第3部からいながら旅を続けます。ブラッドショーから手紙で事の真相を知らされたガブリエルは、《ひまわり》のパリ・バージョン(贋作)を使って手に入れた2500万ユーロを資金に、〈オフィス〉の協力も得て、オーストリアのリンツやアッター湖畔を舞台に次の作戦に出ます。
第3部 開かれた窓
この第3部から、シリアの歴史や支配者(大統領)一族についての記述が出てきます。シリアでは、反体制勢力の攻勢により首都ダマスカスが制圧され、2024年12月8日、アサド大統領がロシアに亡命し、親子2代50年以上にわたって続いた独裁政権は崩壊しましたが、物語の展開上、政権崩壊前の状態を前提に旅を進めます。
26 キング・サウル通り、テルアビブ
ガブリエルは、テルアビブのキング・サウル通りを訪ね、地下の駐車場から〈オフィス〉に入り、最上階に直行します。世界で最も恐れ敬われている情報機関(通称モサド)の本部の建物は、通りの端に立ち、入口に機関名を示す看板などはなく、くすんだ色の特徴のないビルとなっています。第1旅(第3節)に紹介したとおり、実際のモサド本部はここからよそへ移っています。

ガブリエルは、〈オフィス〉の現長官ウージ・ナヴォトにこれまでの経緯とブラッドショーの便箋からわかったことすべてを話しました。サムは、サミール・バサラという名のシリア情報局の人間で、ブラッドショーとは彼がベイルートに駐在しているときに知り合った。1年2か月前にミラノで旧交を温め、サミールが中東の裕福な実業家のクライアントのために絵画を購入する取引を持ち掛け、ブラッドショーは、大金持ちのクライアントのために絵を買いあさり、その中にはレンブラントやモネ、ルノワール、マチス、1972年にモントリオール美術館から盗まれたコロー(《泉の夢を見る女》が含まれていた。

それでも満足せず、クライアントがビッグなものを求めているというサミールに、ブラッドショーが提案したのが行方不明のカラヴァッジョだった。《キリストの降誕》は、シチリア島のマフィアのコーザ・ノストラがずっと持っていたが、ブラッドショーが交渉して手に入れ、状態の良くない祭壇画の修復を贋作師のモレルに依頼した。ところが、取引完了前にモレルが絵の購入者の正体を嗅ぎつけてしまったのです。

そのクライアントというのは、悲惨な内戦を指揮し、自国民に対して、残忍な拷問、無差別砲撃、化学兵器の使用を行ってきた男、すなわちシリアの大統領で、エジプトのムバラク大統領やリビアのカダフィ大佐の終末を見て、政権が崩壊したときに我が身に起きることを危惧するようになり、サミールに自分と家族のための蓄財を命じ、簡単に隠して輸送できる絵画に目をつけたということでした。そして、知り過ぎたサミールも、ブラッドショーにしゃべり過ぎたことで、シリア情報局の人間に殺されたのです。
27 キング・サウル通り、テルアビブ
ブラッドショーは、ガブリエルなら秘密裏に問題を解決してくれると考えたのでしょう。彼は、昔、ニコル・デブローを死に追いやった自分を許せず、彼女を殺したシリアのことも許せなかった。それで、彼は500万ユーロを受け取っておきながら絵を渡さなかったのです。
ナヴォトによれば、シリアの支配者一族にとって最も許せないのが彼らの金をくすねようとする人間で、シリアという国はもはや存在しないといってもいいくらいなのに、殺戮が続いているのは、ただ一つ金が理由だというのです。一族の隠し資産は、噂では100億ということだが、実際はもっとも大きく、それを預かっているのが外務副大臣という肩書で実質的に国を動かしているケメル・アル=ファルークだという。

ガブリエルは、偽のゴッホを売りつけて手に入れた2500万ユーロを資金に、シリアの支配者一族の金を凍結する作戦をナヴォトに持ち掛けます。ナヴォトも、半ば了承し、シリアとバース党の動きに関する国内屈指の専門家である彼の妻を作戦チームに招集したいというガブリエルの申出に対して微笑して、皮肉を返すのでした。
28 ペタフ・ティクヴァ、イスラエル
ガブリエルは、テルアビブの東10.6km、ペタフ・ティクヴァの東端の静かな通りにある、ナヴォト夫妻の家を訪ねます。写真は、コンクリート塀とブーゲンビリアの奥にひっそりと建っており、金属製のゲートとその傍に呼鈴があるという特徴から選んだ建物です。

ウージの妻ベッラ(第1旅(第5節)で紹介したように、論創社のシリーズではベラと訳されていました)に対し、ガブリエルが長官となっても、ウージには副長官として〈オフィス〉に残ってもらいたいと申し出て、ベッラにも今回の作戦に参加してもらうため、復帰に向けた条件交渉をします。
29 エルサレム
ガブリエルは、双子の子供ができることを告げるため、マウント・ヘルツル精神病院に入院中の前妻リーアを訪ねます。ヘルツルの丘に近い精神病院ということで、ヘルツォーク病院のことではないでしょうか。第1旅(プロローグ)のとおり、敵に仕掛けられた爆弾により、リーアは、ガブリエルとの息子ダニエルをウィーンで失い、自らも火傷を負って、鬱病と心的外傷後ストレス障害が組み合わさった症状に苦しんでいました。

リーアは庭にいました。彼女にキアラとの間に子供はいるのか聞かれたガブリエルは、事実を告げられず子供はいないと返答し、子供ができたあとも会いに来てくれるかと尋ねられると、せっせと来ると応じました。雲一つない空を見上げ、雪を見てと言うリーアに対して、ただ涙ぐんできれいだねと返すのでした。
30 ナルキス通り、エルサレム
アパートメントに到着すると、キアラが完璧なしつらえでガブリエルを出迎えました。シリーズ5作目『Prince of Fire』のときに移り住んだイスラエルにおける住居で、キング・サウル通りから距離を置きたかったガブリエルは、ベツァルエル美術学校の古いキャンパスからそう遠くないエルサレムのナルキス通り16番地にある、使われなくなっていた〈オフィス〉所有のアパートメントを購入しました。本作には詳しく記述されていませんが、前庭に大きなユーカリの木がある、こじんまりした3階建ての石灰岩造りのアパートメントで、現地には実際に写真のような建物があります。エレベーターはなく、二人の部屋はセメントの階段を上がった最上階にあるようです。2LDKの部屋はイスラエルの標準より広く、2つの寝室のうち小さい方はガブリエルのアトリエに改装されていました。

〈オフィス〉の前長官で、ガブリエルを息子のようにかわいがり、何年も前からキング・サウル通りの執務室の主となるよう説得に努めてきた、アリ・シャムロンが妻のギラーと訪ねてきます。ユーカリの枝が垂れかかり、錬鉄の椅子が置いてあるテラスで、二人はナヴォト夫妻の処遇や今回の作戦について話します。シャムロンから唯一助言されたことは、まず金を見つけろ、絵を見つけるのはそのあとだ、ということでした。
31 エルサレム
翌朝、ガブリエルは、リムジンでエルサレムの街を東へ向かい、旧市街のユダヤ人街区へのメインゲートである糞門まで行きました。旧市街城壁に8つある門の一つで、1537〜41年にスレイマン1世によって建設されたものです。当初は小さな裏門で人が荷役動物とともに通れる程度の大きさで、1952年に車両が通行できるように拡張されました。

ボディガードに守られて広場を横切って嘆きの壁へ向かいます。壁の上には、岩のドームが早朝の太陽を浴びて金色に輝いていました。現存する最古のイスラム建築と言われる岩のドームについては、第1旅(第46節)で紹介しています。

嘆きの壁は、紀元前20年頃ヘロデ大王によって拡張されたエルサレム神殿を取り巻いていた外壁の現存部分で、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいます。全長は488mに及びますが、広場から見えている部分は幅約57m。壁の高さは地上約19mで、地下に埋まっている部分も含めると約32mあります。

ガブリエルは、広場の左側にある入口から嘆きの壁トンネルに入りました。

ここから地下トンネルに入ります。

長年の発掘により、壁の端から端まで、ヴィア・ドロローサに続く地下通路のところまで徒歩で行けるようになっています。

壁の基部に沿って舗装されたばかりの通路を進みます。写真は、トンネル状の祈祷所のウィルソンのアーチです。

そこから、「西の石」と呼ばれる、長さ13.55m、高さ3.3m、推定重量250〜300トンという巨石を含むヘロデ大王の巨大な石組みを通り過ぎます。

透明のビニールカーテンの奥の長方形の発掘穴で、第4旅の発端となった事件(第1節)に巻き込まれイスラエルに戻っていたエリ・ラヴォンが土を掘っていました。小説では、ビザンティン帝国時代の金貨36枚などが発見され、638年のイスラム教徒によるエルサレム征服以前にユダヤ人過去の地に住みついていたことが証明されるとありますが、2020年5月、嘆きの壁近くにある約1400年前の構造物の地下に岩盤を削って造られた3つの部屋が見つかったとの発表がありました。

第4旅では、時期を2004年とし(第3節)、オーストリアの次期首相候補のピーター・メッツラーがエーリック・ラデックというナチスの戦犯の息子であることをあばこうとしたことが惨劇の原因としていましたが(第28節)、本作(292頁)では、その時期を2003年とし、ホロコーストの時に略奪された資産の行方を突き止め、スイスの銀行から和解金を引き出させたことが原因としています。ガブリエルは、今回の作戦への協力を求め、ラヴォンを連れてキング・サウル通りへ向かいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
〈オフィス〉の地下3階、ドアに456Cと書かれた、「ガブリエルの巣」と呼ばれている部屋に入ると、ダイナ・サイドが待っており、その後続々とメンバーが集まりました。「バラク」というコードネームがつく男女8名にベッラ・ナヴォトが加わると、ガブリエルは、シリアの支配者が絵の購入のために使っていたダミー会社〈LXR投資〉のことを含め、これまでの経緯一切を説明しました。そして、〈LXR投資〉を利用し、支配者の財産管理を担うケメル・アル=ファルークから金の管理を任された男をあぶりだすことにし、その道案内をベッラが務めることになります。
32 キング・サウル通り、テルアビブ
ガブリエルのチームは、現在の大統領の父親であり、1930年にシーア派系の一派アラウィー派に属するカラダーハという村で生まれ、アラブ社会主義バース党に入り、空軍指揮官や国防相を経て、大統領として1970年から2000年までシリアを支配した男に関する調査から始めました。

彼が大統領になって10年もしないうちに、国内最大宗派のスンニ派の反発を招き、ムスリム同胞団などの台頭がみられるなど政権基盤が不安定化します。大統領に手榴弾を投げつける事件をきっかけに彼の弟が全面戦争を開始し、パルミラ刑務所の政治犯800名を虐殺します。さらに、政権の延命を図るため、1982年、オスロンテ川のほとり、ムスリム同胞団の活動拠点ハマーにおける暴動を武力鎮圧し、現代中東史でもっとも残忍と言われる虐殺を実行し、見せしめのために街を瓦礫の中に放置し、”ハマーのルール”が流行語となりました。

次男が大統領職を継いだ数年間は夢と希望にあふれていましたが、やがて〈アラブの春〉が訪れます。長年続いた独裁政権下で国民は社会経済への不満を募らせ、デモ運動が始まり、2011年には内戦状態に突入しました。

また、幽霊会社〈LXR投資〉について調査を進め、ロンドンの弁護士ハミド・カダムが英国での代理人となっていることを突き止めます。モルデカイとオデットがカダムに近づき、地下鉄セントラル線をマイル・エンドからリバプール・ストリートまでに行く間に、くすねた彼の携帯にソフトを入れて返し、リアルタイムでアクセスすることができるようにします。

そして、遂に捜し求めていた人物が見つかります。
33 リンツ、オーストリア
リンツは、ウィーンの西約160km、ドナウ川が南東に向きを変える場所に位置します。古代ローマ帝国が築いた砦を起源とし、鉄鉱石と塩で栄え、オーストリア=ハンガリー帝国で最も重要な都市となった時期もあり、現在はウィーン、グラーツに次ぐオーストリア第3の都市となっています。

エリ・ラヴォンは、身元を2回変え、ミュンヘン、ブタペスト、プラハを経て、6月の最初の火曜日に、ウィーンからリンツに入りました。フェリクス・アドラーと名乗る彼は、ダークスーツに身を包み、金の腕時計をはめて、ハウプトバーンホーフ(リンツ中央駅)に降り立ちました。

駅を出たラヴォンは、クリーム色のアパートメントが建ち並ぶ通り(フォルクスガルテン通りのことでしょう)を歩いて大聖堂へ向かいます。リンツ新大聖堂は、1862年に最初の石が置かれ、1924年に無原罪懐胎大聖堂(マリエンドム)として奉献され(最終完成は1935年)、今年で100年になります。

オーストリアで最大とされていますが、長さは130mで、2万人収容できる最大規模の教会ですが、幅は60m、身廊幅は27.5mで、高さは134.69mとウィーンのシュテファン大聖堂の南塔(136.44m)より約2m低いようです。尾行を確認したラヴォンとともに高さ15mのラテン十字架の身廊に入ってみましょう。

大聖堂の建設者ヴィンチェンツ・シュタッツによって設計された主祭壇。天蓋を蛇紋岩の台座を持つ4本の赤い大理石の柱が支えています。祭壇のテーブルはラサ大理石で作られています。

メインオルガンは、1968年に制作されたもので、大聖堂の建設を開始したリンツ司教フランツ・ヨーゼフ・リュディジェに因んで、リュディジェオルゲルとも呼ばれています。

この聖堂の最大の見どころは、77個ある窓のステンドグラスです。

中でもリンツの歴史が描かれた《リンツの窓》が有名です。聖母マリアの下にリンツの街並みを背景にして、左からフリードリヒ3世、その息子マキシミリアン1世、フェルディナンド2世、そして横にはリンツに14年間住んで「ケプラーの第三法則」を発表した天文物理学者のケプラーが並びます。下の左側には、1855年から13年間旧大聖堂でオルガン奏者を務めたブルックナーと、弟が住むリンツを度々訪れて第8交響曲を完成させたベートーヴェンがいます。

続いて、リンツで最も有名な広場であるハウプトプラッツまで歩き、尾行がないことの最終チェックを行いました。ハウプトプラッツは、広さ13,140㎡(219m×60m)で、建物に囲まれた広場としてはオーストリア最大。広場の中央にあるのが、戦争や大火から免れ、ペストが終焉したことに感謝して、1717〜23年に建てられた、高さ20mの三位一体の記念柱で、左後ろのピンク色のバロック様式のファサードが、旧市庁舎です。

広場の南側には、1686〜90年に彫刻家ヨハン・バプティスト・スパッツによって制作された噴水があり、その向こうに見えているのが、1669~83年にバロック様式で建てられ、1785年から1909年まで司教座が置かれた旧大聖堂(聖イグナティウス教会)です。

それからドナウ川を渡り、路面電車の折り返し点まで行きました。彼が渡ったのは、1938〜40年に建設されたニーベルンゲン橋で、北西側の袂には、橋の守護聖人と言われる聖ヨハネ・ネポムクの像(ヨハン・ヨーゼフ・ヴァンシャー1704年制作)が立っています。橋の向こうに見えている大きな建物は、リンツ城博物館です。

路面電車の折り返し地点の東側、ゲルストナー通りの端の方にある〈ウェーバー銀行〉の呼鈴のボタンを押しました。ゾンネンシュタイン通りとの角の建物ではないでしょうか。

ラヴォンは、頭取のマルクス・ウェーバーと経理部門の責任者ジハン・ナワズと面談し、1000万ユーロを預けたいと申し出て、〈オフィス〉の作戦資金を預かっているブリュッセルの名門銀行に電話して至急送金するよう告げます。
34 キング・サウル通り、テルアビブ
シリア生まれでドイツに帰化した、ウェーバー銀行の経理部門の責任者ジハン・ナワズについて、1952年に設立されたイスラエルの電子監視局〈ユニット8200〉が彼女のアカウントを調べて、アパートメントや行きつけのカフェ、男性との交際歴、オーストリア人に対する恐怖症を克服できずに孤独な日々を送っていることなどが明らかとなります。そして、デジタルの世界からは見つけることができなかった事実、彼女がハマー出身であることを、ベッラが1982年2月2日に起きた事件について作成した古いファイルからつきとめます。また、ワリード・アル=シディキが、〈悪の帝国〉の創立メンバーで、シリアの製薬会社の利益を一族の金庫に流れ込むように画策し、〈アラブの春〉後にシリアを離れて、一族の富を守るためリンツの小さな銀行に目を付けたことがわかります。

チームは準備を完了し、それぞれキング・サウル通りをあとにします。メンバーの一員ダイナ・サリドは、ハウスキーピング課が準備したアッター湖(又はアッターゼ。ドイツ語のseeに湖という意味があるので、アッターゼ湖とするのは不相当)のほとりに建つ黄褐色の大きな別荘に一泊し、イングリッド・ロス名義のパスポートを持って、ジハンの住居と通りを隔てた小さなアパートメントに入りました。
35 ミュンヘン 、ドイツ
オーストリアの保安機関に顔が知られているガブリエルは、愛想のいい金持ちのアメリカ人として、ミュンヘン経由でリンツに向かうことになり、空港でアウディA7に乗り込み、アウトバーンへ向かいました。ミュンヘン空港(MUC)は、正式名称をミュンヘン・フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港といい、フランクフルト空港に次いでドイツで2番目に利用者が多い空港です。現在、テルアビブからの直行便は、1日2便(エルアル空港、ルフトハンザ航空)が運航されており、飛行時間は4時間強です。

車を走らせていると、右手に、宇宙時代の建築物のようなオリンピック・タワーが見え、ガブリエルの暗殺者としてのキャリアが始まってからウィーンでのことなど、様々な記憶がよみがえってきました。第3旅(第6節)と同じように。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
国境を越えてオーストリアに入り、最初に通ったプラウナウ・アム・インで、ザルツブルガー・フォーアシュタット15番地にあるヒトラーの生家に立ち寄り、25年前(ヒトラー生誕100年の1989年4月)に建てられた石碑(戦争とファシズムに対する記念碑)の前に立ち、シリアで起きている戦争のことを思いました。記念碑の石はリンツ近郊の旧マウトハウゼン強制収容所敷地内の採石場から運ばれたものです。

午後2時過ぎにリンツに入り、新大聖堂の近くに車を止めました。

1時間ほどかけて付近を偵察してまわり、ドナウ川沿いにも行ったようです。緑の芝生の向こうに見えているのは、アントン・ブルックナーの生誕150周年を記念して1974年オープンしたコンサートホール、ブルックナーハウスです。毎年、リンツ・ブルックナー音楽祭として、彼の誕生日である9月4日から命日である10月11日にかけて、30以上の演奏会が行われています。今年は生誕200周年のブルックナー・イヤーです。

最後に足を止めたのは、ウェーバー銀行の傍にある路面電車の折り返し点でした。ベンチに腰を下ろして銀行の入口を見張っていると、高い頬骨とやけに小さく薄い唇が印象的なエレガントな装いの男が銀行から出てきて、停まっていた車の後部に乗り込み、ガブリエルの前を通り過ぎました。

ガブリエルは、トラムに乗って車を停めたところに戻り、アッター湖の西側、リッツルベルクの街の近くの隠れ家に向かいました。後出の位置情報や木製ゲートから松林と花をつけた蔓植物に縁取られた車道が延びているとのことから、写真のような場所ではないでしょうか。

4日目の明け方、チームが求めていた情報が入ります。〈LXR投資〉の顧問弁護士ハミド・ダイナからアル=シディキへの連絡により、ケイマン諸島の口座にウェーバー銀行経由で、4,500万ドルが入金されたのです。そこで、ダイナがジハンと自然な状況で接触する計画が練られ、翌日の午後5時、プファルプラッツの〈カフェ・マイヤー〉の外の席で、『日の名残り』を読んで待ちました。カズオ・イシグロの小説です。

自分の大好きな本だと言ってテーブルにやってきたジハンに、ダイナは、イングリッドと名乗り、お向かいどうしだと片手を差し出しました。
36 リンツ、オーストリア
二人は、お互いのフラットからそう遠くないワインが飲める小さな店まで歩きました。ジハンがツイッターに投稿した〈バー・ヴァニーリ〉のことでしょう。ハウプトプラッツとアルター・マルクトとの間、ホーフガッセ8番地にありましたが、2022年5月に閉店しています。ジハンが好きなオーストリアのリースリングを注文し、互いの生まれや仕事のことを話しました。ダイナがアル=シディキのことを尋ねると、ジハンの微笑が消え、彼に関する質問はやめてほしいと頼みます。二人の会話を聞いたガブリエルは、ジハンにアル=シディキが世界で最悪の男のために金を隠していることを知らせて裏切らせようと考えます。

ガブリエルの指示に従い、翌日、ダイナがジハンとランチをした〈イカーン〉は、アルシュタット16番地のインドネシア料理のお店でしたが、現在はなくなっています。

その週の木曜日、ダイナは、アルター・マルクトでジハンとばったり顔を合わせたと装って、彼女を土曜日のアッター湖でのパーティーに誘います。
37 アッター湖、オーストリア
二人は、正午過ぎに、ジハンの古いボルボに乗り、リンツの中心部をあとにし、アウトバーンA1からアッターゼシュトラーセに入り、左に藍色の水をたたえ、緑の山々に縁どられた湖を見ながら進みました。アッター湖は、ザルツカンマーグート地方で最大、オーストリアで3番目に大きい湖です。

グスタフ・クリムトは、1900〜16年の夏休みのほとんどをアッター湖畔で過ごしました。彼が有名な風景画を描いたという小さな島にはリッツルベルク城があり、そこに渡る桟橋は1917年に架けられたものです。

小説(348頁)には、マリーナは島を通り過ぎたところにあるとされていますが、上の写真のとおり島の手前(東側)にあります。二人が向かった湖畔の別荘は、マリーナの向こう(西側)にあり、左折して車道を進んだとのことから、先に紹介した木製ゲートのところだと思います。ただ、ダイナがどの別荘かと迷ってみせたのが「一瞬」とあることから、もう少し手前の駐車場のようなところに入るゲートの可能性もあります。

ジハンを出迎えたダイナの友人は、フェリクス・アドラーを名乗るラヴォンでした。税金と金融の問題を扱う政府機関の人間と称して現れたガブリエルは、アル=シディキに疑惑を持たれないようにここまで芝居を打ってきたことを告白して謝罪し、ウェーバー銀行はマネー・ロンダリング、詐欺、課税対象資産・収益の違法隠匿に関わっており、その銀行を陰で操っているアル=シディキをとらえるため、彼について知っていることすべてを話し、ウェーバー銀行の顧客情報のリストを渡すよう求めます。
38 アッター湖、オーストリア
下の絵は、第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人の所有者から押収したとされる、クリムトが1915年に描いた《アッター湖畔のリッツベルク》という作品で、2011年にオーストリアから元所有者の孫へ返還されることになったものです。
ジハンは、ナヴォトが勧めた料理は断りましたが、アラブ風に小さなグラスに注いだ紅茶は受け取り、2010年秋にウェーバー銀行の面接を受けてからのこと、アル=シディキのこと、自分のことを話し始めました。

そして、ある晩、忘れた財布を取りに銀行に戻ったとき、聞いてはいけないことを聞いてしまったと告白します。
39 アッター湖、オーストリア
スイスがシリアの支配者一族と関係者の資産2億ドルを凍結する発表があった「黒い金曜日」、ジハンが銀行に戻ると、アル=シディキが部屋で、資産を凍結されて不機嫌になっている人物でかなりの権力者からの電話を受けていたというのです。週明けに出勤すると、アル=シディキに呼ばれ、その晩何を聞いたかを確かめられ、シリアに住んでいる身内のことを聞かれた(脅迫の意味で)と話しました。

出身地を聞かれたジハンは、ハマーと答えます。
40 アッター湖、オーストリア
ジハンは、1976年にシリアのハマーで5人兄弟の末っ子、ただ一人の女の子として生まれました。ハマーは、かつてはシリアで最も美しいと言われた街で、オロンテス川のほとりに並ぶ優美な水車が有名でした。現在17基の水車が残存しており、世界最大とされる直径約20mのものがあります。また、イスラム教スンニ派の篤い信仰でも知られており、ジハンの父親もムスリム同胞団の理想を支持していました。

1982年2月のハマーの虐殺で、ジハンは家族も故郷も失いました。上の写真にも写っているヌール・アル・ディーン・モスクのミナレットが瓦礫の中に立っています。

収容所に送られた後、ムハバラート(秘密警察)の許可により、1982年秋にダマスカスの遠戚の家に行き、そこからハンブルクの兄のところへと追い払われ、マリエンシュトラーセ57番地の家で暮らしました。写真は、最近のその場所の建物です。

なぜ家族を殺した連中と親戚関係にある男のもとで働くのか聞かれたジハンは、わからない、でもそれでよかったと答え、ガブリエルは、自分もそう思うと言って微笑みました。
41 アッター湖、オーストリア
午後遅い時間になって、ガブリエルは、ジハンをモーターボートに乗せて湖に連れ出しました。湖の向こうには、ヘレンゲビルゲ(地獄の山)と呼ばれる山々が横たわっています。

ガブリエルは、彼の名前や正体を知りたがるジハンに対し、ジハンの身を守ることを約束した上、シリアの支配者一族をアンサーリーヤ山地出身の農民に戻すのを手伝ってもらいたいと頼みます。そして、アル=シディキが握っている口座番号等の情報が彼が常時持ち歩いている手帳に記録されていることを聞きだします。
***************************************
今回の投稿での旅はここまでです。次回、第4部からいながら旅を続けます。
コメント