小説をガイドブック代わりに、登場人物たちの足跡を辿りつつ、時には寄り道もして、写真や観光資料、地図データなどを基に、舞台となっている世界各地を紹介しながらバーチャルに巡礼する、【小説 de いながら旅】の第4弾。引き続きダニエル・シルヴァの作品を取り上げます。第1~3シーズンのいながら旅を引用する場合は、それぞれ第1旅、第2旅及び第3旅(又は前旅)と表記します。
この旅のガイドブック
今回の旅のガイドブックは、2004年に刊行された(日本では2005年10月)『さらば死都ウィーン』です。同作は、美術修復師であると同時にイスラエル諜報機関の元暗殺工作員のガブリエル・アロンを主人公とするシリーズの4作目(原題『A Death in Vienna』)で、”ナチス3部作”の3作目。ウィーンの親友エリ・ラヴォンの事務所が爆破された事件の真相を調査するガブリエル。ルートヴィヒ・ヴォーゲルという名の男の正体を暴こうとしますが、手掛かりとなった人物が殺され、ガブリエルも命を狙われます。遂にヴォーゲルがSS将校としてユダヤ人大量虐殺の証拠隠滅を図った1005作戦を指揮し、ガブリエルの母とも因縁があったことを突き止めたガブリエルは、ヴォーゲルに自ら罪を告白させるために誘拐作戦を実行し、イスラエルへと連行します。オーストリア(ウィーン、ザルツブルクほか)、イタリア(ヴェネツィア、ローマ)、イスラエル(エルサレム、テルアビブほか)、アルゼンチン(ブエノスアイレス、バリローチェ)、アメリカ(ヴァージニア)、チェコ(ブルノ、オストラバほか)、ポーランド(トレブリンカほか)などが登場します。
山本光伸氏が翻訳を担当した論創社からのシリーズは本書で打ち切りとなっており、本書も既に販売を終了し、新品を購入することはできません。中古品を入手するか図書館を利用することはできますが、ネット上で指摘されているとおり誤訳も多いので、このいながら旅をガイドにして、kindle版(英語版)を翻訳して読んでみてください。
第1部 コーヒーハウス・セントラルの男
1 ウィーン
いながら旅3度目の登場になりますが、エリ・ラヴォンが経営する〈戦争犯罪調査事務所〉は、人目につきにくく、ウィーンの夜の歓楽街として有名な一画で(酔いつぶれて朝まで帰ってこないことに由来してバミューダ・トライアングルと呼ばれています)、曲がりくねった小路の突き当たりに位置しているとされています(6ページ)。曲がりくねっているとは言えませんが、第2旅(第27節)で推理したとおり、シュテルンガッセにある〈Wiener Neustädter Hof〉の建物にあることを前提とします。
1月上旬の午後7時、アシスタントのレベッカとサラに頼まれて夕飯を調達するため、ラヴォンがドアを解錠して外を覗くと、2日前からラヴォンを見張っていたフェルト帽とマッキントッシュのレインコートの男が立っていました。
その男を最初に見たのが、ホロコースト記念館やゴットホルト・エフライム・レッシングの像が立っている、ユーデン・プラッツでした。こちらの広場も3度目の登場で、第2旅(第27節)で詳しく紹介しています。
ラヴォンは踵を返し、インターホン越しにアシスタントに外に出るよう叫びます。2人が出口に現れますが、その時爆発が起き、彼女たちは火だるまになって爆風で吹き飛び、ラヴォンも投げ出されてしまいます。
2 ヴェネツィア
サン・ジョヴァンニ・クリソストモ教会
マリオ・デルヴェッキオと名乗る主人公ガブリエル・アロンは、カンナレージョ地区、リアルト橋とサンティ・アポストリ広場の間にあるにある小さな教会、サン・ジョバンニ・クリソストモ教会にいました。コンスタンティノープル大司教を務め、説教者の守護聖人に奉じられた、ギリシャの四大教父の一人、ジョヴァンニ・クリソストム(又はクリュソストム)に捧げられた教会です。1080年に創建されましたが、1475年の火事で最初の建物は焼失してしまい、現在の建物は、1497年から1525年にかけてマウロ・コドゥッシとその息子によって再建されたものです。
ファサードは、コドゥッシが設計した他の教会でも見られる、曲線の冠を持つ三部構成のファサードです。また、基部の幾何学模様の装飾が特徴的な鐘楼は、1552~90年に建てられた2代目のものです。作中にテラコッタの教会と表現されていますが、この写真からわかるとおり、大部分が煉瓦のような素焼きの建材で造られているようです。
ガブリエルは、アーチに縁取られた脇玄関から、飾り鋲が打ち込まれたオークのドアを開錠して中に入りました。内部を詳しく見てみましょう(毎日7時30分~13時、15時30分~18時30分)。
教会内部は、交差する2つの身廊と半球のドームが載っているアーチを4本の柱で支える、ギリシャ十字のフォルムとなっています。
ガブリエルは、フランチェスコ・ティエポロが責任者を務めるプロジェクトにおいて、身廊右側の礼拝堂にあるジョヴァンニ・ベッリーニによる最後の祭壇画の修復にあたっていました。因みに、ティエポロに本当の名前と職業を打ち明けた(前旅第28節)のが1年前とありますが(本書17ページ)、当時ガブリエルは51歳でしたので(前旅第3節)、今は52歳になっていることになります。
この教会において最も重要な作品とされるその絵は、ヴェネツィアの商人ジョルジョ・ディレッティの遺言に基づき、同人の葬儀礼拝堂に飾るためにベッリーニが1513年に完成させた祭壇画で、イタリア・ルネサンス期に発展したサクラ・コンヴェルザツィオーネ(聖会話)のレイアウトによって、中央に隠者となった聖ヒエロニムスが岩の上で聖書を読む姿を、その左下に幼子イエスを肩に乗せた聖クリストフォロス、右下に司教杖を持ち、司教冠を被り、赤と金の錦織の法衣を纏ったトゥールーズの聖ルイが描かれています。この祭壇画にティツィアーノの手が加えられているとする美術批評家の考えを誤りとみなすガブリエルは、経年劣化した聖クリストフォロスの薔薇色の聖短衣に拡大鏡の焦点を合わせ、修復作業に没頭するのでした。
アントニオ・ポリティという名の若い修復師に割り当てられていたのは、カテリーナ・コンタリーニの依頼により、セバスティアーノ・デル・ピオンボが描いた《聖ヨハネ・クリソストモの祭壇画》。主祭壇にあり、こちらも聖会話のレイアウトで、中央に座るクリソストムとバーリのニコラスを挟んで、左側にアレクサンドリアのカタリナ、マグダラのマリア、シラクーサのルチアが、右側に洗礼者ヨハネとリベラートが描かれています。また、後陣の壁には、ザッカリア・ファキネッティによるクリソストモの遺体の翻訳とアルヴィーゼ・ダル・フリゾによるクリソストモの司教叙階など、クリソストムとキリストの生涯の一節が一連のキャンバスに描かれています。
身廊左側中央のベルナボ礼拝堂には、トゥッリオ・ロンバルドによって1502年に完成された、聖母戴冠式(拡大写真)をモチーフとした大理石のレリーフがあります。
カウンターファサードには、写真の左から、使徒アンドリュー、クリソストム、聖オヌフリウス、シチリアのアガサを描いたオルガンの扉が飾られています。これは、争いもあるようですが、ジローラモ・ダ・サンタクローチェの作とのことです。
見上げると、身廊交差部の天井には、ジュゼッペ・ディアマンティーニのフレスコ画(拡大写真)を見ることができます。
ノーヴァ通り ~ テラ運河
午後4時過ぎ、ガブリエルは、浸水警報のサイレンに促され、教会を出て、水の中を幽霊のように歩いていきました。足跡を辿ってみましょう。ノーヴァ通りは、サンティ・アポストリ広場からサンタ・フォスカ広場に至る主要道路で、始点の広場には、市内で最も古い教会の一つ、サンティ・アポストリ教会があります。47mの鐘楼はリアルト橋からも見渡せます。ノーヴァ通りを北西に進んでいったことでしょう。
少し進むと左手に、グラン・カナルまで通じる、サンタ・ソフィア広場があります。カ・サグレド・ホテル(写真右)とフォスカリ・パレス(写真左)に挟まれた細長い空間で、中央に今は利用されていない噴水又は井戸があり、河岸には、第2旅(第38節)にも登場した、グラン・カナルを渡るためのゴンドラ・トラゲット(予約不要で乗れる乗合いのゴンドラ)の乗り場(サンタ・ソフィア乗り場)があります。
また、通りの右手(広場の正面)には、鐘楼ともども通りの建物に組み込まれてしまったようなサンタ・ソフィア教会があります。
ノーヴァ通りを進んで橋を2つ渡ると、GoogleMap上ノーヴァ通りの表示に合わせてサリツァダ・サンタ・フォスカとの表示が出てきますが、サリツァダ(Salizada)というのは舗装された道という意味です。右手にサンタ・フォスカ広場が見えてきます。ヴェネツィア共和国の歴史家兼政治家であったパオロ・サルピが、共和国と対立していた当時のローマ教皇ピウス5世による刺客に襲撃されて瀕死の重傷を負った現場とされ、彼の記念碑が立っています。
広場の南東側に面して、少年殉教者サンタ・フォスカに捧げられた教会、サンタ・フォスカ教会が建っています。この教会は873年に設立されたと言われていますが、現在の建物は17~18世紀に再建され、ファサードはドメニコ・ロッシの設計によって1733~41年に追加されたものです。写真のようにサンタ・フォスカ橋辺りから見ますと、1450年再建の鐘楼を見ることができます。
続いてリオ・テラ・デ・ラ・マッダレーナを進んだことでしょう。リオ(Rio)は小運河、リオ・テラ(Rio Terra)は、既存の運河を埋め立てて整備した歩行者専用通路のことで、マッダレーナ運河は1720年に埋められています。その通りに入ってすぐ左手には、建築家トマソ・テマンザがローマのパンテオンに触発されて設計した円筒形のフォルムが特徴的な教会、サンタ・マリア・マッダレーナ教会があります。1789年に亡くなったテマンザはこの教会に埋葬されています。
ゲットー・ヌオーヴォ
本書19ページには「テラ運河」とだけ訳されていますが、原文には、リオ・テラ・サン・レオナルドに差し掛かったとあります。そこからゲットー・ヌオーヴォ方面に向かいますが、ガブリエルが通った小径は、カレゼレ又はカッレ・マゼナでしょう。そして、ゲット・ヌオーヴォ地区の運河に架けられた急場凌ぎの歩道橋というのは、背の高い建物のアパート群が立ちはだかり、そこを抜けて広場に出たとのことから、前旅(第3節)で紹介した、ゲットー・ノヴィッシモ橋のことでしょう。
辿りついた大きな広場というのは、ゲットー・ヌオヴォ広場のことです。
ガブリエルは、水浸しの通りことソトポルテゴ・デ・ゲットー・ノーヴォを進み、左に曲がって2899番地にある〈ヴェネツィアのユダヤ人コミュニティ〉を訪ねます(本書では「ヴェネツィア・ユダヤ人協会」と訳されています)。GoogleMap上のゲットー・ヌオーヴォ広場2899番地は〈レナート・マエストロ図書館〉となっていますが、広場の南角にある、前旅(第3節)紹介したスクオーラ・カントンの建物の写真には、1階の扉の上に「2899」の表示が見えますので、ここではないでしょうか。
そして、数フィート向こうにある扉の左側の近代美術館というのは、前旅(第3節)紹介したユダヤ博物館で、右側の本屋というのは、同博物館に併設されているユダヤ教専門書店のことではないでしょうか。ガブリエルがその本屋に行くと、キアラから、ウィーンで起こった爆破事件のことでアリ・シャムロンが訪ねてきていると告げられます。
3 ヴェネツィア
ガブリエルとキアラが暮らす運河沿いの家(場所の特定は本作でもできず、写真は前旅と同じ、ゲットー・ノヴィッシモの建物です)。シャムロンは、誰がどのようにラヴォンの事務所に爆弾を持ち込んだのか知りたいと言って、ガブリエルにエルサレムの戦争犯罪調査事務所のギデオン・アルゴブと名乗って、テルアビブを経由して、ウィーンに行くように頼みます。ガブリエルは、ウィーンは自分にとって禁断の土地だと渋りながらも、行くことを承諾します。会話の中で、シャムロンがあのとき(ウィーンでガブリエルの妻子が爆破テロにあったとき)から13年経過している言っている(27ページ)ことから、今は2004年ということになります。
その夜、ウィーンに行かせたくない、自分と結婚してヴェネツィアで絵の修復を続けてほしいと話すキアラに対し、ガブリエルは、ウィーンから戻り次第、リーアの入院している病院を訪ね、彼女にキアラとのことを話すと約束するのでした。
4 ウィーン
前作までは目的地に陸路で入ることが多かったですが、今回は直接空路でウィーン国際空港に向かいました。税関を通過し、タクシーで市内に向かいます。
タクシーを降りたのは、オペラハウスの近くでした。オペラハウス(ウィーン国立歌劇場)は、パリ・オペラ座,ミラノ・スカラ座と並ぶ世界三大オペラ劇場の一つ。1863年ヨーゼフ1世の命により建築を開始し、6年の歳月をかけて完成しました。1869年5月25日にモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」でこけら落とし。第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが,1955年11月5日にベーム指揮のベートーベン「フィデリオ」で再開しました。
ガブリエルは、北東方向に向かいましたが、ここでアベルティーナ広場方面に寄り道しましょう。アウグスティナー通りとテゲトホフ通りに挟まれた三角形の広場には、オーストリア反省の年である1988年(ナチス・ドイツへの併合から50周年)に、彫刻家アルフレッド・フルドリッカにより建立された(完成は1991年)、戦争とファシズムに対する記念碑が建っています。写真右側の「暴力の門」は、マウトハウゼン強制収容所の採石場で数千人の囚人によって死の階段を引きずり渡された花崗岩で作られています。左から2番目の「冥府に入るオルフェウス」は、爆撃犠牲者と命をかけて国家社会主義に抵抗した人々の犠牲の記念碑、左側の「共和国の石」は、高さ8.4mの一枚岩で、1945年4月27日の独立宣言の一部が刻まれています。この広場は、2009年に、記念碑建立を主導した当時のウィーン市長に因んで、ヘルムート・ツィルク広場と名付けられました。
広場中央に置かれている「街路を洗うユダヤ人」は、1938年3月に国家社会主義者によって親オーストリアのスローガンが書かれた街路をブラシを使って掃除するよう強制されたユダヤ人を象徴し、反ユダヤ主義の暴力を表現したものです。
ガブリエルは、ヴァイブルグガッセを歩き、ホテルに入ります。小さなホテルとのことなので、ウェブ上詳細情報がわかりませんが〈Grand Kinsky Vienna〉とかでしょうか。因みに、第2旅(第27節)では、4つ星ホテル〈カイゼリン・エリザベス・ホテル〉に宿泊しています。正面に見えるのは、フランシスコ会教会です。
恐らくシュテファンスプラッツから西駅でU6線に乗り換えミヒェルボイエルン-AKHへ。ラヴォンが入院しているウィーン総合病院は、1693年にレオポルド1世が創立した救貧院が前身で、1783年ヨーゼフ2世によって総合病院となりました。大使館のズビと集中治療室のラヴォンを見舞います。2度手術を受け、助かる見込みは五分五分。担当のナースは、かつてリーアを看病したナースでした。
Uバーン駅のエスカレーターに乗ろうとしたところで、病院のロビーで独り言をいっていた老人から声をかけられます。老人は、マックス・クラインといい、ラヴォンがあんなことになったのはすべて自分の所為だと話しました。
5 ウィーン
ガブリエルは、クラインと彼が住むビーターマイヤー様式のアパートメントに向かいます。2区でシナゴーグまで歩いて10分程の距離で(第10節93ページ)、路面電車の停留所のすぐ傍の古風な趣の漂う一画にあり、向かいの建物も同じ造りとあることから、グレードラー通り辺りと推理します。正面に見えるのは、オデオン劇場です。
クラインは、かつてアウシュビッツ収容所の音楽隊にいたことを告白し、2か月前にコーヒーハウスのセントラルで、かつてアウシュビッツでユダヤ人の命を弄んだSS将校に再会し、ヘル・ヴォーゲルと呼ばれるその男の調査をラヴォンに依頼したこと、彼から報告したいことがあるからと電話があったその日に爆破事件があったこと、その後レナーテ・ホフマンという名の女性から話があるとの留守番電話があったことを打ち明けました。向かいのアパートメントでは、男がクラインのアパートメントから出てくるガブリエルの写真を撮り、二人の会話を録音したテープを聴きかえしていました。
6 ウィーン
次の日、ガブリエルは、20区にある〈よりよきオーストリアを目指す連合会〉のオフィスにホフマンを訪ねます。2区(レオポルトシュタット)との間にまたがる場所にあるアウガルテン公園で話をします。彼女は、連邦検察局を辞めて、外部から権力機構に立ち向かっていましたが、ラヴォンの依頼でヴォーゲルという男について調査していたのです。写真は、公園内に1944~45年にナチスによって建設された、ピーターというコードネームの高射砲台の跡です。
公園南東にあるアウガルテン宮殿は、現在ウィーン少年合唱団の本拠地となっています。
その男はルートヴィヒ・ヴォーゲルといい、ドナウ渓谷貿易投資カンパニーの経営者で、記録保管所の記録が正しければクラインがいう将校ではないとのことでした。ホフマンは、調査資料をガブリエルに渡し、ニ度と電話を掛けないでと言って立ち去りました。公園傍の通りの車では、二人が別れ際に封筒を受け渡しするところを男が写真に収めていました。
7 ウィーン
1時間後、その写真が届けられたのは、リンク通りにある〈連邦憲法擁護・テロリズム対策局(BVT)〉の本部、ナンバー2のマンフレッド・クルズのオフィスでした。実際のBVT本部は、3区(ランドシュトラーセ)のレン通り89-93番地にあり、2021年に〈国家安全保障情報局(DSN)〉に改編されています。ギデオン・アルゴフと称する男の写真を見て、クルズは1991年1月に行ったガブリエル・アロンの尋問の録画テープを再生します。
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グルーパーのアンティーク時計店があるとされる、シュテファン寺院の北塔付近にある細い路地。建物を抜けて北側に通じていますが、時計店は見当たりません。
その殺し屋のもとに急ぎの修理(殺害)依頼が届きます。そのクライアントから1年前に渡されたリストの人物を次々と消してきて、残りはチューリッヒの銀行家だけが残っていますが、今回受け取った文書には新たな名前が記されていました。
8 ウィーン
ガブリエルは、〈カフェ・セントラル〉を訪ねます。1区(インネレシュタット)ヘレンガッセ14番地にある、ヒトラー、スターリンなども訪れた、1876年創業のカフェです。そこは、30年以上前(73ページでは13年と誤訳されています)、シャムロンが出した最後の試練を経て到着した場所であり、最初の暗殺のため、ローマ行きの航空券とベレッタが入った空港のロッカーの鍵を受け取った場所でした。
入口近くには、常連だったペーター・アルテンベルクの像が置かれています。5時になり、諦めかけていたとき、ヴォーゲルがやってきて、向かいの席に座りました。雑誌越しに盗み見ていると、ヴォーゲルの方から、以前にどこかで会ったことがなかったかと接触してきます。クラインのことも話題にします。
二人のやりとりを見ていたアメリカ人がいました。彼は店を出て、ポルツマンガッセにあるアメリカ合衆国大使館まで歩きました。CIA作戦司令部の副司令官カーターに宛ててアブラハムが動き出したとのメッセージを送ると、〈アブラハムを監視せよ〉との指令が返信されてきました。
午後の残りをウィーン総合病院で過ごした後、ガブリエルは、ホテルの自室でヴォーゲルの顔をスケッチします。若い頃の顔を想像して2枚目を描き、3枚目は若い頃の顔にSSの軍服の立襟と軍帽を付け加えました。完成するや全身を激しい衝撃が貫いたのでした。
9 ウィーン
ケルントナー通り
翌朝、ガブリエルは、ケルントナー通りのデパートでスキーウェア等を買います。モーツァルトが1791年12月5日亡くなったときに住んでいた家があった場所に建っているデパート〈シュテフル〉のことでしょう。裏口の柱に、その家が1849年まであったとの銘板があります。
シルバーのオペル・ステーションワゴンをレンタルし、高速道路で西に向かい、リンツを経由して、ザルツブルクまで走ります。
ザルツブルク
ザルツブルクに着くと、旧市街の通りや広場を歩き回って午後を過ごしました。ザルツブルクは、「塩の城」という名が示すとおり,紀元前から岩塩の交易によって繁栄しました。8世紀からカトリック教会の大司教が治める大司教区として、ハプスブルク家が支配するウィーンの影響を受けることなく独自の文化が守られてきました。モーツァルトの生誕地としても有名で,夏にはザルツブルク音楽祭が開催されます。
街の真ん中をザルツァッハ川が流れ、その左岸がツェントラルと呼ばれる旧市街で、教会や歴史的建造物が数多く建てられ,1996年に旧市街と歴史的建造物が「ザルツブルク市街の歴史地区」として世界遺産に登録されています。ガブリエルと同じように、旧市街を探索してみましょう。
旧市街のメインストリートは、ザルツァッハ川と平行に走る約320mのゲトライデガッセ。土産屋やレストラン、カフェが建ち並び、軒先には手の込んだ美しい鉄細工の看板が設置されています。
ゲトライデガッセ9番地には、1756年1月27日にモーツァルトが生まれた家があります。一家は1743年から1773年までこの建物の3階に住んでいました。現在は博物館になっています。
ゲトライデガッセを東に抜けたところがアルター・マルクト(旧市場広場)。中央には、消防の守護聖人聖フロリアンを戴くフロリアーニの噴水があり、南西角(写真左)には、1700年創業で、オーストリアで現在も営業している最古のコーヒーハウス〈カフェ・トマセリ〉、広場を挟んだ向かいには、オリジナルのモーツァルト・クーゲルで有名な〈フュルスト〉があります。
アルター・マルクトの南東に接続し、大聖堂とレジデンツ、グロッケンシュピールに囲まれた一画がレジデンツ広場。中央には、1656~61年に設置された,中央ヨーロッパ最大のバロック様式の噴水、トリトンを戴くアトラス神の噴水があります。
レジデンツ広場の北東に接続し、中央に1842年に設置されたモーツァルトの記念像がある、モーツァルト広場
旧市街の中心にあるのが、モーツァルトが洗礼を受けたザルツブルク大聖堂。最初の聖堂は774年に創建。度々焼失し、1628年にサンティーノ・ソラーリオによってバロック様式で建て直されました。ザルツブルク音楽祭は、大聖堂前の広場を舞台に、戯曲『イェーダーマン』が上演されて開幕します。
奥行100mの身廊。ドーム天井の高さは71m。主祭壇画は、イエスの復活を主題とするドナート・マスカーニの作です。大聖堂には全部で7つのオルガンがあり,中にはモーツァルトが演奏したものもあるようです。6000本ものパイプを有する主オルガンは、ヨーロッパ最大のものです。
大聖堂の南にあるのが、カピテル広場。馬の水飲み場とネプチューンの噴水があり,南の丘の上にホーエンザルグブルク城を望むことができます。
ガブリエルが上ったメンヒスベルクの丘に至る急な階段というのは、旧市街の南東、ノンベルク修道院へ向かうノンベルクシュティーゲのことでしょう。
ザルツブルクの街を見渡した教会の尖塔というのは、ザルツブルク最初の司教の聖ルパートによって712~15年に創建されたドイツ語圏最古の尼僧院で、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の主人公マリア・トラップが過ごした修道院としても有名なノンベルク修道院の鐘楼のことではないでしょうか。
修道院自体は一般公開されていませんが、付属教会には自由に入ることができます(曜日限定)。
丘の上にそびえ立つランドマーク、ホーエンザルツブルク城にも足を延ばしてみましょう(営業時間はこちら、入場料はこちらを参照してください)。写真は、城の展望台から撮影したものですが、ガブリエルが教会の尖塔から見渡したザルツブルクの眺望も、ほぼこんな感じではなかったでしょうか。
ホーエンザルツブルク城の建設は、叙任権闘争によりローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が対立する中、防衛のための要塞として、教皇派の大司教ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタインによって始められましたが、彼はザルツブルクから追放され、建設は皇帝によって任命された対立司教の下で完成し、15世紀末にコイチャッハ大司教の時代に現在の形になりました。
場内は博物館になっており、チケットの種類に応じて見学の範囲が分かれています。写真は、「黄金の間」と呼ばれる応接の間で、彩色と金箔を施した葉の巻きひげの彫刻による豪華な装飾が特徴的。部屋の隅には、高さ約4mのカラフルなタイル張りのストーブが置かれています。
こちらは、大聖堂の南西、城砦へのケーブルからもすぐのところ、同じく聖ルパートによって696年に創建されたドイツ語圏最古の男子修道院のザンクト・ペーター修道院です。
中を見てみましょう(月~金8時~12時、12時30分~18時30分)。身廊の天井は、聖ペテロの生涯を描いたフレスコ画で飾られています。
フランシスコ会教会との間のフランツィスカナーガッセのアーチをくぐって西に抜けます。
ザルツブルク音楽祭の主会場で、クレメンス・ホルツマイスターの設計により1960年に完成した祝祭大劇場。写真は、2013年に訪れたときのもので、その年の音楽祭は生誕200年となるワーグナーとヴェルディがテーマでした。
祝祭大劇場前の通りを北西に抜けたところが、カラヤン広場とも呼ばれる、馬の水飲み場。元々は大司教の厩にあった馬の水飲み場で,1732年に現在の姿となりました。池の中央にはベルンハルト・マイケル・マンドルによる馬の調教師の像が置かれ,壁には美しい馬のフレスコ画が並んでいます。
ガブリエルが大学広場を横切って眺めたというフィッシャー・フォン・エルラッハのバロック様式の建造物というのは、1707年に奉献されたザルツブルク大学付属教会のことでしょう。モーツァルトのミサ・ブレヴィスニ短調(K.65)は、この教会によって委託され、1769年2月4日に初演されています。
チロル風のラビオリを食べた、暗い色調の壁に鹿の角が飾られている古風なレストランというのは、〈Zipfer Bierhaus〉というレストランでしょうか。
ザルツカンマングート
8時になり、再び車を走らせ、南のザルツカンマングートの中心部に向かいました。フシュル湖の南岸を抜け、ヴォルフガング湖に差し掛かると、湖の対岸に広がるのは、ザンクト・ヴォルフガング・イム・ザルツカンマーグートの街です。
対岸からでも見て取れたという尖塔がひときわ目立つ巡礼教会。湖の北東岸にヴォルフガング・フォン・レーゲンスブルクによって976年に創設されたものです。
ゴシック様式の見事な祭壇画というのは、高さ10.88m、幅6.6mのミヒャエル・パッヘルによる祭壇のことです。聖母戴冠式を主祭壇とする五連祭壇となっています。
ヴォーゲルの別荘へ向かう途中のツィヒェンバッハ(Zichenbach)という村は見当たらず、写真はツィンケンバッハという通りです。ガブリエルは、別荘に忍び込み、書簡や留守録テープをポケットに入れたり、電話のリダイヤルボタンを押したりして探索します。
「エーリッヒへ、愛を込めてモニカより」と刻まれた腕時計、「1005、よくやった、ハインリヒより」と彫られた指輪、ヴォーゲルが女と十代の少年と写っている写真などを手に入れます。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第1部の続き、第10節からいながら旅を続けます。
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