ダニエル・シルヴァの小説『告解』de いながら旅 (2)

● ダニエル・シルヴァ
● ダニエル・シルヴァ告解

 第1部の続き、第3節からいながら旅を続けます。ガブリエルにとって第2の故郷となったヴェネツィアをじっくり巡っています。


第1部 ミュンヘンのアパートメント (続き)

3 ヴェネツィア

 サン・ザッカリア教会

 51歳となった主人公ガブリエル・アロンは、短く刈られた黒髪は白いものが混じり、アーモンド型のエメラルドグリーンの目、深く割れた顎に肉厚の唇の骨張った顔つき(ガブリエルの特徴や来歴についてはこちらのサイトにも詳しく紹介されています)。伝説の修復士ウンベルト・コンティの弟子、マリオ・デルヴェッキオと名乗って、ヴェネツィアのカステッロ区,スキアヴォーニ河岸からホテル・サヴォイア&ヨランダの右側の小道を北に入ったところ、サン・ザッカリア広場の東側に建っている、サン・ザッカリア教会にいました。最初の教会は9世紀に遡りますが、洗礼者ヨハネの父ザッカリアの遺骨を収容する現在の教会は、1458年にアントニオ・ガンベッロにより建築が開始され、マウロ・コドゥッシによってゴシック様式とルネサンス様式を融合した建物として完成されました。中に入ってみましょう(毎日10時~12時と16時~18時(日曜日は午後のみ)地下室と博物館への入場料は3.5€)。

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 内部は、五角形の後陣を備えた3つの身廊で構成されており、ヤコポ・ティントレットパルマ・イル・ヴェッキオアントニオ・ヴァッシラッキなどヴェネツィアを代表する多くの芸術家の作品で飾られています。美術作品については、こちらのブログでも詳しく紹介されています。

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 主祭壇と後陣です。主祭壇画は、パルマ・イル・ジョーヴァネによる《キリストの死》、後陣の天井のフレスコ画は、ジロ-ラモ・ペッレグリーニによる《グロリアの聖ザッカリア

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 ガブリエルは、フランチェスコ・ティエポロの修復チームの一人として、ジョヴァンニ・ベッリーニが1505年に玉座の聖母子と聖ペテロ、アレクサンドリアの聖カタリナ、聖ルチア、聖ヒエロニムスとの聖会話を描いた最高傑作《聖ザッカリア祭壇画》の修復にあたっていました。身廊左側の第2祭壇にあります。作業は横板の上で続けると言い張り、背後を常に幕で覆い、交わりを断るなど他のメンバーからは不可解な存在で、ウィーンのシュテファン大聖堂での修復に加わっていた際、古いユダヤ人街で起きた爆弾テロ(前々旅(プロローグ)参照)と同じ夜に忽然と姿を消したことから、実はテロリストではないかなど様々な噂が飛び交っていました。

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 身廊右横にあるサンタナシオ礼拝堂には、ティントレットが1563年頃に描いた《洗礼者ヨハネの誕生》があります。

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 カナル・グランデ

 ある日、少年が訪ねてきて「ゲットー・ヌオヴォ。6時」と書かれた紙が手渡されます。午後5時半過ぎ、ティエボロからその日の作業終了を告げられたガブリエルは、サン・ザッカリア広場を横切り、アーチをくぐり抜け、スキアヴォーニ河岸向かいました。ソルトポルティゴ・サン・ザッカリアです。

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 サン・マルコ運河が見渡せる埠頭の船着き場というのは、最寄りのサン・ザッカリアの船着き場でしょう。写真に写っている騎馬像は、前旅(第37節)でも紹介したヴィットリオ・エマヌエーレ 2 世の記念碑です。

lh3.googleusercontent.com他の写真

 ヴァポレットは、水上交通を主とするヴェネツィアにおける公共交通機関(水上バス)で、乗り方その他はこちらのサイトを参照してください。ガブリエルが乗った82番のヴァポレットは、カナル・グランデを通る快速便で、古いガイドブックによれば、サン・ザッカリアからも乗船できたようです。現在、カナル・グランデを通る快速便は2番に変更され、下のACTV社の路線図ではサン・マルコ-ジャルディネッティ(A)からのルートとなっていますが、リド島のサンタ・マリア・エリザベッタ(E)から出ているルートの船にサン・マルコ-サン・ザッカリア(E)から乗ることができます(午後5時半過ぎの船に乗ると、ゲットー・ヌオヴォへの最寄りの船着き場に午後6時過ぎに到着します)。

actv.avmspa.it/en/content/consult-map を参照)

 ガブリエルがサン・ザッカリアから82番のヴァポレットに乗ったとして、カナル・グランデを北上する船上から見える景色を見ていきましょう。

 まずは、サン・マルコ運河から、絵葉書などでよく見かける景色が見えてきます。左から順に、造幣局Zecca国立マルチャーナ図書館、高さ98.6mのサン・マルコの鐘楼聖マルコと聖テオドーロの円柱が立つサン・マルコ小広場ドゥカーレ宮殿。右端には、前旅(第37節)でガブリエルとアンナが渡ったパーリャ橋も見えます

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 反対(南)側のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島には、ベネディクト派の修道院で、後期ルネサンスの著名な建築家アンドレア・パッラーディオが設計し、1566年に着工、彼の死後の1610年に完成した、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂が立っています。コリント様式の4本の円柱の上に破風を据えた白亜のファサードがとても美しく、「水辺の貴婦人」とも呼ばれます。また、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の第5部「黄金の風」の舞台となっています。1791年に完成し、ヴェネツィアで4番目の高さの鐘楼(エレベーターで昇れます)も登場するようです。今回は内部には入りませんが、オルガンのある主祭壇前の左右にティントレット晩年の代表作最後の晩餐》と《マナの収集》が見られます。

(2010年の旅行時の写真)

 続いて、左手のドルソドゥーロ地区の先端には、かつての海の税関ドガーナ・ダ・マールの建物があり、安藤忠雄によって修復され、現在は美術館プンタ・デッラ・ドガーナとして生まれ変わっています。

(2010年の旅行時の写真)

 プンタ・デッラ・ドガーナのには、1630年から流行したペストからの解放を聖母マリアに請願し、その終息を感謝して、1631~87年に建築家バルダッサーレ・ロンゲーナによって建設された、ヴェネツィア・バロック建築の傑作、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂が立っています。

(2010年の旅行時の写真)

 巨大なクーポラを戴く優美な八角形のフォルムが特徴的で、ヴェネツィアで私が一番好きな教会です。サン・マルコの鐘楼の上から、プンタ・デッラ・ドガーナとともに収めたショットが気に入っています。

(2010年の旅行時の写真)

 教会を通り過ぎた辺りからカナル・グランデの入口を振り返ったショットも好きです。ゴンドラと一緒にこんな写真が撮れると、いかにもヴェネツィアという感じで最高です。こちらのサイトからお借りしました。

cdn.getyourguide.com

 カナル・グランデ沿岸の建物等を見ていきましょう。こちらは、進行方向左側にある、1908年にクロード・モネが描いた一連の作品の素材として知られる、ダリオ宮です。

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 こちらは、進行方向右側にある、ヴェネツィアの建築家ヤコポ・サンソヴィーノによって建設された、コルネール宮です。現在は、ヴェネツィア県の庁舎として使用されています。

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 続いて、進行方向右手に並んで、カヴァッリ=フランケッティ宮)とバルバロ宮)があります。バルバロ宮は、作家ヘンリー・ジェイムズが滞在して小説『鳩の翼』を書いたとされる場所で、1997年に映画化された同名の映画のロケ地ともなっています。

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 カナル・グランデに架る4つの橋のうち、唯一の木製アーチ橋、1933年開通のアカデミア橋です。通過したところにアカデミアの船着き場があります。

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 こちらは、進行方向左手にある、カ・レッツォーニコです。サルーテ教会を手がけたロンゲーナが設計し、ジョルジョ・マッサリによって1756年に完成された建物で、現在は18世紀ヴェネツィア美術館となっています。

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 カ・レッツォーレコの対岸、サン・サムエレの船着き場の先には、マッサリが1748~72年に再建した巨大な宮殿、グラッシ宮があります。ヴェネツィア共和国崩壊前にカナル・グランデ沿いに建てられた最後の宮殿だそうです。現在は、美術館として活用されており、大きな吹き抜け回廊を利用した巨大展示などもなされることがあるようです。

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 カナル・グランデが右に湾曲する左角に並んで、ジュスティニアン宮)とカ・フォスカリ)が見えます。いずれも15世紀に建てられたゴシック建築で、左の建物は、リヒャルト・ワーグナーが1858~59年に『トリスタンとイゾルデ』の第2幕を作曲したことが知られており、右の建物は、現在、ヴェネツィア・カフォスカリ大学となっています。

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 カ・フォスカリ川を挟んだ先に、アレッサンドロ・ヴィットリアの設計により1582~90年に建てられた、バルビ宮があります。屋根の上の2つの尖塔が印象的です。なお、背後に見えている鐘楼は、前旅(第38節)に登場したサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の鐘楼です。

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 サン・トーマの船着き場を出てしばらくすると、進行方向右側に、16世紀半ばに検察官ジェロラモ・グリマーニのために建築家ミケーレ・サンミケーリによって建てられたグリマーニ宮があります。現在は、ヴェネツィアの刑事控訴裁判所として使用されています。

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 リアルト橋が見えてきます。橋の手前にリアルトの船着き場があります。

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 リアルト橋は、長さ48m,幅22.1mで,カナル・グランデに架る4つの橋のうち最も大きく、「白い巨象」とも呼ばれています。歴史も最も古く、起源は12世紀の舟橋に遡ります。本格的な橋は1264年に木造で建設されましたが,1444年にフェラーラ侯爵の花嫁の行進を見ようと殺到した群衆の重みで崩落しまいました。その後、石橋の建設が提案され、数度のコンペを経て、アントニオ・ダ・ポンテによって1588~91年に大理石製の橋が建設されました。水面からの高さ7.5mの太鼓橋で、屋根付きの橋の上には貴金属やお土産物などの店も連なり、多くの観光客が訪れる観光スポットとなっています。橋の上から眺めるカナル・グランデの眺望は素晴らしく、1987年登録の世界遺産「ヴェネツィアとその潟」の構成遺産の一つです。

(2010年の旅行時の写真)

 リアルト橋をくぐり抜けてすぐの左手にある、1488年に建てられたカメルレンギ宮殿です。かつてはヴェネツィア共和国の金融治安判事(カメルレンゴ)の屋敷や破産者の刑務所として使用されていたようですが、現在は会計検査院の地方本部が置かれています。

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 続いて進行方向左側に、長い柱廊建物が見えてきます。火災にあった市場の再建のため、古い木造店舗を取り壊し、果物市場用の店舗と倉庫を収容する大きな建物を建てるという市の決定に基づき、ヤコポ・ソンソヴィーノによって1553~55年に建設された、ファブリケ・ヌオーヴォという建物です。ヴェネツィアの風景画家フランチェスコ・グアルディが《リアルトからのヴェネツィアの大運河の眺め》に描いています。

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 こちらは、進行方向右側、外壁を金箔と多彩色の装飾が施されていたことから、カ・ドーロ(黄金宮殿)と呼ばれた建物です。正式名をパラッツォ・サンタ・ソフィアといい、複数の総督(ドージェ)を輩出したコンタリーニ家のために、1428~30年にジョヴァンニ・ボンとその息子バルトロメオ・ボンによって建設された、ヴェネチア・ゴシック建築を代表する建物です。現在は、フランケッティ美術館となっており、アンドレア・マンテーニャの《聖セバスティアヌス》などを見ることができます。

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 最後に、進行方向左側に、重厚な姿を見せるのは、バルダッサーレ・ロンゲーナにより設計され、彼の死後の1710年に完成したヴェネチア・バロック建築の代表作、カ・ぺーザロです。現在は、国際美術館(現代美術館・東洋美術館)となっています。

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 ガブリエルが船を降りたのは、進行方向右側にある、サン・マルクオーラ・カジノの船着き場で、ここからゲットー・ヌオーヴォに向かったと思います。後ろに見える教会は、アントニオ・ガスパリが設計し、ジョルジョ・マッサーリが1730~36 年に再建した(ファサードは未完成)、サン・マルクオーラ教会です。

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 ゲットー・ヌオーヴォ

 ゲットー・ヌオーヴォは、カンナレージョ地区のほぼ中央にある、サン・ジローラモ川ゲットー川バテッロ川に囲まれた島で、本書巻末の解説(390ページ)にあるように、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のシャイロックが住んでいたところです。このシリーズ作品に度々登場する場所なので、詳しく紹介しましょう。「ゲットー(ghetto)」といえば、ヨーロッパにおいて強制的にユダヤ人を隔離して居住させた区域のことですが、「鋳造所」を意味するヴェネツィア語(又は方言)の「getto」を語源としており、ヴェネツィア共和国は1516年に新しい方の鋳造所跡でゲットー・ヌオーヴォと呼ばれていたこの場所に約700人のユダヤ人を隔離しました。

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 その後1541年に、ゲットー川を挟んで南西側に隣接する古い方の鋳造所跡(ゲットー・ヴェッキオと呼ばれる地区)もユダヤ人居住区とされました。この一帯が世界で最初に「ゲットー」と呼ばれるようになったユダヤ人居住区と言われており、1562年には「ゲットー」の名称が反ユダヤ法規において法文化されました。また、1633年には新たに移住してきた南欧のユダヤ人を住まわせるため、ゲットー・ヌオーヴォの東側にゲットー・ノヴィッシモが創設されました。ヨーロッパの多くのゲットーでは周囲に壁が築かれ、昼間は壁の外に出ることができるものの、夜は門に鍵がかけられ、外出が禁止されていましたが、ヴェネツィアのゲットーでは、壁ではなく運河に囲まれ、運河を渡る橋に門が設けられていました。

藤内哲也「近世ヴェネツィアにおけるゲットーの拡大」(鹿大史学 59巻43頁)

 現在、ゲットー・ヌオーヴォに渡る橋は3か所ありますが、ガブリエルが渡ったのは金属製の歩道橋とされています(32ページ)。写真は、ゲットー・ヴェッキオとの間に架るゲットー・ヴェッキオ橋。橋桁と欄干は鉄製ですが、橋台は石造りですし、サン・マルクオーラ・カジノの船着き場からの通常ルートから外れてしまいますので、この橋ではないでしょう。

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 船着き場からのルートからすると、ゲットー・ノヴィッシモができたときに架けられたゲットー・ノヴィッシモ橋が考えられ、目の前に背の高いアパートメントが建ち並び、建物の下をくぐる道に入ったとの記述にも沿いますが、この橋は木製(片方の橋台は石造り)です。この橋は、シリーズ次作『さらば死都ウィーン』(第2節)に「急場凌ぎの歩道橋」と表記される橋だと思います。

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 北側のファンダメンタ・デイ・オルメジーニとの間に架るゲットー・ヌオーヴォ橋は、船着き場からは遠回りになってしまいますが、全体が鉄製で、作中の歩道橋の記述に当てはまりますので、この橋ではないでしょうか。因みに、この橋は、今後のシリーズ作品にも「ヴェネツィアで唯一の鉄の橋」として登場します。

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 歩道橋を渡ったガブリエルの目の前に浮かび上がった、ヴェネツィアにしては背の高いアパートメントが立ち並ぶ光景というのは、こんな感じだったでしょう。

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 建物の下をくぐる道ソトポルテゴ・デ・ゲットー・ヌオーヴォは、ゲットー・ノヴィッシモ橋の袂からL字型に伸びて、広場南東側の建物の下を通っています。

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 アパートメントの下を通り抜けると現れる広大な場所というのが、ゲットー・ヌオヴォ広場です。アリ・シャムロンは、広場の中心にある井戸(写真左下)にもたれ、煙草を吸って待っていました。広場に井戸は3か所あります。

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 作中には、モーセの五書を象徴する5枚窓のあるシナゴーグが2軒あるとされていますが、写真は、そのうちの1軒、広場の東側の背の高い建物群の南端にある、スクオーラ・グランデ・テデスカです。この地域では、シナゴーグのことを「スクオーラ」と呼ばれています。同じ「スクオーラ」でも、前旅(第38節)に登場したスクオーラ(困窮者の支援を行うキリスト教団体)とは違った意味合いです。紹介どおり外観からはシナゴーグとはわかりませんが、1528~29年にアシュケナジムと呼ばれるドイツ系のユダヤ人によって設立された、ヴェネツィア最古のシナゴーグです。現在は、黄色の外壁になっており、通常の礼拝には使用されておらず、隣接するユダヤ博物館から見学できるようになっています。

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 写真下部の祭壇のようなもの(拡大写真)がアローン(聖櫃)です。トーラーの箱ともいい、モーセの五書を意味するトーラー(巻物)を保管するシナゴーグの設備のことです。写真上部には女性用のギャラリーが整備されています。

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 こちらは、ビーマーと呼ばれる説教壇で、シナゴーグにおいて、ハッザーンがトーラーの朗読を行い、礼拝の指揮をとる場所です。

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 もう1軒のシナゴーグが、広場の南西側中央にあるスクオーラ・イタリアーナで、 1575年にイタリア系ユダヤ人のために建設されました。こちらも礼拝には使用されていないようですが、ユダヤ博物館の予約制(金曜日のみ)のガイド付きツアーで見学できるようです。

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 ゲットー・ヌオーヴォには、もう1軒、広場の南角に、2番目に古く、私的なシナゴーグではないかと言われている、1532年創設のスクオーラ・カントンがあります。こちらは5枚窓もなく、屋上に小さなドームが見えるほかは外観からは全くそれとわかりません。こちらも通常の礼拝には使用されていませんが、隣接するユダヤ博物館から見学できるようになっています。

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 内部は、ロココの要素を採り入れたバロック様式で装飾されており、黄金の蔓を絡ませた列柱に挟まれ、数段高くなった場所で、外から見えた小ドームの下に当たる場所にあるのが、黄金のビーマー(説教壇)です。頭上に八角形の穴があり、天窓からの光が差し込んでいます。

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 ビーマーの反対側の壁には、スクオーラ・グランデ・テデスカと同様、トーラーの箱があります。1672年に制作された黄金一色のものです。その上には小さなステンドグラスがはめ込まれた窓が切られています。

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 広場には、シナゴーグのほかにコーシャ・レストラン、ユダヤ風パン屋、本屋、博物館があると記述されていますが、スクオーラ・グランデ・テデスカとスクオーラ・カントンに挟まれた場所(写真中央の2階建ての建物)に、1954年に設立されたユダヤ博物館があり、博物館にはユダヤ教専門書店やコーシャ・レストランが併設されてます(営業時間・入場料についてはこちらを参照してください。ただし、博物館に照会したところ、投稿時現在、改修工事中のため閉鎖中で、隣接する上記2つのシナゴーグの見学もできないようです)。そのほかに、パン屋は、ゲットー・ヴェッキオの方にあるようで、シャムロンがいざなった広場のはずれにあるパン屋というのは確認できません。

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 こちらのサイトからバーチャルツアーを見ることができます。写真は、1階の展示室で、中央に展示されているのは、アシュケナジム系においてトーラーの箱の前に下げられる幕(parokheth)のようです。

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 シャムロンは、ガブリエルに、ベンジャミンの義兄で、アート・ギャラリーを経営するエフド・ランダウとして、ミュンヘンに行って刑事から状況の説明を受け、アパートメントの内部を見てきてほしいと頼みます。ガブリエルは、難しい修復作業の真っ最中だと一旦は断りますが、シャムロンに友人を殺した犯人を見つける手助けとどちらを選ぶのかと迫られ、シャムロンの依頼を引き受けるのでした。

 因みに、作中、ガブリエルがウィーンで妻子が爆破テロにあってから12年になると言っている(39ページ)ことから、今は2003年であると考えられます。


4 ミュンヘン

 2日後、ミュンヘン犯罪捜査局のアクセル・ワイス刑事から、ベンジャミンが殺害された時刻、死因、凶器の口径、脅迫されていた証拠、部屋の壁に残されていたメッセージ、どうやって部屋に侵入したかなどを訊き、ベンジャミンのアパートメントに向かいました。壁には、Vを逆さにした台の上にダイヤモンドが置かれた形「ᛟ(オーディン・ルーン)」と、根元がくっついている3つの7(三刀身のスワスティカ)の記号。管理人のラッツィンガー夫人から受け取った封筒には、眼鏡と「スターン教授、本の成功を祈ります。ジャンコモ」と書かれた絵はがきが入っていました。

(現在、該当のストリートビューはGoogleマップから削除されています)

 ヘイス刑事に送ってもらったホテルは、レヘル地区のアンナ通りにあるホテル・オペラ〉でした。ベンジャミンの収納部屋から持ち出した写真には、ガブリエルとその首に腕を回して笑うベンジャミンが写っていました。

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 ワイス刑事は、ホテル前の道路の暗がりに車を駐め、入口を見張り、30分後、ローマに電話をかけ、その日の出来事を報告しました。チーフと名乗った電話の向こうの人物は、ガブリエルの写真を手に入れ、片付けるよう命じるのでした。


5 ヴァチカン

 サン・ピエトロ広場の回廊の脇に建つ、ローマ教皇の公邸アポストリック・パレス。その日、教皇パウロ7世と国務省長官マルコ・ブリンディシ枢機卿は、教皇の居室で毎週金曜日のランチをともにしていました。

(2010年の旅行時の写真)

 枢機卿は、浮浪児だった教皇の子供時代を暴露しようとしている『ラ・レプブリカ』の記者に対する対抗策を話そうとし、一方、教皇は、教会とユダヤ人との亀裂を埋める第一歩とするため、ホロコーストに対する教会の反応に関する、ヴァチカン秘密文書保管所の関係文書の調査を依頼し、来週にテヴェレ川の向こうのシナゴーグでそのことを発表すると言って協力を求めますが、物別れに終わります。


6 ミュンヘン

 ガブリエルは、大学の学部長との面会までの時間、散歩に出て、ホテルから英国庭園の南端に辿り着きます。この場所は、イザール川の支流アイスバッハ(人工川)の出口の石段が定在波を生み出し、世界で最も有名なリバーサーフィンのスポット(アイスバッハヴェレ)となっています。

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 木々が陰を落とす小川(シュヴァビンガー川)が傍を流れる小径をのんびりと歩きました。公園を出て、シュヴァービングを抜け、アダルベルト通り68番地の角を曲がり、オリンピック村の南端にたどり着きます

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 草に覆われた小山に登って腰を下ろすと、思い出がよみがえってきました。「ブラック・セプテンバー」のメンバーのこと、「神の怒り作戦」のこと。ガブリエルだけでメンバーを6人殺しました。任務が終わったとき、ベンジャミンは研究者として復帰し、ガブリエルも絵の勉強を続けようとしましたが、絵の才能は殺した男たちの亡霊によって台無しにされ、ウンベルト・コンティに弟子入りし、修復の仕事に心の安らぎを見出したのです。

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 ルートヴィヒ=マクシミリアン大学の現代史学部長ヘルムート・ベンゲル博士と会ったのは、アーリエン通りとシェリング通りのにある〈レストラン・アッツィンガー〉でした。ベンジャミンの最近の著作テーマを尋ねましたが、教授は知らず、面会で得るものはありませんでした。

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 ホテルへの道すがら、ガブリエルが立ち寄り北イタリアの地図を買った書店は、通りの向こうにカフェがあり、ホテルに向かうのに左に曲がったことから、大きなお店というのには該りませんが、現在〈Buch & Töne〉となっている書店ではないでしょうか。

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 ロビーの公衆電話を使った、マクシミリアン通りのホテルというのは、〈Hotel Vier Jahreszeiten Kempinski München〉ではないでしょうか。そこからまっすぐホテルに戻ります

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 20分後、ガブリエルは、ホテルをチェックアウトして、尾行の男を意識しながら、サイツ通りとウンゼルド通りがぶつかる角を目指しました。そこに用意されていたオペル・ オメガに乗り込み夜の車列に紛れ込みました。

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 ワイス刑事は、やむなくローマに電話して、ランダウと名乗るユダヤ人に撒かれたことを報告しました。


7 リエーティ近く、イタリア

 リエーティは、ローマの北北東約63kmにあります。その近郊にラティオの丘やガラティナ邸(Villaを公園と訳されていますが)、かつてのベネディクト会修道院を改修した別荘だったという黄褐色の建物は見当りませんが、リエーティの東に位置するサン・マウロの丘にある、かつての貴族ポテンティアーニ家の狩猟用ロッジであった、4つ星ホテル〈パーク・ホテル・ヴィラ・ポテンティアーニ〉が、ロベルト・プッチ邸の雰囲気に似ています。小教区のそれより大きい、鐘楼を伴うチャペルはありませんが。

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 因みに、リエーティには、サン・ルフォ広場に「イタリアの中心」(北緯42°24′8.99と東経12°51′43.43)というモニュメントがあります。

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 チャペルでは、メンバーが互いに〈機関〉と呼ぶ教条的なカトリック信者の集まりがミサを開いていました。昼食会の後、元カラビニエリの対テロリスト部隊長であったカルロ・カサグランデ将軍、ブリンディシ枢機卿、金融家であり実業家のプッチは、ランダウという名のイスラエル人の扱いや教皇のユダヤ人との和解計画について話し合います。


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 今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部からいながら旅を続けます。

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