『イングリッシュ・アサシン』をガイドブックとするいながら旅も、この投稿が最終回です。第3部の続き、第36節から旅を続けます。第39節までヴェネツィアをじっくり巡っています。特に、アンナの復帰コンサート会場のスクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ付近を巡った第38節は腰を落ち着けて見てください。
第3部 (続き)
36 ヴェネチア
アンナ・ロルフのヴェネチアにおける復帰コンサートに際し、宿泊先として選んだのは、サン・マルコ広場からほど近いアセンシオーネ通り沿いの5つ星ホテル〈ルナ・ホテル・バリオーニ〉でした(本書276ページではバグリオーニと誤訳されています)。因みに、ガゼッティーノ紙が争奪戦を演じていると報じたホテルのうち、〈ホテル・モナコ&グランド・カナル〉と〈グリッティ・パレス〉も近くにあります。
一方、ケラーは、オルサティ手配の協力者で、サン・マルコ地区の裏通りで宝石商を営むアルド・ロゼッティを訪ね、アンナの宿泊先やコンサート会場等の情報と武器を入手するとともに、人を使って彼女を見張り、動きがあれば連絡をもらうことにして、ホテルの近くで待機しました。
37 ヴェネチア
打合せの後、防弾チョッキを身に着けたアンナがガブリエルと出かけます。ジョルジョーネ班と名付けられた護衛チームのメンバーは、それぞれ持ち場に付いていました。ジョナサンは、ヴァポレットのサン・マルコ停船場
イサクとモーシェは、サン・マルコ広場の北側アーケードにある、1775年創業の〈グラン・カフェ・クアードリ〉
アンナとガブリエルが席をとったのは、サン・マルコ広場の南側アーケードにある、1720年に創業したイタリアで営業中の最古のコーヒーハウス〈カフェ・フロリアン〉
シモンとイラーナは、フレッツェリア通りからサン・マルコ広場を横断して、レオンチーニ広場のライオン像近くに
カフェを出ると、ガブリエルらは、チームとともに、パーリャ橋を渡ってカステロ地区へと入りました。パーリャ橋といえば、ため息橋がよく見える名所として有名です。
彼らの40ヤード背後にいたケラーは、アンナがプロの工作員に護衛されていること、この散歩が自分に姿を見せることを目的とした意図的な行動であることを感じとり、スキアヴォーニ堤のキオスクで絵葉書を買って尾行を中止し、彼らとは反対方向へ足を向けてサンタ・クローチェ地区のホテルに戻ります。写真後ろに見えているのは、エットーレ・フェラーリが1887年に制作したヴィットリオ・エマヌエーレ 2 世の記念碑です。
ガブリエルらは、北へ進み、サンタマリア・フォルモーザ広場の角にある小さなカフェに落ちつきました。おそらく〈Zanzibar〉ではないでしょうか。シモンとイラーナがジェラートを買ったのは〈Gelateria Artisan〉でしょう。
広場の中央にあるすっきりとした外観の教会が、サンタマリア・フォルモーザ教会。639年に建てられたヴェネツィアで最も古い教会の一つで、1492年にマウロ・コドゥッシによって再建されました。北側と西側と二つのファサードがあるのが特徴です。ガブリエルらがいた〈Zanzibar〉がある西側には、1688年に完成したバロック様式の鐘楼への入口があり、入口の上にグロテスクなマスクが付けられています。鐘楼の鐘を鳴らそうとする悪魔を追い払うためのものだと言われています。
ラテン十字形の身廊。教会内では、パルマ・イル・ジョヴァーネやヤコポ・ティントレット、アレッサンドロ・ヴィットリアなどのヴェネツィアの有名な芸術家による様々な作品を鑑賞することができます。
右側面最初の礼拝堂には、バルトロメオ・ヴィヴァリーニの三連祭壇画があり、中央には慈悲の聖母、左側にはジョアッキーノとアンナの出会い、右側には聖母の誕生が描かれています。
右翼廊の祭壇には、パルマ・イル・ヴェッキオの最高傑作の《聖バルバラのポリプティク》(多翼祭壇画)
その日の夜、ジョルジョーネ班から報告があり、ガブリエルの前にはケラーを撮った写真がありました。写真を見せまいとするガブリエルに、アンナは、自分を殺すかもしれない男のことを知っておく権利があると主張し、そして、自分はその男のために「悪魔のトリル」を弾くから、ガブリエルは彼をを地獄に送り返せばいいと話すのでした。
38 ヴェネチア
サン・ポーロ広場
コンサートの当日、ケラーが街の様子を記憶するため歩き回ったサン・ポーロ広場は、サン・マルコ広場に次ぐ大きな広場で、イル・モーロことアレッサンドロ・デ・メディチを殺害して逃れてきたロレンツィーノ・デ・メディチが1548年に暗殺された場所として知られています。
広場の南西角には、9世紀に設立されたサン・ポーロ教会があります。現在の建物は、15世紀の改修によってゴシック様式で建てられたものですが、その後1804年からダビデ・ロッシにより新古典主義様式への大規模な変更が加えられました。中に入ってみましょう(10時30分~17時(最終入場は閉館10分前まで。拝観料3.5€(chrus共通券あり))。
バルトロメオ・ボンによって造られた南側のゴシック様式の門を入ると、すぐ左手の礼拝堂で、ティントレットの《聖母被昇天と聖人》と《最後の晩餐》を見ることができます。
内部は3身廊式となっており、最近の修復により、木製の天井、後陣の長老室などに15世紀のゴシック様式の要素が戻りました。
16世紀の改修で左側の柱廊玄関は閉ざされて十字架礼拝堂となっており、ジャンドメニコ・ティエポロの連作《十字架の道行》を見ることができます。
通りを挟んで南側にある鐘楼は、1362年に建てられたもので、基部に向かい合う2頭のライオンの彫像は、元の建物の一部(スティロフォア)だったようです。通りを西へ進み、サン・ポーロ運河とサン・フラーリ運河を渡ると、フラーリ広場です。
フラーリ広場
午後遅くになって、ケラーがぶらぶら歩いていたパッシオン通りも北西に抜けると、フラーリ広場に通じています。
フラーリ広場の一角にあり、眼前に鐘楼がそびえ、コーヒーを注文したケラーがテーブルでガイドブックと地図を開いたというカフェは〈Bar Dogale〉ではないでしょうか(GoogleMap上のマーカーの位置が少しずれています(報告済み))。このカフェは、日本発売のシリーズ最新刊(2024年2月現在)『謀略のカンバス』(原題『Portrait of an Unknown Woman』)の第9節に登場する、ガブリエルがカラビニエリのフェラーリ将軍と待ち合わせた場所なのです。
カフェの北側に建っているのが、作中フラ―リ教会と紹介される、長さ102m、幅32m、翼廊の長さ48m、幅16m、中央身廊と翼廊の高さ28m、1338年完成のヴェネツィア最大の教会、ヴェネツィアン・ゴシック様式のサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂。その鐘楼は、ヤコポ・セレガが1361年に着工し、その息子ピエル・パオロが1396年に完成しました。高さ70mでサン・マルコの大鐘楼に次ぐ高さです。教会の公式サイトによれば、鐘楼の方はロマネスク様式と紹介されています。
教会の中に入ってみましょう(9時(日曜日は13時)~18時(最終入場17時30分)、拝観料5€(年齢等による割引あり))。この教会で必見なのが、この教会に埋葬された(身廊右側に葬儀記念碑があります)ティツィアーノ・ヴェッチェリオが1518年に完成させた主祭壇画《聖母被昇天》です。
縦690cm、横360cmのヴェネツィアで最大の祭壇画。ティツィアーノには同じ主題の絵が複数あり、ドゥブロヴニク大聖堂のものは見たことがあります。
右側の礼拝堂にあるジョヴァンニ・ベッリーニの《聖母と諸聖人》の三幅対祭壇画(写真)やバルトロメオ・ヴィヴァリーニの多翼祭壇画、ドナテッロの《バッティスタ》なども見どころです。
フラーリ教会を南西に回り込むと、サン・ロッコ広場に出ます。
サン・ロッコ教会
サン・ロッコ広場の西側にあるのがサン・ロッコ教会。開館時間に注意してください(毎日14時(土日は9時30分)~17時30分(最終入場17時)、拝観料2€)。
1485年にその聖遺体がヴェネツィアに移された、ペストに対する守護聖人サン・ロッコを祀るため、ピエトロ・ボンによって1498~1508年に建てられた教会です。
ヴェントゥリーノ・ファントーニによって設計された主祭壇。サン・ロッコの聖遺体は1520年に納められました。
天井のクーポラと後陣のフレスコ画は、イル・ポルデノーネの作
スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ
コンサート会場のスクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコは、サン・ロッコ広場の南側に、サン・ロッコ教会に直角に接して建っています。1478年に病人への慈善活動を目的として設立されたキリスト教団体の本拠地で、建物はピエトロ・ボンが1617年に着工し、サンテ・ロンバルド、スカルパニーノが引き継ぎ、グリエルモ・デイ・グリジが1560年に完成しました。
この建物については、ロゼッティが説明しているとおり(第36節(280ページ))、1階と2階にホールがあり、1564年にティントレットが壁と天井の装飾を請け負い、23年の年月を費やして56点もの作品を仕上げており、まるでティントレット美術館のようだと言われています。入口の料金所を過ぎると、1階のホールに直結しています。 毎日9時30分~17時30分(最終入場17時)、拝観料10€(年齢によって割引あり)
このホールは「サラ・テレナ(Sala Terrena)」といい、下調べをしたケラーがティントレットの大作に見入っている振りをしたところです。
このホールには、ティントレットの最後の作品となった、聖母マリアの生涯とキリストの子供時代のエピソードをテーマにした8つの作品が飾られています。入口を入って左サイドから順に
《受胎告知》
《東方三博士の礼拝》
《エジプトへの逃避》
《嬰児虐殺》
奥の壁中央にあるのがサン・ロッコの像。裾をめくって傷を負った足を見せ、傍にパンを咥えた犬がいるのが特徴。モンペリエ総督の子息であった彼は、全財産を投げ捨てて巡礼の旅に出て、ペスト患者の介護にあたり、患者の頭上に十字架の印をすると、患者はたちまち癒えたという伝説があります。
サン・ロッコの像を挟んで両サイドの角にある、縦に細長い絵が、《聖マリア・マグダレーナ》(左)と《エジプトの聖マリア》(右)
右サイドに回って、《キリストの割礼》
《聖母被昇天》
ケラーが確認した2階への階段は、《キリストの割礼》の両脇にあります。踊り場までの階段下側はシンプル
この大階段(Scalone)はスカルパニーノの設計。1630年のペストの流行をテーマに、階段の右側にはアントニオ・ザンキによる1666年制作の《ペスト退散を聖母に祈るサン・ロッコ》、左側にはピエトロ・ネグリによる1673年制作の《ヴェネツィアをペストから救う聖母》があります。
また、頭上のドームのフレスコ画は、ジョヴァンニ・アントニオ・フミアーニの《聖ロッコによって提示された貧しい病人の前で宗教のトーチを持った慈善》
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2階の大広間で着席位置を確認した後、ケラーはロゼッティの店に行きます。そのときに乗ったトラゲットというのは、カナル・グランデを渡るための乗合いのゴンドラ(Gondola Traghetto)のことで、観光用のゴンドラと違って予約不要で、2€(ヴェネツィア市民は0.7€)で乗れます。乗り場は何か所かあり、ケラーが利用したのはサン・トマ乗り場ではないでしょうか。
ケラーがボートの手配を依頼したときに指定したゴルドーニ美術館(その近くのサン・ポーロ運河)というのは、ヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴルドーニの生家〈Casa di Carlo Goldoni〉のことでしょう。
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午後7時半、アンナとガブリエルは、チームメンバーと3台の水上タクシーに分乗して、カナル・グランデからフレスカーダ運河を通ってスクオーラに向かいました。一般的な水上タクシーは、初乗り料金が15€で、1分毎に2€加算され、電話で呼び出す場合は+5€となっています。
フレスカーダ運河は、グラン・カナルからスクオーラに至る長さ267mの運河で、ロゼッティが説明したように(282ページ)幅が狭く、フレスカーダ橋、ポンテ・デ・ラ・ドンナ・オネスタ、サン・ロッコ橋及びスクオーラ橋の4つの橋が架かっています。写真右側に写っているのは、4つ星ホテルの〈パラツェット・マドンナ〉
護衛チームに囲まれたアンナが到着したのは、フレスカーダ運河に面するスクオーラのソトポルテゴに通じる船着き場でしょう。スクオーラ裏側は、白亜のファサードが特徴的な表側とは違った外観です。
アンナのコンサートが開かれる、2階の大広間「サラ・カビトラーレ(Sala Capitolare)」。ここもティントレットの作品で埋め尽くされています。
天井には、旧約聖書に関する21の作品があります。1577年に完成した中央の3点は、約束の地に向かうユダヤ人の旅における基本的な物語をモチーフにしています。
《岩から水を湧き出させるモーゼ》
《青銅の蛇》
《マナの収集》
一方、壁には、新約聖書に関する10の作品があります。
まず、大階段を上がった入口から見て奥の壁を、左から上の図の①から⑤まで
①《羊飼いの礼拝》
②《キリストの洗礼》
③《キリストの復活》
④《庭園の祈り》
⑤《最後の晩餐》
アンナは、コンサート開催前の慣例に従い、会場の設営状況を入念に見て回りました。通常この広間をコンサート会場等として使用する場合は、ティントレットが息子ドメニコの助けを借りて1588年に完成した《サン・ロッコの出現》が飾られた祭壇の前にある2体の彫像と柵で仕切られた一画をステージとするようです。
続いて、大階段のある側の壁を、祭壇横の⑥から⑨まで
⑥《パンと魚の奇跡》
この⑦の絵の下には扉がありますが、会場点検後にプロモーターのザッカリア・コルドーニがアンナをギャラリーに案内する際に通ったステージ裏の扉ではないでしょうか。
⑦《ラザロの蘇生》
この扉を抜けたところは、「カンチェッレリア(Cancelleria)」という小部屋になっており、コンサート終了後(第39節(303ページ))、アンナがコルドーニらといた舞台裏の部屋かもしれません。奥に扉があり、大階段のクーポラ横の階段室に通じているのではないでしょうか。
この⑧の絵の下にも扉があり、奥の階段から同じ階段室に通じているのではないでしょうか。
⑧《昇 天》
⑨《ベデスタの池》
コンサート中、ガブリエルが見張りに立ったのは、⑩の《キリストの試練》の下の位置でした。
アンナの奏でる「悪魔のトリル」第3楽章がGマイナのアルペジオの中に消え去ると、聴衆は一斉に拍手喝采を浴びせました。一方、ガブリエルは、彼女に背を向けて、暗殺者がいないか室内を見回していました。⑩の位置に立っているガブリエルがアンナに背を向けたとすると、ステージは、祭壇側ではなく、反対側のサン・ロッコとサン・セバスティアーノの人物画の前に設置されていたのでしょうか。
⑨と⑩の絵の間の扉を抜けると、接客の間「サラ・デッラルベルゴ(Sala dell’Albergo)」に通じています。天井には、ティントレットによるこの建物での最初の作品《栄光のサン・ロッコ》があります。この絵は、彼がこの建物の仕事を引き受けるコンペのために制作した作品で、他のコンペ参加者が指定の素描を提出したのに対し、彼は一晩で絵を完成させて天井に設置して寄贈したという逸話が残っています。
プロジェクトを請け負うことに見事成功し、翌年完成させたのが奥の壁面の《磔刑》です。
入口側の壁には、キリストの受難の物語(《ピラトの前のキリスト》・《いばらの戴冠》・《ゴルゴダの丘》)が、通常とは異なり右から左へ、展開しています。
39 ヴェネチア
控室に戻ったアンナがガルネリのケースを開けると、「贈呈 — 俺よりもあなたの方が、これを持っているべきだ。ガブリエルに、俺に感謝しろと言ってくれ」と書かれたメモと、手の形をした赤珊瑚のペンダント、コルシカ島のお守り「邪眼(L’Ochju)」が入っていました。世界の広範囲に分布する民間伝承の一つで、ファティマの手又はハムサともいいます。
演奏会前に控室の前にいたワイン色の上着を着た男がケラーだったのです。ケラーは、指定したサン・ポーロ運河から水上タクシーに乗りました。
40 チューリッヒ
ゲルハルト・ピーターソンは、事務所で電話を待っていましたが、アンナ・ロルフの悲報ではなく、ヴェネツィア公演での輝かしい復活のニュースが飛び込んできました。彼は、ジル川に沿って南へ向かい、ヴィーディコンの通りを20分ほど走って、チューリッヒ湖が見えるアパートメントに向かいました。
玄関ホールでエレベーターを待っていた女に下心を抱いた瞬間、ライターに仕込まれた麻酔薬を顔に吹きつけられて気を失い、ヘブライ系の男に抱きかかえられます。
41 マッレス・ヴェノスタ、イタリア
ピーターソンは、(イタリア北東部トレンティーノ=アルト・アディジェにあるマッレス・ヴェノスタで)地下室にブリーフ1枚で手首と足首をガムテープで縛れて囚われていました。
氷水で目を覚まされ、注射を打たれて、知っていることをすべて話すようにと地下室から連れ出されます。
42 マッレス・ヴェノスタ、イタリア
町の中心にある、左からサンタ・マリア・アスンタ教会、フレーリッヒ塔、聖マルティン教会
ガブリエルに対面したピーターソンは、最初こそ威勢を張っていましたが、女との淫らな写真や妻子を盗み撮りした写真などを見せられ、ついには、アウグストゥス・ロルフが過去の過ちを暴露するのを阻止するために、〈リュトリ・カウンシル〉の命令で彼のコレクションを盗み出すことにしたこと、その際、彼に遭遇したヴェルナー・ミュラーが彼を殺害したこと、そこから始まったすべてを話し、盗み出した絵のありかについて、”オットー・ゲスラー”という名を明かしました。
43 マッレス・ヴェノスタ、イタリア
エリ・ラヴォンほかチームのメンバーは、オットー・ゲスラーについて情報を集めました。ガブリエルは、ピーターソンにゲスラーの山荘に連れていき、ロルフの絵を取り戻すのに手を貸すよう頼みます。ゲスラーに取引を持ち掛け、相当額の手数料とこの件にゲスラーが関わっていることを公にしないという保証と引き換えに絵を返還してもらおうというのです。写真は、マッレス・ヴェノスタの北東に見えるモンテ・マリア修道院
ガブリエルは、ピーターソンと彼のメルセデスに乗り込みました。ダヴォス、ライヒェナウを経由して、グリムゼルを越えた辺りで雪が降り出します。途中、ピーターソンは、ガブリエルがハミディ暗殺に関わっていたことをスイスの情報機関に伝えたのが(前旅で復讐した)タリク・アルホウラニであることを明かしました。
山荘に着いたピーターソンは、門を通るとき警備員に(第6節ではケーラーと名乗っていましたが)ゲルハルト・ピーターソンと本名を名乗りました(それがサインだったのでしょう)。ゲスラーが待つというプールハウスに向かう途中、ガブリエルは不意をつかれ、捕らえられてしまいます。
44~47 ニートヴァルデン、スイス
ガブリエルは、拷問を受け、チューリッヒの金庫から持ち出した絵のありかとアンナの行方を聞かれましたが、一切答えようとはしませんでした。盲目のゲスラーと対面し、その強欲に触れ、ロルフの絵の返還が到底かなわないと悟ります。そして、再び閉じ込められたガブリエルの前にピーターソンが現れ、戦中フランスからスイスに逃げてきたユダヤ人を彼の父親がゲシュタポに通報したことへの贖罪として、ガブリエルを逃がします。
ガブリエルは、山腹を下っていくときに警備員に見つかり、犬に腕を噛みつかれて骨折しますが、なんとかラヴォンとオーデのもとに辿りつきます。
第4部 3カ月後
48 ポート・ナヴァス、コーンウォール
コーンウォールに戻ったガブリエルに、イシャーウッドのギャラリーから14世紀オランダの三連祭壇装飾画の中央の作品か送られてきます。イシャウッドの直感どおりロヒール・ファン・デル・ウェイデンの習作だったのでしょうか。因みに、第1節で引用したロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵の《読書するマグダラのマリア》は、オリジナルの祭壇画の右側部分であったとされ、カルースト・グルベンキアン美術館所蔵の《聖ヨセフの頭部》と《聖女の頭部》がその上部の一部であったと考えられています。写真は、各絵画を貼り合わせて復元を試みたものです。
シャムロンが訪ねてきます。ロルフの金庫から見つけた16点の絵画のうち9点は正当な持ち主の子孫に返却され、その他はイスラエル美術館に収蔵されることを知らせ、アンナから預かったとして、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートチケットを渡します。こんな顔では行けないというガブリエルに、ウィーンでの事件のことで自分を責めるのはもうそろそろやめてはどうだと話し、別の提案をします。
49 コルシカ
アントン・オルサティを昼食に招いたケラーは、オルサティにヴェネツィアでのいきさつを話し、自らの調査に基づき作成した書類を手渡して、仕事を放棄した理由を説明します。そして、オットー・ゲスラーのことを死に値する男だと言い、身辺が盤石な守りであっても自分ならその上手を行くことができると話しました。オルサティは、ああいう類の男を殺すのは並大抵のことではなく、自分の援助が必要だと語りました。
50 コスタ・デ・プラタ、ポルトガル
ガブリエルがノックもせずにアンナの部屋に入ると、アンナは、ラミだと思って怒鳴りだしますが、入ってきたのがガブリエルだとわかると、ガルネリを取り落としてしまいます。写真は、アンナの住むシントラのシンボル、ムーア人の城跡とペーナ宮殿
すんでのところでガルネリを受け止めたガブリエルは、護衛任務を命じられやってきたと話します。アンナは、もう少しでラミと殺し合いになるところだったと言ってガブリエルを歓迎し、警備員はガブリエル一人で十分だと話すのでした。
51 ニートヴァルデン、スイス
1859年に「ウィリアム・ テル」の作者フリードリヒ・シラーの生誕100周年を記念して、リュトリへの道しるべとして「Mythenstein」と呼ばれる岩をシラーのモニュメント(Schillerstein)に改造することを決定し、オベリスクの形に彫られました。
ゲスラーのプールハウス。今日は調子がいいとストロークを数えながら泳ぐゲスラーがプールの壁に手を伸ばしたそのとき、彼は腕をつかまれ、水から引き上げられたかと思うと、次の瞬間、心臓にナイフが突き立てられました。そして、彼は永遠の暗闇の中へ沈んでいくのでした。
エピローグ
1996年スイス連邦議会は第三者専門家委員会(ベルジェ委員会)を設立し、第2次世界大戦時におけるスイス連邦の活動を調査するように命じました。2001年8月発表の最終報告によりますと、スイスには戦時中に相当数の絵画が流入しており、略奪美術品のトレードセンターになっていたとされました。どれ程の作品が隠されているのかは知る由もありません。
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第2弾のいながら旅は、以上で完結です。次の旅を楽しみにしてお待ちください。
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