元日に発生しました令和6年能登半島地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、被災された方々にお見舞いを申し上げます。
昨年秋にこのブログを立ち上げ、【小説 de いながら旅】と題して、小説をガイドブック代わりに、登場人物たちの足跡を辿りつつ、時には寄り道もして、写真や観光資料、地図データなどを基に、舞台となっている世界各地を紹介しながらバーチャルに巡礼する、バーチャル・コンテンツツーリズムを始めましたが、第1シーズンの「『報復という名の芸術』de いながら旅」(以下「前旅」と表記します)はいかがでしたでしょうか。販売終了のため、肝心のガイドブック(小説本)を手にしていただけないのは申し訳ありませんが、物語を離れたサイドトリップも多く挿入していますので、散策自体を楽しんでいただければ幸いです。新型コロナウイルス感染症が5類移行し、海外旅行に出かけられる方の数もコロナ前の状況に戻りつつありますが、このいながら旅で取り上げた舞台に訪れる機会のある方は是非リアル巡礼の参考にしていただければと思います。また、自宅にいらっしゃる方は、引き続きバーチャルな旅をお楽しみください。
さて、今回始まるいながら旅の第2シーズンでは、引き続きダニエル・シルヴァの作品を取り上げます。
この旅のガイドブック
今回の旅のガイドブックは、2002年(日本では2006年)に刊行された『イングリッシュ・アサシン』です。同作は、美術修復師であると同時にイスラエル諜報機関の元暗殺工作員のガブリエル・アロンを主人公とするシリーズの2作目(原題『The English Assassin』)で、”ナチス3部作”の1作目。謎の人物から絵画の修復を依頼され、チューリッヒに赴いたガブリエルを待ち受けていたものは依頼主の亡骸でした。依頼主の娘であり、有名なヴァイオリニストであるアンナとともに、ナチスがユダヤ人から略奪した絵画を追って、ナチスとスイスの銀行との暗い過去を暴こうと動くガブリエル。それを阻もうとする陰の組織が暗殺者を差し向けます。スイス(チューリッヒ、ニートヴァルデンほか)、ロンドン、ヴィトリア(スペイン)、フランス(パリ、コルシカ島、リヨン)、イタリア(ローマ、ヴェネツィアほか)、ポルトガル(コスタ・デ・プラタほか)、ウィーンなどを巡ります。ミュンヘンやシュトゥットガルト、デルフトもちょこっと登場します。
ネット上で指摘されているとおり、本書でも誤訳等が見られ、必要に応じて誤訳と思われる点も指摘し、地名等のカナ表記も適宜一般的なものに修正して記載しています。本書も、既に販売を終了しており、新品を購入することはできませんが、このいながら旅をガイドにして、kindle版(英語版)を翻訳して読んでみてください。
プロローグ
1975年 スイス
小説は、主人公ガブリエル・アロンが今回引き受けるミッションでパートナー役となるアンナ・ロルフの母の自殺で始まります。屋敷(本書62ページでは、「Villa」を別荘と訳されていますが、他のページでは屋敷と訳しており、物語の筋から自宅のことだと考えられます)の庭に自ら墓穴を掘って、銃を口に咥えて引金を引いたのです。夫アウグストゥスの書斎で秘密の写真を見つけ、夫の人生が嘘に塗り固められていたものであることを知り、彼女自身も嘘だったことに気づいての行動でした。アウグストゥスは、墓穴にメモ、おそらく遺書、を見つけ、友人のオットー・ゲスラーは、「ここはスイスだ。過去は存在しない」と言って、不愉快な過去を思い出すその忌々しいメモを焼いてくれと頼みます。
第1部 現 在
1 ロンドン、チューリッヒ
ガブリエルが人目を気にしながら訪れたのは、このシリーズ作品に度々登場するジュリアン・イシャーウッドのギャラリー〈イシャーウッド・ファイン・アーツ〉でした。セント・ジェイムズのメイソンズ・ヤード、ギリシャの船会社のロンドン支社とパブが軒を連ねる一角にある、ビクトリア朝時代のおんぼろ問屋の建物との設定です。前旅の第7節・第22節のとおり、袋小路の北東角にある〈Matthiesen Gallery〉をモデルにしていると思われます。
二人は、イシャーウッドがランチを予約していた、デューク・ストリートの〈グリーン・レストラン〉の席に着きます。前旅(第7節)にも登場しましたが、かつて実在し、現在閉業となっている〈Green’s Restaurant & Oyster Bar〉のことでしょう。
イシャーウッドは、前旅(第7節)に登場しました、ヴェネツィアのサン・サルバトーレ教会から消えたフランチェスコ・ヴェチェッリオ(本書15ぺーシではフランセシコ・ベセーリョと違訳されています)の祭壇画が100万ポンドで売れたとして、修復したガブリエルに分け前として10万ポンドの小切手を渡します。
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、作中に真贋を見分けるのが困難とあるとおり、真作であると見なされている作品が1点もないとされる画家です。そして、作者不詳の3枚続きの中央の1枚が彼の習作ではとのくだりは、ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵の《読書するマグダラのマリア》が元々1枚の祭壇画として描かれた作品を3枚に裁断された1片と考えられていることを連想したものではないでしょうか。
イシャーウッドは詰め物をしたヒラメとサンセール・ワインを、ガブリエルは紅茶とコンソメスープを注文します。イシャーウッドは、ある依頼人からその弁護士を通じて電話があり、ガブリエルを名指しで、チューリッヒの家へ来て、ある絵画のクリーニングをしてほしいとの依頼があったと話します。
ガブリエルは、急な旅行のため、オックスフォード・ストリートに行き、衣服やバックを買い求めます。オックスフォード・ストリートは、イギリスを代表する百貨店4つがその本店を構え、ユニクロやH&M、マークス&スペンサーなども出店している、世界的なショッピング・ストリートとして有名です。
それからグレート・ラッセル・ストリートに出て、〈L・コーネリッセン&サン美術画材店〉で、旅行用の絵具や筆、溶剤等を集めました。前旅(第10節)にも登場しましたね。
その後、地下鉄に乗ってウォータールー駅まで行き、ユーロスターでパリへと向かいました。ウォータールー駅(国際駅)は、2007年の英仏海峡トンネル連絡鉄道の全線開業時にセント・パンクラス駅に変更されるまで、ユーロスターのロンドン側のターミナルでした。イギリスはシェンゲン協定に加盟していないので、ユーロスターに乗るには出入国審査を受ける必要があります。
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ユーロスターは、英仏海峡トンネルが開通した1994年の11月14日に開業した、ロンドンとフランスのリール、パリ及びベルギーのブリュッセルとの間を結ぶ高速鉄道。ユーロスターのパリ側のターミナルは、北部鉄道のターミナル駅として1846年6月14日に開業したパリ北駅。写真は、2015年にオランダ、ドイツへの直通にも対応するために導入されたe320(Class374)型車両です。
パリ東駅まで行き、チューリッヒ行きの夜行列車に乗ります。パリ東駅は、1849年開業した、フランス東部やドイツ、ルクセンブルク方面への列車が発着するターミナル。2007年6月にLGV東ヨーロッパ線が開業し、スイス(チューリッヒ)への列車はTGVに置き換えられ、2011年12月にはLGV南東線・LGVライン-ローヌ線経由とされ、パリ側の始発駅もリヨン駅に変更されました。
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翌朝到着したチューリヒ中央駅は、前旅(第6節)にも登場しました、スイス最大の規模を誇る頭端式のターミナル駅です。入口には美しい凱旋アーチがあり、正面にはスイス鉄道の父と言われるアルフレッド・エッシャーの像が立っています。
バーンホフ通りは、1871年に中央駅ができたのを機に造られた,湖に向かって伸びる約1.4㎞の通りで、有名ブランドのブティックやデパートが立ち並ぶメインストリート。トラムが走り,車は乗入れ禁止となっています。前旅(第6節)でケメル・アズーリがオフィスから駅まで歩いた通りですが、今回は駅から逆向きにガブリエルの足跡を辿ってみましょう。
通りをしばらく進むと、右手にペスタロッチ公園があります。公園中央には、1898~99年にウーゴ・ジークヴァルトによって制作された、スイスの教育実践家ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの記念碑が立っています。
ウラニア通りとの交差点まで来ると、左手に1907年に開設されたスイス最古の天文台である、ウラニア天文台の高さ51mの塔が見えてきます。スイスの歴史的文化財目録に登録されている建物です。
バラーデ広場は、中央駅からバーンホフ通りを10分程のところにあります。トラムのロータリーとなっており、北側には2023年3月に経営破綻したクレディ・スイスの本店、西側にUBS(本書22ページにはスイス・ユニオン銀行とありますが、同行は1998年にスイス銀行と合併して新しい商号UBCとなっています。今回クレディ・スイスも買収しています)の本社がある、スイス銀行界の中心です。南側には高級菓子メーカーの〈シュプリングリー〉、東側には〈Savoy Hotel Baur en Ville〉があります。
タクシーに乗ってガブリエルが向かったのは、チューリヒベルクへ向かうローゼンビュールという狭い通り。押し合うように建っている大きな屋敷の中で、彼が目指した屋敷は、通りから何メールも奥にあり、周囲に檻のような高い鉄の塀を巡らせており、防犯ゲートから奥の屋敷まで石段が続いているとのことから、通りの奥から2軒目の屋敷ではないでしょうか。
イシャーウッドから伝言された解錠コードを入力して入った屋敷には置き手紙があり、修復する絵は客間に掛かっているラファエルの《若者の肖像》とのことでした。これは、1513~14年に描かれ(作中では1504~08年の作品だろうとしていますが)、ポーランドのクラクフにあるチャルトリスキ美術館に所蔵されていましたが、1939年のナチスのポーランド侵攻時、ポーランド総督を務めたハンス・フランクによって盗まれ、所在不明となっている作品のことでしょう。
客間に入ると、そこには左目を撃ち抜かれた死体が血の海の中に倒れていました。ガブリエルは、荷物をまとめて外に出て、クレービュール通りまで急ぎ足で歩き、停車場で飛び乗った6番のトラムで中央駅まで戻りました。
中央駅のトイレで血の付いた靴を履き替え、ミュンヘン行きの列車のファーストクラスに乗り込みました。チューリッヒからミュンヘンまでの列車は、ユーロシティ(EC)といい、現在はETR610型車両で運行しています。
ところが、列車は動き出してまもなくスピードを落として止まり、二人の警官がガブリエルの個室に飛び込んできました。
2 ヴィトリア、スペイン
「英国人」ことクリストファー・ケラーは、スペインのバスク地方の州都ヴィトリア(正式名はビトリア=ガスティス)の中心部、プラザ・デ・エスパーニャ(スペイン広場)にいました。一辺61mの正方形の広場で、市政創立600周年の1781年に建設が開始され、1791年に完成。当初は「新しい」という意味の「ヌエバ広場」と呼ばれました。
回廊の下にあるカフェで、〈Victoria Café〉のことではないでしょうか、カフェ・コン・レチェをすすり、広場を挟んで建つ銀行(Bankoa ABANCAのことでしょう)の出入口から、バスク地方の分離独立を目指す民族組織ETAのメンバーでもある、フェリペ・ナバラという出納係が昼休みを取りに出てくるのを待っていました。
スペイン広場と隣り合ってあるのがビルヘン・ブランカ広場で、スペイン広場(新広場)と対比して旧広場とも呼ばれています。広場の中央部には、スペイン独立戦争中の1813年6月21日のビトリアの戦いの戦勝記念碑があります。1884年から毎年8月4日~9日(最終日がビルヘン・ブランカの日)にはビルヘン・ブランカ祭が開かれます。広場は旧市街の入口にあたり、下町に向かうナバラを追って、ケラーもここを抜けたのではないでしょうか。
広場の北側、旧市街の南端に当たる場所にあるのは、時計付きの鐘楼がそびえるサン・ミゲル・アルカンヘル教会
同教会の広場に面したゴシック様式のアーチの間には、町の守護聖人ビルヘン・ブランカを収めた壁龕があります。
教会の前を右へ通り過ぎてサンフランシスコ坂を上ると、サン・ビセンテ・マルティル教会の高さ54m鐘楼が見えてきます。
旧市街を北に進みますと、旧大聖堂として知られる、ゴシック様式のサンタ・マリア・デ・ビトリア大聖堂があります。2015年に「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路:フランス巡礼路と北スペイン巡礼路」として拡張された世界遺産の構成遺産として登録されています。
ケラーは、ナバラを愛人のアパートメントでナイフを使って殺害します。
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ケラーは、ヴィトリアからバルセロナを経由してマルセイユに向かい、そこからフェリーでコルシカ島へ渡りました。港からは、ジョリエット地区にある、ラ・メジャーと呼ばれる、1852~93年に建てられたマルセイユ大聖堂(セント・マリーマジュール大聖堂)を間近に見ることができます。緑と白の石が交互に配置されたネオビザンチン様式の建物で、全長142m、クーポラの高さ70m、正面ファサードの塔の高さ60mという、フランス最大の大聖堂の一つです。
旧港の入口には、サン・ジャン要塞があります。その名は、かつてこの場所を占拠していたサン・ジャン病院騎士団に由来します。現在は、隣接するヨーロッパ地中海文明博物館(写真左端)に組み込まれ、歩道橋で結ばれています。写真の中央は、1644年に城壁の西端に建てられた高さ30mのファネルの塔、右端は、1447~52年に建てられた高さ28.5mのルネ王の塔です。
更に南に目を向けますと、高さ149mの石灰岩の丘の上には、フランス王フランソワ1世によって築かれた16世紀の要塞の跡に、1864年にローマ・ビザンチン様式で建てられたノートルダム・ド・ラ・ガルド大聖堂があります。高さ41mの四角い鐘楼の上に高さ12.5mの塔、その上に金箔を貼った銅製の高さ11.2mの聖母子像が立っています。
マルセイユからコルシカ島へのフェリーは、現在6航路が運用されており、島の北西部に行くのに、所要時間の短い(10時間半)リル=ルッス行きか、便数の多いアジャクシオ行き(10時間半又は12時間)を利用したものと思われます。より南のモンテドル山麓に住んでいるマッテオが乗船していたことから、後者の可能性が高いでしょうか。現在はなくなっていますが、本書274ページには、カルヴィとマルセイユ間の航路があるような記載もあります。因みに、シリーズ15作目の『英国のスパイ』(81頁)では、アジャクシオの港からポルト経由で島の奥へ向かっています。
3 チューリッヒ
ツォイクハウス通り(原文とGoogleMapを確認したところ、ズーゴー通りとは読みません)にあり、ジル川と広大な鉄道敷地に挟まれた場所にあるという警察本部(住所はカゼルネン通り29番地)は、チューリッヒ市警ではなく、陸猟兵軍団兵舎の建物だった、チューリッヒ州警察の本部です。ガブリエルが連行された別館は、写真奥の建物でしょうか。なお、現在の本部は、ギューター通り33番地に移っており(チューリッヒ警察司法センター)、作中の”アルミニウムとガラスでできた”という表現は現代的なこちらの建物の方がしっくりきますが、本作刊行後の2022年の完成なので、こちらではないようです。
因みに、チューリッヒ市警本部は、リマト川に面したバーンホフクワイ3番地にあります。
市警本部の管理棟は、かつて孤児院であった建物を改造したもので、アウグスト・ジャコメッティによるフレスコ画とセッコ技法を使用した花と幾何学的なデザインで覆われたエントランスホールは、Blüemlihalle(小さな花のホール)と呼ばれ、世界で最も美しい警察署のエントランス ホールの一つです。
ガブリエルは、入れ替わり立ち替わり尋問を受けます。そして、最後にやってきたピーターソンと名乗る男に正体を見破られ、25年前にチューリッヒにおいてパレスチナ人劇作家のアリ・アブデル・ハミディを殺害したと指摘されるのです。
4 チューリッヒ
留置場に移されたガブリエルは、ピーターソンの上司から外務省を通じてテルアビブに通報されたときのことを想像し、また、老人と呼ばれるアリ・シャムロンにスカウトされた、1972年9月のベツァルエル美術学校でのことを思い出します。
ガブリエルが釈放されると、表にシャムロンが黒のメルセデスのセダンで迎えにきていました。
5 チューリッヒ
二人は空港に向かいます。クローテン空港ことチューリッヒ空港(ZRH)は、チューリッヒ市中心部から北に13kmに位置するスイス最大の空港で、ワールド・トラベル・アワードを連続受賞しています。車で空港の周囲を回る間、シャムロンは、ガブリエルの釈放に至る、スイスの保安組織〈分析・援護部局〉のナンバー2であるゲルハルト・ピーターソンとのやりとりを話し、アウグストゥス・ロルフが〈オフィス〉に接触してきたこと、ロルフが絵画収集家であることを知り、彼から情報を得るにはガブリエルが適任だと考え、絵のクリーニングにガブリエルを雇うように仕向けことを明かしました。
ロルフの話がなんだったのか、誰が何のために彼を殺したのかを知りたいというシャムロンに、他を当たってくれと言うガブリエル。しかし、気になると最後まで突き止めなければ気が済まないその性格に火が付き、シャムロンの指示でアンナ・ロルフから話を聞くことになります。一方、シャムロンは、殺人現場から立ち去った男を30分後に見つけ出すことができたピーターソンについても疑いの目を向けます。
6 ニートヴァルデン、スイス
ピーターソンは、ケルンワルドの薄暗い森の中を走り抜け、山のふもとの山荘で開かれた〈カウンシル〉の会合に、ケーラーと名乗って出席します。ニートヴァルデンは、「森の下」を意味する、スイスのほぼ中央、ルツェルン湖のすぐ南に位置する州
チューリッヒからの経路を踏まえますと、この山は標高1898mのシュタンザーホルンのことではないでしょうか。ニートワルデンの州都シュタンスからシュタンザーホルン鉄道のケーブルカーとロープウェイを乗り継いで山頂まで上がることができます。ケーブルカーは、延長1550mで、中間駅の海抜710mのケルティまでを結んでいます。
ロープウェイは1975年開業。写真は、2012年6月に新しく開業した、世界初のオープンデッキ付き2階建てロープウェイ「カブリオ」
7 コルシカ
コルシカ島の西岸のハイウェイを5マイル(約8km)走ったところで内陸へ進路を変えて丘を登ったとのことから、ケラーが下船したのは、リル=ルッス港ではないかと推理します(アジャクシオ港の場合は通常すぐに内陸に向かうと思われますので)。走った海岸線は西岸というよりは北岸に近いですが、港から東へ進んでベルゴデールで南に入りますと、8km位になります。仮に、カルヴィ港だとしたら、海岸線に沿って走る(恐らくポルトの町までの)距離がもっと長くなると思われます。
ケラーは、斜面に沿って広がる町を抜けて入り組んだ谷間(本書71ページではカル・デ・サック渓谷と訳していますが、”the cul-de-sac valley”は地名ではありません)を自宅へと向かいました。場所は特定されていませんが、コルシカ島の北西部で、(マッテオの家がある)モントデル山の麓から谷を2つ北に位置し、近くの村で赤い瓦屋根の砂色の家々が鐘楼を取り囲むように建っており、カフェやレストラン、広場があるとのことから、エヴィザ辺りではないでしょうか。
ケラーは、コルシカ島で殺し屋家業を営んでいるオルサティ一家に身を寄せる英国人のアサシン。アントン・オルサティが別の仕事を頼みたいと彼の家にやってきます。依頼人はターゲットを死に追いやり、その職場も破壊することを要求していると言って、パスカル・デプレと連絡を取って爆弾を使うことを促します。
8 コスタ・デ・プラタ、ポルトガル
アンナ・ロルフは、村人から「ヒルサイドの令嬢」と呼ばれ、海を見下ろす急斜面に建っている、修道院を改装した建物に暮らしていました。ごつごつした花崗岩がむき出しになった斜面の尾根やムーア人の城跡へ続く小道を散歩しているとの記述から、その場所はリスボンに隣接するシントラの町ではないかと思います。ムーア人の城跡は、8世紀から9世紀にかけて建設された、レコンキスタの間の重要な戦略的拠点であり、1147年のアフォンソ・エンリケスによるリスボン攻防戦後、キリスト教軍によって占領されました。
シントラは、イギリスの詩人バイロンをして、「エデンの園」と言わしめた美しい街で、「シントラの文化的景観」として1995年に世界遺産に登録されています。構成財産の一つ、シントラ宮殿は、15世紀から19世紀にかけ、ポルトガル王家が代々夏の離宮として使用した場所です。
シントラの街を一望するモン夕・ダ・ペーナの山頂にそびえ立つのが、色鮮やかな色彩が特徴のペーナ宮殿。1836年に女王マリア2世の王配フェルナンド2世により建てられたものです。
アンナは、有名なヴァイオリニストですが、災厄に遭いがちで、山崩れに巻き込まれ左手に大怪我を負います。リハビリのおかげで、彼女のテーマ曲ともいうべきジュゼッペ・タルティーニのヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」を再び弾けるようになります。
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アンナの父アウグストゥス・ロルフの葬儀は、チューリッヒのリマト川畔にあるフラウミュンスター(聖母聖堂)で催されました。カール大帝の孫で東フランク王のルートヴィヒ2世が娘ヒルデガルドのために853年に建てた修道院が前身で、12世紀から15世紀にかけて改築され、ロマネスク様式とゴシック様式が融合した現在の建物となりました。毎日10時(日曜日は礼拝のため12時)~18時(11月~2月は17時。最終入場は閉館15分前まで)、入場料は約60分のガイドツアー又は音声ガイド込みで5CHF
13世紀半ば頃に建てられたロマネスク様式の聖歌隊室には、1970年に画家マルク・シャガールが設計した夢幻的画面の5つのステンドグラス、左から、赤の預言者の窓、青のヤコブの窓、緑のキリストの窓、黄色のシオンの窓、青の戒律の窓があります。
南側の翼廊のバラ窓も、1978年にシャガールが「無限の生成と消滅」をイメージして制作。ノアの箱舟による被造物の救済を中心に時計回りに創成期の場面を描いています。
北側の翼廊には、1944~5年にアウグスト・ジャコメッティが、神とキリスト、8人の預言者、4人の福音伝道者を描いた、高さ9m、幅3mのステンドグラス「天国の楽園」もあります。
5793本のパイプを持つチューリヒ最大のパイプオルガン。後ろのステンドグラスはイギリス出身のガラス職人クレメント・ヒートンの作(1914年)
アンナは、フィオナ・リチャードソンから連絡された、父の死について何か知っているというイスラエル大使館の人間に電話をかけます。
9 コスタ・デ・プラタ、ポルトガル
ガブリエルは、大西洋を望む丘を縫ってアンナ・ロルフの家に向かいました。写真は、ペーナ宮殿の南東に突き出す岩の上に建てられた兵士の記念碑
レガレイラ宮殿は、世界遺産構成財産の一つで、12世紀に建設された王族の別邸を利用してイタリアの建築家ルイージ・マニーニによって改築された宮殿です。
モンセラーテ宮殿は、廃墟だった建物の基礎と壁などを使用して、1858年にインドやイスラム、ゴシック様式などを取り入れて建てられた宮殿です。
ガブリエルは、アンナの父がイスラエル政府と連絡を取り、秘密の面会を求めていたこと、自分が彼に会うように派遣されたが、着いたときには既に彼は亡くなっており、自分が彼の遺体を発見したことを打ち明け、どのような話があったのか知っていたら教えてほしいと話します。わかるような気がするというアンナですが、考える時間がほしいと答えます。
10 シュトゥットガルト・チューリッヒ
翌日の昼下がり、二人はリスボンの空港からシュトゥットガルトへ飛びました。現在、リスボン・ウンベルト・デルガード空港(LIS)からシュトゥットガルト空港(STR)まで直行便を運航しているのは、ルフトハンザグループの格安航空会社ユーロウイングス(EW2605便)で、飛行時間は約3時間。機材はA320(写真)又はA319を使用しています。作中にエコノミークラスが23列とあることからA320でしょう。
二人は小型のメルセデス・セダン(写真はベンツCクラス)をレンタルして、進路を南に取りチューリッヒに向かいます。車中、アンナの演奏からヴェネチアでのコンサート、ガブリエルの絵画修復士としての修行、〈オフィス〉という組織に話が及び、アンナは、ガブリエルが何者かを明らかにしないと一言もしゃべらないと言い放ちます。
チューリッヒの屋敷で、アンナに案内されたのは、厳重なセキュリティ・システムに守られた地下のコレクションルームでした。かつてはフランス印象派の絵画が掛かっていたとのこと。彼女の父の推定死亡時間は午前3時で、当時はシステムが作動しておらず、犯人が絵も盗んでいったとのこと。最後の入室記録のモニター画像によれば、モネの二本道の風景、ボナール、ロートレック、セザンヌ、ピカソの青の時代の女性の肖像画、ドガ、ルノアールの裸婦像、ゴッホの運河の風景などの作品があったことがわかります。
11 チューリッヒ
ピーターソンは、仕事部屋で、ガブリエルとアンナが屋敷を出て車で走り去るまでの3枚の写真を見て、それをシュレッダーにかけます。そして、メルセデスのセダンでチューリッヒ湖岸をゲスラーの山荘に向かって疾走しました。
12 コルシカ
ケラーが訪ねたのは、村の教会からさほど離れていない傾きかけた家に住むシグナドーラのところでした。写真は、エヴィザのサン・マルタン・デヴィザ教会の鐘楼です。
彼女はケラーの手を取って祈り、その邪気を祓いました。また、彼の将来に男が一人、ケラーに似ているが異端者が見えたと言い、この男は避けた方がいいと助言します。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部からいながら旅を続けます。
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