第2部の続き、第39節からいながら旅を続けます。いよいよガブリエルの反撃が始まりますが、作戦は計画通りに進むのでしょうか。今回の旅では、ウィーンを訪れ、第2旅及び第4旅、そして第1旅を振り返る場面もあります。
第2部 スパイの死(続き)
39 ロンドン ___ ウィーン
ロザノフがクレムリンに入った同時刻、髪を銀色に染め、英国のパスポートを持ったガブリエルは、ヒースロー空港でブリティッシュ・エアウェイズのウィーンへの便に搭乗するところでした。目はもやは緑色ではありませんでした。現在(2025年4月)、ブリティッシュ・エアウェイズのウィーン行きには、午後4時40分前後に便はありませんが、一番近い便はBA689便(機材はA319又はA320)で、2時間20分のフライトです。

ウィーンに着くと、ガブリエルはケラーとともに、用意されていたアウディA6を運転して、アウトバーンA4を走り、ドナウ運河から西へ向かってラントシュトラーセを抜け、市民公園へ行きました。到着した場所は、公園南側のヨハネスガッセにある〈インターコンチネンタル・ホテル〉です。

折角ウィーンに来ましたので、ホテルに入る前に、少し周辺をサイドトリップしましょう。1862年に開園した市民公園(市立公園)は、総面積が約65,000㎡あり、ウィーン川によって2つのエリアに分かれ、左岸が芸術家等の石像が点在するイギリス式庭園、右岸が遊び場やスポーツの場とされる児童公園となっています。2019年の旅行時に前者を巡りました。

音楽の都ウィーンの代表的なスポットであり、この公園で最も有名な彫像が、エドムント・ヘルマーによるヨハン・シュトラウス記念碑です。ヴァイオリンを弾き振りする金色のヨハン・シュトラウス2世の姿が印象的ですが、黒色に塗り替えられた時期もあったようです。

記念碑の前から公園内に進むと、クアサロンの前の芝生広場に出ます。

小路を散策して次に出会うのは、フリッツ・ツェリッチュによるブルックナーの胸像です。現在はシンプルな台座に載っていますが、1899年に除幕された当初は、ヴィクトール・ティルグナーがデザインした、ミューズの像が配置された台座でした。

公園の中央には、鴨などの水鳥が遊ぶ池があります。

次に、池近くの小路沿いに、エミール・ヤコブ・シンドラーの記念碑があります。オーストリアの画家で、情趣的印象主義の中心だった人物です。

池の反対側の小路を進むと、シューベルト記念碑に出会います。眼鏡をしていない珍しいシューベルトの像です。

最後は、公園の北方中央に置かれた、アンドレス・ゼリンカの記念碑。1861年から1868年までウィーン市長を務めた人物です。

物語に戻ります。ホテルの周囲には多くの制服警官の姿があり、駐車係が核をめぐる会議だと説明します。

二人はイランの警備スタッフらしき連中の横を通り過ぎてチェックインし、ガブリエルは室内を徹底的にチェックしてから、フェリクス・アドラーを名乗るエリ・ラヴォンの部屋へ向かいました。
40 インターコンチネンタル・ホテル、ウィーン
ホテルには、イラン情報省(VEVAK)の人間で、表向きは外交官ということになっているレザ・ナザリが宿泊しており、ホテルのシステムをハッキングして確保した隣の部屋には、ラヴォンのほか、ヤコブ・ロスマンとミハイル・アブラモフが控えていました。他国の工作員を抱き込むことを専門に担当してきたヤコブは、彼が所属する機関の次期長官を暗殺しようとした今回の陰謀の一端となったイラン人の嘘だけは許すことができず、故に処罰しなくてはならないと考えていました。

ナザリが核協議を終えてホテルの部屋に戻ったことを盗聴器を通じて確認したヤコブは、ナザリに内線電話をかけて呼び出します。連絡を受けたガブリエルがケラーの運転するアウディA6で市民公園の東端の歩道の縁で待っていると、ナザリが出てきて、待機していたヤコブとミハイルが乗るベンツのリアシートに乗り込みました。

急発進したベンツの尾灯が優美なウィーンの街路へ消えていくのを見守っていると、ラヴォンが公園から出てきて、イラン側の尾行がないことを知らせ、ホテルに戻っていきました。荒っぽいことが嫌いな彼は今夜のイベントには参加しないのです。
41 ニーダーエスターライヒ州、オーストリア
ミハイルは、ニーダーエスターライヒ州の農耕地と葡萄畑がうねうねと続く道を走らせました。アイベスタールという町(写真)から西へ5キロほど行った、松の木々に縁どられた未舗装の道の奥50mほどのところにある、イタリア風の明るい黄色の外壁のヴィラに着くと、アウディA6が止まっていました。

該当のヴィラは見つけることができませんでした。代わりにアイスベスタールの町の風景からいくつかご紹介しましょう。上の写真中央に写っているのは、アイスベスタール教区教会です。

また、右端に写っている像は、第6旅(第33節)にも登場しましたが、橋の守護聖人と言われる聖ヨハネ・ネポムクの像です。マルクス通りの橋の袂にありますが、この町では、アイベス川にかかるシュトラースベルクの橋の袂にもネポムクの像が見られます。

こちらは、町の北の外れにある「慈悲の玉座」という像です。

ミハイルがドアを開け、ヤコブに促されてナザリが中に入ると、暖炉の前にガブリエルとケラーが立っていました。二人を見たナザリは凍りつき、後ずさりました。「死んだはず?」と言うナザリに、ガブリエルは、「残念ながら、そちらの失敗だったようだ」と微笑み、右手に銃を持ち、左手でナザリの喉を絞めあげました。「悪かった」と喘ぐナザリに、ガブリエルは、「今ごろ謝っても遅すぎる」と更に強く絞めあげ、ナザリの額に銃口を押し付けて引き金を引きました。
42 ニーダーエスターライヒ州、オーストリア(コペンハーゲン)
空砲でした。しかし、額の中央に小さな火傷を作り、ナザリは床に倒れます。意識を取り戻したナザリに、ミハイルが肩甲骨の下に強烈なパンチを見舞い、ヤコブがナザリの罪にふさわしい殴打の嵐。ガブリエルがグロックに弾丸を装填して、生きながらえるか殉教者になるか選ぶように迫ると、ナザリは、生きていたいと、ガブリエルの暗殺を命じたのがロシアの大統領であることを明かしました。

ナザリとは、2年前の秋、イスタンブールのボスポラス海峡に面した小さなホテルで、Mr.テイラーことヤコブが初めて顔を合わせました。イランの核開発計画の情報を持参し、祖国を裏切ったように見せかけていましたが、実は副長官モフセン・エスファハニによるイラク情報省からの回し者だったことを白状します。また、彼はイラク情報省とロシア対外情報庁の連絡役も務めており、モスクワ・センターの最高権力者の一人となっている男と定期的に会って、イランの核開発計画やシリアの内戦まで討議していました。その男の名前は、アレクセイ・ロザノフ。最後に会ったのは、1か月前、コペンハーゲンのニューハウンでした。

そのときの議題は、ガブリエルでした。
43 ニーダーエスターライヒ州、オーストリア(チューリッヒ、コペンハーゲン)
パヴェル・ジーロフの死体が発見され、マデライン・ハートが英国に亡命し、北海油田の採掘権を失ったばかりのとき、チューリッヒの旧市街で、ロザノフは、全ての元凶であるガブリエルをロシアの関与を疑われないように殺し、英国特にシーモアに鉄槌を下すことを〈ボス〉が望んでいると話し、クインの紹介を要求したということでした。クインへの報酬は、ガブリエルとケラーが死んだ時点で1000万。写真は、英雄ウィリアム・テル のクロスボウも保管されていたと伝えられる、1487年に武器庫を利用して造られた、老舗レストラン〈ツォイクハウスケラー〉で、「市長の剣(Burgermeister Schwert)」という料理が名物です。

最初のターゲットはニューハウンの中ほどにある〈ヴィド・カイェン〉というレストランでの会合で決まったとのこと。ロザノフは、イスラエルと英国の諜報関係者の耳にクインの名前をささやく役をナザリに頼んだとのことでした。当初ナザリは断ったようですが、エスファハニに内緒で200万を受け取って引き受けたのです。

ガブリエルは、ナザリに逃走プログラムによって彼の家族をイラク国外に連れ出したことを告げて、クインとロザノフ捜しに協力することを約束させ、今回交わした契約に少しでも違反したらどういう結果になるかを警告して、彼を解放します。市民公園の東側でナザリを降ろし、ミハイルがホテルまで送っていきました。
44 スパロー・ヒル、モスクワ
正午近くになって、いつもと同じ悪夢から覚めたカテリーナは、ランニングで気分をすっきりさせることにして、外の通りに出てミチュリンスキー大通りまで行きました。宿泊していたところは、後にアパートメントと記述され(352頁)、西へ向かって大通りに出たとのことから、〈Lotos 2 Apartment〉ではないでしょうか。

ミチュリンスキー大通りに沿って広がるキャンパスは、モスクワ大学です。ミハイル・ロモノーソフの提言に基づき1755年に設立されたモスクワ帝国大学が前身で、15の研究所、43の学部があります。

丘のふもとで右に曲がってコシギナ大通りに入りました。通り過ぎた緑と白の愛らしい教会というのは、雀が丘の命を与える三位一体教会で、現在は黄色と白に塗り替えられています。プーチン大統領も何度かこの教会を訪れているようです。

続いて通り過ぎたスパロー・ヒル(雀が丘)の展望広場は、モスクワ市街地が一望できる観光名所として知られています。写真右は1956年に開設されたルジニキ・スタジアムで、左奥はモスクワ国際ビジネスセンターの高層ビル群です。

また、大通りを挟んで、モスクワ大学の本館も望めます。

レンジローバーの尾行に気付いた、煌びやかな入口の〈ホテル・コーストン〉は、2020年に取り壊されて、現在はヤンデックス社の本社が建設されています。近付いてきた革ジャケットの男に二の腕を掴まれますが、カテリーナは、反射的に男の右足の甲を踏みつけて反撃し、男を倒します。とどめを刺そうとしたとき、背後の小道から笑い声が聞こえ、ロザノフが現れます。彼女を試すために仕組んだものでした。

ロザノフは、カテリーナを公用車のリアシートに乗せると、ワルシャワに一泊して身元を偽装した後、ロッテルダムに向かうよう指示します。クインとはフェリーターミナルのそばのホテルで落ち合う予定になっているとのことでした。

スパロー・ヒルの展望広場まで戻ってきたとき、ロザノフは、アタッシュケースからファイルフォルダーを取り出し、ロシアに戻ってくる前にもう一つ仕事を片付けて欲しいと大統領が言っていると話します。カテリーナは、ファイルの1ページ目の写真(おそらくエイモン・クインの写真です)を凝視し、自分の命も含めてロシアでは命の値段が安いと実感するのでした。
45 コペンハーゲン、デンマーク
ケラーは、イスラエルの諜報機関の人間のふりをして、デンマーク国家警察情報局(PET)の本部に、局長のモーテンセンを訪ねます。レザ・ナザリの顔写真を渡し、ニューハウンの〈ヴィド・カイェン〉で彼と会ったアレクセイ・ロザノフという名のSVRの男の写真を手に入れたいと、協力を要請しました。作中では、本部はチボリ公園の北側にあるとされていますが、PETのホームページでは、コペンハーゲンの北西郊外のバディンゲにあるとされています。写真は、チボリ公園北側にあるハンス・クリスチャン・アンデルセンの像とアンデルセン城です。

PETの本部を出たケラーは、チボリ公園まで歩き、モーテンセンが尾行を命じていることが確認できました。彼が渡った広場は、市庁舎広場で、右がマーティン・ニーロップが設計し、1905年に建設された市庁舎、左が〈パレスホテル〉、中央の噴水は、ヨアキム・スコヴガードとトルヴァルド・ビンデスベルが共同で設計し、1904年に完成したドラゴンの噴水で、ドラゴンと戦う雄牛が描かれています。市庁舎の時計塔は、高さが105.6mあり、コペンハーゲンで最も高い建物です。

歩行者天国で有名なストロイエをぶらついてから戻ったホテルは、1755年創業の豪華ホテル、〈ダングルテール〉でした。

同ホテルがある、市内最大の広場のコンゲンス・ニュートー広場は、1670年にクリスチャン5世によってパリのヴァンドーム広場をモデルに設立されたもので、中央にクリスチャン5世の騎馬像が立っています。

広場の南側には、1874年にオープンした王立劇場があります。

ケラーがホテルのシャンパンバー〈バルタザール〉でシャンパンのグラスを傾けながら過ごしていると、モーテンセンから探していた写真が見つかったと連絡が入ります。

案内されたPET本部の部屋では、スクリーンにナザリの画像が映し出されており、モーテンセンがパソコンのキーを叩くと、別の画像が現れました。長身で、高い頬骨、頭頂部が薄くなりかけた金髪、これがモスクワ・センターの男です。モーテンセンは、デンマーク国民から進呈すると言ってディスクをケラーに渡しました。
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翌朝、ケラーはロンドンへ飛びました。ヒースロー空港でMI6職員の出迎えを受け、車でフラムのビショップ・ロードにある隠れ家へ運ばれます。ビショップ・ロードは、フラムの中央やや北側、モンスター・ロードからA3219号線に接続するまで東西に延びる道路です。中で待っていたグレアム・シーモアからMI6のブラックベリーを渡され、暗号化に使う8桁の数字を告げられるとともに、MI6の内部情報を閲覧できるようになる書類を示されます。ケラーが書類にサインをすると、アレクセイ・ロザノフの情報を収めたUSBメモリーが渡されました。

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ケラーは、ヒースロー空港に戻り、ウィーン行きのブリティッシュ・エアウェイズに搭乗しました。午後4時過ぎにはウィーン国際空港に着いたとのことですが、現在(2025年4月)ブリティッシュ・エアウェイズが運航しているウィーン行きでは、BA702便(機材はA319又はA320)が該当しそうです。

タクシーでリングシュトラーセの少し先(後に(376頁)にウィーン2区と記述)、1階がコーヒーハウスになっている、ピーターマイヤー様式の古いアパートメントまで行きました。写真は、ターボーア通りにある〈Cafe Naschkätzchen〉の建物です。
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4階のフラットには、死んだ男がじりじりしながら待っていました。
46 ウィーン(ケンジントン・ハイストリート、ロンドン)
MI6のファイルによると、そのロシア人のフルネームはアレクセイ・アントノヴィッチ・ロザノフ。1990年代は外交官としてロンドンで暗躍していたようで、カナダ大使館の外交官とのランチミーティングを終えて出てきたところを写真に撮られた、ケンジントン・ハイストリートを歩く男は、コペンハーゲンで入手したスナップと同じ人物でした。

ロザノフをおびき寄せるのはレザ・ナザリにやらせることになり、ヤコブからインターコンチネンタル・ホテルに戻ったナザリの部屋に電話をかけ、市民公園の東端に呼び出しました。
47 ウィーン
ビジネス界に大きな影響力を持つ国籍不明の男のブログに掲載されたことに端を発して、高レベルの放射性廃棄物50キロ分がイランの秘密研究所から盗まれ、チェチェンのイスラム過激派と関係のある密輸業者の手に渡ったという噂が流れ(もちろんガブリエルが流したものですが)、国際的な危機に発展します。
イランの代表者は核協議の場をあとにして、レザ・ナザリとともにイラン大使館へ回ると、核協議を妨害する〈オフィス〉が仕組んだ陰謀だとにらむテヘランでは、事態を憂慮しているロシア側に連絡してミーティングを持つよう、エスファハニから指示が出ます。

参考までに、同大使館の通りを挟んで北側には、ロシア大使館があります。

同じ区画の東側には、1893〜99年に大使館教会として 建てられた、ロシア正教の聖ニコラス大聖堂があり、近年改修された美しい建物を見ることができます。

ヤコブは、ホテルに戻ったナザリに、イラン情報省支給のブラックベリーから、「ウィーンの最新状況について話し合いたい、ロシアは何も心配しなくていい」とのメールをロザノフに送るよう指示します。そして、ロザノフが会談に応じるように仕向けるため、彼のノートパソコンからは「わが国の政府は事態の深刻さに関して貴国に嘘をついている。二人で大至急会う必要がある」というメールを送らせたのです。
48 ウィーン
ロザノフから何の連絡もなく、隠れ家に閉じこもって神経過敏になっていたガブリエルは、ケラーに散歩を勧められ、「マッツォインゼル(ユダヤ人の島という意味)」と呼ばれるウィーン2区からリングジュトラーセを横断して1区へ移動し、かつてエーリッヒ・ラデックという男(第4旅(第8節)ではルートヴィヒ・ヴォーゲルと名乗っていました)と出会った〈カフェ・セン卜ラル〉の前で足を止めました。

短い距離を歩いて、ラデックの旧邸宅(第4旅では、翻訳者により5区のシュテバー通り22番地にあるものと改作されていました)の門の前で立ちつくした後、シナゴーグに向かいます。写真は、途中のホーエルマルクト広場にある、結婚の泉です。

広場の北東、アンカーホーフの二つの建物を繋ぐ回廊には、画家フランツ・マッチュが設計して、1911〜17年に造られた、幅10m、高さ7.5m、時計自体の直径4mのアンカー時計があります。毎正時にウィーンゆかりの人物が音楽にのってパレードします。

広場の中央から北東に延びるのがユーデンガッセで、その中ほどには、第2旅(第27節)に紹介したのと同じ、ユダヤ人居住区の境界線に張られた鎖が残っています。

更にユーデンガッセを進むと、フライシュマルクトと交わる広場に出ます。

第2旅(第27節)で訪れたシナゴーグの表の狭い通り(ザイテンシュテッテンガッセ)です。ガブリエルは、2年前、ここで安息日の夜に虐殺を実行しようとしたヒズボラの一団をミハイル・アブラモフと2人で葬り去ったとのこと。シリーズ12作目『The Fallen Angel』でのエピソードでしょう。

シナゴーグをあとにして、かつてエリ・ラヴォンが運営していた〈戦争犯罪調査事務所〉という名の調査機関が入っていたビルまで歩きました。第2旅(第27節)で〈Wiener Neustädter Hof〉と推理しました。第4旅(第1節)のときに爆弾で事務所が破壊され、アシスタントの女性2人が犠牲になって、彼はウィーンを離れました。ガブリエルは、再び歩き出したとき、ラヴォンに尾行されていることに気付き、横に来るように合図します。

小さな広場に出ました。息子が乗った車が爆発炎上した現場でした(第1旅(プロローグ)のとおり、ユーデン・プラッツ)。心臓が早鐘のように打ちはじめ、脚が急に鉛のように重くなり、その場に立ち尽くします。ほんの一瞬、ロザノフが餌に食いついてこないことを願いました。ラヴォンは、ロザノフのことは自分たちに任せて、国に帰るよう提案します。

クインは80年代半ばにリビアのラス・アル・ヘラルにいて、そこにタリクがいました。ガブリエルは、彼の家族を襲った爆弾にもクインが関与していたかもしれないと話します。その時、ラヴォンの携帯にメールが送られてきました。ロザノフからナザリへ連絡があったようです。
49 ロッテルダム、オランダ
カテリーナ・アウロワは、ロッテルダム中央駅に到着します。2014年に完成、開業した駅です。

駅からタクシーで向かったのは、海辺のコテージのようなホテル〈ノールドゼー〉でした。ホテルにクインはおらず、フロントで渡された封筒の中のメモには、「予定を変更してカテリーナとの二人旅をやめにする」と書かれていました。そこで、ロザノフにメールで指示を仰ぐと、とりあえずクインのやり方に合わせるようにとの返信がありました。

カテリーナは、ホテルをチェックアウトして、P&Oフェリーのターミナルまで行き、全長200m超、車250台、乗客1000以上を運ぶことができるフェリー〈プライド・オブ・ロッテルダム号〉に乗船します。SVRがガートルート・ベルガーという名前で1等船室を予約してくれていました。

バーでブレーメンの工作機械を製造する企業の経理部長の誘いを断って、カテリーナが展望デッキに出ると、黒縁眼鏡をしたクインが近付いてきます。彼女を船室に引きずり込み、マカロフを向けて着ているものを脱ぐように命じ、ロザノフに2000万ドルとSVRの腕利きスパイの交換を提案すると告げます。カテリーナが交渉の間自分をどこに閉じ込めておくつもりか尋ねると、クインは、ロザノフと手下どもがぜったいに見つけられない場所だと答え、彼女にセーターを差し出します。彼女は受け取ろうとせず、かわりにブラのホックを外し、床に落としました。クインは、マカロフの弾倉を抜き取り、明かりを消しました。
50 ウィーン ___ ハンブルク
ロザノフとのミーティングは、48時間後の木曜午後9時に行われることになります。その夜、最終打合せのためにインターコンチネンタル・ホテルのヤコブの部屋を訪れたナザリに、ガブリエルは、隠しマイクの金色のペンを渡し、目配せも、手で合図するのも、テーブルの下でロザノフに何かを渡すのも禁止だと告げ、ロザノフからクインの行方を聞き出すための質問を暗記するよう1枚の紙をかざしました。

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ガブリエルとケラーは、朝の便でハンブルクに到着。ハンブルクは、カール大帝が築いた城砦が町の起源で、ハンザ同盟の都市として発展し、ドイツ第2の都市となっています。ブラームスやメンデルスゾーンの生まれたところとしても知られていますが、作中にあるようにニコライ運河など多くの運河が流れ、港町らしい景色が広がります。

二人は別々のタクシーに乗ってメルケベルク通りに向かいました。写真は、同通りの東端に位置する、1906年開業のハンブルク中央駅です。1日の利用者数は55万人を超えるドイツ最大の駅です。

メルケベルク通りを西へ繁華街の方に歩いてきました。写真左に見えている二つの尖塔は、聖ヤコブ教会(左、125m)聖ペテロ教会(右、127.5m)です。

旧市街の中心、ラートハウスマルクト広場にあるのが、1886~97年に建てられたハンブルク市庁舎で、112mの尖塔を持つネオルネサンス建築

ホーヘ・ブライヒェンという通りの北端にあるのが、ガブリエルがナザリに命じてVEVAKの予約を変更させたナザリの宿泊先〈ハンブルク・マリオネット・ホテル〉です。

〈マリオネット・ホテル〉の向かいにある、ウェディングケーキみたいなビルというのが〈ラルフ・ローレン・ハンブルク〉です。

ホーヘ・ブライヒェン通りに沿って、南に〈ディバーン陶器〉と〈高級靴店ルートヴィヒ・ライター〉が並んでいます。

そして、その隣にあるのが、ロザノフがミーティング場所に指定したシーフードレストラン〈ディー・バンク〉です。

午後1時を少し回ったところで、ガブリエルは、一人でレストランに入り、バーでロゼに口をつけながら、内部の様子を頭に刻み付けました。

その後、通りの向かいの広場で待っていたケラーの先に立って南へ向かいました。因みに、ルートヴィヒ=エアハルト通りに出て東側を見通すと、聖ニコライの記念碑がそびえ立っています。1874年に聖ニコライ教会の鐘楼として完成しましたが、第二次世界大戦中の空襲により1943年に教会は破壊され、尖塔のみが記念碑として残されています。高さ147.3mは、1877年まで世界一、現在は世界で5番目の高さを誇っています。

ガブリエルらは、反対の西側、聖ミヒャエル教会まで行きました。高さ132.14mの時計塔がある、バロック様式のプロテスタント教会です。時計の直径は8mで、この種の時計としてはドイツ最大のものです。時計塔には地上106mの高さに展望台があります。

教会の傍に緑の公園があり、二人は、その周囲に並んでいるアパートメントの一つ、すりガラスに囲まれた中庭のある現代風の建物に入り、4階に上がりました。

4Dのドアをノックすると、ヨッシ・ガヴィシュが二人を中に入れました。中では工作員のチームメンバーがそれぞれ作業に熱中していました。
51 ピカデリー、ロンドン
ロンドン時刻の午後1時10分、表向きはロシア大使館の下っ端職員ということになっていますが、実はロシアのスパイ組織レジデンチュラの上級工作員のユーリ・ヴォルコフは、MI5の尾行を振り切ると、リージェント通りを渡って、地下鉄ビカデリー・サーカス駅に入り、ベイカールー線のホームに下りました。情報屋が緊急に会いたいと言ってきたのです。

別々のドアから同じ車両に乗り込み、男から1m程のところに近づきます。電車が走り出すと、男はスマホを取り出し、画面を操作してからポケットに戻します。数秒後、ヴォルコフの胸ポケットの機器が受信を知らせて振動します。

男はベイカー・ストリート駅で下車し、ヴォルコフは、そのままパディントン駅まで行きました。パディントン駅は、世界初の地下鉄であるメトロポリタン鉄道のターミナル駅として、1863年に初めて地下鉄の列車が乗り入れました。

大使館まで歩いて戻りました。在英ロシア大使館は、ケンジントン・パレス・ガーデンズの北端にあります。入手した情報を暗号解読し、解読後の文章を印刷して、チーフのドミートリ・ウリャーニンのデスクに置くと、ウリャーニンは、信じられないという顔でそれを凝視し、「あの飛行機に積み込んだ棺はどういうことだ」と尋ねます。ヴォルコフは、きっと空っぽだったんですと答え、ウリャーニンの指示により至急モスクワ・センターに連絡を入れました。

そのときロザノフは、ハンブルク行きの便の機内で、モスクワにはいませんでした。ウリャーニンは、「至急メッセージに目を通してくれることを期待しよう。 ガブリエル・アロンのことだ、理由もなしに自分の死を偽装するわけがない」と言い、アイルランド人にロシアの仕事をさせたりするから、こういうことになるんだと思いました。
52 フリートウッド、イギリス
そのころ、クインが滞在していたのは、イギリスのフリートウッドの遊歩道沿いにあるホテルでした。写真は、海が見える〈Kelvin House〉という名の小さなホテルです。

クインは、カテリーナを起こして、フロントで聞いたロード通りのネットカフェまで行き(著者ノートにあるように、フィッシュ&チップスの店の向かいにネットカフェは見当たりません)、カテリーナにロザノフに宛てて、クインが彼女を拘束していること、チューリッヒの彼の口座に2000万ドルの入金を要求していること、応じない場合は作戦の第2段階はキャンセルし、全額の支払いがあるまで彼女を人質として預かることを、メールさせました。

45分経ってようやく返ってきたメールは、アロンとケラーが生きており、二人はクインとカテリーナを探している、支払いはゼロで、作戦を中止し、カテリーナを直ちに出国させろという内容でした。それに対し、クインは、あくまで第2作戦に入ると主張して、ターゲットの位置を確認するよう要求させます。2通目のメールには10分で返事があり、住所が記載されていました。カテリーナがその住所を検索すると、それを見たクインはほくそ笑むのでした。
53 テムズ・ハウス、ロンドン
木曜日の夕方6時半、MI5の副長官マイルズ・ケントは、ユーリ・ヴォルコフの件で、アマンダ・ウォレスの執務室を訪ねます。防犯カメラの映像によると、A4チームの尾行がまかれた後、彼はピカデリー・サーカス駅から地下鉄に乗り、パディントン駅で降りて大使館に戻っていますが、その直後に複雑に暗号化された高優先度通信がなされたことがわかり、タイミング的に極めて怪しいと報告します。

爆弾テロの前と同じように不吉な予感がするというケントは、車両に乗りあわせた者全員について調べる許可を求めます。そして、ヴォクソール・クロスの友人にも話をしておくべきとの彼の進言に従い、アマンダは、グレアム・シーモアへの直通電話の受話器を取るのでした。
54 ロード通り、フリートウッド
クインとカテリーナは、ホテルに戻ります。写真は、ホテルに戻る途中、アイルランド海を見下ろす砂丘の頂上に見られるザ・マウントというパビリオンです。デシマス・バートンが設計して1902〜04年に建てられたもので、歴史的建造物に指定されています。

ガブリエルらが生きていることを知って、カテリーナは、怯えて神経を尖らせますが、クインは、ガブリエルらを殺して契約の条件を満たせばよいと言い、最後のターゲットを使って二人をおびき寄せると話します。一人でやれるわけないと言うカテリーナに、クインは彼女に協力してもらうと応えます。拒否する選択肢はないと言って。
55 ハンブルク
時を同じくして、ナザリが搭乗したオーストリア航空が市の中心から約9km北にある空港に着きます。現在(2025年4月)、OS171便は、ウィーンを午後6時過ぎに発ち、約1時間半でハンブルク空港に到着します。機材はA320又はA321です。
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マリオット・ホテルに直行すると、部屋を訪ねてきたヤコブ・ロスマンに、ナザリは、ロザノフと会うときはいつも事前に電話が入ることになっており、応答がなければ彼は来ないと言い、その電話に出る条件として妻の声を聞きたいと要求します、「無理なことは何もないはずだ。今夜は特に」と言って。

ガブリエルの承認を得て、安全な回線を経由して、トルコ東部のヴィラに潜伏している妻子のもとに電話が転送されます。通話時間が5分を過ぎ、ガブリエルをやきもきさせましたが、問題なく終了したことを確認して、チームを位置につかせます。
56 ノイシュタット、ハンブルク
午後8時50分になっても、アレクセイ・ロザノフからナザリへの連絡はありませんでした。ガブリエルは、ノートパソコンにメッセージを打ち込み、ナザリをレストランへ行かせます。ロザノフをどうするか決めたかと尋ねるラヴォンに、ガブリエルは、自分が差し出す死亡証明書にサインをするチャンスをやろうと思うと言い、自分の顔がやつにとってこの世の見納めとなるようにしたいと語りました。

ナザリは、午後9時きっかりにレスラン〈ディー・バンク〉に入ると、ダイニングルームに案内されました。9時7分、ヤコブから渡された新しい携帯が振動し、知らない番号が表示されます。電話に出ると、ロザノフが小さな変更が必要になったと言い、ナザリに2分後にレストランの前で車に乗るよう指示します。
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ハンブルクナンバーの真っ黒なメルセデスベンツが〈ディー・バンク〉の外で止まりました。携帯を耳に押し当てたリアシートの男を見て、ケラーは無線で「やつだ。今ここで仕留めて、終わりにしよう」と言うと、ガブリエルは、「だめだ。やつが予定を変更した理由を知りたい。それと、クインを見つけたい」と返します。すると、ナザリが通りに出てきました。
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リアシートに乗り込んだナザリがどういうことか訊くと、電話を終えたロザノフは、「君がハンブルクのレストランの席についているのはまずいと思ったのでね。問題が起きた。由々しき問題だ」と話しました。
57 ハンブルク
ロザノフは、ロシアが使っている情報屋から報告で、ガブリエル・アロンがあの爆弾テロを生き延び、MI6の隠れ家へ運ばれ、今なお地球上を歩いていることがわかった、ハンブルクに到着した数分後、モスクワから知らせてきたと明かしました。モスクワ・センターは、今夜のミーティングをキャンセルするように言ってきたが、放射性廃棄物がチェチェンのテロ組織に渡ったという情報を確認しに来たと話します。アロンが自分の死を偽造したこととの関連、すなわちナザリのことを疑っているようです。
ベンツはフェルト通りを西へ向かっていました。写真は、連合軍による空襲に対抗して、1942~44年に建設されたフェルト通りのバンカー(旧高射砲塔Ⅳ)で(第4旅(第6節)で紹介したウィーンの高射砲塔と同時期に建設)、2024年に空中庭園を備えたホテル・レストランに生まれ変わっています。
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車はシュトレーゼマン通りに曲がりました。写真は、1990年に『オペラ座の怪人』でオープンした、同通りのミュージカル劇場ノイエ・フローラです。隠れ家のガブリエルが無線で指示を出すと、ミハイルとケラーがバイクでベンツに近づきます。拉致より殺しの方がすっきり片付くんだがというラヴォンに対し、ガブリエルは、自分が生きていることをロシア側に伝えた男の名前を知りたいと。付随的損害が出ないことを願おうとラヴォンが言った瞬間、銃声が響きます。

黒のベンツは、片側が道路、反対側に赤煉瓦のテラスハウスが立っている草地に突っ込みました。フロントシートの男2人はバイクに乗った2人に至近距離から頭部を撃ち抜かれ死亡。衝突からまもなくフォルクスワーゲンが現れ、ベンツの後部座席を楽々こじ開け、スラブ民族らしき男を連れ去ります。
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あとに残されたのは、運転席側の後部座席に乗っていた、たぶんアラブ系の人物だけ。自力で車を降りましたが、混乱しきって自分がどこにいるのかわからない様子。やがて別の車からあばた面の男が手を振っているのに気づき、何度も”タラ”という言葉をつぶやきながら、よろよろとそちらへ向かいました。
58 ハンブルク
ガブリエルとラヴォンは、ハンブルクの隠れ家を引き払って、南へ向かい、デーレという町まで行きました。町の向こうの鬱蒼たる森の中、小さな空き地でフォルクスワーゲンが待っていました。

ガブリエルは、ケラーとミハイルにロザノフを立たせて、取り上げたグロックを彼の右足に向けて引き金をひき、置かれた立場を自覚させた上、クインの居所を訊きます。ロザノフが知らないと言うと、ガブリエルは、左足に向けて銃の引金をひきます。すると、ロザノフは、ガブリエルの携帯番号はオマーの追悼碑のところで女が写真を撮るふりをして彼のブラックベリーから引き出し、それをクインに教えたこと、クインが自分の存在を誇示するためにメールを送ったこと、タリクという名の男のことで昔の借りを返すとクインが言っていたこと、ガブリエルがまだ生きていることは今日の早い時刻にクインに連絡したこと、クインは作戦の第2段階に移るためにイギリスに戻ったことを明かしました。第2段階とは、明日の午後3時に、ロンドンのガイズ病院で、ジョナサン・ランカスター首相を暗殺することだと明かしました。
59 ドイツ北部
さらに、ロザノフの右足を踏みつけ、この夕方にフリートウッドという町のネットカフェからクインがメールを送ってきたこと、クインが爆弾を積み込むバンはロンドンのテムズ・ロードのガレージにあることを白状させます。そして、地面に倒れたロザノフを仰向けにして顔に銃を突きつけ、ガブリエルが生きていることをどうやって知ったかを訊きました。何とか誤魔化そうとするロザノフの膝に弾丸をぶち込むと、とうとうロザノフは、MI6の人事・保安課にいる情報源の名前を明かすのでした。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第3部からいながら旅を続けます。
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