『告解』をガイドブックとしたいながら旅も、この投稿が最終回です。第3部の続き、第21節から旅を続けます。
第3部 ローマのペンシオーネ (続き)
21 ティベリア、イスラエル
シャムロンは、ガブリエルとキアラが姿を消したという緊急連絡をティベリアの自宅で受けます。ティベリアは、前々旅(第3節)にも登場しましたが、ガリラヤ湖の西岸に位置するイスラエルの都市で、紀元19年に時のローマ皇帝ティベリウスに敬意を表して,ヘロデ王の息子ヘロデ・アンティパスによって建設された、ユダヤ教4聖地の一つです。
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シャムロンは、テルアビブの北部に位置するキング・サウル通り(Sderot Sha’ul HaMelech)を訪ね、名ばかりの執務室で、ピーター・マローンの家の前で撮られた暗殺者の写真を眺め、調査部からレパードに関するファイルを取り寄せます。前々旅(第3節)に紹介したとおり、現在〈オフィス〉本部はここからよそへ移っています。
ファイルにあった写真の一枚とロンドンから送られた写真を見くらべ、同じ男だと気付きます。
22 地中海
明け方、コルシカ島の北に突き出したコルス岬の岩が姿を見せると、ガブリエルらは、島の突端を回り込み、ニースに向かうフェリーに付いて北西に向かいました。この辺りにはジェノバ共和国が1530年から1620年にかけてバーバリ海賊の攻撃に対抗するために建設した塔が多くみられます。写真右手前がフィノッキアローラの塔、左側がアグネルの塔、中央がジラリアの塔です。
カンヌの海岸線に沿って約2km続くプロムナード、ラ・クロアゼット沿いの白いホテルとアパートメントの列が見えてきます。
二人は旧港でヨットを停めました。東側には、カンヌ国際映画祭が開催されるパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレがあります。キアラがアンティーブ通りで車をレンタルします。
普通の服を買いに、カンヌの海岸地区と内陸部を結ぶ主要道路のカルノー通りを北に向かいます。幅26m、長さ2.6kmの大通りで、1894年リヨンで暗殺されたサディ・カルノー大統領に因んで名付けられました。
作中には大きな環状交差路に出たとありますが、グラース方面の4車線のハイウェイはその手前を左に向かうのではないかと思います。オリーブとユーカリの木に囲まれた道を走り、ヴァルボンヌの町に着きます。前々旅(第16節)にも登場しましたが、ローマ時代の都市計画に基づいて作られた碁盤目に区切られた街並みが見どころです。
そこから北のオピオの町を経由して、ル・ルレに着きます。そこでレジーナ・カルカッシの娘アントラネッラ・フーベルに会うことができます。
アントラネッラから、修道院で起きたことを告白するレジーナの手紙を見せられ、ベンジャミン・スターンはその写しを受け取ったから殺されたのだと聞かされます。手紙には、1943年3月のある夜、聖心修道院で、ヴァチカン側から国務省のセバスチアーノ・ロレンズィ司教とフェリチ神父、マンズィニ神父、ドイツ側から外務省のマルティン・ルター長官と補佐官が集まり、司教らクルックス・ヴェラのメンバーがナチスのユダヤ人狩りを支持し、教皇がこの問題に対して何も言わないことを約束したと書かれていました。
23 ル・ルレ、プロヴァンス
アントラネッラから手紙を預かり、グラースを目指して西に向かいました。世界的にも有名な香水の街で、どこからともなく良い香りが漂ってくるといいます。ダークグレーのフィアットに尾けられていることがわかり、丘を下って古い町の中心に入っていったとありますが、車でグラースの旧市街には入れません。
運転をキアラに交代して、サン・セゼールに向かい、スピードを上げて尾行する車を揺さぶります。正式名は、サン・セゼール・シュル・シアーニュといい、村から2kmのところに、作中にあるように洞窟と洞穴で知られる広大な自然公園があります。1920年にはルイ・メルカントン監督の映画『フロソ(Phroso)』の一部が撮影されています。
ガブリエルは、キアラに走り続けさせ、自らは車を降りてベレッタを構え、フィアットがカーブにさしかかった瞬間、タイヤめがけて何発か撃ち込みます。横転して大破したフィアットに近づき、ドライバーの男に誰の指令で追ってきたかを尋ね、それがカルロ・カサグランデであることがわかったとき、男の携帯が鳴ります。かけてきたカサグランデに、ガブリエルは、修道院で何が起きたかも、クルックス・ヴェラのことも、誰が友人を殺したかも知っており、次はお前を殺す番だと話すのでした。
24 サン・セゼール、プロヴァンス
追ってきた男がヴァチカン治安警察の警官だとわかり、ガブリエルは、できるだけ早くプロヴァンスを離れるため、キアラにエクサン・プロヴァンスに向かうよう指示します。画家ポール・セザンヌの出身地で、彼の出生、臨終の家、墓所とアトリエが現存します。写真は、セザンヌが絵に多く描いている、市の南東部に位置するサント・ヴィクトワール山
写真は、市中心部にあるロタンダの噴水とそれを見つめるように立つセザンヌ像。修道院で何があったか、ベンジャミンを誰が殺害したかを知った今、家に帰って身を潜めるべきと言うキアラに、ガブリエルは、ホロコーストに教会が関わっていたという本を書く以上、ベンジャミンはレッジーナの手紙以外にも何か見つけていたはずだと言って、それを見つけ出すためもう一度ミュンヘンのアパートメントを目指します。
途中、給油と買い物のためメミンゲンという町に立ち寄ります。1525年ドイツ農民戦争のシュヴァーベン地方での発端となった町で、写真は、中心部北側にある市庁舎。聖マルティン教会の牧師クリストフ・シャペラーが全ての農民の基本にして正当な主要箇条をまとめた「12か条」を発表し、多くの農民がそのもとに集まり農民戦争へとなりました。この「12か条」がヨーロッパ最初の人権宣言と言われています。
メミンゲンを訪れるのであれば見ておきたいのが、そこから南東にバスで約20分の小さな村にあるオットーボイレン修道院。764年に設立されたベネディクト会の修道院。高さ82mのツインタワーが特徴的なドイツ・バロック様式の付属教会は、1733~66年にヨハン・ミヒャエル・フィッシャーによって建てられ、1926年に教皇ビウス11世により小バシリカに格付けられています。
中にも入ってみましょう。聖アレクサンダーと聖テオドールに捧げられた教会の身廊は、ロココ調の装飾が荘厳で華麗です。
このバシリカには、世界でも珍しい3セットのオルガンが設置されています。マリアのオルガンと呼ばれる、礼拝堂の後ろ側にある主オルガンは、1975年のシュタインマイヤー社製
主祭壇の左右に配置された聖歌隊オルガンは、オルガン製作者のカール・ヨーゼフ・リエップが1766年に制作したもので、右側が三位一体オルガン、左側(写真)が聖霊オルガンと呼ばれます。
修道院の旧図書館の壮麗で美しいスタッコは、世界遺産ヴィース教会のフレスコ画を手掛けたヨハン・バプティスト・ツィマーマンが仕上げています。
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ミュンヘンに着くと、キアラの手配により、〈ミュンヘン・ユダヤ人コミュニティ・センター〉に入ります。作中にはライヒェンバッハ広場の近くとありますが、実際のセンターは、聖ヤコブ広場にあります。シャムロンが待つウィーンのラヴォンの事務所にシスター・レッジーナの手紙をファクシミリで送ります。
ベンジャミンのアパートメントでは、ドアの内側からレッジーナの手紙の写ししか見つけられませんでした。ところが、そこに大家のラッツィンガー夫人が現れ、ベンジャミンから預かった封筒を渡してくれます。
第4部 河岸のシナゴーグ
25 ヴァチカン
『ラ・レプブリカ』のヴァチカン担当記者ベネディット・フォアは、サン・ピエトロ広場の入口近く、1階に記念品ショップがある4階建ての建物に、ヴァチカン広報室(Sala stampa della Santa Sede)を訪ね、プレスリリースから、教皇が広報室にも理由を明らかにせずシナゴーグを訪問することを知ります。ピオ12世広場の北側に面する、コンチリアツィオーネ通り54番地のローマ教皇庁報道局のことです。
不意打ちを喰らわされたことに怒り、コンチリアツィオーネ通りをテヴェレ川へと向かいます。作中「悔悛の道」と呼ばれるこの通りは、1936年から1950年の間に建設され、サン・ピエトロ広場とサンタンジェロ城との間の約500mを結んでいます。
サンタンジェロ城の城壁の外にある広場から、教皇庁にいるルイジ・ドナーティに電話をかけ、ご褒美をくれるというから教皇の子供時代をあげつらう記事を書いたのに、教皇がシナゴーグが行くことを予告してくれなかったと文句を言います。サンタンジェロ城は、139年にハドリアヌス帝の霊廟として完成し、その後,アウレリアヌスの城壁の一部に組み入れられ,14世紀には要塞として改築されました。牢獄としても使用され、プッチーニの歌劇『トスカ』第3幕の舞台となっています。ジャンフランコ・デ・ポジオ演出、ブルーノ・バルトレッティ指揮(ニュー・フィルハーモニー管弦楽団)、トスカ役ライナ・カバイヴァンスカ、カヴァラドッシ役プラシド・ドミンゴによるDVD版は、実際にこの城で撮影されています。
ミケーレ・メルカティ通り14番地にある在ローマ・イスラエル大使館においても、教皇のシナゴーグ訪問の件に驚き、大使がシャムロンと話すべくテルアビブに電話するのでした。
その頃、カサグランデは、諜報員がベネディット・フォアのアパートメントに不法侵入して調査した教皇の子供時代についての報告書を携え、ヴィラ・ガラティナを目指していました。報告書を読んだブリンディシ枢機卿は、教会とクルックス・ヴェラのため、教皇の暗殺を提案します。カサグランデは異を唱えますが、枢機卿は誰の側に立つのかと言って恭順を迫ります。枢機卿が先に退出すると、ロベルト・プッチは、教皇を殺そうなどと考えるのは狂った人間だけだと言い、カサグランデにどうするつもりか尋ねますが、カサグランデは、暗殺者を雇いにチューリッヒに行くとだけ答えるのでした。
26 ウィーン
ガブリエルは、エリ・ラヴォンのオフィスに到着すると、ラヴォンの非難をよそに、ミュンヘンでラッツィンガー夫人から渡された封筒をテーブルに置きます。中身は、ドイツ外務次官マルティン・ルターからナチス親衛隊のアドルフ・アイヒマンに宛てた、聖心修道院におけるロレンズィ司教との会談の結果とユダヤ人問題に関する教皇庁の方針を報告する文書でした。写真は、第12節で記述した、前旅(第27節)にある「階段の上の飾り釘のついた重厚な扉の建物」を階段下から見上げたところです。階段の左側のブロックは、1962年にシュテルンガッセ5番地にあった建物(ベルクホフ)が取り壊されたときに発見された、古代ローマ軍の駐屯地ヴィンドボナ(ウィーンの起源とされています)の浴場にあった巨大なブロックであるとのことです。
シャムロンは、ピーター・マローンを殺害したのが暗殺者兼テロリストのレパードで、ベンジャミンの殺害にも雇われたのではないかと話します。そして、クルックス・ヴェラは、次はガブリエルの死を望んでおり、レパードがガブリエルを探すために、アブ・ジハード殺害の件で彼に恨みを抱くパレスチナ解放運動に関わる者たちとの関係を復活させた可能性があるとの考えを示します。一方、ガブリエルは、教皇にその命が危険にさらされていることを伝える必要があるとして、教皇に会わせてくれる人物に会うためヴェネツィアに戻ると話します。
27 チューリッヒ
カサグランデが暗殺を依頼するために訪れたのは、前回と同じ〈ホテル・ザンクトゴッタード〉でした。
28 ヴェネツィア
マリオ・デルヴェッキオの友人だと言って、キアラが訪ねたのは、サン・ザッカリア教会、ベッリーニの修復を他の職人に任せざるを得ないと思い始めていたティエポロのところでした。「ヴァチカンにいるあなたの友人が危険だ。彼の命を救うため、あなたの助けが必要だ」というマリオ(ガブリエル)の書きつけを渡し、一緒に来るようにと連れ出します。
キアラがティエポロを案内したのは、ガブリエルが待つゲットー・ヌオヴォ広場でした。教皇の命を救うための協力を取り付けるため、ガブリエルは、本名と身分を明かし、これまでの経緯を説明します。
ティエポロが教皇の個人秘書ルイジ・ドナーティに電話をかけ、金曜日までに教皇に会う必要があると伝えると、ドナーティは、来客応対中の教皇に耳打ちして了承を得て、面会できることになります。
29 ローマ
ティエポロを伴ってガブリエルらがシャムロンらと会ったのは、ローマの北、テヴェレ川が緩やかに蛇行する辺りの広場近くのアパートメント。ひびの入った鐘楼のある古い教会や構内にコーヒーショップとパン屋があるバスの発着場を手掛かりにGoogleMapを探索しましたが、それらしい場所は見当たりません。
ティエポロは、隠れ家の前から黒のフィアットに乗り込み、15分後、サン・ピエトロ広場の入口で降りました。教皇アレクサンデル7世の命により,ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計して1667年に完成した長径240mの広場です。
広場中央のオベリスクは,37年に第3代ローマ皇帝カリグラがエジプトからこの近くにあった競技場に運ばせたもので,教皇シクストゥス5世によって1586年にここへ移設されました。高さはオベリスクだけで25.37m,地上から十字架の頂点までを含めると41.23mあります。こちらのサイトも参照してください。
オベリスクの周りには、東西南北それぞれに風神(アネモイ)のレリーフがあり、西の風神のレリーフ(ウエスト・ポネンテ)は、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』において、「空気を表す科学の祭壇」として第2の凶行現場となったことで、コンテンツツーリズム(巡礼)の聖地となりました。ただ、『天使と悪魔』では,これもベルニーニの作とされましたが,ダン・バーンスタイン&アーン・デ・カイザー編集の『天使と悪魔の「真実」』(110ページ)によれば、実際は,1818年にフィリッポ・ルイジ・ジリイという天文学者によってオベリスクを日時計として活用しようと設置されたもののようです。
ドーリア式の円柱が4列に284本と88本の付柱が支える回廊。回廊の上には,140体の聖人像が並んでいます。ベルニーニ・ポイントと呼ばれる〈centro del colonnato〉と記された地点に立つと、写真のように4列の円柱が重なり合って見えます。こちら側の回廊前の噴水は、ベルニーニによって1677年に加えられたものです。
広場東側にあるのが、カトリック教会の総本山サン・ピエトロ大聖堂です。現在の聖堂は2代目にあたり、1506年に着工し、1626年に完成しました。高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積49,737㎡の世界最大級の教会堂建築です。内部に入るのはまたの機会にしましょう。
ティエポロは、柱廊を歩き、アポストリック・パレスの正面玄関のポルトーネ・ディ・ブロンゾ(青銅の扉)に向かいます。教皇パウロ5世の名前が刻まれた大きな青銅の扉の上には、聖ペテロと聖パウロが並ぶ聖母子のモザイクがあります。
スイス衛兵に身分証明書を提示して宮殿に入ったティエポロを、ドナーティ神父がスカラ・レジアの下で待っていました。アントニオ・ダ・サンガッロによって建設されたものを、ベルニーニが1663~6年に改修したもので、アーチの上に教皇アレクサンデル7世の紋章が飾られ、右側にコンスタンティヌス大帝の騎馬像が置かれています。階段を上って、教皇の住まいに案内されたティエポロは、何が起こっているか話しました。
30 ローマ
ランゲは、カサグランデから指定された、テルミニ駅が500m程先に見えるアパートメントの殺風景な部屋で、スチェッキンのピストル、消音器、9ミリ弾のマガジン、バイクの鍵、そして、ヴァチカン治安警察の身分証を手に入れます。写真は、駅の東側正面が見通せるマルゲラ通り
ブルターニュ人らしい赤い髪の毛の女がひとり、開いた窓を見上げ、ランゲに気付くと笑みを向け、道を渡りました。
31 ローマ
隠れ家では、シャムロンの指示により、ガブリエルが情報の入手先や入手方法も含めすべてを年代順に説明し、ドナーティ神父はメモを取って確認しながら、教皇はひと言も発せずに聞いていました。シスター・レジーナの手紙とマルティン・ルターの覚書を読み聞かされた教皇は、一つの点を除き正確だと言って、シスター・レジーナの膝の上にいた少年が自分であったことを明かし、浮浪児であった少年時代のことを話しました。写真は、 ローマの北、テヴェレ川にかかる重要な橋の一つ、ミルヴォ橋です。
明日、シナゴーグで、カトリック教会がホロコーストに対して沈黙を守ったことに対して初めて向き合うと言い、クルックス・ヴェラの存在を肯定し、カサグランデとプリンディシ枢機卿がメンバーであると知りながら訪問を延期しない教皇に対し、シャムロンは、ガブリエルの同行を求めます。
32 ローマ
ランゲが神父の服に身を包み、ヴァチカン治安警察特別捜査部のマンフレッド・ベックになりすましている頃、ガブリエルは、隠れ家を出て、ドナーティ神父の運転する車でシナゴーグに向かい、内部を視察します。ローマにユダヤ人ゲットーが設立されたのは、1555年教皇パウロ 4 世のとき。グレート・シナゴーグは、1901~04年にペルシアとバビロニアの折衷様式のデザインで建設された、遠くからでも見える四角いパビリオンドームが特徴の大きな建築物です。
1階がギリシャ十字の形をしたシナゴーグは、両側にギャラリーがあり、地下階がユダヤ博物館とスペイン礼拝堂となっています。
その後、サンタンナ門を抜けてアポストリック・パレスに向かい、サン・ダマソの中庭で車を降り、教皇の住まいへと上がっていきました。
33 ヴァチカン
ガブリエルは、教皇の住まいの外の回廊で、彼を教皇の暗殺者とみなす、カール・ブルナー率いるスイス衛兵特務隊に組み伏せられますが、教皇のとりなしで解放されます。写真は、教皇公邸にあるラファエロのロッジアで、見張りのスイス衛兵が立哨しています。
ドナーティ神父と共に教皇の車に同乗し、コンチリアツィオーネ通りからルンゴテヴェレ通りと進み、シナゴーグに到着します。そして、抗議活動家が飛び出してくることがあったものの、教皇は無事堂内に入ります。
その頃、ランゲは、カサグランデが用意したベック神父の身分証明書を使って、青銅の扉からアポストリック・パレスに入り、ドナーティ神父の執務室に封筒を置きます。
ブリンディシ枢機卿のオフィスでは、テレビのRaiチャンネルが教皇パウロ7世がグレート・シナゴーグに入っていく場面を伝えていました。ブリンディシは、別の場面を頭に浮かべ、教皇暗殺のニュースを待つのでした。
34 ローマ
シナゴーグでは、教皇パウロ7世がホロコーストに対するカトリック教徒の罪を認め、赦しを請うスピーチを行いました。歴史上、初めてシナゴーグを訪問した教皇は、作中にも登場するヨハネ・パウロ2世で、1986年4月13日のこと。その後、2010年1月17日にベネディクト16世教皇が、2016年1月17日にフランシスコ教皇が訪れています。
クルックス・ヴェラが教皇暗殺を狙っていなかったと安堵したとき、ブルナーにヴァチカンへの浸入者の知らせが入ります。ガブリエルは、ドナーティ神父とともにカラビニエリのバイクでルンゴテヴェレ通りを北上するのでした。
教皇の住まいを出たランゲは、1階下の国務省の執務室に向かい、教皇のスピーチを伝えるテレビに憤慨しているブリンディシ枢機卿を殺害します。
35 ヴァチカン
3分でサン・ピエトロ広場に到着すると、カラビニエリにバリケードを開けさせて、バイクで広場に入ります。ドナーティ神父は宮殿を一気に駆け上がり、ガブリエルも後を追います。ブリンディシ枢機卿の部屋では、マスコーネ神父と枢機卿が遺体となっていました。
ランゲは、スイス衛兵を射殺して青銅の扉を抜け、柱廊の外れで待っていたカトリーヌとともにバイクで逃走。ガブリエルは、再びバイクにまたがり、ボルゴ・サント・スプリトを追走します。正面に見えるのは、サント・スピリト・イン・サッシア教会で、現在のファサードは、教皇シクストゥス5世のとき、1585~90年にオッタヴィオ・マスケリーノによって追加されたものです。
100m走ったところで右に曲がり、市場にぶちつかって再び右に折れ、環状交差路のところでランゲの姿を捉えます。
丘の尾根伝いに上り坂を進み、ガリバルディ広場に至ります。広場中央のジュゼッペ・ガリバルディの記念碑は、1849年のローマ大学の戦いにおける彼の功績を称えるとともに、命を落とした義勇兵たちを祀ったもの
広場からトラステヴェレへ続く丘を下る急なジグザグ道とヘアピンカーブが連続する小径(ガリバルディ通りのことだと思います)を追いかけます。途中のカーブでは、トレヴィの泉やフェリーチェ水道の泉とともにローマ3大噴水の一つで、1612年に教皇パオロ5世によって修復されたトライアナ水道橋の終点を示すために建設された、パオラの泉の前を通過したことでしょう。
同じくガリバルディ通り沿いには、イタリア統一運動の中ガリバルディに率いられて1849年から1870年までのローマの首都をめぐる戦いで戦死した者の納骨堂、ガリバルディ軍の霊廟があります。
そして、通りの向かいにあるのが、聖ペテロが磔にされたと言われている場所に建っているサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会です。
この教会の中庭には、ドナート・ブラマンテが建てた小さなマルティリウムで、盛期ルネサンス建築の最高傑作と言われる、テンピエットがあります。
トラステヴェレの道に至る直前、ガブリエルの発した銃弾がカトリーヌを捉えます。ところが、ランゲがカトリーヌを振り落としたため、その体を避けることができず、ガブリエルは転倒してしまいます。頭を歩道にぶつけ、路上を滑り、女の体にぶつかって止まりました。ランゲは、教会の尖塔の中に紛れ込んでいきました。写真は、モントリオ教会前のサン・ピエトロ広場からトラステヴェレ方面の眺めです。
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その頃、カサグランデは、サン・ピエトロ広場の柱廊を抜け、サンタナ門に向かい、サンタナ・デイ・パラフレニエリ教会の前で止まりました。
枢機卿を殺すことで教皇の命と教会を守りましたが、誰もその事を信じてくれないだろうと自暴自棄になり、一人身廊で祈ります。
そして、銃を咥えて引鉄を引き、自殺してしまいます
第5部 ヴェネツィアの教会
36 ローマ
ガブリエルは、ジェメッリ・クリニック11階にある、ローマ教皇のための特別室のベッドの上で昏睡状態にありました。正式の名はアゴスティーノ・ジェメッリ大学総合病院といい、1981年には襲撃を受けて負傷した教皇ヨハネ・パウロ2世がこの病院で緊急手術を受けており、正面玄関前には彼の像が立っています。現教皇フランシスコも度々ここで治療を受けています。
キアラとシャムロンが付き添い、教皇が見舞う中、ガブリエルは、1週間後に目を覚まします。
37 ヴェネツィア
1か月後、ガブリエルとキアラは、ヴェネツィアに帰り、大運河の北に位置するカンナレージョ地区の4階建てで小型ボート用船着場のある運河沿いの家に落ち着きました。二人の住まいについては、特定するための情報が少なく、シリーズ次々作『Prince of Fire』で引き払ってしまいます。写真は、ゲットー・ノヴィッシモに位置する、運河に面したボートの出入口付きの建物
毎晩、ゲットー・ヌオーヴォまで歩き、夜の風が優しい広場を歩き、〈安息の家〉で立ち止まっては老人たちを窓から見つめました。
5月の終わりに近づき、ガブリエルは修復作業に復帰します。サン・ザッカリアの予定通りの再開を譲らない監督者を、教皇がデルヴェッキオによるベッリーニ修復を希望すると伝え、動かしたおかげです。ベッリーニの作品について時間をかけて学んだガブリエルは、自信を持って長時間働きました。
38 ヴァチカン
次の日の夜8時、青銅の扉を訪ねたガブリエルをドナーティ神父が出迎え、ヴァチカン庭園に案内します。待っていた教皇は、ガブリエルに見せたいものがあると言って、石の階段を上り、壁の上の欄干に達しました。目の前にはローマの街が広がり、古いゲットーの入口にあるシナゴーグが見えます。因みに、写真奥にライトアップされているのは、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂です。
教皇は、ドナーティ神父が、教皇が地位を失うことにならないように聖心修道院の秘密を明らかにし、教会を浄化するため、シスター・レジーナの手紙と、ロシア外交情報部(RFIS)から入手したマルティン・ルターの覚書を、ベンジャミンに渡し、その結果クルックス・ヴェラによって彼が殺されたことに責任を感じていると告白します。そして、ベンジャミンの死に激怒したドナーティ神父がベネディット・フォアに教皇の子供時代について質問させ、クルックス・ヴェラがやみくもな行動に出たところを叩いて自滅に追いやろうとしたことも明かし、ガブリエルに赦しを求めました。
ドナーティ神父が青銅の扉の前でガブリエルにランゲが残した封筒を渡します。人気のないサン・ピエトロ広場を歩いていくうちにバジリカの鐘が9時を告げます。サンタンナ門の近くで待っていた車に乗り込み、封筒を開けると、中には「教皇殿。これは、あなたのものだったかもしれません」と書いたメモのコピーと9ミリの弾丸が入っていました。
39 グリンデルヴァルト、スイス 5か月後
クライネ・シャイデックからは、左から、アイガー(3970m)、メンヒ(4107m)、ユングフラウ(4158m)の三山を見渡すことができます。右方には、シルバーホルン(3695m)も見えます。
11月、エリック・ランゲは、リフトを降りると、綿毛のような粉雪が残るクライネ・シャイデックからのスロープを優雅に滑り降りました。
麓の道をそれ、木々の間を抜け、グリンデルヴァルトを望む谷を見下ろす山小屋に着きます。写真左の街がグリンデルヴァルトで、奥から、ヴェッターホルン(3692m)、メッテンベルク(3104m)。新雪を踏む足音が聞こえ、振り返ると、男がベレッタを構えて近づいてくるのが見えます。あのイスラエル人に間違いないと、ランゲがスチェッキンを握って引鉄を引こうとしたまさにそのとき、ガブリエルが発した1発がランゲの心臓を撃ち抜きます。ランゲが最後に見たのは、サングラスを上げて彼を見る鮮やかな緑の目でした。
谷を下ると、岩の並ぶ小川(リュチーネ川でしょう)の岸に車が待っていました。向こうに見えるのは、アイガーの北壁。キアラが助手席のドアを押し開け、ガブリエルは座席に体を入れました。
目を閉じて心の中でつぶやきました。ベニ、君のためだ(復讐は果たした)。
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第3シーズンのいながら旅は、以上で完結です。次の旅を楽しみにしてお待ちください。
作中、ローマ教皇パウロ7世は、第二次世界大戦中のヴァチカンの役割と教会の反ユダヤ主義の長い歴史を再検討するため、歴史学者と専門家から成る調査委員会を発足させ、5年をかけてヴァチカン秘密文書保管所に納められた無数の文書を調査させましたが、実際、教皇フランシスコも、「教会は歴史を恐れてはならない」として、2020年3月に秘密文書館に保管されている第2次世界大戦時(1939~58年)の書簡や電信、演説の原稿など数10万点を公開しました。
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