルサレムに向かいました。ウィーンでの調査結果を話し、ルートヴィヒ・ヴォーゲルの正体を暴くと主張します。
シャムロンの紹介により、エルサレム西部のヘルツルの丘にある〈ヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)〉に、モーシェ・リビンを訪ねます。1953年の国会決議に基づいて設置された博物館で、180,000㎡の中に、ホロコースト歴史博物館、公文書保存所、図書館、出版所、教育センター、ホロコースト研究国際学校、シナゴーグ、記念碑、ホロコースト関連の芸術作品の博物館などの施設が設けられており、2005年には4倍の大きさの複合施設に拡大しています。2013年には、収蔵する展示物がユネスコの記憶遺産に登録されています。
ガブリエルがオーストリアで手に入れた手掛かりを説明したところ、リビンが記録保管所から資料を持ってくると言って、1時間見学して待つことになります。1962年5月1日に奉献された〈諸国の中の正義の大通り〉は、ホロコーストの際にユダヤ人を救うために命を危険にさらした非ユダヤ人に敬意を表して名付けられ、植樹された各木の傍に表彰された人の名前と出身国が記されたプレートが置かれています。日本からは、在リトアニア領事館領事代理であった杉原千畝が顕彰を受けています。
〈追悼のホール〉では、「永遠の炎」の前に立ち尽くしました。ガリラヤ湖周辺地域から運ばれた玄武岩に囲まれた黒い床には、トレブリンカ、ソビボル、アウシュビッツ、マイダネク、ベウジェツ、ヘウムノの絶滅収容所など、最も悪名高いナチスによる22の強制収容所の名前が刻まれています。
ホロコーストの犠牲者たちの名前や写真を連ねた〈名前のホール〉では、証言書を保管した抽斗から、母アイリーン・アロンが情報提供した、祖父母ヴィクトールとサラ・フランケンの証言書を探して、案内人にコピーしてもらうのでした。
〈ホロコースト美術館〉では、飢餓に苦しみ、苦役を強いられ、拷問を受けながらも作品を創作してきた芸術家の不屈の精神力に圧倒されます。
記録保管所の前庭で待っていたリビンは、分厚いファイルから1枚の写真を示します。それはSSの制服を身に纏ったヴォーゲルの若き日の写真でした。そして、彼は、ガブリエルに、エーリック・ラデックを見つけ出したらしいと告げました。
13 ウィーン
チューリッヒのタール通り26番地にあるベッカー&プール銀行の共同経営者コンラート・ベッカーは、ウィーンに到着し、5区のシュテバー通りにあるヴォーゲルの邸宅に向かいました。ただ、GoogleMap上、同通りに邸宅らしい建物は見当たりません。
ベッカーは、管理している銀行口座の現状を報告した後、ヴォーゲルに口座番号と暗証番号を言わせて録音したテープを持って、〈ホテル・アンバサダー〉の417号室にアメリカ人を訪ね、その情報を渡すのでした。
14 エルサレム
ガブリエルは、リビンからエーリック・ラデックについて説明を受けます。1917年にアルバンドという村で生まれ、1937年にナチ党に入党、その翌年親衛隊に入り、ユダヤ人移住中央本部でアドルフ・アイヒマンに取り入り、1939年にその推薦でベルリンのナチス国家保安本部の親衛隊保安諜報部に入り、ラインハルト・ハイドリヒの腹心となりました。ガブリエルがヴォーゲルの別荘で手に入れた指輪の内側に刻まれたハインリヒとは、ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーのことで、ラデックは、1942年ミュラーの指揮の下で、ユダヤ人の大量殺戮の証拠を隠滅するという、コードネーム〈1005〉の秘密作戦を開始します。ポーランドのウッチに1005作戦の本部を設置し、ヘウムノ、アウシュビッツなど絶滅収容所の死体を処理しました。写真は、ヘウムノ強制収容所跡地に建てられている追悼碑です。
戦後は、マンハイムの捕虜収容所に送られましたが、1946年初めに脱走し、ローマのドイツ神学校サンタ・マリア・デッラニマの主任聖職者であったアイロス・フーダルが彼の逃亡に手を貸しました。史実においても、フーダルは、トレブリンカ収容所の所長フランツ・シュタングルを含む国家社会主義者の逃亡を援助しています。ガブリエルは、若き日のラデックの写真を見て、この男を知っていると言うや否や、写真を持って足早に立ち去るのでした。
15 エルサレム
ガブリエルは、シャムロンに手配してもらった車で、テルアビブに向かい、海岸平野を通ってハデラに出て、カルメル山を越えてメギドの丘へ走りました。メギドの丘は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教における最終戦争ハルマゲドンの舞台とされる場所で、聖書ゆかりの遺丘群として国立公園となっています。
南はサマリアから北はガリラヤ(作中では「ガラリア」と誤訳されています)にかけての丘陵地帯に開けた谷間というのは、エズレル平野のことで、第1旅(第46節)にも登場したイスラエル北部の肥沃な平野。ナザレに向かう途中東に折れ、ラマト・デヴィッドに入ります。ガブリエルが少年時代に過ごした場所でした。
隣人だったツィオナに会いに北に向かいます。第1旅(第46節)にも登場しましたが、ツファットは、ガレリヤ地方にある石造りの町並みが美しい小さな町で、ユダヤ教4大聖地の一つに数えられ、ユダヤ教神秘主義カバラの中心地として知られています。多くのユダヤ人アーティスト達が移住し、個性的なアトリエ兼ギャラリーが並ぶアーティスト地区があることでも有名です。ガブリエルは、ツィオナが預かっていた母の絵の中にSS将校の軍服姿のエーリック・ラデックを見つけます。ツィオナは、母の器を壊した男に罰を与えてやりなさいと話すのでした。
翌朝、ガブリエルは、その絵を持ってヤド・ヴァシェムに戻り、リビンに見せます。母の名を告げ、彼女は1943年1月から死の行進までビルケナウ収容所にいたと話すと、リビンは、アイリーン・アロンの証言書のコピーを持ってきました。
16 アイリーン・アロンの証言書
そこには、ガブリエルの母が、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所で過ごした2年間の生活と、1945年1月、ビルケナウからの死の行進において目にしたことが語られていました。死の行進は、シレジア県のウォジスワフ・シロンスキ駅まで続き、そこから列車に乗せられ、最終的にはノイシュタット・グレーヴェの収容所に入れられ、1945年5月2日にソビエトの兵士によって解放されました。写真は、2019年6月に再建されたウォジスワフ・シロンスキ駅です。
アイリーンは、友人のレイチェルとサラを殺したあの少佐の顔を思い出さなかった日は1日たりともないと記しています。
17 ティベリアス湖、イスラエル
安息日、シャムロンからティベリアス湖畔の別荘の夕食に招かれたガブリエルは、リビンから得た情報を伝え、ラデックと1005作戦に関する資料を差し出した。そして、そのSSの少佐がラデックであることを確かめるため、まずローマに行き、フーダルの所持品を調べ、彼の逃亡ルートを利用したか辿ってみると話しました。
翌日、シャムロンが合衆国大使館にCIAテルアビブ支局長のブルース・クロフォードを訪ね、ヴォーゲルがオーストリアのアメリカ占領軍当局で働いていた当時の記録についての調査結果を聴きに行きますが、該当の資料はないということでした。それはつまり何か知っているということです。
18 ローマ
ガブリエルがローマ教皇パウロ7世の個人秘書にして今やローマカトリック教会ナンバー2の権力者ルイジ・ドナーティと落ち合ったのは、テベレ川の近く、シナゴーグから2区画東のモンテ・デ・チェンチ通りにある、1860年創業の老舗〈Ristorante・Piperno〉でした。
教皇から勧められたというフィレッティ・ディ・バッカラ(もともとはユダヤ料理だったという鱈のフリッター)を食べ、近況を交換する二人。歴史調査委員会の状況に話が及び、ガブリエルは、委員会に関連した事柄について調べに来たとして、サンタ・マリア・デッラニマのアイロス・フーダルの所持品を調べたいと切り出します。
老獪な主任聖職者セオドルス・ドレクスラーを納得させる口実を用意する必要があるとするドナーティに、歴史調査員会が要求していると言えばよいと言うガブリエル。ラデックにこだわる理由を聞いたドナーティは、デッラニマに電話を架けます。
19 ローマ
サンタ・マリア・デッラニマ教会は、ナヴォーナ広場の真西に位置し、1350年にオランダ商人によって創建され、その後ドイツ国立教会となりました。現在の建物は、1499年から1522年の間に建築家アンドレア・サンソヴィーノによって再建され、ファサードはジュリアーノ・ダ・サンガッロが仕上げました。
中央祭壇には、ジュリオ・ロマーノによって銀行家フッゲ家のために描かれた祭壇画、右側には、オランダ人で、ヨハネ・パウロ2世以前で最後の非イタリア人教皇であった、ハドリアヌス6世の壮麗な霊廟があります。
教会の隣には、パーチェ通りに面してサンタ・マリア・デッラニマ神学校があります。ドナーティは、その前庭で、セオドルス・ドレクスラーに、ガブリエルを歴史調査委員であるヘブライ大学のルーベンスタイン教授と紹介します。
素直にフーダルの所持品を見せようとしないドレクスラーに対し、ドナーティは、教皇の意向であることを伝え、地下の保管庫へ案内させます。2時間後、フーダルの記録から、エーリッヒ・ラデックがヴァチカンの難民救済委員会によりオットー・クレブス名義の身分証明書を発行され、シリアの入国ビザを取得していたことが明らかとなり、フーダルとローマ教皇に感謝を伝えるクレブス署名の手紙も見つかります。
20 ローマ
ドレクスラーは、ウィーンへ電話を架け、フーダルがあるオーストリア人の逃亡に手を貸したことを証明する証拠を狙って、歴史調査委員のルーベンスタイン教授を名乗る男が訪問したことを報告し、その男がルネ・デュランの名前でジュリア通りのホテルに滞在していると告げます。実際の〈カルディナル・ホテル・セント・ピーター〉はレオーネ・デュオン通りにあります。
21 ローマ
翌朝、ガブリエルが〈オフィス〉ローマ支局のシモン・パツナーと待ち合わせたのは、ヴェネト通りの〈カフェ・ドネイ〉でした。
それぞれ店を出ると、別々のルートでボルゲーゼ公園に入り、美術館の方に向かいました。ボルゲーゼ美術館は、前旅(第14節)にも登場しましたが、シピオーネ・ボルゲーゼによって夏の別荘として建てられたもので、ボルゲーゼ家歴代の美術品が展示されています。ガブリエルは、オットー・クレブスがシリア政府に接触していないか、本部上層部には内緒で〈オフィス〉の資料を調べるよう依頼します。
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時計職人がカプチーノを啜ったという聖アンナ門付近の小さな区画にある野外カフェというのは、〈La Caffeteria〉のことでしょうか。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが建てたコロネード(列柱)沿いを進み、教皇ピオ12世広場からポルゴ・サント・ストピリト22番地に向かいました。その番地には“宗教用品店”は実在しないようです。
9ミリ口径のグロックとバイクを手に入れると、法外な値を提示する店主をそのグロックで殺害し、バイクをジュリア通りに走らせます。そして、ホテルを出てきたガブリエルを尾け始めます。
22 ローマ
ガブリエルは、パツナ-の調査結果の確認のため、カンポ・ディ・フィオーリ広場を訪れます。「花の広場」と名付けられた広場は、ローマで最も有名な広場の一つです。中央には、1600年に異端の罪でここで火刑に処せられた哲学者ジョルダーノ・ブルーノの記念碑が立っています。
広場の噴水のある側(北西側)にある1906年創業のレストラン〈La Carbonara〉で予約の人数を確認します。言わずと知れたカルボナーラ発祥の店です。
1ブロック分南西のファルネーゼ広場に移動して、フランス大使館となっているファルネーゼ宮殿の傍らにパツナーを見つけます。広場は、教皇パウロ3世となったアレッサンドロ・ファルネーゼが枢機卿時代から宮殿とともに造成し、最後はミケランジェロが指揮しました。ジローラモ・ライナルディによる対照的な2つの噴水が置かれています。また、この宮殿は、プッチーニの歌劇『トスカ』第2幕の舞台スカルピアの公邸となっていて、前旅(第25節)で紹介しましたDVD版でも撮影に利用されています。
サンタ・マリア・デ・カルデラリ通りにある、1928年創業のレストラン〈Al Pompiere〉で、パツナーは、伝説のエージェント、エリ・コーヘンの報告書を示します。報告書から、ラデックは1963年までシリアのダマスカスにいましたが、その後アルゼンチンに移住したことがわかります。
ジュリア通りに戻ったガブリエルを、バイクに乗った時計職員が襲いますが、シャムロンから彼を見張るように指示を受けていたキアラが時計職人を銃撃して救出します。ガブリエルは、キアラと行動を共にすることになり、エルサレムに電話して、リビンから、ブエノスアイレスの協力者アルフォンソ・ラミレスを紹介され、アルゼンチン航空の便を予約します。
23 ローマ
時計職人は、パーチェ通りのデッラニマの門でバイクを停め、ドレクスラーに助けを求めました。同通りの突き当りには、第2旅(第13節)や第3旅(第19節)に登場したサンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会があります。
ウィーンの依頼主に3倍の仕事料を吹っ掛け、仕事の完遂を約束します。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部の続き、第24節からいながら旅を続けます。
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