ダニエル・シルヴァの小説『イングリッシュ・アサシン』de いながら旅 (2)

● ダニエル・シルヴァ
● ダニエル・シルヴァイングリッシュ・アサシン

 第2部からいながら旅を続けます。


第2部

13 ローマ

 夜明けから1時間後、ガブリエルとアンナは、国境を越えてイタリアへ入りました。ミラノから、アンナはリスボンへ飛び、ガブリエルは車でローマへ向かいました。ミラノ・マルペンサ空港MXP)は、ミラノ市の北西48kmにあります。リスボンまでは、ITAエアウェイズTAPポルトガル航空など複数運行されており、飛行時間は約2時間50分

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 ローマでガブリエルが宿泊したホテルは、アウレリアヌス城壁の外側に沿って、ピンチャーナ門があるブラシーレ広場(写真)からピア門があるポルタ・ピア広場に至る広い道路コルソ・ディタリアを挟んで、ボルゲーゼ公園の向かい側にありました。

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 ガブリエルが朝にジョギングをしたボルゲーゼ公園。1605年に枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼが庭園に変えることを決め、建築家フラミニオ・ポンツィオが造園した、広さ80haのイギリス庭園

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 褐色の髪が美しい娘のいるカフェがあるというヴェネト通りは、第一次世界大戦でイタリア軍が勝利したヴィットリオ・ヴェネトの戦いに由来してヴィットリオ・ヴェネト通りともいう、ピンチャーナ門からバルベリーニ広場に逆S字状に通じる通りです。写真は、ドームが特徴的な5つ星ホテルの〈The Westin Excelsior Roma〉。その手前は、アメリカ大使館となっているマルゲリータ宮殿です

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 シャムロンと待ち合わせたサンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会は、ナヴォーナ広場からすぐのところにあります。1482年に教皇シクストゥス4世の命により、かつてのサンタンドレア・デ・アクアリカリス教会の基礎の上に、聖母の美徳を意味するサンタ・マリア・デッラ・ヴィルトゥの名で、おそらくバッチョ・ポンテッリの設計により着工し、1484年教皇インノケンティウス8世のとき、フェラーラ戦争の終結を記念して、平和を願って現在の名前に改名されました。その後、1656~67年に教皇アレクサンドル7世ピエトロ・ダ・コルトーナに命じて建物を修復し、バロック様式のファサードが追加されました。

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 教会内部は、短い身廊とドームを戴く八角形のトリビューンの構成になっています。

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 カルロ・マルデノが1614年に制作した主祭壇には、かつての教会の柱廊玄関に置かれ、酔った兵士が石を投げつけたところ血を流したという逸話のある、聖母子の絵(拡大)が飾られています。その逸話を聞いた教皇シクストゥス4世が「平和の聖母子」と名付け、奇跡的な出来事を記念して教会の再建を決めたのです。

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 この教会の見どころは、入って右側のキージ家の礼拝堂のアーチ部分にあるフレスコ画で、1514年にラファエロが銀行家アゴスティーノ・キージのために描いた《巫女》です。

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 また、教会左側に隣接して、オリヴィエロ・カラファ枢機卿の委託を受け、1500~04年に建築家ドナート・ブラマンテが手掛けたルネサンス建築の傑作、ブラマンテの回廊があります。現在は、カフェと書店を併設する、展示会等スペースとして活用されています。ここの1階からもラファエロのフレスコ画が見えるそうです。

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 二人は教会を出て、ナヴォーナ広場を歩きながら話しました。85年にローマ皇帝ドミティアヌスにより開設された競技場が起源の楕円形の広場で、パンフィーリ家出身のインノケンティウス10世が隣接するパンフィーリ・パラッツォとともに整備して現在の形になりました。3つの特徴的な噴水を有する、観光客で賑わうローマの広場の中で最も有名な広場の一つです。

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 写真は、広場北側にある、ネプチューンの噴水です。1574年に教皇グレゴリウス13世の委託により、ジャコモ・デッラ・ポルタによって、広場南北に2つの噴水が設置され、当初は水盤だけでしたが,1878年にアントニオ・デッラ・ビッタによってネプチューン,海の精,キューピッドなどの彫刻が付け加えられました。

(2010年の旅行時の写真)

 広場中央には、インノケンティウス10世の教皇就任を記念して,ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの設計により1648~51年に造られた四大河の噴水があります。ダン・ブラウンの『天使と悪魔』で「水を表す科学の祭壇」として第4の凶行現場となったことでも有名です。ロケ地巡りの現地ツアーもあります。中心に立っている高さ16.53mのオベリスクは,ドミティアヌス帝時代のもので,309年にマクセンティウス帝によってアッピア街道沿いの競技場に移されていましたが,その後倒れて壊れてしまっていたものを,ベルニーニが修理して立てたものです。

(2010年の旅行時の写真)

 噴水の基部にある4つの大河を寓意化した巨人像が特徴で、こちらは、アントニオ・ラッジ作のドナウ川を表す巨人像で、右手が教皇インノケンティウス10世の紋章に触れているのは、ヨーロッパ世界が教皇の影響下にあることを示しているとされます。

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 こちらは、フランチェスコ・バラッタ作のラプラタ川を表す巨人像で、アメリカ大陸がヨーロッパにもたらした富の象徴であるコインの上に座っています。この手を突き出して仰け反る姿については、噴水の前に建つサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会を設計したフランチェスコ・ボッロミーニとライバル関係にあったベルニーニが、教会が今にも倒れそうだと皮肉ったものだという逸話があります。

(2010年の旅行時の写真)

 こちらは、ジャコモ・アントニオ・ファンチェッリ作のナイル川を表す巨人像で、布を被って目隠しのようにしているのは,ナイル川の水源がわからないことを意味していますが、これについてもボッロミーニの教会が見るに堪えないと皮肉ったものだという話があります。

(2010年の旅行時の写真)

 こちらは、クロード・プッサン作のガンジス川を表す巨人像で、鎌首をもたげる蛇(ドラゴンだという説もあります)を櫂で従えています。

(2010年の旅行時の写真)

 広場南側にあるのが、ムーア人の噴水です。ネプチューンの噴水と共に設置された水盤に、ジャコモ・デッラ・ポルタがイルカとトリトンを設置していましたが、教皇インノケンティウス10世の依頼により、ベルニーニのデザインを基に、ジョヴァンニ・アントニオ・マリが中心のムーア人の彫像を追加しました。

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 また、広場西側には、ディオクレティアヌス帝の時代に聖女アグネスが殉教した場所に建てられた教会を、教皇イノケンティウス10世の命で,ボッロミーニが設計して1652年から再建し、1657年に完成したサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会があります。完成が四大河の噴水ができたよりも後なので、上の逸話は作り話のようですね。

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 今後の予定を聞かれたガブリエルは、パリで監視作戦を行うと答えました。


14 ローマ

 ナヴォーナ広場では、ゆっくりと巡る二人の会話を傍受する司祭の格好をした男がいました。

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 その男は、録音した音声からガブリエルがパリでの監視作戦を行う対象がヴェルナー・ミュラーという画商であることを確認し、チューリッヒに報告します。


15 パ リ

 パリに到着したガブリエルが支局のウージ・ナヴォトと会ったのは、チュイルリー広場の噴水横のベンチでした。陰鬱なやりとりの末、監視活動のための見張り役、トランシーバー、車、盗聴器、22口径のベレッタなどすべての手配が完了します。チュイルリー公園は、夫であったフランス王アンリ2世の死後、息子フランソワ2世の摂政となったカトリーヌ・ド・メディチによって1564年に建てられたチュイルリー宮殿の庭園として造られた25.5haのフランス式庭園

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 ミュラーのギャラリーは、サントノーレ通りオペラ大通り(作中にはフォブール・サントノーレ通りとありますが、オペラ大通りと繋がれる位置関係にはありません)を繋ぐ小路(サン=ロック通りでしょう)の角に、携帯電話の代理店と高級紳士服のブティックに挟まれて建っており、ガブリエルは、監視場所として通りの向かいの50ヤード北側の〈ローレン・ホテル〉を選んだとありますが、該当のギャラリーやホテルは見当たりません。小路の南東角にあるのは、長さ126mとパリで最も大きい教会の一つ、サンロック教会です。

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 ミュラーがランチにいつも行くリヴォリ通りのレストランとは、226番地にある、1903年創業のパリで最も歴史が古く、かのココ・シャネルもお気に入りだった、モンブラン発祥のお店としても有名なサロン・ド・テ〈アンジェリーナ〉ではないでしょうか。

(左上から、lh3.googleusercontent.com/①

 夕方は、ギャラリーを午後6時半に出て、シャンゼリゼ通りを〈Fouquet’s(フーケ)〉へと向かいます。ジョルジュ・サンク通りとの交差点。一際目立つ赤い屋根とアール・ヌーヴォー様式の装飾が特色の1899年創業の老舗ブラッセリー。エーリッヒ・マリア・レマルクの小説『凱旋門』の「戦争が終わったらフーケで会おう」という名台詞でも知られています。午後5時からがディナータイムで、フランスとしては異例の早めのディナーが可能です。

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16 パ リ

 ケラーがニースへの夜行フェリーに乗船したのは、コロンブスの生地との伝説がある、コルシカ島の北西岸の港カルヴィ。フェリー乗り場の背後には城砦がそびえ立っています。

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 ニースのヴィクトル・ユゴー通りのレンタカー店でフォード・フィエスタを借り、コートダジュール経由でパリに入りました

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 彼がチェックインしたのは、パリ5区のサン・ジャック通りの小さなホテル。写真は、214番地にある18世紀の建物を利用した4つ星ホテル〈Hôtel Le petit Paris

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 パスカル・デプレとの待ち合わせ場所である、セーヌ川沿いのオルレアン河岸通りに向かいました。デプレが爆弾を持ってきていなかったため、彼の車で下流の埠頭の倉庫に向かうことになり、サン・ルイ橋を渡ります。

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 ノートルダム寺院を横目に見ながら、モンテベロ河岸通りへ。「白い貴婦人」とも称され、「パリのセーヌ河岸」として周辺の文化遺産とともに1991年に世界遺産に登録されていますが、2019年4月5日午後6時50分頃に火災が発生し、78mの尖塔や屋根が崩壊しました。2024年のパリ・オリンピックまでの再建を目指しています。

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 パリの中心街から車で20分走った工業地帯のレンガ倉庫。セーヌ川沿いの工業地帯としては、かつてルノーの工場があったブローニュ=ビヤンクールが知られます。セーヌ川のセガン島は島全体がルノーの自動車工場で占められ、「悪魔の島(Île du Diable)」と呼ばれましたが、2004~05年に取り壊され、跡地に2017年に音楽の殿堂「ラ・セーヌ・ミュージカル」が完成しました。

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 足元を見て2倍の値を吹っ掛けたデプレでしたが、そこはケラーの方が一枚上手。ナイフでデプレの喉をかき切り、車を奪って、トランクにあったもう一つの爆弾で死体を爆発させて走り去りました。途中、地下鉄に乗り換え、リュクサンブール駅からホテルまで歩きました


17 パ リ

 翌朝、ガブリエルは、ウルブリクトと名乗って、ミュラーのギャラリーを訪れます(写真は第15節で推理したサン・ロック通り)。彼が来る直前、アタッシュケースを持った訪問客があり、その男の写真を撮ります。ギャラリーからカフェの方を見遣ったとき、さっきギャラリーを出ていった男が急ぎ足で去っていくのが見えました。

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 悪い予感がしたガブリエルは、ミュラーの腕を掴んでギャラリーを出ようとしますが、振りほどかれてしまいます。一人外へ出て、ホテルの方へ歩き出したとき、爆発が起きます。ガラスの雨がガブリエルを襲い、顔を覆った両手にガラスが突き刺さりました。


18 パ リ

 爆発から5分で付近の道路が封鎖されたため、ガブリエルはリュクサンブール公園まで徒歩で逃げ、公衆電話から緊急回線でナヴォトに連絡を入れます。リュクサンブール公園は、1612年にマリア・デ・メディチがリュクサンブール宮殿に付随する庭園として造園させたもので、22.45haの広さがあります。

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 そこからたどり着いたという街の南にある大きな駅というのは、モンパルナス駅のことでしょう。そこから先の経路は不明で、ガブリエルが身を隠した廃墟となった工場の場所はわかりません。

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 ガブリエルは、ナヴォトが連れてきた医者に応急処置を受けますが、ちゃんと手術を受けなければこれまでのようには動かなくなると言われます。ナヴォトにギャラリーに爆弾を置き去りにした男の写真を渡し、〈オフィス〉でデータベース検索をかけることとアンナの警護を依頼し、車を借りて次の行動に出ます。


19 ロンドン

 ガブリエルが向かったのは、メイソンズ・ヤードのジュリアン・イシャーウッドのギャラリーでした。彼は、上の階の展示室で、イシャーウッドにこれまでの経緯を話し、ヨーロッパにおけるナチスの美術品略奪について尋ねました。展示室の四方の壁には巨匠の大作が掛かっています。

ルイーニの《ヴィーナス

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デル・ヴァーガの《キリスト降誕

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ボルドーネイエスの洗礼

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クロードチボリの想像図のある風景

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 かつて、ジュリアンの父は、パリ8区のラ・ボエティ通りで〈イザコビッツ・ファイン・アーツ〉というギャラリーを構えていました。1940年当時、そこはパリのアート・シーンの中心で、23番地に1918~40年までパブロ・ピカソが自宅兼作業場(写真右)を設け、21番地にポール・ローザンベールのギャラリー(写真中央。左側がジュリアンの父のギャラリー)、57番地にジョルジュ・ウィルデンシュタインのギャラリーがありました。彼の父はヒトラーのローゼンベルク機構によってコレクションを没収され、妻と共にソビボル強制収容所で処刑されたのです。

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 飲みたい気分になったジュリアンは、ガブリエルを伴って、ジャーミン・ストリートのワインバーに行きます。1707年に創業した老舗百貨店フォートナム&メイソン本店地下にある〈The Wine Bar at Fortnum & Mason〉なら同通り側からも入れると思います。

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 略奪された絵画は、ジュ・ド・ポーム国立美術館に集められました。そのうち印象派や現代美術は、退廃的なものと見做され、商品として取引されましたが、その取引にスイスの画商が絡んで、スイス政府ぐるみで返還を阻み、そのいくつかがロルフの手に渡った可能性があると話しました。

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 ジュリアンは、ロルフのコレクションが合法的なものかどうかは絵の来歴からわかると言って、父のコレクションのリストをガブリエルに渡します。そして、調査の協力者としてリヨンにいるエミール・ジャコービ教授の電話番号を教えました。


20 ロンドン

 ジャーミン・ストリートでは、金髪の男がローバーのセダンで二人の会話を傍受し、ガブリエルがジュリアンの紹介した教授に会いにリヨンに向かったことをチューリッヒに連絡しました。

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21 リヨン

 ジャコービ教授は、スイス史の汚れた要素を暴き出すことに人生を捧げ、その書『神話』でナチス・ドイツとスイスの繋がりを同盟国と表現していましたが、スイスでの生活が危うくなり、リヨンに移っていたのです。ガブリエルは、ローヌ川とソーヌ川の間にあるテロー広場近くのカフェで『神話』を読んで過しました。テロー広場は、古代ローマ時代の運河を埋め立ててできた広場で、同広場を含む「リヨン歴史地区」が1998年に世界遺産に登録されています。

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 広場東側に建っているのが、建築家シモン・モーパンにより1646~72年に建設された、リヨン市庁舎です。月時計を備えた鐘楼には、ヨーロッパでも最大級のカリヨンがあります。

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 また、広場南側には、かつてサンピエール王立修道院であった建物を改修した、リヨン美術館があります。1803年に開設された美術館で、フランスの美術館が購入した最初のポール・ゴーギャン絵画ナヴェ・ナヴェ・マハナ》などを見ることができます。中庭には無料で入れるようです。見どころなどはこちらのサイトを参照してください。

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 ジャコービ教授の自宅は、テロー広場の西に南北に通じる、リヨンで最も古い通りの一つ、ランテンヌ通りにありました。教授は、アウグストゥス・ロルフには彼の銀行に開設していたユダヤ人の口座をゲシュタポに明かしたという噂があり、しょっちゅうナチス・ドイツの要人に会っていたと話し、過去の悪行が暴露されることを望まない連中によって殺害されたのではないかとほのめかしました。

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 通りの向かいのアパートメントでは、監視員がガブリエルの写真を撮り、二人の会話もすべて傍受し、チューリッヒに報告していました。ゲルハルト・ピーターソンは、ゲスラーに緊急面会を求める電話をかけ、ジャコービ教授を何とかすべき時期にきていると考え、翌朝、アントン・オルサティの口座に入金します。


22 コスタ・デ・プラタ、ポルトガル

 翌朝、ガブリエルは、アンナ・ロルフの屋敷を訪ねました。二人はムーア人の廃墟までピクニックに出掛けます。彼女の父の殺害の手掛かりを見つけるため、彼女の家族や父のコレクションの来歴書について尋ねました。

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 ガブリエルは、アンナに安全のためヴェネチア公演の中止を提案しますが、彼女にきっぱりと断られます。


23 リスボン

 ガブリエルは、〈オフィス〉のリスボン支局がある、アントーニオ・エネス通り16番地の在リスボン・イスラエル大使館を訪ね、クリストファー・ケラーに関する資料を受け取ります。元英国空軍特殊部隊(SAS)隊員で、北アイルランドでIRAに対する特殊任務に就きましたが、スパイであることに気付かれて拉致されるも自力脱出。その後、サダム・フセインのクウェート侵攻時にイラクの砂漠に派遣されましたが、友軍の誤爆を受け、戦線を離脱。ヨーロッパで「英国人」の呼び名で知られる殺し屋が彼ではないかということです。SAS部隊の写真の中のその隊員とガブリエルがパリで撮った写真の男を見比べます。

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 ガブリエルは、シャムロンに電話をかけ、その男に前に会ったような気がすると告げると、1枚の写真がファックスされてきます。IRAを相手にしていたイギリスの諜報機関の部隊とSASメンバーがイスラエルの戦略を調査するためにテルアビブを訪れた際、講義を行ったガブリエルも加わって撮影した集合写真に、彼の隣に写っている男がケラーだったのです。


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 今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部の続き、第24節からいながら旅を続けます。

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