ダニエル・シルヴァの小説『亡者のゲーム』de いながら旅 (2)

● ダニエル・シルヴァ
● ダニエル・シルヴァ亡者のゲーム

 この小説 de いながら旅を始めて2回目の新年を迎えました。昨年は、パリ オリンピック・パラリンピックで日本選手が多くのメダルを獲得し、また、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手が前人未到の50-50を達成するなど、明るい話題もありましたが、他方で、地震や豪雨により多くの方々に甚大な被害が及ぶなど、自然災害の脅威を改めて認識させられた年でもありました。個人的には、5月に、コロナ禍を経て5年ぶりとなる海外旅行を果たし、【小説 de いながら旅】を実地に追体験する実践旅とメイキングとなる取材旅として、ヴェネツィアとフィレンツェにリアル巡礼することができました(旅の様子は、4travel.jpの方に掲載しました。②から⑪をご覧ください)。そして、その取材結果等も利用して、お気に入りの小説家ダン・ブラウンの映画化小説『インフェルノ』をいながら旅することができました。今年は、阪神・淡路大震災から30年、そして、戦後80年となる節目の年。新しい年が幸多き年となり、世界に平和が訪れることを願います。

 さて、【小説 de いながら旅】は、再びダニエル・シルヴァの作品を取り上げ、第6シーズンが進行中ですが、第2部では、カラヴァッジョの探索に本腰を入れて関わっていくガブリエルが次の段階に進みます。


第2部 ひまわり

13 サンレモ、イタリア

 翌日の午後2時半、ガブリエルは、サンレモの要塞の壁の近くで、フェラーリ将軍と落ち合います。サンタテクラ要塞は、ジェノヴァの支配に反対して蜂起したサンレモの住民を制御するために、1755〜6 年にジェノヴァ共和国によって建設され、同共和国崩壊後も駐屯地や刑務所として機能してきましたが、現在は博物館となっているようです。

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 要塞に隣接するヴィットリオ・ヴェネト庭園沿いの緑地には、元パルチザンの彫刻家レンツォ・オルヴィエートによって制作され、1972年6月に設置された、レジスタンス殉教者記念碑があります。ガブリエルは、これまでにわかったことを報告しますが、将軍は、何を聞かされても驚く様子はなく、却ってブラッドショーがスパイだった点を省いたことを指摘します。

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 二人は、海辺を離れて町の中心部に向かいました。写真は、コルソ・アウグスト・モンベッロの南端にある、ケファロニア島戦没者の記念碑です。こちらもオルヴィエートが制作して1979年9月にケファロニア島とコルフ島のアクイ師団の戦没者に捧げられました。将軍は、今回の事件にカラヴァッジョが関わっていることや盗難絵画を買いあさっているコレクターの噂も耳にしていましたが、ガブリエルの捜査に影響が出るのを避けるため伏せていたと告白し、ブラッドショーが殺される前に拷問された理由を尋ねるガブリエルに対し、イヴ・モレルの名前を聞き出すためだったのではないかと答えます。

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 二人は、ローマ通りに曲がります。に立っているのは、ヴィンチェンツォ・パスクアリによって1923年に設置された、第一次世界大戦の戦没者に捧げられた、戦争記念碑です。事件から手を引こうとするガブリエルに対し、将軍は、約束は果たされておらず、事件への関わりは始まったばかりだと話します。

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 二人は、マリーナを見渡せる小さなバーまで歩き、冷たい陽光を受けた外のテーブルに腰掛けます。写真は、ビーチの東端にある〈Il Baretto〉です。将軍は、カラヴァッジョを取り戻すため、ミスタービッグの興味を惹きそうな名画を盗み出し、新たな絵画購入に誘い込むことをもちかけ、百万ユーロの資金とカラヴァッジョの盗難事件のファイルを提示します。

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 ガブリエルは、受け取った資金を車の助手席に置き、走り去ります。作戦を大雑把に完成させ、盗んだ絵画を市場に出す役をこなす人間として、コルシカ島にいる男を思い浮かべます。


14 コルシカ島

 コルシカ島へ向かったガブリエルは、サンレモからニースに向かいフェリーに乗船したと思われます。ただ、現在は、ニース港からカルヴィへの航路は運用されていないようです。

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 真夜中にカルヴィ港に着いたガブリエルは、近くのホテルで一泊し、翌朝、車に乗り込みました。港が見える岬の丘には、ジェノヴァ共和国時代に建設されたカルヴィ城塞が残っています。

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 島の西側の海岸線に沿ってがたがた道を走り、ポルトの町でコルシカ産のロゼワインを2本買います。コルシカで作られるワインの60%はロゼで、コルシカでしか作られていない幻のぶどうシャカレッロをベースに造られたロゼワインが有名です。写真は、ポルトの町の中心にある〈SPAR〉です。

(左から、lh3.googleusercontent.com ①

 オリーブの茂みとラリチオ松の並木に縁どられた狭い道路を走って島の奥に向かいます。ラリチオ松というのは、コルシカ島だけに見られる、樹齢600年、高さ40mに達する松だそうです。訪ねたのは、第2旅ではガブリエルの殺害を請け負いましたが、シリーズ前作『The English Girl』から良好な関係となっていた、ドン・アントン・オルサーティの屋敷でした。島の中央部の山中、ゴッホの絵にあるようなオリーブの木立を抜けたところにある広大な邸宅ということですが、場所が特定できず、第2旅(第7節)の推理により、(広大な邸宅は見つかりませんが)エヴィザ辺りとします。

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 ガブリエルがサン・ロレンツォ同心会祈祷堂の祭壇の空っぽの額縁の写真を見せて、カラヴァッジョの探索を頼まれていることを話すと、ドンは、1969年の夏の終わりに請け負ったシチリアのマフィア殺しの帰りに罪を告白するため、たまたま《キリストの降誕》が盗まれた直後に、その教会を訪れていたことを明かしました。

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 ガブリエルは、カラヴァッジョを取り戻す計画を話し、ドンの手下クリストファー・ケラーの手を借りたいと申し出ます。第2旅ではガブリエルの命を狙ったケラーとも、シリーズ前作『The English Girl』でともに行動し、友人となっていました。


15 コルシカ島

 ケラーは仕事で島を離れていたため、帰ってくるまで近くの渓谷に建つ赤い屋根瓦の瀟洒なヴィラで待つことになります。前作の最後にキアラと滞在したヴィラでした。写真はコルシカ島にある建物でイメージに合いそうなものを選びました。

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 車で村まで買物に行き、小高い場所にある、三方が商店とカフェに囲まれ、残りの一方に古い教会のある広場まで行き、カフェでコーヒーの後に赤ワインを飲んでいると、少年から「捜しものを見つける手伝いをしてあげよう」と書かれた紙を渡されます。

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 広場を渡って、司祭館の隣のゆがんだ小さな家、第2旅(第12節)に登場した、シグナドーラが住む家を訪ね、ガブリエルが油と水のテストを受けると、女が絵を見つける手伝いをしてくれるが、その女に危害が及ばないようにしなければすべてを失うと予言されます。また、キアラがヴェネツィアを離れ、光の都でガブリエルを待っていることを告げられます。

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 3日目の朝、ケラーがコルシカ島に戻ってきます。


16 コルシカ島

 ガブリエルは、ヴィラを訪れたケラーにイシャーウッドの不運なコモ湖訪問に始まって、世界中が血眼で捜している行方不明の絵を取り戻すためにフェラーリ将軍が提案した型破りな方法に至るまで、経緯をすべてを話します。

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 ガブリエルは、自分の専門ではないと乗り気でないケラーを説き伏せ、世界を股にかけて飛び回る絵画泥棒に仕立てるため、ヴィラのクロゼットに用意されているものからふさわしい服を選びます。


17 ミロメニル通り、パリ

 翌日の午前11時、〈アンティーク理化学機器専門店〉の奥の狭苦しいオフィスに、絵画泥棒、プロの殺し屋、イスラエル秘密諜報機関のスパイが集まりました。腰の重いモーリス・デュランに、行方不明のカラヴァッジョの祭壇画を見つけ出すために、闇のコレクターが欲しがるある絵を盗み出し、その絵がパリにあるという噂が広まったら、ケラーの方に導いてもらいたいと頼み、細かい作戦を詰めます。著者ノートにあるように、〈アンティーク理化学機器専門店〉は実在せず、写真は、第10節で紹介したミロメニル通りのブラッスリーの斜め向かいに以前あったアンティークカメラのお店です(現在は別のアンティーク美術ギャラリーになっています)。

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 夜の闇に包まれると、デュランは通り向かいのブラッスリーへ、ケラーはリヴォリ通りのホテルへ、ガブリエルはマリー橋を見渡せる場所にある〈オフィス〉所有のフラットへと別れました。マリー橋は、サン=ルイ島とオテル・ド・ヴィル通りを結ぶ、1635年に完成したパリで最も古い橋の一つです。

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 フラットには、シニャドーラが言い当てたとおりキアラが来ていました。ガブリエルは、キアラからブラッドショーのパソコンに残っていたデータの分析結果を聞いた後、〈オフィス〉の現長官ウージに、2億ドルの価値のある絵を盗み出し、ミスター・ビッグに売りつける計画を伝えるようキアラに頼み、自身はロンドン、マルセイユへと飛んで、黒い噂を広めると告げるのでした。


18 ハイドバーク、ロンドン ー マルセイユ

 ロンドン

 翌日の午前中、ガブリエルは、ハイドパークの〈リド・カフェバー〉でイシャーウッドと待ち合わせ、サーペインタイン池が眺められるテーブルにつきました。イシャーウッドに計画を明かし、今回の騒ぎの原因を作ったオリヴァー・ディンブルビーに罪を償わせる企てを説明します。

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 ピカデリーの歩道でイシャーウッドと別れたガブリエルは、セント・パンクラス駅まで行き、午後遅くのユーロスターでパリに戻りました。セントパンクラス・チャンバーズと呼ばれる、ヴィクトリア朝ネオ・ゴシック建築の駅舎は、ジョージ・ギルバート・スコット卿の設計によるものです。

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 マルセイユ

 翌朝、ガブリエルは、ルーブルの近くのカフェで朝食をとり、キアラをフラットへ送った後、タクシーでリヨン駅まで行き、9時発のマルセイユ行きの列車に乗りました。リヨン駅(Gare de Lyon)は、パリ・リヨン鉄道の起点駅として1849年に開業しました。TGVに乗車して、マルセイユまで3時間強です。

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 12時45分には、マルセイユ・サン・シャルル駅の階段を下りていました。

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 僅か1分程度ですが、アテネ大通りの入口までタクシーに乗ったようです。降りたところは、カプシーヌ広場辺りでしょう。中央にあるのは、ルイ16世の財務大臣ジャック・ネッケルを讃えるため、ナポレオンがエジプトから持ち帰ったオベリスクを載せて、1778年にドミニク・フォッサティによって建てられ、1863年にここに移されたフォッサーティの噴水です。

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 その後、ラ・カネビエールに出て、港まで歩きましたラ・カネビエールは、1666年にルイ14世によって建設された道幅の広いショッピング・ストリートで、マルセイユのシャンゼリゼ通りと呼ばれています。

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 港の東端には、金属製の台に魚介類を載せた金属製の台が並び、その一つの前にくたびれたセーターにゴムのエプロン姿のごま塩頭の男、パスカル・ラモーというコートダジュールで一番の窃盗団の親玉が立っています。

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 ガブリエルは、港の南端に停めた、ケラーが乗るルノーの助手席に乗り込みました。マルセイユは、シリーズ前作『The English Girl』で彼らがイギリスの女性マデリン・ハートの捜索を始めた地でした。今回、同じ場所にいるのは、デュランがカラビニエリの百万ユーロを正しい場所に届けるところを自分の目で確認するためでした。

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 午後1時45分、百万ユーロの現金が入ったアタッシュケースを提げたデュランがラ・カネビエールの坂を下り、ラモーと言葉を交わし、烏賊を買って、ガブリエルとケラーの横を通り過ぎ、ルネ・モンジャン所有のモーターヨット〈ミストラル号〉に乗り込みました。

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 デュランが17分後に再び出てきたときには、アタッシュケースも烏賊も消えていました。ガブリエルは、ケラーに、これであんたは2億ドルの価値があるゴッホの名画の所有者だと告げます。


19 アムステルダム

 それから9日後、4月の第3金曜日、アムステルダムゴッホ美術館から《ひまわり》が盗まれるというニュースが飛び込んできます。

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 ゴッホは、《ひまわり》をモチーフとした静物画を合計11点制作しており、そのうち花瓶に入ったひまわりを描いたものは7点。兵庫県芦屋の山本顧彌太氏が所蔵していた作品が第二次世界大戦中の空襲で焼失したため現存しているのは6点です。そのうち最も人気があるとされているのは、4番目に描かれたロンドン・バージョン(ナショナル・ギャラリー所蔵)でしょうか。それまでの3点から背景を黄色に変え、黄色の花瓶に入った、全部黄色のひまわりです。2020年に大阪の国立国際美術館で開催されたロンドン・ナショナル・ギャラリー展で見ることができました。

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 本作でゴッホ美術館から盗まれた《ひまわり》は、耳切り事件の後、1889年1月下旬に、アルルの「黄色い家」を去ったゴーギャンからの要望に応えて、ロンドン・バージョンを複製して制作された7番目の作品です。プロの犯罪者集団による最高に手際のいい強奪事件で、剃刀を使わずに額縁からカンバスを外す丁寧な扱い方でした。盗難後、美術館の館長がメディアで絵の返還を訴えたり、多額の賞金を出したり、市長がデモを煽動したりしましたが、オランダ警察は何の手掛かりもつかめずにいました。

映画『ゴッホ「ひまわり」に隠された謎』予告編から抽出他の画像

 因みに、同じくロンドン・バージョンを複製したとされる5番目の作品が日本のSOMPO美術館にあります。写真撮影可となっており、先日、カナレット展に出かけた際に見て、撮ってきました。

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 ロンドンでは、ジュリアン・イシャーウッドがいつもの〈グリーン〉のバーに顔を出すと、オリヴァー・ディンブルビーが彼のテーブルにやってきます。イシャーウッドは、盗まれたゴッホがパリに在り、名もない英国人が一千万で売りに出していると、口止めをした上で囁きました。すると、翌日には噂が十分に広まっていました。

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 実際、《ひまわり》は、盗まれた翌朝、デュランの店に運ばれ、空調付きキャビネットで2晩寝かされ、それから、マリー橋が見える〈オフィス〉所有のフラットに運ばれていました。ガブリエルは、リュクサンブール公園近くの小さな画廊でゴッホと同じタイプのカンバスの絵を手に入れて絵を落とし、下塗りが乾いたところで、まるでゴッホが乗り移ったかのようにひまわりを描きました。

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 3日かけて描き上げた後、オーブンでカンバスを焼き、即製のクラクリュールを作ると、本物と寸分違わぬ贋作、ガブリエルが「パリ・バージョン」と呼んだ作品ができあがりました。


20 ジュネーブ

 ガブリエルは、ブラッドショーがジュネーブのフリーポートに借りていた秘密の倉庫の中を探るため、スイス国内のどんなドアでも秘かに開けられる人物の協力を得ようと、リヨン駅から9時のTGVに乗ります。ジュネーブまでは3時間強です。第1旅(第24節)で紹介したとおり、同駅はスイス方面へのTGV Lyriaのパリ側の夕一ミナルです。

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 正午過ぎにジュネーブに到着すると、その男に電話して到着を連絡し、モンブラン橋を渡ってレマン湖の南岸へ行きました。市の中心部と旧市街を繋ぐモンブラン橋は、レマン湖から出ているローヌ川の河口部分に1862年に架けられた橋で、1903年に建設された現在の橋の長さは252mあります。

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 イギリス公園アングレ庭園)でピザを食べて時間をつぶします。広さ約3haの公園です。

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 午後4時になっても男は現れず、再び電話をかけますが、応答はありません。銀行や高級店が建ち並ぶローヌ通りに移動し、もう一度電話すると、「後ろを見てみろ」と返ってきます。男が後ろに立っていたのです。その男は諜報・保安機関NDBのテロ対策部所属のクリストフ・ビッテルで、シリーズ12作目『The Fallen Angel』で既に関わりを持っていました。

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 ビッテルの運転で車を走らせると、見えてきたのは〈ポルト・フラン〉という赤い文字が見える平凡な白い建物でした。19世紀には市場に出す農産物を置いておく倉庫でしたが、今では世界中の超富裕層があらゆる貴重品を預ける、税金のかからない倉庫となっています。最近は、盗品取引やマネーロンダリングに利用される懸念から監視が強化されています。ブラッドショーが借りていたのは、4号ビルの3階、通路12にある24番倉庫で、グレイの金属扉を開けると、2部屋に分かれており、内部には至るところに絵がありました。

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 巻かれた絵の一つを広げると、野の花が咲き乱れる海沿いの崖のてっぺんにコテージが建っている、モネの絵でした。ポーランドの美術館から盗まれたとあることから、ポズナン国立美術館から2000年9月に盗まれ、2010年に回収された、モネの《プールヴィルの浜辺》のことでしょう(後に明らかとなります)。

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 別のカンバスを広げると、パリ市立近代美術館から盗まれた、モディリアーニの《扇をもつ女》でした。2010年5月20日にこの絵を含む5点が盗まれており、被害総額が1臆ユーロに上るという世紀の盗難事件でした。この絵は、同じスパイものである「007/スカイフォール」にも登場します。奥の部屋は、まるで盗難絵画を集めた画廊の中にある、贋作の名手が使う秘密のアトリエといった感じで、置かれていたパレットには、《キリストの降誕》に使われているオークル、金色、真紅の絵具が残っていました。合計で147点の絵がありましたが、カラヴァッジョはありませんでした。

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 ビッテルとともにモンブラン橋経由で駅に戻ったガブリエルは、4時半過ぎのパリ行きに乗りました。コルナヴァン駅は、1858年に開業した、スイスで3番目に大きな駅で、ジュネーヴ=コルナヴァン駅としても知られ、TGVの時刻表には「Genève」と表記されます。

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 パリに戻ったガブリエルは、タクシーでフラット方向に戻る途中、架かってきた携帯に出ると、行き先をミロメニル通りに変更します。敵が餌に食いついてきたのです。


21 ミロメニル通り、パリ

 デュランの店の事務室(写真は前掲アンティークカメラショップの店内ですが、小説では、ディケンズの小説に出てくるような小さなデスクに、19世紀終わりのヴェリック社製の真鍮の顕微鏡が置かれています)。デュランに電話をよこしたのは、ミュンヘン出身の裕福な実業家で、デュランの特別サービスを頻繁に利用している絵画コレクターのヨナス・フィッシャーという男でした。あるコレクター仲間のために仲介役として架けてきたというフィッシャーによれば、そのコレクター仲間がパリに送り込んだ代理人を正しい場所へ案内してほしいとのことでした。ガブリエルは、その代理人の番号に、明日の午後2時サンジェルマン・デ・プレ広場に来て、教会の赤い扉のそばに立つようデュランに電話させます。

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 デュランの店を出たガブリエルは、ラブレー通り3番地のイスラエル大使館へ向かいます。〈オフィス〉のハウスキーピング課に連絡し、長官のウージには内緒で、パリから離れたところに家を一軒用意するよう頼みます。

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 翌朝、ハウスキーピング課が確保したのは、パリの北約46km、ピカルディ地方オワーズ県にあるアンドゥヴィルという村のはずれの古風な農家でした。ガブリエルは、キアラとともに正午に到着し、2枚の《ひまわり》を隠します。

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 ガブリエルは、パリに戻り、サンジェルマン・デ・プレ広場が見渡せる場所にあるカフェ〈ル・ボナパルト〉に行きます。通りを向いたテーブルにはケラーが座っていました。

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 教会の鐘楼の時計が午後2時2分を示すまで待って、ガブリエルは、カフェの店内の窓際から、サンジェルマン・デ・プレ教会の前に立つ男に電話をかけました。男はサムと名乗りました。”サミール”が見つかったのです。

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 ガブリエルは、尾行しながら電話でサムを誘導し、まずサンジェルマン大通りをラテン・クォーター(仏名カルチェ・ラタン)方面へ行かせました。

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 続いてカルディナル・ルモアーヌ通りをセーヌ川まで

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 トゥルネル橋を渡ってサン=ルイ島に入ります。橋の右側には、ポール・ランドスキによる聖ジュヌヴィエーヴの像を戴く15mの塔が立っています。

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 最後に、左へ曲がってサン・ルイ・アン・リル通りを島の西端のブラッスリーまで行かせました。現在、隣にアイスクリーム・パーラーはないようですが、ノートルダム寺院を眺められるこのブラッスリーというのは〈La Brasserie l’Isle Saint-Louis〉のことでしょう。

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 ブラッスリーには、レグ・バーソロミューと名乗るケラーが待っていました。


22 サン=ルイ島

 サムは、彼のクライアントは裕福な実業家で膨大なコレクションを持っており、ゴッホを手に入れるために現金で2500万ユーロ出すと話し、ポラロイド写真を見せるよう要求します。ケラーは、サムとノートルダム寺院の裏の通りに止めた車まで歩き、グローブボックスの中のポラロイド写真を見せます。現物を見せろと要求するサムに、逆にケラーは100万見せろと迫り、日時を指定します。

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 サムは、電話をかけながら、セーヌ川を渡ってリヴォリ通りをチュイルリー公園まで行きました。写真は、通り過ぎたルーブルのシュリー翼です。

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 その後、ガブリエルの尾行に気付く様子もなく、サントノーレ通りへ回って高級革製品の店でアタッシュケースを購入します。同通りの両サイド(271と404番地)に店を構える〈ロンシャン〉だと思います。

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 オスマン通りにあるHSBCプライベート・バンクのパリ支店に行きました(現在、同支店はCCFブランドに変わっています)。22分後に銀行から出てくると、サムのアタッシュケースは前より重そうになっていました。

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 そして、足早にコンコルド広場まで行き、〈オテル・ドゥ・クリヨン〉の豪華な玄関に入っていきました。

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 ガブリエルは、ケラーに電話をかけ、最新情報を伝え、ゲームが始まった、間違いなく餌に食いついてきたと告げるのでした。


23 サンジェルマン大通り、パリ

 翌日午後2時、サムは、アタッシュケースを持って再び教会の赤い扉の外に立っていました。

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 5分待ってから、ガブリエルは、サムに電話をかけ、ボナパルト通りをサン=シュルピス広場まで行くよう指示します。サン・シュルピス広場には、小説・映画『ダ・ヴィンチ・コード』にキー・ストーンの偽りの隠し場所として登場するサン・シュルピス教会や、ルイ・ヴィスコンティが設計し、1843~48年に建設したサン・シュルピスの噴水があります。

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 サムがリュクサンブール公園まで行ったところで、ガブリエルは、再び電話を入れ、そこからヴォージラール通りに曲がるよう指示します。

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 次に、ラスパイユ大通りを北へ向かわせ、〈オテル・ルテシア〉の玄関まで導きました。

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 サムを部屋に案内したケラーがアタッシュケースの金を確認し、次の段階へ進む準備ができたことを告げると、サムは、今夜午前零時までにゴッホの絵の前に立たせろと要求します。ケラーは、譲歩して絵を見せる段取りを打ち合わせます。

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 サムは、銀行の貸金庫に金を戻すと、オルセー美術館に出かけ、2時間かけてゴッホの絵の数々を鑑賞しました。

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 何点かご紹介しましょう。まずは、有名な1889年制作の《ゴッホの自画像》です。彼は30点以上自画像を描いていますが、この絵が最後の自画像ではないかとも言われています。

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 1890年制作の《オーヴェールの教会

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 1887年制作の《銅の花瓶に入ったヒョウモンチョウ

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 1890年制作の《ガシェ博士の肖像

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 1889年制作の《アルルの寝室

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 1890年制作の《昼寝

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 1888年制作の《ローヌ川の星月夜

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 因みに、フィンセント・ファン・ゴッホの生誕170周年に当たる2023年、10月3日から2024年2月4日まで、オルセー美術館で、ゴッホがパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズで生涯最後の2か月間に制作した作品に焦点を当てた展覧会「Van Gogh in Auvers-sur-Oise. The Final Months」が開かれました。

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 午後9時にクリヨンのロビーに立ったサムに対し、ガブリエルは、コンコルド駅から地下鉄12番線に乗るように電話で指示します。

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 パリ18区のラ・シャペル通りにあるマルクス・ドルモワ駅の外で、ケラーが車を止めて待っていると、階段のてっぺんにサムが現れます。

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 ケラーは、サムをピカルディの農家に案内し、地下室でゴッホの《ひまわり》を見せますが、サムは絵具の分析を要求します。躊躇した後にサムに薄片を採取させてパリに戻りました。3日目の午後4時、サムは大型のスーツケースを2個持って、HSBCプライベート・バンクに向かうのでした。


24 シェル、フランス

 現金と絵を交換する場所としてサムが指定したのは、パリの東に位置するシェルという町の〈ユーロ・トランズ〉という看板のある倉庫でした。フランソワ・ミッテラン通りに面していて、ルノーの販売代理店(現在はなくなっています)の向かいにあり、鉄柵の向こうに雑草が生い茂り、サッカー場ぐらいのスペースがあることなどから、現在は取り壊され空き地となっている線路北の場所(写真左側)ではないでしょうか。

Google マップ

 ガブリエルは、スケボーができるくらいの大きさがある公園の片側に並ぶ、〈ユーロ・トランズ〉の入口に一番近いベンチで、監視に付きます。ベンチは見当たりませんが、おそらく写真左側に写っている、北側の広場でしょう。

Google マップ

 発信機を取り付けた贋作を携えたケラーは、午後11時半きっかりに倉庫に到着し、10分後に取引を終えて出てきました。携帯でやりとりすると、サムの金はトランクにしまってあるとのことでした。ただし、100ユーロ分の束一つはケラーがガソリン代だと言って上着のポケットに入れたようです。

Googleマップを夜景に加工)

 一方、サムのBMWは、オートルートA4号線を東のランス方面に向かい、ストラスブールを経由してドイツのケールに入り、A5号線でカールスルーエ、A8号線でシュトュットガルト=ミッテまで行って、発信機の信号が消えました。

autobild.jp

 最後に信号が消えたのはベーハイム通り8番地で、そこにあったのは、冷戦時代の東ドイツから移築されたような灰色の化粧漆喰仕上げのホテルでした(現在は、写真のような茶色の建物に変わっています)。

Google マップ

 サムのBMWは、ホテル裏の路地先にある公共の立体駐車場(Googleマップ上には見当たりません)の1階の隅に停まっていました。中から射殺されたサムが見つかり、《ひまわり》の贋作は消えていました。


25 ジュネーブ

 ストラスブールでケラーと別れて、ガブリエルは、別の手掛かりを見つけるために再びジュネーブへ向かいます。迷惑がるビッテルの協力を何とか取り付け、ブラッドショーの倉庫に置かれていた金庫を開けてもらうと、そこにはガブリエル宛の手紙が残されていました。

geneva-freeports.chから引用)

 ジュネーブ国際空港の出発ロビーで、もう一度手紙に目を通しました。


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 今回の投稿での旅はここまでです。次回、第3部からいながら旅を続けます。

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