小説をガイドブック代わりに、登場人物たちの足跡を辿りつつ、時には寄り道もして、写真や観光資料、地図データなどを基に、舞台となっている世界各地を紹介しながらバーチャルに巡礼する、【小説 de いながら旅】の第3弾。第1シーズンの「『報復という名の芸術』de いながら旅」、第2シーズンの「『イングリッシュ・アサシン』de いながら旅」(以下、それぞれ「前旅」、「前々旅」と表記します。)に引き続き、今回もダニエル・シルヴァの作品を取り上げます。
この旅のガイドブック
今回の旅のガイドブックは、2003年(日本では2006年6月)に刊行された『告 解』です。同作は、美術修復師であると同時にイスラエル諜報機関の元暗殺工作員のガブリエル・アロンを主人公とするシリーズの3作目(原題『The Confessor』)で、”ナチス3部作”の2作目。ミュンヘンで殺された旧友の死の真相を調査するガブリエル。ヴァチカンの保守組織クルックス・ヴィラの妨害の中、カトリック教会とナチスの過去の密約に迫り、また、ユダヤ人との関係修復という教会改革を進めようとする教皇を命の危機から救います。ミュンヘンを皮切りに、ヴァチカン、イタリア(ヴェネツィア、ローマほか)、スイス(チューリッヒほか)、ウィーン、ロンドン、フランス(パリ、プロヴァンスほか)などを巡ります。
本書も、既に販売を終了しており、新品を購入することはできません。廉価な中古品は出回っていないかもしれませんので、図書館を利用するか、このいながら旅をガイドにして、kindle版(英語版)を翻訳して読んでみてください。
第1部 ミュンヘンのアパートメント
1 ミュンヘン
ベンジャミンのアパートメント
かつてアリ・シャムロンの配下だったベニこと、現在ルートヴィヒ=マクシミリアン大学(ミュンヘン大学)にヨーロッパ研究の客員教授として勤務するベンジャミン・スターンが住んでいるのは、シュヴァービング地区の、戦前の輝きがにじみ出ているような赤いレンガ造りの建物に挟まれ、正面がひび割れたベージュの化粧漆喰で、ずんぐりとして優美さに欠ける、ア-ダルベルト通り68番地のアパートメント(下のGoogleMap中央の建物がその住所の建物で、確かにアンティークな感じの赤レンガの建物に挟まれています)。通りの名前は、バイエルン王ルートヴィヒ1世の四男ア-ダルベルト・ヴィルヘルムに因んで名付けられています。
ミュンヘン中心部から北に位置するシュヴァービング地区は、19世紀末にカンディンスキー、ヘッセ、マンなど多くの芸術家や作家が活躍した地区で、現在は、複数の教育機関が顔を揃えるとともに、おしゃれなカフェやショップが並ぶエリア。東側一帯に広がる英国庭園は、ヴィッテルスバッハ家の狩猟地だった場所に1789年にカール・テオドールによって造園・拡張された公園で、総面積は373haとセントラル・パークよりも広いんです。
ルートヴィヒ通り
スターン教授は、朝のコーヒーを飲みに、ルードヴィヒ通りを歩いてヴィクトアーリエン市場へ向かいました。私自身2019年にミュンヘンに旅行したときにこの通りを歩きましたので、その時の散策も振り返りながら辿ってみます。ルートヴィヒ1世の名をとった通りの北端(レオポルド通りとの境)に立っているのは、旅行時は工事中だった勝利の門。ルートヴィヒ1世の命により,1840~52年に,建築家フリードリヒ・フォン・ゲルトナーの設計により,ローマのコンスタンティヌス凱旋門をモデルにして建造された、高さ21m,幅24m、奥行き12mの凱旋門
1815年のバイエルン解放戦争での勝利を記念したもので、上段中央には「Dem Bayerischen Heere(バイエルン軍へ)」との碑文が刻まれています。その上部には,ライオンの街ミュンヘンらしく,馬ではなく4頭のライオンが引くクアドリガが乗っています。
門の南側は、北側のように上段にメダリオンや碑文はありません。当初はありましたが、第二次世界大戦中の空襲で大きな被害を受けた後、1958年に再建する際、意図的に簡素化されました。その下の碑文には「Dem Sieg geweiht, vom Krieg zerstört, zum Frieden mahnend(勝利に捧げ、戦争によって破壊され、平和を訴える)」と書かれ、平和を希求する記念碑とされたわけです。
少し南下すると、フーバー教授広場(東側)と、ショル兄弟広場(西側)とからなるミュンヘン大学の正方形のエントランスに至ります。各広場中央のボウル型噴水は、1842~44年にゲルトナーによってローマのサン・ピエトロ広場の噴水をモデルに制作されたものです。
更に南下して左側。こちらもゲルトナーが、ルートヴィヒ1世の命を受けて,1829~44年に建設したルートヴィヒ教会。ルンドボーゲンシュティルと呼ばれる丸アーチを持つネオロマネスク様式の教会で、2つの塔の高さは71mあります。
中も見てみましょう。丸アーチで繋がった列柱で3つに区切られた、長さ60m、幅20mの広くて高い身廊です。
主祭壇には、ミケランジェロの《最後の晩餐》に次ぐ、世界で2番目に大きい壁画(18.9m×11.6m)、ペーター・フォン・コルネリウスによる《最後の審判》があります。
交差部の天井。スカイブルーの下地に描かれた天井画も素晴らしい。ほかの写真はこちらを見てください。
カウンターファサード側には、ガラス扉によって仕切られた前室があります。上部のパイプオルガンは、1960年にルドルフ・フォン・ベッケラート・オルゲルバウによって制作されたものです。
ルートヴィヒ教会で忘れずに見ておきたいのが、2009年に塗り替えられたモザイク屋根です。ゲルトナーが当初設計したパターンが復元されました。さすがにこの航空写真のように見ることはできないでしょうが、南北に少し離れれば横からカラフルで凝ったデザインのモザイク屋根を見ることができます。
南下を続けますと、通りの右側に騎馬像が見えてきます。彫刻家マックス・フォン・ヴィドマンによって1862年に制作された、第2代バイエルン王ルートヴィヒ1世の騎馬像です。
ルートヴィヒ通りの南端にあるのが、皇太子時代のルートヴィヒ1世の命により、1816年からレオ・フォン・クレンツェが開発し、1923年のミュンヘン(ビアホール)一揆の舞台となったオデオン広場。その名は、かつて広場前にあった劇場にちなんだもので、その劇場は現在は州庁舎になっています。広場の南側はフェルトヘルンハレ(将軍廟)、西側はテアティナー教会,東側は緑豊かなホーフガルテンと,観光スポットに囲まれています。
それほど横幅の広い広場ではないので、テアティナー教会のファサードの写真を正面から塔のてっぺんまで入れて撮るのはなかなか難しいです。まず、教会の中に入ってみましょう(毎日6時30分~19時30分、入場無料)。
テアティナー教会は、バイエルン選帝侯フェルディナント・マリアとその妻アデレートが、皇太子(後のマクシミリアン2世エマヌエル)の誕生を祝って、イタリアの建築家アゴスティーノ・バレリを招いて、ローマのサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ大聖堂をモデルに1663年から建てさせたもので、後任のエンリコ・ズッカリがドームと2つの塔を追加して1690年に完成させました(ロココ様式のファサードは、フランソワ・ド・キュヴィリエによって1768年に完成)、黄色の外観が特徴的な、ドイツにおける最高のイタリアンバロック様式と評される美しい教会です。内部の身廊は、長さ72.50m、幅15.50m、高さ28.55m、水漆喰で塗られ、白一色の荘厳な雰囲気に包まれています。詳しい解説はこちら
ドームの直径は約18mで、当初の計画より若干小さめに施工されました。
白亜の聖堂の中に、精緻な装飾が施された黒い説教壇が目立っています。側廊の礼拝堂もそれぞれ見逃せませんが、続きはこちらを参照してください。
高さ71mのドームと高さ66mの2つの塔の様子は、マリエン広場の新市庁舎やその南側にある聖ペーター教会の時計塔から見ることができます。写真は後者から眺めたものです。ドーム頂きの風見鶏にはここでもライオンが付けられています。また、尖塔下に付けられたカタツムリ状の装飾は、ヴェネツィアのサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂のドームから着想を得ているとのことです。
フェルトヘルンハレ(将軍廟)は、こちらもガルトナーが、ルートヴィヒ1世の命を受けて、フィレンツェのランツィのロッジアを参考に1841~44年に建設したもの。フィレンツェの方は様々な彫刻が並んでいますが、こちらは大砲を溶かして調達された青銅で作られたティリー伯ヨハン・セルクラエス(写真)とカール・フィリップ・フォン・レーデ(写真)の銅像と、1892年に中央部分に設置されたバイエルン軍記念像だけシンプルに置かれています。
1906年には、ミュンヘン動物園のライオンをモデルとして彫刻家ヴィルヘルム・フォン・ルーマンがデザインしたライオン像が追加されています。2018年にフィレンツェに旅行したときに見たランツィのロッジアのライオン像と比べると、より凛々しい感じの顔つきのライオンです。
広場東のレジデンツ通りを南に少し行くと、レジデンツの入口の脇には、2頭のライオン像が立っています。手にしている盾を触ると幸運になるというジンクスがあって、多くの人が触るので、一番下の部分が金色に光ってます。この種のジンクスって各地にありますよね。
更に南に行くと、中央に1826~35年にクリスチャン・ダニエル・ラウホによって制作された、初代バイエルン王マクシミリアン1世ヨーゼフの記念碑が鎮座するマックス・ヨーゼフ広場に至ります。記念碑の背後は、同王に命により1811~18年にカール・フォン・フィッシャーによって建造されたドイツオペラの殿堂バイエルン国立歌劇場(火災や戦災によって焼失し、現在の建物は1963年に当初の設計を再現して再建された3番目のもの)。ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、『ラインの黄金』、『ワルキューレ』はここで初演されました。
レジデンツ
広場の北側には、バイエルン王国を統治したヴィッテルスバッハ家が1809年から1918年まで宮殿としたレジデンツがあります。現在、レジデンツは博物館となっており、ミュンヘン観光の目玉となってます。見学は,①博物館、②宝物殿、③キュヴィリエ劇場の3つに区分されており、営業時間はこちらを、入場料はこちらを、それぞれ参照してください。
今回は①に入ってみましょう。
中庭「グロッテンホーフ」に面し、洞窟を模して貝殻で装飾された、ちょっとグロテスクな感じのする「グロッテンハレ(グロット宮殿)」
丸天井とフレスコ画が特徴的な全長66mのアルプス以北では最大のルネサンス様式ホールで、バイエルン公アルブレヒト5世が自身の古美術コレクションを展示するために1568~71年に建設された、レジデンツに現存する最古の部屋「アンティクアリウム」
「祖先画のギャラリー」には、ヴィッテルスバッハ家歴代の肖像画が121枚も並んでいます。
1630年までに建設された2階建ての「宮廷礼拝堂」。主祭壇画には、ハンス・ヴェルルによって、三位一体の下で栄光の座についた聖母マリアが描かれています。
マクシミリアン1世とその妻の私的な祈りの部屋として、1607年に奉献された礼拝堂「ライヘ・カペレ」。スカリオーラのパネルが並んだスタッコ色大理石の壁、金箔のレリーフが施されたブルーの天井が特徴的です。
マクシミリアン1世のもとで建設された、当時のレジデンツで最大かつ最も重要な儀式室「カイザーザール」
選帝侯が赤いベルベットの天蓋の下で外国使節の謁見を受けたという「謁見の間」
緑色の壁面が特徴的な「緑のギャラリー」では、鏡と交互に多くの絵画が金色の壮麗な額縁に縁取られて掲げられ、豪華な壺などの調度品が展示されています。
寄り道が長くなりました。スターン教授の足跡に戻ってディーナー通りを南下します。
マリエン広場
スターン教授も、ミュンヘンの街の中心であるここマリエン広場を歩いたことでしょう。クリスマーケットなども開かれるミュンヘン観光の中心スポットで、カメラを向けるべきスポットが色々ありますが、1867年から1909年にかけてゲオルグ・フォン・ハウバーリッサーによって建てられたネオゴシック様式の新市庁舎は外せません。
ここでは、毎日11時と正午(3月~10月は更に17時も)に動く、ドイツ最大の仕掛け時計グロッケンシュピールを見ておきましょう。43個の鐘(カリヨン)が鳴り響き、まず上段の人形が1568年2月にバイエルン大公ヴィルヘルム5世とレナータ・フォン・ロートリンゲンの結婚を祝して開かれた馬上槍試合を再現し、続いて下段でビール樽職人たちの踊りが始まり、最後に最上部にある金色の鶏が3回鳴いて終了です。
また、新市庁舎の南西角には、市庁舎をよじ登るドラゴンが見られます。今年(2024年)の干支が「辰」なので、年賀状に使う竜の画像にこの写真はどうかとも考えましたが、このドラゴンはペストを象徴するものであり、正月祝賀用としては相応しくないなので、やめました。
新市庁舎の正面の長さは98.5mもあり、広場から庁舎全体を写真に収めるのはなかなか難しいので、足に自信のある方は、マリエン広場の南にある、ミュンヘン最古の教会聖ペーター教会の高さ91mの鐘楼(アルトペーターの愛称で呼ばれています)の展望台(地上56m)に306段の階段で昇ってみてください。また、教会内部はこちらを参照してください。
マリエン広場の名前は,スウェーデンの占領が終わったことを祝って、1638年にバイエルン選帝侯マクシミリアン1世によって広場の真ん中に建てられた黄金のマリア像に由来します。高さ11mを超える柱の頂きには、フーベルト・ゲルハルトが制作し、かつてはフラウエン教会の主祭壇に使用されていたという、幼子イエスを抱いて三日月の上に立つ黄金のマリア像(拡大)。土台には、1639年にベルンハルト・エルンストによって追加された、詩篇91篇13節を天使(プッティ)と動物の闘いで寓話的に表す像が設置されており、ライオンは「戦争」、バジリスク(日本語版のWikipediaにはコカトリスとありますが、天使が持つ盾の文字にはバジリスクとあります。翼のあるバジリスクを意味しているのではないでしょうか)は「疫病」、ドラゴンは「飢饉」、ヘビは「異端又は不信仰」を象徴し、それらの災難を克服する様子を表しています。
ここには、1862~65年にコンラッド・ノールの設計により建造されたネオゴシック様式の噴水がありましたが,現在設置されているのは1954年にヨーゼフ・ヘンセルマンによって再建された現代風のデザインの魚の噴水です。「肉職人の飛び込み」の伝説があり,また,この噴水で財布を洗うと1年間はお金に困らないとの言い伝えがあります。
現在はおもちゃ博物館になっている、赤いとんがり帽子の旧市庁舎のアーチを東に抜けます。
因みに、旧市庁舎の足元,マリエンプラッツ通り側に、ミュンヘンと姉妹都市の関係にあるイタリアのヴェローナから寄贈されたジュリエット像が立っています。本場のものと同様、右胸がピカピカに光っています。
マリエン広場の東にある、1208年に病院の教会として創建されたミュンヘンでも最も古い教会の一つ、聖霊教会。ここも入ってみます。毎日9時(土日は8時30分)から20時まで無料で入れます。
1392年にゴシック様式に建て替えられ、1724~30年にヨハン・ゲオルク・エッテンホーファーとアザム兄弟によってバロック様式に改装されました。ピンクの装飾が可愛らしい教会です。
アザム兄弟による天井のフレスコ画(復元)は必見です。
ヴィクトアーリエン市場
そして、ここがスターン教授が朝のコーヒーを飲みに訪れた、市内最古にして最大の野外市場のヴィクトアーリエン市場です。約22,000㎡もの敷地に、野菜、果物、肉、乳製品、パン、スパイス、オーガニック食材等あらゆる食品が集まっており、活気にあふれています。左側に立っているのは、バイエルンカラーの青×白に塗られたマイバウムです。
アパートメントに戻った教授を待っていたのは、スイス人の侵入者でした。ロシア製のスチェッキンで右膝を撃ち抜かれ、バックアップディスクの隠し場所を白状させられた上、胸に2発撃ち込まれます。男は赦罪の言葉を唱え、教授の側頭部に銃口を押し当て、最後の一撃を撃ち込みました。
2 ヴァチカン
教皇を選出するコンクラーヴェは、1492年以来、ミケランジェロの《最後の審判》があるシスティーナ礼拝堂で行われています。国務省長官のマルコ・ブリンディシを候補者と推す教皇庁派(強硬派)と穏健派とが分裂する中、ピエトロ・ルチェッシは、両派の妥協によって教皇パウロ7世となっていました。
アイボリー色の聖職衣とマントを着た72歳の教皇パウロ7世が歩いていたのは、ヴァチカン市国の半分の面積を占めるヴァチカン庭園。同庭園は、教皇が所有する私有庭園でしたが、2014年から教皇フランシスコによって一般公開され、事前登録のツアーで巡ることができます。ルネサンス期の様式を取り入れた幾何学的なイタリア式庭園、美しい彫像に彩られた古典的なフランス式庭園、自然を生かしながら、洞窟、塔、寺院、遺跡など人工的な要素を取り入れたイギリス式庭園から成っています。
教皇は、エチオピア寮の前を通り過ぎ、ヴァチカン・ラジオのタワーの下で足を止め、ヴァチカン市国の南西隅の壁への石段を上がりました。そこには、1960年代初頭に教皇ヨハネ23世によって再建され、教皇の住まいの改修中の仮住まいや来賓の歓迎に使用したり、現在はバチカンの経済事務局が使用している聖ヨハネの塔があります。
教皇の視線は、テヴェレ川の向こう、古いゲットーの中心地にそびえ立つシナゴーグへと注がれていました。教皇は、ローマ・カトリック教会を土台から揺るがしかねないある危険な戦略を秘かに進めてきました。成功すれば、教会に革命を起こし、失敗すれば、教会を壊滅させるかもしれない戦略を。ローマのゲットーは、1555年に教皇ピウス4世がヴェネツィアのゲットーに倣って創設されました。ヴェネツィアのゲットーについては、第3節で紹介します。
そこへ、教皇の個人秘書で、ヴェネツィアでは〈提督〉と呼ばれた、鞭と階位で教皇庁を懐柔する汚れ役を果たすルイジ・ドナーティ神父が近付いてきて、スターン教授の死亡を報告します。敵は考えていたよりも手強く、邪悪で、自分のことを亡き者とさえするかもしれないことを知り、教皇は決意を新たにします。
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ミュンヘンにおけるプロローグが長くなってしまいましたので、今回はここまでとします。次回、第1部の続き、第3節からいながら旅を続けます。
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