第1部の続き、第23節からいながら旅を続けます。今回の旅では、第1旅で旅したリスボンが登場し、また、第2旅で旅したヴィトリアもちょこっと出てきます。リスボンの場面では、この3月に旅行した際に撮影した画像もお見せしたいと思います。
第1部 プリンセスの死(続き)
23 ベルファスト ___ リスボン
二人は、尾行を警戒するためリスボンまで行くのに時間をかけることにします。それぞれホテルをチェックアウトし、車でダブリンまで行って空港に車を置き、〈ラディソン・ホテル〉でそれぞれ部屋をとりました。

翌朝、二人は別々に朝食をすませて、ガブリエルはアイルランドの航空会社エアリンガスで、ケラーはエールフランスで、パリに向かいました。現在、ダブリン空港(DUB)発パリ行きは、前者は4便、後者は3便が運航しており、所要時間は1時間40〜50分です。ガブリエルが先に到着したとのことですので、彼がEI521便、ケラーがAF1717便に乗ったと思われます。

ドゴール空港では、ガブリエルが空港の駐車場に用意されていたシトロエンに乗り込み、ターミナルビルでケラーを待ち、フランス南西部のビアリッツへ向かいました。

その夜は、ビアリッツで一泊しました。フランス南西部バスク地方にある美しい海辺の町で、19世紀にヨーロッパの王族や貴族が訪れたことから発展したリゾート地です。ビスケー湾を一望できる岩場は、聖母の岩と呼ばれ、1865年に設置された聖母マリアの像がこの町のシンボルとなっています。

翌日はスペインに入り、バスク州の州都ヴィトリアの街に泊まりました。ケラーは、第2旅(第2節)でこの街を訪れ、ETAメンバーを殺害しました。中世の街並みが残り、中心部の名所ビルヘン・ブランカ広場には、サン・ミゲル・アルカンヘル教会やビトリアの戦いの戦勝記念碑などがあります。

ヴィトリアからマドリードへ行き、ポルトガルの国境沿いにバダホスまで走り、そこからリスボンに直行せずに西のエストリルへに向かいました。エストリルは、コスタ・ド・ソル(太陽の海岸)と呼ばれる一帯にあるヨーロッパ有数のリゾート地で、ポルトガルで一番大きいカジノがあります。二人は、海辺に立つ別々のホテルに泊まり、シーズン最後の太陽のもと気楽な日々を送りました。

3日目になり、リスボンでクインの住所を探し出したラヴォンから知らせがあります。ガブリエルとケラーは、リスボンへ向かい、午後9時半にはシアード(作中にはチャドと表記)地区のガレット通りにある1905年創業の老舗〈カフェ・ブラジレイラ〉にいました。

ラヴォンによれば、クインは、ホセ又はホルヘ・アルパレスと名乗り、アパートメントは、バイロ・アルトにあるということでした。ラヴォンは、一度エルサレムに帰ってこいと提案しますが、ガブリエルは応じません。

ガブリエルとラヴォンは、有名な緑のドアから、タイル敷きのシアード広場に出ました。広場の片隅に置かれているのは、フェルナンド・ペソアの像で、作中の表現を借りれば、詩と小説の世界でポルトガル一の名声を得たことへの罰として、永遠の時間を生きています。

同じ広場の南側には、長年シアード地区に住んでいたことから「シアード」と呼ばれた詩人アントニオ・リベイロの像も置かれています。

シアード広場を走る路面電車を横目に、二人は丘をゆっくりと登っていきました。

ラヴォンは、坂道の途中、振り返った景色がクインと娘を撮った例の写真の背景と同じであることに気付きます。写真は、ミゼリコルディア通りからテージョ川方面を見通したものですが、こんな景色だったでしょうか。
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ラヴォンは、再び坂道を進み、何回か角を曲がり、4階建てのアパートメントの入口の方を示しました。写真は、1階の壁は落書きだらけ、2階の鎧戸が蝶番1個だけで斜めにぶら下がり、花をつけた蔦植物が錆びたバルコニーから垂れ、坂の下の角にレストランがあるとの記述から、イメージに近い建物をのGoogleマップの過去のストリートビューから探したものです。2025年に旅行で訪れた時には、落書きは消され、外壁がきれいに塗り替えられていました。

通りに面したテーブルでケラーがメニューを見ていたという、坂の下の角のところにある小さなレストランは、この〈Alfaia〉ではないでしょうか。2025年に訪れたときは開店前の時間でした。
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翌朝、ガブリエルは、近くのアパートメントに監視のための部屋を借りました。
24 バイロ・アルト、リスボン
その日の夕方から、レストランの先にある、カナリア色の外壁の4階建てのアパートメントの、家具付きだが殺風景な部屋で、ガブリエル達の監視が始まります。

時間をもてあましたガブリエルは、バイロ・アルトの起伏のある道を散歩したり、目的もなく路面電車に乗ってシアード美術館に行ったり、〈カフェ・ブラジレイラ〉で午後のコーヒーを飲んだりしました。シアード国立現代美術館は、1911年に創設された美術館で、コロンバーノの《Grupo do Leão》など、ポルトガルを代表する芸術家を中心としたコレクションを所蔵しています。

また、〈オフィス〉の使いの男から、三脚付きの暗視スコープカメラなど諜報活動に必要な機材を受け取った、テージョ川(作中ではタホ川と表記)沿いの緑の公園というのは、1998年にポルトガル語圏で初のノーベル文学賞を受賞した作家ジョゼ・サラマーゴに因んで名付けられた、こちらのジョゼ・サラマーゴ広場ではないでしょうか。写真の銘板のほか、子供向けの遊具が置かれています。
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監視を始めて7日も経つと、さすがのケラーの忍耐心も薄れ、さらに1日経ち、探索をよそへ移そうと言い出したとき、ガブリエルは、通りの角のレストランに座る、30代ぐらいで、サングラスをかけた、白い肌、漆黒の髪、整った顔立ちの女性を見つめていました。横の椅子に置いた特大のバックがファスナーを開けたままなのが気になりました。まるで入っている銃をすぐに取り出せるように。

携帯の呼出音がなり、女性はボタンを押して電話を切り、席を立ちます。角を曲がって姿を消しましたが、裏道を通って戻ってくるとガブリエルが予想したとおり、その女性は薄明りの中から現れ、監視している建物の入口で足を止め、鍵をあけてドアを押し開きました。2階の暗い窓を見ると、ブラインドの奥に灯りがともりました。
25 バイロ・アルト、リスボン
翌朝8時半、女性はバルコニーにバスローブ一枚で現れ、ブルーの目で夜明けの通りを眺めていました。ガブリエルはスナップを何枚か撮り、〈オフィス〉に送りました。

それから20分後、女性は、ショルダーバッグをかけて正面玄関から建物を出てきました。丘の下まで続く大通り(ミゼリコルディア通り)で、コーヒーショップに入ると、ガブリエルは向かいのカフェで、ケラーはシトロエンの運転席で見張ります。

9時半になると、女性は外に出てタクシーを止め、空港方面に向かいました。1942年開業のリスボン空港(LIS)は、リスボン市街地から車で約15分の距離にあり、ポルテラ空港とも呼ばれますが、2016年に反サラザール派の将軍に因んで、リスボン・ウンベルト・デルガード空港と改称されました。ガブリエルは、ケラーにシトロエンの駐車を任せ、女性を追い、ターミナルビルに入ります。

女性がブリティッシュ・エアウェイズのロンドン行きBA501便に搭乗することがわかり、ガブリエルも〈オフィス〉のトラベル課にチケットを依頼します。現在の同便は10時40分発です。ガブリエルが機内に入ると、女性は既に席についており、彼は〈オフィス〉あてにメッセージを打ち込み、501便のファーストクラス2Aのシートに座る女性の身元を照会しました。

5分後、エコノミークラスに座るケラーが横を通り過ぎたとき、返信がありました。女性の氏名は、アンナ・フーバー、32歳、ドイツ国籍、現住所はフランクフルトのレッシングシュツラーセ11番地
26 ヒースロー空港、ロンドン
2時間46分の飛行時間で、午後1時過ぎにヒースロー空港に着陸しました。アンナ・フーバーという女性は、EUレーンを通って英国に入国。第3ターミナルビルの到着ロビーでは、ロンドン支局の工作員が車を待機させてガブリエルたちを待っていました。女性は、短期駐車場へ向かい、ブルーのBMWに乗り込みました。

ガブリエルは、ケラーが運転する銀色のフォルクスワーゲン・パサートの助手席にすべりこみ、BMWの後を追いました。追いついたのは、ウェスト・ロンドンへ続くA4道路に入ったときでした。ガブリエルは、シーモアに連絡。シーモアは、アマンダ・ウォレスに作戦が英国本土に及びそうだと連絡します。

オペレーションセンターで2台の車を捉えたアマンダは、クロムウェル・ロードを東に向かうBMWは盗難車で、運転しているのは有名なテロリストの関係者であるとして、ロンドン警視庁に拘束命令を発しました。

警察のチームが現れないまま、BMWはプロンプトン・ロードに入り、モンペリエ通りを過ぎ、HSBC銀行の支店の外で止まり、女性は車を降りて悠然と歩き去り、庇の下に消えました。ブルーの車が止まった通りの向かいにそびえているのは、老舗デパート〈ハロッズ〉のお伽の国のようなファサードでした。

ガブリエルの手の中でブラックベリーが振動し、送信元不明の短いメールが入っていました。” 煉瓦は壁のなか… “と
27 プロンプトン・ロード、ロンドン
二人は車から飛び降り、必死の形相で腕を振り回し、爆弾だと逃げろと警告して回りました。ケラーは二階建てバスから乗客を避難させ、ガブリエルはベレッタを取り出し、通りに止まった車に前に進むように合図し、倒れた妊婦を助け起こしました。

ガブリエルは、〈ハロッズ〉から出てくる買い物客を押し戻して通りに戻りましたが、どの車も全く動いていませんでした。白いフォードに駆け寄り、ドアに手を伸ばした瞬間、白熱の閃光に目がくらみ、無数の太陽の光を浴びたかのようでした。熱風にあおられ、ガラスと血の嵐の中へなすすべもなく後ずさりました。子供の手を一瞬つかみましたが、するりと抜けてしまいました。あとはもう暗黒が忍び寄り、何もわからなくなりました。
第2部 スパイの死
28 ロンドン
ブルーのBMWは跡形もなく消え、幅20m、深さ10mにわたって地面がえぐられていました。〈ハロッズ〉は爆発でファサードが吹き飛ばされ、内部が丸見えになりました。死者25名、負傷者は400名以上。BBCのビデオ映像には、通行人を必死に避難させようとした二人の男性の奮闘ぶりが残されていました。そのうち一人は、フォードの方へ走っていく姿を最後に行方がわからなくなっています。

爆破事件に対する民衆と政界の怒りは、テロリストの攻撃から英国本土を守る責任を負うMI5長官のアマンダ・ウォレスに向けられました。長官としての資質に関して好意的でない記事が出て、彼女をターゲットとする抗議行動も始まります。彼女は「ガーディアン」の記者を使って、プリンセス暗殺事件を記事の冒頭に書かせ、クインやシーモアの名前も登場します。

すると、今度はMI6長官をターゲットとする抗議活動が始まります。シーモアは一切声明を出さず、普段通りのスケジュールをこなし、公用車のジャガーでダウニング街10番地の門を通り抜けました。

1時間足らずでジャガーはヴォクソール・クロスに戻りましたが、シーモアはそのころ目立たないライトバンでロンドンから遠く離れていました。
29 ダートムア、デヴォン州
ダートムアは、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ『バスカヴィル家の犬』の舞台となったことでも知られる、イングランドのデボン州南部にある、イギリス最大の面積を有する高原地帯で、石炭紀にできた花崗岩が露出してトーアと呼ばれる丘が多数見られます。写真は、そのうちのーつ、ダートムアの中心にある、標高443mのベルヴァー・トーアです。

プロンプトン・ロードの爆弾テロがあった日の夜、ガブリエルとケラーが連れてこられたのは、名前がなく、地図にも出ていない道路の突き当たりの小高い丘にあり、所有者であるシーモアがかつて使った偽名に因んでワームウッドと名付けられた、テヴォン産の石を使った黒ずんだコテージでした(モデルとして使った写真は、〈YHAダートモール〉というホステルです)。回復不能と思われたガブリエルは、治療を受け、3日目の朝、車に乗っていた母親と子供の名前を知りたいと話します。

ケラーの方は、毎日午後になると荒野へトレッキングに出かけ、疲労困憊のボディガード2人をひきづって戻ってきました。写真は、コテージから片道3時間半のところにある、バウワーマンズ・ノーズという場所です。

6日目、「ガーディアン」に例の記事が出た日、目立たないライトバンが名前のない道路を走ってきました。バンの後ろから這い出てきたのは、女王陛下の秘密情報部の長官でした。
30 ワームウッド・コテージ、ダートムア
シーモアとガブリエルは、アールグレイ紅茶とデヴォンのクロテッドクリームを添えたスコーンを囲んで、キッチンの小さなテーブルに座りました。シーモアは、こんなことに巻き込んでしまってすまないとガブリエルに謝罪します。ガブリエルは、クインのリスボンのアパートメントに一泊した女がロンドン行きの飛行機に乗った時点で連絡すべきだったと応じますが、シーモアは、それでも状況は変わらなかっただろうと話します。
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なぜ通りへ駆け戻ったのかと尋ねるシーモアに、ガブリエルは、母親と子供が車に乗っているのを見てしまったからだと答えます。その男の子は彼の息子と同じくらいでした。外では、夕日が遠い丘の向こうに沈もうとしていました。

ガブリエルのブラックベリーから、クインはロンドンから例のメールを送ってきたことがわかっていました。問題はやつがどこでガブリエルの番号を知ったかだというシーモアに、ガブリエルは、自分を殺すためにクインを雇った人物から教わったからだろうと話します。ガブリエルには一人だけ心当たりがあるようです。
31 ワームウッド・コテージ、ダートムア
太陽が沈み、地平線にオレンジ色の光の帯が低く延び、星々が冷たく輝くころ、二人はコテージを出て、荒野の小道を進んでいきました(写真は、ダートムアのベルストーン近くにあるナイン・メイデンズ・ストーン・サークル)。ガブリエルは、凍った湖の畔の一軒家で、復讐好きな組織に属する男に許しがたい仕打ちをしたことがことの始まりだと切り出し、確証はないが、連中は、自分とケラーを殺し、シーモアにも罰を与えるべく、細心の注意のもとに計画を立て、クインを餌として放ち、陰謀をスタートさせるためにプリンセスの事件を仕掛けたのだろうと語りました。

そして、MI6にスパイがいると指摘したガブリエルは、クインは自分の手で殺ると主張し、そのためには今はまだMI6の人間ではないが、英国の利益を第一に考える人間の助けが必要だと話します。ちょうどそのとき暗がりからケラーが現れます。
32 ワームウッド・コテージ、ダートムア
シーモアは、その夜、夕食の後もゆっくりして、リビングの暖炉の前で過去の追憶に浸りました。ガブリエルは傍観者に徹し、語り手を務めたのは主にケラーでした。ベルファストでの極秘任務、エリザベス・コンリンの死、クインのこと、イラク西部で友軍の戦闘機から攻撃を受け、ドン・アントン・オルサーティに拾われたこと。シーモアは、じっと耳を傾けた後、ケラーに国籍回復につながる案を提示します。住むところ、MI6でする仕事のこと、これまで稼いだ金のことなど議論が続き、真夜中過ぎにようやく話がまとまり、シーモアは来た時と同じライトバンに乗り込みました。

その後、ガブリエルは、シーモアがUSBメモリに入れて置いていった2つのビデオ映像を確認します。わかったことは、彼女が高い能力を持ったプロ中のプロだということでした。
夜明け近くになり、ガブリエルは、コテージの管理人のパリッシュを通じて、シーモアに2人の人物との面会を求めました。一人はロンドンで最も評判の高い政治記者、もう一人は世界で最も有名な亡命者。シーモアはどちらにもOKを出して、コテージに車を差し向けました。ガブリエルがまず向かったのは、コ―ンウォール西部、リザード半島の崖沿いの道でした。
33 ガンロワー入江、コーンウォール
コーンウォールのガンロワー入江の南端に立つ小さなコテージ。シリーズ10作目『The Rembrandt Affair』当時、ガブリエルとキアラが移り住んだところでした。断崖の上にぽつんと立ち、緑の断崖の下には三日月形の砂浜が広がっているとのことから、写真の白壁の建物がモデルではないでしょうか。

断崖の上に見せる姿がクロード・モネの《プールヴィルの税関吏の小屋》と同じとされていますが、モネは、1882年に2度に渡ってノルマンディー地方に滞在しており、プールヴィルで税関吏の小屋を望む風景を、見る位置を変えて合計14点描いています。写真は、そのうちのメトロポリタン美術館が所蔵する一枚です。

紫のアルメリアやレッドフェスクが自生している断崖とは、写真ようなところでしょうか。

ガブリエルがイタリアから来た美術修復師ジョヴァンニ・ロッシとして暮らした自宅に住んでいたのは、シリーズ13作目『The English Girl』で、彼がロシアから脱出させたマデライン・ハートでした。そもそもの始まりは、ジョナサン・ランカスター首相と党本部に勤務していた彼女との不倫で、子供のころにロシアから送り込まれたスリーパー・エージェントであった彼女を使って首相に圧力をかけ、北海油田の採掘権をクレムリン直轄の企業に譲渡させようというロシア側の策略でした。真相を知ったガブリエルがサンクトペテルブルクで彼女を捕まえ、国外に連れ出し、コーンウォールのコテージを提供したのです。英国史上最悪のスキャンダルにより政治生命を脅かされた首相は、北海油田の契約を破棄し、英国の銀行に預けられていたロシアの資産を凍結するという反撃に出て、その結果、ロシア大統領は数十億ドルの損失を被りました。ガブリエルは、今回の件は大統領の報復だとにらんだのです。

ガブリエルの顔の傷の理由を尋ねるマデラインに、彼は、爆発の瞬間、プロンプトン・ロードの現場にいたことを明かしました。マデラインは、防犯カメラに映っていた女性のことをドイツとどこかのハーフじゃないかと話します。
34 ガンロワー入江、コーンウォール
ガブリエルは、彼がリスボンで撮影した4枚の写真をカウンターに並べます。マデラインは、バルコニーの手すりに立っている女性の写真を取り、顔を近づけ、眉を寄せて考え込みます。

マデラインは、女性の右腕の内側に傷跡があると指摘し、その傷を負ったときにその場にいたからわかるのだと言って、過去の彼女を知っていると明かしました。
35 ガンロワー入江、コーンウォール
マデラインの父親はKGBの高官で、タイピストだった母親は出産後しばらくして亡くなり、マデラインは、KGBの孤児院へ送られました。その後、英国の環境で育てられ、訓練キャンプに移され、英国の町で暮らしました。ときたまアメリカの町やドイツの村に行く許可が出ることもあり、カテリーナに出会ったのはそうした外出のときでした。カテリーナは、マデラインより五、六歳年上で、母親の方がKGBで、父親はハニートラップの標的とされたドイツの諜報員でした。英語の会話練習のためにマデラインと引き合わされ、鬱状態となっていたカテリーナに配慮して、例外的に友達となることが許されました。腕の傷は、音を立てずに敵を倒すサイレント・キリングという訓練中の怪我でした。

マデラインは、再び写真を手に取ると、何故カテリーナがリスボンにいたのか、それに、どうしてプロンプトン・ロードで爆弾テロを犯したのかを尋ねます。ガブリエルは、彼女が来たのは、自分たちがリスボンのアパートメントに目をつけたことを彼女を操っている連中が知ったからで、爆弾は自分を標的にしたものだと言い、その理由はマデラインのことで、ロシア大統領の怒りを買ったからだと答えました。

大統領は前にも自分を殺そうとしたが、今回ようやく成功した、重傷の末に数時間前に英国陸軍病院で死亡したと言い、そして、自分を殺そうとした男を見つけに行くと語るのでした。
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ワームウッド・コテージに戻ったガブリエルは、ベッドにぐったり倒れこみました。カテリーナやマデラインが出てくる奇妙な夢にうなされ、目を覚ましたとき、ケラーが傍に立っていました。

荒野にトレッキングに連れ出されたガブリエルは、ケラーにマデラインやカテリーナについて語り、カテリーナを見つけ、クレムリンへ通訳の必要のないメッセージを送りつけてやると言いました。ケラーがクインのことを忘れるなと言うと、ガブリエルは、イランから出た情報であることから、クインという男も自分たちをおびき寄せるための餌だったのではないかと疑います。
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服を着替えて、ライトバンに乗り込み、ハイゲートにある隠れ家へ向かいました。2階の狭い書斎の細長い窓からは袋小路(ミルトン・パーク辺りではないでしょうか)が見渡せます。

夕暮れが忍び寄り、街灯がためらいがちに息を吹きかえす頃、遅刻して訪ねてきたのは、ガブリエルの悲劇的な死を世界に伝えてくれる女性でした。
36 ハイゲート、ロンドン
作中に以前この隠れ家で作戦を遂行したとあるのは、シリーズ10作目『The Rembrandt Affair』でのエピソードで、同書第47節によると、そこはハイゲートの静かな袋小路の端にあり、屋根の両端に煙突がある、頑丈なヴィクトリア朝の赤煉瓦造りの3階建ての建物とのことです。

ガブリエルは、1年前に「テレグラフ」の記者サマンサ・クックにロシアの潜入スパイで英国首相の愛人だったマデラインに独占インタビューできる機会を与えたお返しに、自分の死を告げる特ダネ記事を書くよう依頼します。サマンサは、倫理的に許されないとか、ランカスター首相の国民健康保険制度見直しの記事を書かなければいけないと言って拒否し、デュワーズの水割りを飲みながら、何故ガブリエルの死亡記事を書かせたいのかを尋ねます。ガブリエルは、プロンプトン・ロードのテロは自分を標的にしたものだったと話し、ロシアの関与をほのめかします。

自動車爆弾にロシアが関与しているとしたら、北海油田の採掘権から受ける何十億ドルもの利益を奪ったランカスター首相にメッセージを送ろうとしたのではないかと推測するサマンサに、ガブリエルは、それを奪ったのは実は自分だと語ります。そして、これからの仕事をやり易くするため、ロシア大統領に自分が死亡したと思わせたいと話し、〈オフィス〉の長官ウージ・ナヴォトと英国の情報源となる私用回線の電話番号を渡しました。
37 ワームウッド・コテージ、ダートムア
その夜、ガブリエルがワームウッド・コテージに戻ると、アリ・シャムロンが待っていました。シャムロンは、夕食を取ってリビングに戻ったガブリエルに、この世で過ごす最後の夜がこんなふうになると想像したかと尋ね、自身は息子を失った親のように死を悼み、そして、うちの次期長官を暗殺したらいかに重い代償を支払うことになるかをロシアに伝えることが大事だと話します。

コテージの管理人パリッシュのところに、「テレグラフ」にイスラエルからの客が興味を惹く記事が配信されたらプリントアウトして渡すようヴォクソール・クロスから指示があります。午前零時には大した記事はなく、15分後に再び閲覧しようとしたとき、画面がフリーズします。回復した画面には、大きな活字で単語が3つ並んでいました(”Gabriel Allon died” でしょうか)。パリッシュは、死亡したことをその当人に伝えるときはどんな表情をしたらいいのかと考えます。
38 ロンドン ___ クレムリン
「テレグラフ」からの電話を受け、BBCが午後1時のニュースで記事を流すと、イスラエルの首相府から何かの間違いであってほしいとの声明が出されます。ロンドンでは、爆弾を積んだ車を追ってプロンプトン・ロードまでやってきたのはなぜか、白いフォードに駆け寄ったのはなぜか、MI6と連携していたのかなど論争を招きますが、MI6もロンドン警視庁もコメントを拒否し、ランカスター首相も記者からの質問を無視します。
首相官邸の扉の前にいるのは、ネズミ捕獲長を務める猫のラリーです。

また、セント・ジェームズにある、第1旅・第2旅・第6旅にも登場した、〈グリーンのレストラン&オイスター・バー〉では、ジュリアン・イシャーウッドはもちろん、あのオリヴァー・ディンブルビーでさえも嗚咽する姿をさらし、最高の腕を持つ美術修復士の死を悼む悲痛な雰囲気に満ちていました。

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モスクワ南西の郊外ヤセネヴォにあるロシア対外情報局(SVR)、通称モスクワ・センター。アレクセイ・ロザノフ大佐は、「テレグラフ」の記事が事実か、ロンドンに潜入しているスパイで友人でもあるドミートリ・ウリャーニンと緊迫した連絡を続けました。MI6を出たアリ・シャムロンがヒースロー空港からベン・グリオン行きのエル・アル航空に搭乗する際に、直立不動の姿勢で棺が積み込まれるのを見守ったという報告を受け、ようやく確信するに至り、大統領に報告するため、クレムリン内で〈門番〉と呼ばれる男に電話をかけます。

パヴェル・ジーロフ同志の射殺死体がトヴェリ州の樺の森で発見されてから10か月。大統領から報復のためのミッションを命ぜられ、ロザノフは、時間をかけて慎重に計画を立案しました。ロシアの薄れた栄光を蘇らせ、失われた帝国を取り戻す壮大な計画のために、報復によって敵の間に不和の種をまき、ロシアへの内政干渉を思いとどまらせることが〈ボス〉の狙いでした。そして、〈ボス〉が強く望んだのは、最も憎むべき敵であるガブリエル・アロンがイスラエルの秘密諜報機関の長官になるのを阻むことでした。
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クレムリンは、ロシア語で「城壁」を意味し、ユーリ・ドルゴルーキーが1147年に築いた要塞が起源。現在の城壁は15世紀後半のイヴァン大帝のころに建築されたもので、周囲2235mの城壁に20の望楼が配置され、うち6つの塔の頂上にはルビー色に輝く星が取り付けられています。1990年に赤の広場とともに世界遺産に登録され、モスクワ最大の観光名所となっています。クレムリンには、2018年の夏に一度訪れたことがありますので、そのとき撮った写真も紹介しながら進みます。

ロザノフは、午後4時に公用車を出して、40分後にはボロヴィツカヤ塔に着きました。クレムリンの南西部にある塔で(写真右)、クレムリン内部に通じる入口の一つです。写真左は、設置に当たって紆余曲折があった、ウラジーミル大公の記念碑です。

ボロヴィツカヤ塔を入ってすぐ左手にあるのが、19世紀半ばに鎧や兵器を制作、保管するために建てられ、ニコライ1世の勅令によって博物館となった、武器庫です。その一画は、1682年まで戴冠式で使われたモノマフの王冠やエカテリーナ2世が愛人から贈られた世界一大きなダイヤモンド「オルロフ」が陳列されている、ダイヤモンド庫となっています。

続いて、クレムリン内の車道ボロヴィツカヤ・ウーリツァに面して、大クレムリン宮殿が壮麗な姿を現します。現在は、迎賓館として使われています。

ボロヴィツカヤ・ウーリツァを離れて、複数の教会施設に囲まれるクレムリンの聖域、聖堂(ソボールナヤ)広場に向かいましょう。広場の南東に立つアルハンゲリスキー大聖堂は、「聖天使首ミハイル大聖堂」とも呼ばれる、大天使ミカエルを祀る教会です。現在の建物は、イヴァン大帝の遺命により、ヴェネツィアのイタリア人アレヴィズ・ジュニアの設計で1505〜8年に建設されました。イヴァン大帝、雷帝、ピョートル2世など、歴代皇帝の墓所になっています。

広場の南西には、イヴァン大帝の命により皇帝とその家族の私的な寺院として1484〜89年に建設された、ブラゴヴェシェンスキー大聖堂があります。カトリック教会における受胎告知に相当する「生神女福音祭」を記憶することから、「生神女福音大聖堂」とも呼ばれています。

その北側にあるのが、1491年にイヴァン大帝が国家式典を行うために建造した、グラノヴィータヤ宮殿です。「グラノヴィータヤ」とは、「多面体、多稜の」という意味で、ファサードが白い多面体の石で覆われていることに由来します。

広場の東側にそびえ立つのは、イヴァン大帝の鐘楼です。八面体の鐘楼は高さ81mで、建設当時はモスクワで最も高い建造物でした。本体はフリアツィンが1505〜8年に、鐘楼はペトロフ・マリーが1532〜43年に建造しました。鐘は全部で24個あり、最大の鐘ウスペンスキーは64tもの重量があります。

そして、広場の北側には、ロシア正教の総主教会として、1547年のイヴァン雷帝のほか歴代ロシア皇帝の戴冠式が執り行われた、ウスペンスキー大聖堂があります。2018年訪問時は改修のためファサードの一部が幕で覆われていました。因みに、大聖堂の右後ろに見えているのは、現在はモスクワ・クレムリン博物館として使われている、十二使徒教会です。

ボロヴィツカヤ・ウーリツァに戻って、イヴァン大帝の鐘楼の脇には、1733〜35年にイワン・モトリンとその息子によって鋳造された、直径6.60m、高さ6.14m、重さ200tの世界最大の鐘で、鋳造中に発生した火災を消そうとして水をかけたため、ひびが入り、欠けてしまったという、鐘の皇帝が置かれています。欠けた部分だけでも11tあり、記念撮影している少年の背丈と変わらないくらいの大きさですね。

また、鐘の皇帝を少し北に行ったところには、1586年にアンドレイ・チョーホフによって鋳造された重量39,312kg、全長5.34mの大砲の皇帝があります。口径890mmという大きさは当時としては世界最大のものでした。地面に砲弾も置かれていますが、実際に使用されたことはないようです。

ロザノフが入った大統領府は、1776〜87年に建設された、帝政ロシア時代の元老院の建物で、更に北側にあります。大統領がクレムリンにいるときは丸屋根の上に大統領旗が掲げられているとのことです。

執務室に入ると、書類の山に目を通していた〈ボス〉が「事実か否かどっちだ」と尋ねます。ロザノフは「事実です。やつは死亡しました」と答えます。クインに対しては、第1作戦の完了時に1000万、第2作戦でさらに1000万を払う約束になっていると話すと、〈ボス〉は、両方の作戦が完了した時点で2000万を払うよう変更すると命じました。

それはいささか問題かとロザノフが答えると、〈ボス〉はそんなことはないと言って、巨大なデスクの向こうからファイルフォルダーを押してよこしました。ロザノフは、中を覗いて、死が全ての問題を解決する、そう思いました。男が消えれば問題も消えると。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部の続き、第39節からいながら旅を続けます。
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