第2部からいながら旅を続けます。
第2部 湖畔の修道院
8 ガルダ湖、イタリア
ガブリエルが次に訪れたのは、ベンジャミンの眼鏡を送ってくれたジャンコモというコンシェルジュがいるグランド・ホテル。ガルダ湖畔のブレンゾーネの町には、そういう名前のホテルは実在しません。町の外れにあるサフラン色の建物ということであれば、1911年創業の4つ星ホテル〈Lake Front Hotel Brenzone〉あたりがモデルでしょうか。
また、マザー・ヴィンチェンツァが院長を務める聖心修道院という女子修道院も実在しません。湖岸に突き出した岬にある教会としては、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会があります。マザーに地下墓地のような場所を見せられ、ベンジャミンが戦争中教会に逃れたユダヤ人に関する本を執筆していたこと、教皇の指示で修道院がユダヤ人を匿った話を彼にしたと告げられます。ガブリエルが帰った後、マザーは修道院にはないはずの携帯電話を使ってローマに連絡を入れるのでした。
ホテルの通話履歴から、ベンジャミンがイギリスのジャーナリストのピーター・マローンに連絡をとっていたことが明らかとなります。そして、何者からか電話があり、「マザー・ヴィンチェンツァは嘘をついている。シスター・レジーナとマルティン・ルターを探せ。」と告げられるのでした。
9 グリンデルヴァルト、スイス
ヨーロッパを股にかける暗殺者「レパード(豹)」ことエリック・ランゲが住んでいるのは、アイガーの麓にひっそりと立つ大きな山小屋。グリンデルヴァルトからは有名なアイガーの北壁が見渡せます。
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ランゲがチューリッヒで宿泊したのは、中央駅からすぐ、バーンホフ通り沿いにあります1889年創業の4つ星ホテル〈ホテル・ザンクトゴッタード〉。作中ヒトラーも宿泊したと紹介されていますが、1942年にアメリカのアイゼンハワー将軍とイギリスのモンゴメリー元師が会談を行ったことでも知られています。
ランゲの部屋を訪ねたのは、カルロ・カサグランデ将軍でした。彼は、ピーター・マローンの殺害を、そのオフィスからスターン教授やその著作との関連を示すものすべてを消し去り、パソコンも持ち去ってくるというオプション付きでランゲに依頼したのです。
10 ヴェネツィア
翌朝、マザー・ヴィンチェンツァを再び訪ね、シスター・レジーナのことを尋ねますが、マザーから情報は得られず、ガブリエルはヴェネツィアに戻ります。途中、尾行を感じ、ヴェローナで高速道路を降りて、古い町の中心へ入り、尾行をまく行動をとりました。写真は、旧市街の中心ブラ広場に通じるブラ門です。
パドヴァでも同じ行動をとってヴェネツィアへ
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ガブリエルは、一日祭壇画の修復に取り組んだ後、サン・マルコにあるティエポロのオフィスを訪ね、オフィスの壁に飾られた写真からティエポロが教皇パウロ7世と友人であることがわかります。シリーズ次々作『Prince of Fire』の第4節から、同オフィスは、サン・マルコ広場の西側からサント・ステファノ広場まで続く、写真の3月22日通りにあることがわかっています。
ティエポロにあと何日かヴェネツィアを離れると告げ、古いゲットーに向かいます。面会したラビから、見るべきものがあると言われて広場に出ます。入口に〈イスラエル人安息の家(Casa Israelitica di Riposo)〉とある建物は、広場北側に実在しますが、現在は、老人ホームではなく〈Kosher House Giardino dei Melograni〉というホテルになっています。
ラビがガブリエルに読むように言った銘板は、建物に向かっての左側の壁にあります。上の銘板には「男性、女性、子供、ガス室に向かう大勢の人々が死刑執行人の鞭の下、恐怖に向かって進んでいく。あなた方の悲しいホロコーストは歴史に刻まれ、あなた方の死を私たちの記憶から消し去ることはできません」と、下の銘板には「ヴェネツィア市は、1943年12月5日と1944年8月17日にナチスの強制収容所に移送されたヴェネツィアのユダヤ人を追悼する」と書かれています。ヴェネツィアからは、246人のユダヤ人がアウシュヴィツに向けて移送されたとされています。
同じ壁の左側には、リトアニア系ユダヤ人彫刻家アルビット・ブラタスが第二次世界大戦中にユダヤ人に加えられた残虐行為を描いた7枚のホロコースト記念碑もあります。
また、安息の家の建物の右側にも、収容所行きの列車に乗せられる様子を描いた、ブラタスの《最後の列車》と題するレリーフがあります。
ラビは、ブレンゾーネの修道院にユダヤ人が匿われたという事実はなく、逆に追い返されたのだと話しました。当時の教皇ピウス12世についても、ナチスのユダヤ人虐殺に非難を行わなかったという史実を語り、それにもかかわらず、戦後、イタリアに留まったユダヤ人が教皇に感謝したのは、更なるホロコーストを避ける方が重要だったからだと話したのです。
11 ローマ
カルロ・カサグランデがイタリア情報・民主主義保安局(SISDE)の局長アキーレ・バルトレッティに会うために訪れたのは、パルテノンの近く、モンテローネ通りのカプレッタリ広場にある1969年創業のレストラン〈L’Eau Vive〉でした。
エフド・ランダウという名を使う男の写真を見せ、教皇の殺害を狙っている男だと言って、見つけ出し消してもらいたいと依頼します。
12 ウィーン
ガブリエルは、ウィーンの古いユダヤ人街にある〈戦争犯罪調査事務所〉に、”神の怒り”作戦の追跡者、エリ・ラヴォンを訪ね、これまでの調査結果を説明しました。前旅(第27節)では、同事務所のある「階段の上の飾り釘のついた重厚な扉の建物」を、シュテルンガッセに面した〈Wiener Neustädter Hof〉ではないかと推理しました。この建物は1734年にアントン・オスペルの設計により建てられたもので、この扉はホーアー・マルクトとクレブスガッセ (現在のマルク=アウレル通りの一部) への通路の門として使用されていましたが、現在は施錠されています。また、扉の左に吊るされている石は、1683年7月20日にレオポルトシュタットから市に放たれたトルコの弾丸らしいです。
ラヴォンは、ブレンゾーネのホテルにかかってきた電話の相手が話したマルティン・ルターというのは、1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー湖畔の大邸宅でナチス親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒによって招集され、1100万人のヨーロッパ系ユダヤ人の絶滅という〈最終的解決〉の再確認と実行のための分担連携が討議されたヴァンゼー会議に出席した外務次官のルターのことで、マザー・ヴィンチェンツァが隠そうとしている戦時中に修道院で起きた何かのためにベンジャミンは殺されたのではないかと話しました。
シャムロンに支援を求めたガブリエルがウィーン支局の若い工作員と落ち合ったのは、ウィーンのコンチェルトハウスの斜め向かい、彫刻家カスパー・フォン・ツムブッシュにより1880年に設置されたベートーベン記念碑があるベートーベン広場でした。
車に乗り込んだ二人は、尾行されていないことを確認してから、ウィーンの北東、アントン・フランク通り20番地にあるイスラエル大使館に入っていきました。
安全な回線でシャムロンと連絡を取ったガブリエルは、手短に報告した後、次はロンドンに行き、ビーター・マローンからベンジャミンが連絡を入れた理由を聞き出すと話します。
13 ロンドン
ロンドンに来て2日目。ガブリエルは、チャリング・クロス・ロードにある古本屋で、ピーター・マローンが〈オフィス〉の功績について書いた暴露本『欺瞞者たち』を買い求めます。同通りは、トラファルガー広場の北東からセント・ジャイルズ・サーカスまで南北に走る通りで、実際〈クイント・ブックショップ〉、〈ヘンリー・ポルデス〉、〈エニー・アマウント・オブ・ブックス〉など古本屋が立ち並んでおり、映画化もされたヘレン・ハンフの『チャーリング・クロス街84番地』の舞台となった古本屋〈マークス・アンド・カンパニー〉が実在したことで有名です。その古本屋は1970年に閉店し、現在その場所はマクドナルドの一部になっていますが(写真)、通りに面した石柱に銘板が掲げられています。
地下鉄レスター・スクウェア駅からエンバンクメントで乗り換え、スローン・スクウェア駅に向かいました。作中ノーザン線ヘのエスカレーターが長いとの記述がありますが、ピカデリー線へのエスカレーターの方が54mと、1992年にエンジェル駅に抜かれるまでは、ロンドン地下鉄で最長であったようです。
スローン・スクエア駅からカドゥガン・スクエアを横切りとありますが、カドゥガン・スクエアは、ロンドンの高級住宅街として知られ、Googleマップのストリートビューのとおり全て赤煉瓦の中層住宅で囲まれていますので、マローンの自宅とされる、ジョージ王時代の白く美しいタウンハウスとなると、クラボン・ミューズにある低層住宅のことではないしょうか。ガブリエルは、マローンに電話を架け、チュニスでアブ・ジハードを暗殺した夜のことを話す代わりに、誰が何故ベンジャミン・スターンを殺したのか知っていることを話してもらいたいともちかけます。
マローンは、ガブリエルに『クルックス・ヴェラ~カトリック教会のKGB』という本を渡して、ベンジャミンはヴァチカンと戦争に関するすごい事実をつかんでいたと話し、彼から探索を頼まれた二人の司祭が行方不明になっており、その捜査を担当していたのがイタリア警察の警部アレッシオ・ロッシだと明かしました。そして、カトリック教会の中の極秘部隊クルックス・ヴィラ、ヴァチカンの汚れた部分が暴露されることを嫌う組織がベンジャミンの殺害に関わっていると話しました。
見返りにガブリエルの話を聞き、マローンは、コードネーム〈剣〉というスパイの功績に関する記事とベンジャミン・スターンの殺害に関する記事をまとめました。『ザ・サンデー・タイムズ』の編集者に電話するため受話器を持ち上げようとしたとき、胸への一撃で体がのけぞりました。侵入者は、またも赦罪の言葉を唱えながら、マローンの頭にとどめの一撃を放ちました。
14 ローマ
マルコ・ブリンディシ枢機卿がメルセデスのセダンの公用車に乗り込んだのは、アポストリック・パレスの入口のある中庭、サン・ダマソ広場でした。
ベルヴェデーレ通りからサンタンナ門を通ってローマ市内へ。サンタンナ門は、サン・マルコ広場の北、サンタンナ・デイ・パラフレニエリ教会の前にあり、教皇アレクサンデル6世によって16世紀に建てられた、鷲の彫像を戴く門柱にバチカンの国章を掲げたアーチの門で、衛兵が立つバチカン市国への入口となっており、一般の人は通行できません。
そして、チッタ広場を抜けて地下駐車場に入ります。そこで待っていたブリンディシとそっくりの法衣をまとった替え玉と入れ替わり、フィアットのヴァンに乗り込んで服を着替え、テヴェレ川方面に向かいました。駐車場の上の建物が教皇庁の枢機卿が大勢住む共同住宅とのことから、コンチリアツィオーネ通り周辺ではないでしょうか。写真は、同通りから路地を入ったところにある公共駐車場入口です。
車を走らせ、5分後、ヴェネト通りに向かったブリンディシが車を降りたのは、バルベリーニ広場辺りでしょうか。バルベリーニ広場は、かつてはグリマーナ広場と呼ばれていましたが、1625~33年に広場の近くに建設されたバルベリーニ宮殿に因んでそう名付けられました。中央には、1643年にバルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世の依頼によりジャン・ロレンツォ・ベルニーニが制作したトルトーネの噴水があります。
ヴェネト通りの入口には、バルベリーニ家の紋章である3匹の蜂をあしらった蜂の噴水があり、ブリンディシもこの傍を通ったのではないでしょうか。この噴水は、元々1644年にベルニーニによって別の場所に設置されましたが、通行の妨げになるとの理由で解体され、その後散逸してしまったため、1916年にアドルフォ・アポロニによってリメイクされたものです。
ヴェネト通りは、前旅(第13節)にも登場した、ピンチャーナ門まで逆S字状に通じる通りです。作中には、プラタナスの木、高級店、値の張るレストランが並ぶしゃれた大通りではあるものの、栄光の日々が褪せてから長い月日が流れ、知識人や映画スターたちはとうの昔に未知の輝きを求めて姿を消していたと紹介されています。1950年代の終わりから60年代初頭において、ヴェネト通りがローマ社交界の中心地であったことを指していて、その栄光は1960年のフェデリコ・フェリーニ 監督の映画『甘い生活』の中で描かれていますが、プリンディシ自身はヴェネト通りの「甘い生活(ドルチェ・ヴィータ)」に魅かれたことはないとしています。写真は、映画にも登場する有名なカフェ〈ハリーズ・バー〉です。
プリンディシは、ヴェネト通りとコルソ・ディタリアとの交差点まで歩き、そこで車でやって来たカサグランデと落ち合いました。ピンチャーナ門を抜けたブラシーレ広場でしょう。
そこから二人はボルゲーゼ公園に向かいました。入口には、ボルゲーゼ家の紋章である鷲とドラゴンがあしらわれた門柱が立っています。
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿が夏の別荘として建て、ボルゲーゼ家歴代の美術品が展示されている、ボルゲーゼ美術館。カサグランデは、前のベンチに腰掛けて、ピーター・マローンを殺害した男のことを話します。
二人は再び松並木の小径を歩き、シエナ広場を見渡すベンチに座りました。広場の名前は、ボルゲーゼ家の発祥の地であるシエナに由来しています。作中カサグランデが妻と一緒に馬が楕円形のトラックを練り歩くのを眺めたことを回想していますが、この広場では、1922年から毎年馬術競技会が催されており、1926年からは国際障害馬術競技会 (CSIO)として開催されています。
エフド・ランダウという男のことを話題にし、そして、教皇のことに話題が移ります。
15 ノルマンディ、フランス
翌日の早朝、エリック・ランゲは、ニューヘイブンからフェリーでイギリス海峡を渡り(唯一のフェリーDFPSを利用して約4時間)、ディエップ港に着きました。ディエップは、ノルマンディ地方、アルク川の河口に位置する歴史ある港町で、17世紀にはフランス第一の港町となり、第二次世界大戦中はディエップの戦いの舞台ともなっています。
ランゲは、朝食のため、アンリ4世埠頭へと歩いていき、ディエップに古くからある屋根付きの魚市場(Poissonnerie)や中心街のグラン・リュ(写真)を巡って食料を買い、最後にワインとノルマンディー地方のアップルブランデーのカルヴァドスを仕入れます。
車を西に走らせ、サン・バレリー・アン・コーを経由します。海岸線には延々と巨大な白亜の崖がそびえ立っています。
サン・ピエール・アン・ポールの手前から内陸部に入り、ヴァルモンへ。村の中心には、1169年に設立され、歴史的建造物に登録されているヴァルモン修道院があります。
ランゲは、ヴァルモンの村を過ぎたところで折れ、1km程のところにある別荘に、かつての左翼過激派アクティオン・ディレクテの一員で、一緒に要人暗殺を行ったことがあるカトリーヌ・ブザールを訪ねます。ティエトゥルヴィル辺り(写真)でしょうが、木の門があり、ブナとニレの木陰に隠れ、入り組んだ庭に囲まれたU字型の石造りの建物というのは見当たりません。
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持ち帰ったピーター・マローンのパソコンからアブ・ジハードを殺した男がベンジャミン・スターンの殺害について調べていることを知ったランゲは、ジハードと仲間だったPLO海外情報機関ヨーロッパ作戦本部のラシッド・フセイニに会うため、パリに向かいます。二人が落ち合ったのは、リュクサンブール地区(パリ6区)にあるさびれたブラッスリーとのことですが、サンジェルマン・デ・プレ教会周辺には、〈レ・ドゥ・マゴ〉(写真)や〈リップ〉など有名なお店もあります。
フセイニから、その男の本名はガブリエル・アロンといい、12年程前にウィーンでタリク・アルホウラニに爆弾で息子を殺され、2年前にマンハッタンでタリクに復讐したことを聞かされます。エンゲは、アロンが旧友の殺害の手がかりを得るため、イタリア警察のアレッシオ・ロッシという刑事に会いにローマに行くので、見つけるのを手伝ってほしいと頼みます。
第3部 ローマのペンシオーネ
16 ローマ
ガブリエルは、税関の通過を要するローマへの直行便には乗らず、ロンドンからニースに飛びました。コートダジュール空港(NCE)で、〈オフィス〉の協力者のいるハーツ(レンターカー)の窓口を訪ね、足のつかない形で用意されたルノーに乗って、高速道路A8を走ってイタリアに入ります。途中、ニュースでピーター・マローンの殺害を知ります。
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ハインリヒ・シードラーと名乗り、ローマの宿泊先に選んだのは、テルミニ駅とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の間のジョベルティ通りにあるペンシオーネ(民宿)。マスタード色の外観のものとしては、〈ホテル・アリストン〉など複数のホテルが入っている建物がありますが、アブルッツィという名の民宿は実在しません。
翌日、イタリア警察本部に3度電話するも、アレッシオ・ロッシ警部は不在でした。外出し、ローマ4大聖堂の一つ、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の周辺で尾行のないことを確認します。教皇リベリウスの夢に現れた「真夏に雪が降る場所に教会を建てよ」という聖母マリアのお告げのとおり,352年8月5日この地に雪が降ったことが教会の始まりといわれていますが,建物はシクストゥス3世によって432~40年に創建されました。1377年に建てられた鐘楼は75mでローマ1番の高さです。
ナポレオン3世通りを歩き、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場へ。写真手前に写っているのは、彫刻家マリオ・ルテッリによる噴水。奥は、古代ローマの噴水であるアレクサンダーのニンファエウム。パスタを食べた近くのレストランというのは、〈La Vecchia Conca〉か〈Trattoria Monti〉でしょう。
テルミニ駅の西側正面を横切って、ローマの官庁地区へ向かいます。
官庁地区でイタリア警察本部を見つけます。エスプレッソを飲みながら出入りする警察官を観察した通りの向かいのカフェというのは、〈Via Genova Bar Bistrot〉でしょうか。
午後3時、共和国広場を通ってペンシオーネに戻ります。映画『ローマの休日』で,大使館を抜け出した王女がトラックから飛び降りた場面に登場した場所です。
中央にあるのがこれもルテッリによって1901年に造られたナイアディの噴水です。部屋に戻ってロッシ警部に電話すると、「二度と電話するな」と言われて電話が切られます。
来客の知らせで降りていきますが誰も見当たらず、部屋に戻ります。中に入ったとたん、ピストルの握りで後頭部を一撃され、気を失います。気がついたときに前にいたのはロッシ警部でした。
17 ローマ
ロッシ警部の動向を監視していた、ヴァチカン治安警察特別捜査部の監視官から連絡を受けたカサグランデ将軍は、ボルゲーゼ公園が見渡せるピンチャーナ通りのアパートメントから、バルトレッティに連絡を入れ、教皇を狙っている男が武器を所持し、ペンシオーネ・アブルッツィの22号室にいると告げます。
一方、パリにいるランゲのもとにもフセイニからアロンを見つけたとの連絡があり、明朝7時半のエール・フランスの便を予約します。
18 ローマ
ロッシは、行方不明となったフェリチ神父とマンズィニ神父の事件について、ガブリエルに最初から話して聞かせます。二人が戦時中にヴァチカンの国務省のドイツ担当の部署で働いていたこと、かつてブレンゾーネの聖心修道院の修道女だったレジーナ・カルカッシという未亡人がトルメッツォという町で行方不明になっていたことがわかり、上司を動かそうとしたところ、カルロ・カサグランデ将軍から止めれたことを話しました。そのとき、警官がペンシオーネになだれ込んでくるのが見え、ロッシは、ガブリエルの腕をつかんで中庭に出て小径を走りました。
銃撃戦の中、ロッシは銃弾に倒れ、ガブリエルは、4人を倒し、レストランの厨房を抜けて、右手にサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の正面が見え、左手にヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場がある通りに出ました。カルロ・アルベルト通りです。
狭い通りから通りへと走り、メルラナ通りを横切って、コロッセオを囲む巨大な公園のはずれに出ました。オッピオの丘(オッピオ公園)の北側、モンテ・オッピオ通り辺りではないでしょうか。ガブリエルが進んだ暗い散歩道はどこでしょう。10分でテヴェレ川に突き当たったとのことですが、寄り道しながら追ってみましょう。
オッピオの丘は、ローマ帝国第5代皇帝ネロが建設した黄金宮殿(Domus Aurea)があった場所ですが、彼の死後に多くが破壊され、104年の火災の後に建設、109年に完成したのが、330m×315mという巨大複合施設、トラヤヌスの浴場です。写真は、イマーニャ・ディ・トライアーノ通り沿いに進んだところにある半円形の遺構(エクセドラ)、泉水堂(ニンファエム)です。
続いて、上の写真右のアーチをくぐって細い歩道を進むと、公演中央に、運動場(パラエストラ)のエクセドラをみることができます。
歩道に沿ってモンテ・オッピオ通りに戻ると、保存状態のよい図書室のエクセドラが見えてきます。上下2列に並ぶ長方形の壁龕が本のキャビネットだということです。
オッピオの丘を下りて、コロッセオ方面に向かいましょう。コロッセオは、72年にウェスパシアヌス帝の下で着工し、80年に息子ティトゥス帝によって完成された、長径187.5m、短径156.5m、外周527m、高さ48.5mの最大の円形闘技場です。剣闘士の闘いが繰り広げられる映画『グラディエーター』の舞台ですね。ポッツォラーナ(火山灰)を使ったローマン・コンクリート建築の一つで、1階はシンプルなデザインのドーリア式、2階は柱頭に渦巻き模様の彫刻が付いたイオニア式、3階は柱頭にアカンサスの葉をモチーフにした彫刻のコリント式、4階はレンガを積み上げて柱に見立てたアーチのないコリント式という構造になっています。
第1節に登場したミュンヘンの勝利の門のモデルとなったコンスタンティヌスの凱旋門。コンスタンティヌス帝がマクセンティウスとの戦い(ミルヴィオ橋の戦い)に勝利したことを讃えて、ローマ元老院と市民によって315年に建てられた、高さ21m、幅25.7m、奥行き7.4mのローマ最大の凱旋門です。
ここから先には、フォロ・ロマーノやパラティーノの丘が広がっており、どのような経路を辿ったかはわかりませんが、10分間でティヴェレ川まで達したとなると、いずれかを走って突っ切ったのでしょう
写真は、テヴェラ川に近いボッカ・デッラ・ヴェリタ広場前にある、サンタ・マリア・イン・コスメディ教会です。
6世紀に創建された教会で、柱廊玄関に映画『ローマの休日』の有名なシーンに登場する「真実の口」があります。古代の井戸の蓋であったとされ、嘘つき者が口の中に手を入れると、噛まれて手が抜けなくなるという伝説がこの名前の由来です。
ガブリエルは、川の堤防の公衆電話から非常回線に電話を架けます。
19 ローマ
ガブリエルは、公衆便所で右脇腹の血を拭ってスウェットに着替え、大きな通りを避け、歴史地区の迷路を抜けてナヴォーナ広場に向かいました。2度目の非常回線で指示されたコンタクトポイントは、前旅(第13節)でも待ち合わせに使われたサンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会でした。半円形のファサードは、1656年にピエトロ・ダ・コルトーナによって建てられたものです。
身廊に入ると、目印のオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙を携えたメッセンジャーが告解聴聞席の扉に背を向けて座っていました。教皇シクストゥス4世が「平和の聖母子」と名付けた主祭壇画の聖母子には、石を投げつけられ血を流したという逸話が残っています。
メッセンジャーの指示どおり、外にバイクが待っていました。後ろに跨ると、バイクはサン・ピエトロ大聖堂の丸屋根を右手に見ながらルンゴテヴェレ通りを走りました。テヴェレ川を渡ったのは、エンニオ・ロッシの設計によりイタリア統一50周年の1911年に完成したヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋でしょう。全長110m、幅20m。橋の両端には2本ずつ先端に「翼を持つ勝利の女神」のブロンズ像が置かれた柱が立てられ、中程の欄干には「自由」、「抑圧の克服」、「国家への忠誠」、「イタリア統一」をイメージした彫刻群が置かれています。
続いてジャニコロの丘へと上っていきます。「現代のローマ七丘」の一つで、ローマで2番目に高く、市街の眺望を見渡すことができます。中央左のドームがサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会で、その左手にはパンテオンのドームが、また、右側奥にはヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂も見えます。
毎日正午には、展望台のすぐ下で、大砲(空砲)が大迫力の音を響かせます。この礼砲は、1847年に教皇ピオ9世がローマの教会の鐘を一斉に鳴らす合図のために命じたのが始まりです。
バイクは松の木立や小さなアパートメントが並ぶ住宅街へと向きを変え、急な坂道に入りました。アウレリアヌス城壁の南門の一つ、サン・パンクラツィオ門の前で右に進んだのではないでしょうか。
バイクはアパートメントに転用された古い宮殿のアーチをくぐって中庭で停まりました。サン・パンクラーツィオ通りだと思われますが、該当するアパートメントは見当たりません。ヘルメットを取ったドライバーは、なんとあのヴェネツィアのラビの娘のキアラでした。
20 ローマ
エリック・ランゲは、フィウミチーノ空港(FCO)に到着しました。ローマの南西約30kmにあり、レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港ともいい、空港の前には1960年8月19日に完成したブルガリア人芸術家アッセン・ペイコフによるレオナルド・ダ・ヴィンチ像が立っています。3mの台座の上に9mの高さの像で、右手にダ・ヴィンチが発明した空気スクリューを持っています。空港内には彼のドローイング作品「ウィトルウィウス的人体図」をイメージしたオブジェもあります。エール・フランスのパリーローマ間は、約2時間の飛行時間で、朝9時に到着したのであればAF1204便でしょう。機材はA321又はA220-300
ランゲが迎えに来た男アズィズと向かったアパートメントは、ローマの七丘の一つ、アヴェンティーノの丘の麓に立っていました。同丘にあるマルタ騎士団の修道院は、門の扉の鍵穴を覗くと庭園をぬけた先にサン・ピエトロ大聖堂が遠望できるという隠れた名所です。
午後7時、ローマ支局長のシモン・パツナーが立てた脱出計画に従い、ガブリエルは、フォルクスワーゲンの配達用ヴァンに乗り込み、アーチ状の入口を抜けて右に曲がります。写真は、サン・パンクラーツィオ広場に面した、アーチ状の入口のあるサン・パンクラーツィオ教会(バシリカ)。ランゲの追跡をチームのメルセデスが追突でかわし、西へ向かいます。
ヴァンが着いたのは、フィウミチーノ空港の滑走路の端に近い海岸を見渡す駐車場。ボートでモーターヨットに近づきます。ところが、レジーナ・カルカッシの娘を探しに一緒にプロヴァンスに行くとキアラが言い出し、触発されたガブリエルは、船長を拘束して、エルバ島とコルシカ島の間の海峡へと進路を北へ向けるのでした。
一方、ランゲは、アズィズを始末して、テルミニ駅からチューリッヒ行きの夜行列車の1等寝台に乗ります。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第3部の続き、第21節からいながら旅を続けます。
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