第2部の続き、第24節からいながら旅を続けます。
第2部 (続き)
24 ミュンヘン・チューリッヒ
ガブリエルは、ミュンヘン中央駅の入口で協力者に出迎えられ、用意された車とベレッタを受け取ります。正面玄関は、2019年から改修工事中です。
1839年に開業した同駅は、乗降客数がドイツ3番目、地上32線、地下2線と世界で2番目のホーム線路を備える、頭端式のターミナル駅です。
藍色のメルセデス・セダン(写真はEQS450+)に乗り込み、E54号ハイウェイをチューリッヒに向かいました。
途中左に見えるボーデン湖は(E54号は湖の北側を通っています)、コンスタンツ湖ともいい、面積539㎢、最大水深252mの湖で、写真は湖の東部に浮かぶ島リンダウの港の入口に建つ、リンダウ灯台とバイエルンライオンです。
また、シャフハウゼンからライン川を渡り、ラウフェン=ウーヴィーゼンを抜ける際には、ノイウハウゼン・アム・ラインファルとの間にある、ラインの滝の近く(下の写真及びGoogleMap上の青線)を通ったことでしょう。
ラインの滝は、落差さは23mほどですが、横幅が約150mもあって、ヨーロッパ最大の水量を誇り、詩人ゲーテも生涯に4度も訪れて褒めたたえた名瀑です。ラインの滝を見下ろせる丘の上には、858年まで歴史を遡るラウフェン城があり(現在はユースホステルとレストランがあるそうです)、そこから高さの異なる3つの展望台(上段がBelvedere展望台、中断がFischetz展望台,下段がKänzeli展望台)に降りていくことができ、特に一番下のケンツェリ展望台からは、水しぶきがかかるほど間近で迫力ある滝の流れを見ることができます。
また、現地アトラクションでは、4種類の遊覧船があって、滝の中央にある岩まで行ったり、遊覧することもできます。
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ガブリエルは、アンナから聞いたコードを打ち込み、ロルフの屋敷の中に入ります。教わった場所にロルフのコレクションの来歴書はありませんでしたが、彼の机の二重底になっている引き出しから、大戦中の金融取引と送金の記録、ドイツ人の名横に12桁の数字が書かれた薄紙、そして、2枚の写真を見つけます。そのうち1枚には、ロルフがアドルフ・ヒトラー、ハインリヒ・ヒムラーと一緒に写っていました。アンナの母が自殺したときに見たのはこの写真ではないでしょうか。
戸口に向かうと、そこには男が立っていて、握られた銃がガブリエルの心臓に向けられていました。
25 チューリッヒ
襲ってきた男達のうち2人を射殺して、塀を乗り越え、クレービュール通りに出ます。アウディのセダンで彼を拾い上げたのはアンナでした。
ポルトガルに帰れというガブリエルに、アンナは、いっしょにやると言い放ちます。
26 リヨン
テロー広場の噴水「海に向かう川と水源」は、1892年に自由の女神の作者オーギュスト・バルトルディが制作し、一般にはバルトルディの噴水と呼ばれています。女神がフランスを馬が4つの河川を象徴しています。
エミール・ジャコービ教授は、ランテンヌ通りのアパートメントで、前日やってきたガブリエル・アロンが話した、アウグストゥス・ロルフと消えたコレクション、スイスの金融寡頭制度にとっての不名誉な話を、録音したテープで聞いていました。ところが、忍び込んだ男に喉を締め上げられ、同時に首のつけ根をナイフで切り裂かれ、男は録音機を持ち去るのでした。
27 ウィーン
ガブリエルとアンナは、シュテファン大聖堂からすぐの、ヴァイブル通りにある4つ星ホテル〈カイゼリン・エリザベス・ホテル〉にチェックインしました。
ガブリエルは、ひとりでシュテファン・プラッツの寺院へ向かました。前旅冒頭に登場したオーストリアで最も重要な教会の一つ、シュテファン大聖堂は、「シュテッフル」の愛称で呼ばれるウィーンのシンボルであり、ウィーン観光必見の歴史的名所です。
正面玄関の右側の壁には、「05」の文字が刻まれ、ガラスで覆われています。0(ゼロ)はO(オー)を、5はアルファベット5番目のEを示し、オーストリアのドイツ語表記「Österreich」の頭文字Öをウムラウトを用いずに書いた場合の代替表記OEを表したもので、第二次世界大戦中、オーストリアの独立を意味する暗号として、街の至るところで見られたとのことです。
ガブリエルは、寺院の身廊を進むと、リーアの車が爆破されたあの夜に修復を終えた、聖シュテファンの受難を描いた装飾画を見上げました。
その後、ユダヤ人居住地区へ向かいます。前旅(プロローグ)で紹介しましたように、ウィーン市民の間で〈バミューダ・トライアングル〉と呼ばれる地区とされていますが、ルプレヒト教会を中心として、1980年代初めにできた〈Krah Krah〉・〈Roter Engel〉・〈Kaktus〉などのバーをつなぐ三角形で囲まれた(したがってユーデンプラッツ周辺からは外れています)、バーやパブが深夜まで営業するナイトスポットのことで、若者たちが一度足を踏み入れると酔いつぶれて朝まで帰ってこないことに由来して、いつしかそのように呼ばれるようになったようです。
ここで少しサイドトリップ。ルプレヒト教会から北に抜けると、モルツィン・プラッツの北隅に「ゲシュタポの犠牲者を追悼する記念碑」が建っています。旧ホテル・メトロポールの建物を接収して1938年から1945年まで設置されたゲシュタポのウィーン本部の正面玄関前にあたる場所に、ウィーン市市立石工工房の技術主任レオポルド・グラウザムの設計により1985年11月1日に設置されたものです。強制収容所を連想させ、一番上のブロックには、収容所で政治犯が付けなければならなかった赤の逆三角形、ユダヤ人が付けなければならなかった黄色の星印とともに、「決して忘れない」という碑文が刻まれています。
ラーベンシュタイクを南に戻って、ザイテンシュッテッテンガッセとの交差点には、ユダヤ人居住区の境界線に張られていた鎖がそのまま残っています。また、ここには1825年に取り壊されるまで、バーベンベルク家時代の城壁の一部であった、ウィーンで最も古い門の一つがあったとされます。
ザイテンシュテッテンガッセには、唯一ウィーンに第二次世界大戦前から残るシナゴーグがあります。戦前、オーストリア全体で19万1千人(ウィーンには17万6千人。作中にはざっと20万人としていますが)を超えるユダヤ人が住んでいましたが、1938年のアンシュルスによってオーストリアがドイツに併合されると、ユダヤ人に対する弾圧が進められ、12万8千人が国外に移送され、6万5千人が殺されました。ここを集合場所としたユダヤ人関連の遺産や記念碑を巡る現地ツアーもあるようです。
作中、ガブリエルは、シュテルンガッセ沿いのシャッターが閉まったバーを通り過ぎ、石階段へと通じる曲がりくねった小路へ入っていったとありますが、階段の上にある建物を訪ねていることから、その小路こそシュテルンガッセではないでしょうか。
エリ・ラヴォンの〈戦争犯罪調査事務所〉がある、「階段の上の飾り釘のついた重厚な扉の建物」は、シュラルンガッセの階段上にある〈Wiener Neustädter Hof〉がモデルではないでしょうか。ガブリエルがロルフの机から持ち出した2枚の写真と書類を見せて意見を求めると、ラヴォンは、ロルフが彼と一緒に写真に写っているSSのメンバーのヴァルター・シェレンベルクの代理人であったのではないかと話し、ニューヨークの知り合いに調査を依頼してみることになります。
ラヴォンはガブリエルをユーデン・プラッツへと連れ出します。前旅(プロローグ)にも登場したユーデン・プラッツは、長方形の小さな広場で、北東側(写真背後)に建っているのは、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハの計画に基づき1709~14年に建てられた旧ボヘミア宮廷官邸の建物で、現在は最高行政裁判所となっています。オーストリアでは、一般の裁判所に行政機関の行為に関する管轄権はなく、憲法裁判所又は行政裁判所で取り扱います。
建物の前(広場の東側)にたっている銅像は、寛容の概念を主張した啓蒙主義のドイツ詩人ゴットホルト・エフライム・レッシングの記念碑です。ジークフリート・シャローが制作したもので、初代の像は1935年に国家社会主義者によって解体され、現在のものは1962~65年に制作された2代目の像です。当初はルプレヒト広場に設置されていましたが、1981年にここに移設されました。
レッシング記念碑の後ろの建物は、「偉大なヨルダンへ」というウィーンで最も古い建物の一つで、反ユダヤ主義のレリーフが埋め込まれています。
広場西側にあるホロコースト記念碑は、「ショア事件で殺害された65,000人のオーストリア系ユダヤ人への記念碑」又は「無名の図書館」ととも呼ばれ、サイモン・ヴィーゼンタールの発案に基づき、英国の芸術家レイチェル・ホワイトリードの設計によって2000年10月25日に除幕されました。外壁は背表紙を内側に向けた本棚をイメージしており、扉も裏向きでドアノブ等はありません。正面足元の台座には、ドイツ語、英語、ヘブライ語で「1938年から1945年の間にナチスによって殺害された、65,000人以上のオーストリア系ユダヤ人を追悼する」という文章とダビデの星が、また、記念碑を囲む残り三方の台座には、アウシュヴィッツをはじめとする、ナチス統治下でオーストリア系ユダヤ人が殺害された場所の名前が、それぞれ刻まれています。
2000年10月25日記念碑の除幕を記念して、記念碑の後ろの建物(ミスラキハウス)に、ユダヤ博物館の分館(ユーデンプラッツ博物館)がオープンしました。受付左のコンピューターでは、ホロコーストで亡くなったユダヤ人の名前と死亡日のデータが閲覧できるほか、1421年のウィーン・ゲセラで破壊され、ユーデンプラッツから発見された中世のシナゴーグ(ヨーロッパ最大)の遺跡などが展示され、シナゴーグや、当時の街の様子やユダヤ人の生活がコンピューターグラフィックで映し出されています。
ガブリエルは、リーアや息子とともに最後に食事をしたトラットリアに歩いていきました。前旅(プロローグ)で推理したとおり、クルレントガッセにある〈Osteria Mangia e Ridi〉のことではないでしょうか。ただ、この場所からはシュテファン寺院の尖塔は見えないと思われますが。
ホテルの部屋に戻り、ディ・プレッセ紙を開くと、第一面にリヨンで起こったジャコービ教授の殺人事件が報じられていました。
28 ウィーン
夕暮れも迫ったころ、ラヴォンからホテルに電話が入り、階下へ降りていくと、彼はロビーの休憩室にいました。
ロルフは、元はパリのユダヤ人画商等のところにあった印象派と現代美術の作品を、1941~44年に数多く、シェレンベルクとの関係を利用して仕入れていたことがわかりました。ガブリエルは、アンナにこれまでにわかった事実全てを告げ、変装した彼女とともにチューリッヒに戻って捜査を進めることになります。
29 チューリッヒ
翌朝、二人は、金融の中心であるパラーデ広場から西に入った、バーンホフ通りとシール川に挟まれた閑静な地域にあるプライベートバンク、手始めはベーレンガッセ43番地の〈ホフマン&ベック〉から捜査を開始しました(43番地に該当の銀行はありません)。写真は、すぐ近くのブライヒアー通り8番地にある〈EFG Bank AG〉です。1995年設立で比較的歴史は浅いものです。チューリッヒ系のプライベートバンクは、戦争で活躍した傭兵が命を対価として得た報酬を集めて発展しました。
収穫がないまま11社を回り、2時間もバーンホフ通りをうろつきました。写真は、バーンホフ通り36番地にある、チューリッヒに本拠を置く1890年創業の老舗プライベートバンクの〈Julius Bär〉。
次に訪れたオフィスで、貸金庫の口座番号をアンナの母の誕生日と兄の最後の自転車レースでのゼッケン番号を組み合わせた番号と解き明かし、問われたパスワードを「アダージョ」と告げると、会議室に案内され、マネ、ピカソ、ゴッホなど16点の作品が収められた貸金庫と、各国の現金やアコーディオン形のファイル、そして手紙の束が入った小さな金庫が出されてきました。手紙の中には、ロルフが自らの死を予感し、ガブリエルに宛てた告白の手紙が含まれていました。
30 チューリッヒ
二人は、チューリッヒから北に向かいました。ガブリエルは、アウグストゥス・ロルフの手紙から彼が殺害された筋書きを組み立てました。ちょうどウィーンの爆破事件後に初めて我を忘れようと取り組んだティントレットの《キリストの洗礼》の修復のように、わずかな部分をつなぎあわせるようにして。ティントレットには同じ主題の作品が複数あります(①、②、③)が、プライベート・チャペルのために描かれたとあることから、ヴェネチアのサン・シルヴェストロ教会の右側の最初の祭壇にあり、最近修復が行われたもの(1580年)でしょうか。
ガブリエルの考えた筋書きはこうです。ロルフは、フランス在住のユダヤ人収集家や画商から没収されたものを違法に手に入れたという罪の意識から、正当な持ち主に極秘裏に返したいと考え、イスラエルの情報機関に連絡を取った。彼の計画に気付いた彼ら〈スイスの理想と中立、独立心の守護者〉は、ゲルハルト・ピーターソンを遣って脅しをかけたが、ロルフが考えを改めなかったので、ヴェルナー・ミュラーにコレクションを盗み出させようとした。ところが、ガブリエルに会うために自宅にいたロルフと鉢合わせしてしまい、ミュラーはロルフを殺害してしまった。そして、ロルフの遺体を発見したガブリエルの尋問によりロルフの計画が予想以上に進行していたことを知り、ガブリエルやアンナを監視下に置いた上、浄化作戦に打って出て、ミュラーを殺害してギャラリーも爆破し、エミール・ジャコービも殺害した…と。
31 バルゲン、スイス
スイス最北端の寂れた町バルゲンの駐車場で、国境を越えるための支援者の到着を待ちながら、ガブリエルは、アンナの質問に答えて、10年前のあの夜ウィーンで起こったことを語り始めました。
シャムロンが用意したトラックに乗り込んで国境を越えます。
国境の向こう側には、藍色のフォード・フィエスタが待機していました。ガブリエルは、貸金庫をトランクに入れて、シュトゥットガルト、カールスルー、フランクフルトを経由してオランダのデルフトに向かいました。
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午前2時にデルフトに到着し、新教会の尖塔の見えるホテルに入りました。ファーンデル通り沿いとのことから〈Hotel De Plataan Delft Centrum〉のことでしょうか。デルフトは、ヨハネス・フェルメールが生まれた町。高さ108.75mとオランダで2番目に高い鐘楼を持つ新教会は、1381年に建設が開始され、1655年にようやく完成。376段の螺旋階段を上って85mの高さまで行くことができます。
8時間後には、フク・ファン・ホラントからハリッチ行きのフェリーに乗船する予定です。
どうしてパスワードが「アダージョ」だとわかったのかと尋ねるガブリエルに、アンナは、自分が最初に習った曲がアルビノーニのアダージョで、父のお気に入りの曲だったと答え、罪の赦免を求めた父がやり残したことを代わりにやり遂げたいと語ったのでした。
第3部
32 ニートヴァルデン、スイス
ゲルハルト・ピーターソンは、シュタンスの街を走り抜け、ゲスラーの山荘に向かっていました。山荘からほど近いルツェルン湖岸にあるとされるのが、1291年8月1日にウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州のリーダーが集結してハプスブルク家に対抗して自治独立を維持するための永久盟約を結んだ、スイス連邦発祥の地「リュトリの野」です。
そうすると、ゲスラーの山荘の場所がシュタンザーホルンの麓だとする第6節での推理は崩れます。ニーダーバウエン・クルムの麓なのでしょうか。ニーダーバウエン・クルムは、ニートヴァルデンとウーリの両州にまたがる標高1923mの山
富裕な個人銀行家と実業家の一団によって、永久盟約同様、民と財産に対し悪行を企てる者すべてに対抗することを誓って発足したのが〈リュトリ・カウンシル〉で、その議長がオットー・ゲスラーでした。ピーターソンは、ガブリエルらがロルフの収集品について事実を知ってしまったことをゲスラーに報告しました。ゲスラーは、アントン・オルサティに連絡を取って、二人を排除するように指示します。
33 ロンドン
ガブリエルとアンナがフェリーで着いたのは、イングランド東部のハリッチでした。
二人がロルフのコレクションを入れた金庫と共にジュリアン・イシャーウッドのギャラリーに着いたのは、午後遅くになってからでした。16点の中にはナチスがジュリアンの父のギャラリーから没収したルノアールも含まれていました。写真は、1941年にナチスがパリの美術品収集家アルフレート・ワインベルガー氏から略奪し、70年以上を経て2018年9月に相続人である孫娘に返還された、ルノアールが1919年に制作した《Deux Femmes Dans Un Jardin》です。
ガブリエルがロルフの残りのコレクションを取り戻す計画を話します。首相が許可しないと反対するシャムロンに対し、アンナは首相に話さなければいいと言います。彼女の考えに賛同するガブリエル。ガブリエルがアンナに愛情を感じていることを見抜いたシャムロンは、ヴェネチア公演をキャンセルするように彼女を説得すべきだと言います。ガブリエルが彼女はキャンセルしないと話すと、それならそれを利用する手もあると、陽動作戦を示唆します。ガブリエルは、エリ・ラヴォンの手助けが要ると話すのでした。
34 チューリッヒ
ピーターソンは、チューリッヒ湖を望む高級アパートメントに帰宅します。妻エヴァとの関係は冷え、自宅では孤島のような存在でした。写真は、グロスミュンスター大聖堂のカールの塔(187段の階段で上ることができます。5CHF)からの眺め
35 コルシカ
リヨンでのジャコービ教授暗殺の仕事以来、ケラーは意識にほころびを感じて荒れていました。彼がリヨンから帰って3日後、オルサティは彼を広場近くのレストラン(写真は、エヴィザの広場近くの〈A Tramula Caffé di la Posta〉)のディナーに招き、ヴェネチアでの仕事を持ちかけます。暗殺対象の二人に関する書類を見て、ケラーはガブリエルに見覚えがあることに気付きます。
ケラーは、旅支度をしてから、シグナドーラに会いに行きました。彼女から殺された夫の復讐をオルサティに依頼したときの話を聞き、更に「追跡者はときに善を為す。時にはとてつもない悪をも為し得る。復讐と同じように正義を為すことができる」と言われます。彼は、カルヴィからマルセイユへ向かうフェリーに乗船し、ヴェネチアへと出発したのでした。第2節で言及しましたが、現在はカルヴィからマルセイユへの航路はありません。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第3部の続き、第36節からいながら旅を続けます。
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