小説をガイドブック代わりに、登場人物たちの足跡を辿りつつ、時には寄り道もして、写真や観光資料、地図データなどを基に、舞台となっている世界各地を紹介しながらバーチャルに巡礼する、【小説 de いながら旅】の第6シーズン。再びダニエル・シルヴァの作品を取り上げます。これまでのいながら旅を引用する場合は、シーズン番号に応じて、第〇旅(例えば、第1シーズンの場合は第1旅)と表記します。
この旅のガイドブック
今回の旅のガイドブックは、2014年に刊行された(日本では2015年7月)『亡者のゲーム』です。同作は、美術修復師であると同時にイスラエル諜報機関の元暗殺工作員のガブリエル・アロンを主人公とするシリーズの14作目(原題『The Heist』)。シチリア島のパレルモにあるサン・ロレンツォ礼拝堂(作中にはサン・ロレンツォ同心会(祈祷堂)と表記)のためにカラヴァッジョが描いた最後の傑作《キリストの降誕》は、1969年10月18日に盗まれ、長く行方不明となっていますが、本作でガブリエルは、親友の美術商ジュリアン・イシャーウッドが巻き込まれた殺人事件をきっかけにして、事件の真相を暴くとともに、失われたカラヴァッジョの名画を探索していくことになります。主人公たちとともに、イタリア(パレルモ、ヴェネツィア、コモ湖ほか)、ロンドン、フランス(パリ、マルセイユ、コルシカ島、アヌシーほか)、アムステルダム、ジュネーブ、イスラエル(テルアビブ、エルサレム)、オーストリア(リンツ、アッター湖)などを巡ります。
なお、今回の旅では、探索中に上記カラヴァッジョのほかに、ゴッホやパルミジャニーノ、ルノワール、クリムト、モネ、モディリアーニなどの名画も登場します。
本書は、ハーパーコリンズ・ジャパンから山本やよいさんの翻訳で出版されるシリーズの1作目となります。論創社からのシリーズと違って、まだ文庫本が新品購入でき、基本的には本書だけ読むことで旅することができそうですが、翻訳の際に割愛されている部分があり、また、旅を進めるのに地名や場所を特定するのにスペルを確認する必要もありますので、原書もKindle版(英語版)で参考にさせていただきました。
なお、Kindle版は、シリーズ10作目まではBerkleyから出版されていましたが、シリーズ11作目以降は、Harper版とHarperCollins版の複数出版となり、本作では、前者は、表紙が白黒橙の3色刷りのリプリント版になっているのに対し、後者は、表紙が多色刷りで、価格もタイミングにもよりますが後者の方が廉価で、私は710円で購入できました。
序 文
最初に紹介する舞台は、カラヴァッジョの傑作が盗まれたというパレルモのサン・ロレンツォ礼拝堂です。パレルモの歴史的中心部、カルサ地区のイマコラテッラ通り5番地、サン・ロレンツォに捧げられた古い礼拝堂の跡地に、1569年にサン・フランチェスコ修道会によって建てられました(第二次世界大戦中の爆撃で被害を受けましたが、戦後に再建されています)。小説では誰も訪れてはいませんが、ちょっと中を覗いてみましょう(毎日10時~18時、拝観料3€(他の教会とセットで2€になる割引あり))。
通りに面した通用口のような入口を入りますと、ネームプレート付きの鉄柵と左右の階段の奥に柑橘類の木のある中庭があり、奥の壁際には、ジャコモ・セルポッタの胸像が置かれています。右側の水鉢に植えられている植物は、パビルスでしょうか?
一般にカラヴァッジョの《キリストの降誕》と呼ばれる《聖フランチェスコと聖ラウレンティウス(聖ロレンツォ)のキリストの降誕》は、乱闘騒ぎの中知人を剣で刺し殺した罪で懸賞金をかけられてローマを逃げ出したカラヴァッジョが、1609年にこの礼拝堂のために描いた祭壇画で、1969年10月17日から18日の夜(16日とする情報もあります)に盗まれ、50年以上経った今も行方不明となっています。
この未解決の名画盗難事件には、背後にシチリアのマフィアのコーザ・ノストラが絡んでいると言われていますが、真相は明らかにはされていません。事件にまつわる謎は、イタリアの作家で政治家でもあったレオナルド・シャーシアに最後の小説『Una storia semplice』(1991年に映画化)の執筆を触発し、また、パレルモ生まれの名匠ロベルト・アンド監督に映画『盗まれたカラヴァッジョ』を制作させました(2018年。日本では2020年放映)。
盗難を発見したのは、当時サン・ロレンツォ礼拝堂の管理人であったゲルフォ姉妹でした。窃盗犯は2人以上で、268cm×197cmという大きさのため、剃刀で絵を額縁から切り取り、巻き上げて絨毯に包んで盗んでいったとされ、映画では、雨の中教会から盗み出されるシーンも挿入されています。
主祭壇には長く、1968年にエンツォ・ブライが撮影した写真を拡大したコピーが展示されていましたが、名画盗難による喪失感を埋めるため、シチリア美術館友の会(Amici dei Musei Siciliani)の会長の発案により、2010年から「Next」と題する企画展が開かれており、毎回現代芸術による新たなバージョンの「Natività(降誕)」が12月から翌年のカラバッジョ盗難の記念日である10月17日まで堂内に展示されています。2019年には盗難から50年目を記念したプロブラム「Caravaggio50」が開催され、展覧会「Next – もう一つの降誕」において、第9回までの作品が1点を除いて一堂に展示されました。写真は、第1回の展覧会に出品された、2002年にパレルモの4人の芸術家によって結成されたサッカルディ研究室の作品です。
また、2015年、主祭壇には、イギリスのテレビ放送会社スカイの依頼に基づき、美術品保存会社ファクトム・アクテが最新デジタルテクノロジーを駆使した印刷技術で複製したカラヴァッジョの名画のレプリカが戻り、12月12日に正式に除幕されました。
礼拝堂内部は、” 漆喰のパガニーニ ”と称せられたジャコモ・セルポッタが、1699年から1706年にかけて、建築家ジャコモ・アマートの協力を得て漆喰(スタッコ)装飾を施して改装し、主祭壇に向かって、右側に聖フランシチェスコの生涯が、左側に聖ロレンツォの生涯が、それぞれ描かれています。床のモザイクも見逃せません。
象牙や螺鈿で装飾された黒檀のサイドベンチにも注目
右側壁面の聖フランチェスコの生涯。美徳を表す寓意像を挟んで、《聖フランチェスコの誘惑》(左)と《貧乏人の男に服を着せる》(右)の場面。右側に《スルタンへの祈り》と《聖痕を受ける聖フランチェスコ》が続きます。
左側壁面の聖ロレンツォの生涯。施しの寓意像(左)と慈悲の寓意像(右)に挟まれて、《聖ロレンツォ、貧しい人々に財産を与える》の場面。左側へ《教皇シクストゥス2世の殉教を目撃する》と《殉教前の脱衣》、《聖ロレンツォの最後の祈り》が続きます。
カウンターファサードには、中央に《聖ロレンツォの殉教》、左側に《聖痕を受ける聖フランチェスコ》、右側に《聖ロレンツォの最後の祈り》の場面
写真は、第13回目のNext展覧会となる2022年のクリスマスイブの夜に、イタリア人アーティストのヴァネッサ・ビークロフトが発表した降誕の新たなバージョンで、2023年1月8日まで主祭壇に展示されました。その間、レプリカの降誕の方は、反対側に移されるようです。
ビークロフは、天使が持つテープにサインを入れた新バージョンで、カラヴァッジョの図像を尊重しつつ、周りの人間の姿を覆い隠し、神(聖母子と天使)の光を強調しています。
こちらが最新(第14回(2023年12月25日〜))のアルゼンチン人画家フランシスコ・ボソレッティの作品のようです。
失われた《キリストの降誕》とその教会についてのサイドトリップはこのあたりにして、そろそろ物語に入りましょう。
第1部 明 暗(キアロスクーロ)
1 セント・ジェームズ、ロンドン
本シリーズに度々登場する、ジュリアン・イシャーウッドが経営する画廊〈イシャーウッド・ファイン・アーツ〉は、メイソンズ・ヤードと呼ばれる石畳の中庭の端にあり、かつて〈フォートナム&メイソン〉が所有していたヴィクトリア様式の古びた倉庫の建物で、1階が美術品でぎっしりの倉庫、2階が事務所、3階が格調高い展示室という設定です。これまで第1旅の第7節・第22節のとおり、袋小路の北東角にある〈Matthiesen Gallery〉がモデルではないかとしていましたが、ダニエル・シルヴァ自身がシリーズ21作目『報復のカルテット』の著者ノートでそれを匂わせる記述をしています。
受付嬢のマギーから午後の来店予定がキャンセルになったことを聞いたイシャーウッドが出かけたのは、いつものレストラン、デューク・ストリートの〈グリーンのレストラン&オイスター・バー〉でした。現在は閉店となっていますが、1982年にオープンし、英国王室やショーン・コネリーなども利用したことがある人気のお店だったようです。
そこへ騒々しい足音をたてて入ってきたオリヴァー・ディンブルビーは、まっすぐイシャーウッドのテーブルにやってくると、ひとしきり彼をからかった後、悩みを忘れるのに役立つ素敵な旅行だと言って、ある提案を持ちかけるのでした。
イシャーウッドは、その提案に応えて、翌朝9時にはミラノのマルペンサ空港への直行便ブリティッシュ・エアウェイズのファーストクラスに腰をおろしていました。BA576便はその時刻頃に実在しており、マルペンサまで2時間、機材はA320(写真)又はA319を使用しています。
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ディンブルビーの提案というのは、コモ湖の〈ヴィラ・デステ〉の豪華スイートに2泊する旅行費用を持つ見返りに、彼の代わりに、コモ湖に暮らすイギリス人を訪ね、絵画の鑑定をすることでした。イシャーウッドは、12時半にはレンタカーに乗り込み、北のコモ湖に向かいました。
イシャーウッドが約束の14時より数分前に到着すると、堂々とした門扉が出迎えました。
彼が訪ねたのは、コモ湖の南西に突き出たラーリオの町の近くで、門扉から彫像のある石畳の前庭まで舗装された車道が延びており、専用の船着き場があるヴィラということですが、ヴェッキア・レジーナ通り20番地にある、俳優ジョージ・クルーニー所有の〈ヴィラ・オレアンドラ〉などがモデルとして考えられます。
ベルに応答がなかったものの、玄関ドアが施錠されていなかったので、彼が玄関ホールに足を踏み入れると、大理石の床には血だまりが広がり、2本の素足が宙ぶらりんになっていました。イギリス人が殺されていたのです。
2 ヴェネツィア
翌日の早朝、ヴェネツィアは、アクア・アルタのため、サン・マルコ広場のカフェのテーブルや椅子が沈没した豪華客船の残骸のごとく浮かんで、サン・マルコ寺院の石段にぶつかっていました。ヴェネツィアでは、可動式水門により浸水を防ぐ「モーゼ・プロジェクト」などの対策を進めているものの、あまり進捗しておらず、オーバーツーリズム問題とともに、長年危険遺産への登録勧告の原因となっています。
主人公ガブリエル・アロンがカンナレージョ区のアパートから向かったのは、ドルソドゥーロ区のサン・セバスティアーノ教会でした。1396年にサン・ジローラモの隠遁修道士によって設立されたとされており、現在の建物は、スカルパニーノとして知られるアントニオ・アッボンディの設計により、1505~48 年に建てられ、1562年に奉献されました。
ガブリエルは、正面玄関が施錠されているため、教会右側の小さなドアを開けて単一式の身廊に入りました。修道院長ベルナルド・トルリオーニの要請により、ヴェネツィア・ルネッサンス黄金期の巨匠パオロ・ヴェロネーゼは、1555年から1570年まで3回にわたってこの教会の装飾に関わり、身廊と聖具室の天井画や身廊上部のフレスコ画、聖歌隊、オルガンの装飾、祭壇画などを制作しました。
ヴェロネーゼが最初に手掛けたのは、聖具室の天井の装飾で、中央の格間には、雲の上の聖母の戴冠式が描かれています。
その四方の格間には、4人の伝道者が置かれており、こちらは聖ヨハネです。
こちらは聖ルカです。ほかに、聖マルコと聖マシューがあり、四隅には、旧約聖書、新約聖書、碑文が刻まれた墓石などを持つ一対の天使が置かれています。
次に完成させたのが身廊の格天井の装飾で、エステル記のエピソードを描いた《ワシュティの追放》、《エステルの戴冠式》、《モルデカイの勝利》の3点です。
小説では、フランチェスコ・ティエボロがオーナーを務める美術品修復会社が請け負う修復プロジェクトにより一般公開が中止されているという設定ですが、実際にも、セーブ・ベニス社によって、2007年の事前調査を経て、2009年から身廊の天井画から順次修復プロジェクトが進められており、公開はされていますが(コーラス加盟の教会で、開館時間及び入場料は、こちらを参照してください)、修復作業は現在も進行中です。
1558年からの2度目の期間には、身廊上部のフレスコ画や聖歌隊を手掛けたほか、オルガンの扉と欄干も制作しました。こちらがオルガン扉の外側の《イエスの神殿奉献》です。
こちらが扉の内側の《ベテスダの池の奇跡》で、下のオルガン室に描かれているのは《キリスト降誕》です。
3度目の期間には、この教会の守護聖人聖セバスティアーノの物語の絵を手掛けており、司祭室左壁は、両親の説得により信仰を捨てようとしたマルクスとマルケリヌスの兄弟を聖セバスティアーノが説得し、その結果彼らは信仰を強め、家族の改宗も促したという物語を描いた《マルクスとマルケリヌスの殉教》
司祭室右壁は、矢によって負った傷が奇跡的に治癒した後、殴打の刑を宣告された、2度目の殉教を描いた《聖セバスティアーノの殉教》です。
そして、ヴェロネーゼがこの教会で最後に手掛けたのが、ガブリエルが現在修復を行っている、身廊奥の主祭壇にある、1570年完成の(原作には1556~65年とありますが)《聖人に囲まれた栄光の聖母子》です。聖母マリアと幼子イエスが栄光の雲の上にすわり、音楽を奏でる天使たちに囲まれ、聖人たち(聖セバスティアーノ、聖フランチェスコ、聖ペテロ、聖ヨハネ、聖カタリナ、聖エリザベト)が下から陶酔のまなざしで見あげています。聖セバスティアーノは、柱に縛られ矢で射抜かれた、最初の殉教の姿で描かれています。
小説では、主祭壇の前に足場を組み、防水シートに囲まれて修復を行っていますが(第3旅(第3節)にもあるようにガブリエルの修復スタイルのようです)、実際は、エジディオ・アルランゴ修復会社によって教会脇の礼拝堂に移されて保存修復作業が行われ、大理石とイストリア石の祭壇も同時に修復されたようです。
ヴェロネーゼは、死後、1588年にこの教会に埋葬されており、その墓は内陣左側にあります。
ガブリエルは、《ラ・ボエーム》のCDをかけると、”その気になれない”の旋律が教会を満たし、ルドルフォとミミがパリの狭い屋根裏部屋で恋に落ちる間に、心地よいリズムを刻みながら、祭壇画の表面の汚れと黄ばんだニスを落としていきました。10時になるころ、ティエボロが来て、カラビニエリのフェラーリ将軍から内密の用事で訪ねてくるとの電話があったことを伝えます。
3 ヴェネツィア
午後1時、ガブリエルがカステッロ区のサン・ザッカリア広場で待っていると、広場の南にあるイタリアの国家治安警察隊カラビニエリのヴェネツィア支部の建物から、チェーザレ・フェラーリ将軍が出てきます。美術遺産保護部隊、通称「美術班」のトップから、コモ湖で起きた殺人事件のことを聞かされます。
ガブリエルとフェラーリ将軍は、広場の東側に立つサン・ザッカリア教会の中に入ります。同教会については、第3旅(第3節)で紹介しましたので詳細は省きますが、2024年に実際に見てきましたので(上のカラビニエリの建物もそのときに撮りました)、そのときの写真をお見せしながら辿りましょう。
ファサードの頂上とポータルのアーチの上に立っているのが聖ザッカリアの像です。
身廊に入るのは無料です。
二人がこの教会の至宝である、有名な《聖ザッカリア祭壇画》のところまで行くと、ちょうどツアーガイドがガブリエルが手掛けた前回の修復(第3旅に描かれています)について説明を行っていました。
ジョヴァンニ・ベッリーニが1505年に、玉座の聖母子と聖ペテロ、アレクサンドリアの聖カタリナ、聖ルチア、聖ヒエロニムスとの聖会話を描いた最高傑作で、身廊左側の第2祭壇(後出の見取り図2)にあります。
フェラーリ将軍は、身廊の反対側にある、小さなチャペルの信者席に腰を下ろします。ヴェネツィア派の無名画家の絵がかかっているだけとあることから(37頁。原文には、1世紀以上もの間修復されていないとも記載されています。)、身廊右側のこの場所(第2祭壇)のことでしょう。ただし、祭壇画は、無名画家のものではなく、パルマ・イル・ジョヴァーネ又は小パルマとして知られるヤコポ・ネグレッティの作品です。
守護聖人の「納骨堂」があるチャペルとされていますが、独立した礼拝堂とはなっておらず、ここでは「墓」と訳すのが相応しく、アレッサンドロ・ヴィットーリアが制作した聖ザッカリアの墓(下)は、写真のとおり、アレクサンドリアの聖アタナシウスの墓(上)と共に、祭壇画の下に埋め込まれたような形になっています。
作中(36頁)に、ほかにも優れた絵画が何点かあるという、ティントレット、ヤコポ・パルマ、ヴァン・ダイクの作品は、いずれもサンタナシオ礼拝堂にあります。少し寄り道をして覗いてみましょう。同礼拝堂へは、身廊右側の扉(見取り図8と9の間)を入る際、コーラスパスを提示するか、個別に3.5€支払う必要があります。
礼拝堂に入って、正面の祭壇(見取り図3)にあるのがティントレットの《洗礼者ヨハネの誕生》です。
また、右側の壁(見取り図5)にあるのが、パルマ・イル・ヴェッキオ又は老パルマとして知られるヤコポ・パルマが1512年に描いた《聖母子と聖ベルナルディーノ、グレゴリウス大王、ポール、エリザベス、ベネディクト、プラシド》です。
入口側の壁には、パルマ・イル・ジョーヴァネ(上段)やレアンドロ・バッサーノ(下段左右)の作品が並んでいます。
そして、入口の真上にあるのが、アントン・ヴァン・ダイクの《磔刑図》です。
左側の扉から入った、左奥にあるサン・夕ラシオ礼拝堂には、天井(見取り図16)にアンドレア・デル・カスターニョがフランチェスコ・ダ・ファエンツァと協力して1442~44年に制作した聖ザッカリアほかのフレスコ画のある後陣の祭壇(同図15)に、ルドヴィコ・ダ・フォルリ(彫刻)とアントニオ・ヴィヴァリーニ、ジョヴァンニ・ダレマーニャ(絵画)による金の聖母多翼祭壇画があるほか、左右の壁龕(同図13・14)にも彼らによる多翼祭壇画が飾られています。2024年の訪問時は、後陣側が補修工事のために囲われていました。
この礼拝堂の奥から下に降りていくと、10〜11世紀に造られた地下納骨堂(クリプタ)があります。ヴェネツィア共和国の8人のドージェの墓があり、かつては聖ザッカリアの遺骨もここに安置されていたとのことです。現在は、地盤沈下のため写真のように水に浸かっていることが多いようです。
フェラーリ将軍は、ガブリエルに、コモ湖で殺害されたイギリス人ジェイムズ・ブラッドショーについて、美術品の違法な輸出に関わっていた疑いがあると話し、拘留されている友達のイシャーウッドを救いたければ、ブラッドショーを殺した犯人を見つけ出し、犯人が何を捜していたのかを突き止めるよう迫ります。
4 ヴェネツィア
二人は、サン・ザッカリーア教会からさほど遠くなく、観光客がめったに足を踏み入れることがない、カステッロ区の静かな一画にあるレストランに移ります。店名はわかりませんが、ワゴンから前菜をセルフで皿に取ったとのことから、ヴェネツィア名物のバーカロではないでしょうか。バーカロ(Bacaro)というのは、ワイン(ヴェネツィア人はオンブラ(Ombra)と呼ぶそうです)など気軽にお酒を飲みながら、チッケッティ(Cicchetti)といって、カウンターなどに並べられたバッカラ(干だらのペースト)、イワシの酢漬け、魚介のフリット、生ハム、チーズなどのフィンガーフードを、好きに取って食べられる、庶民的なお店のことで、写真は、静かな一画にはあてはまりませんが、サン・ザッカリーア広場の西のポータルを抜けたところにある、〈Bacaro Risorto Castello〉です。
ガブリエルと話しているとき、窓の外をながめて考えこむ将軍の姿を、ベッリーニが描いた《元首レオナルド・ロレダン》のようだと表現しています。1501〜21年にヴェネツィアのドージェであったロレダンの肖像画で、現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されている作品です。
ガブリエルは、カラビニエリのヴェネツィア支部に留置されているイシャーウッドを釈放させるため、フェラーリ将軍の依頼を承諾し、ため息橋がよく見える名所として知られるパーリア橋で身柄の引き渡しが行われます。第5旅(第29節)にも登場した場所です。
二人はグラン・カナル沿いにハリーズ・バーに向かい、そこで互いにこれまでの経緯等を話し、ガブリエルは、イシャーウッドに、将軍の気が変わらないうちにヴェネツィアを離れ、口をつぐっておくように諭します。ハリーズ・バーは、ヘミングウェイがお気に入りだったというバーで、イシャーウッドが飲んだ「ベリーニ」は、このバーで生まれた、桃を使ったワインベースの名物カクテルです。
その後、大運河まで歩き、ガブリエルは、ロンドンに帰るイシャーウッドが水上タクシーに乗り込むのを見送りました。
5 ヴェネツィア
暗くなるまでヴェロネーゼの修復に没頭した後、ガブリエルは、ティエボロにフェラーリ将軍に頼まれた個人的な用でしばらく留守にすると電話して、いつものコースを北上しました。サン・ポーロ区とカンナレッジョ区を通り過ぎたとのことですが、GoogleMapで検索した最短ルートでは前者は通りません。ルートとして両区を通るには、グラン・カナルを渡る必要があり、リアルト橋を渡るか、第4旅(第2節)で紹介したサンタ・ソフィアのゴンドラ・トラゲット(写真)に乗るルートが考えられます。
2024年の旅行では、昔のゲットーの中心部、ゲットー・ヌオーヴォ広場も訪ねました。ガブリエルが行き当たったヴェネツィアで唯一の鉄の橋、第3旅(第3節)で紹介したゲットー・ヌオーヴォ橋も渡りました。翻訳では削られていますが、原文には、中世にはこの橋の中央に門があり、夜には向こう岸に囚われている人(ユダヤ人)が逃げ出さないようにキリスト教徒が見張っていたと記されてます。
暗い通路というのは、こちらも第3旅(第3節)で建物の下をくぐる道と紹介した、ソトポルテゴ・デ・ゲットー・ノーヴォです。
ガブリエルが訪ねたのは、妻キアラが働く、広場の2899番地にある〈ヴェネツィアのユダヤ人コミュニティ〉でした。第4旅(第2節)で探索した、広場の南角のスクオーラ・カントンの建物です。2024年に訪問した際は、改修工事の囲壁で見ることができませんでした。
二人が借りているアパートメント(第3旅(第37節)で紹介したところは、シリーズ5作目『Prince of Fire』のときに引き払っていますので、2度目に借りたものです)は、ゲットーの中ではないけれどすぐそばで(46頁参照)、静かな広場に隣り合わせた古びた邸宅の2階にあります。広場と反対側は運河に面し、ガブリエルは1年後に〈オフィス〉の新長官になることが予定されていることもあり、アパートには高性能のセキュリティ・システムが付いていて、緊急時に逃走するためのモーターボートが置かれているようです。
ガブリエルは、バルドリーノを飲みながら、トリエステの郷土料理カランドラーカを作るキアラに、フェラーリ将軍の依頼を打ち明け、一人で留守番してくれるように頼むのでした。
6 コモ湖
翌朝、ガブリエルは、フェラーリ将軍から渡されたブラッドショーのパソコンからコピーされたデータの分析をキアラに頼み、ローマ広場近くの貸しガレージからフォルクスワーゲンのセダンに乗って、リベルタ橋を渡り、高速道路を西へ車を飛ばして、パデュア、ヴェローナ、ベルガモを過ぎ、ミラノ郊外から北のコモ湖へへ向かいました。
ブラッドショーのヴィラに到着したガブリエルは、ルッカというカラビニエリの警官を玄関に待たせ、内部を調べました。広いリビングの壁に並んでいた絵画は、大部分がヴェネツィアやフィレンツェの有名画家の弟子や模倣者が粗製乱造した三流の宗教画と肖像画でしたが、1点だけ明らかにジョヴァンニ・パオロ・パンニーニが描いた古代ローマの建造物を描いた風変りな絵がありました。
2階の寝室の一部屋には、数十点の絵画が置かれていましたが、中に最近修復されたばかりの、中庭で働く洗濯女たちを描いた、オランダ人画家ウィレム・カルフの風俗画の模写が壁に立てかけたままになっていました。ブラッドショーがなぜこの絵を修復させたのか疑問に思ったガブリエルが紫外線ランプで絵を照らすと、3人の洗濯女の姿が消え、カンバス全体が真っ黒に変わったのです。ほかに、ブラッドショーがジュネーブ・フリーポートに倉庫を借りていることもわかりました。
7 コモ湖
コモ市で作業に必要なものを購入し、ヴィラに戻ったガブリエルは、ニスと絵具を除去して、絵に窓を開けていきました。すると、3人の洗濯女の下から、髪が薄くなった男性の頭部、若い女性の白い艶やかな額と伏し目がちな視線、すっと通った鼻が現れ、小さな薔薇色の唇と繊細な輪郭の顎が続き、子供の手が伸びているのが見えました。ブラッドショーのパソコンで盗難等の被害にあった美術品を集めたデータベースを調べると、2004年にローマのサント・スピリト病院にある修復ラボから消えた、イタリア画家パルミジャニーノの《聖家族》であることが判明します。現在、プラド美術館に所蔵されている、1524年頃にパルミジャニーノが描いた《天使のいる聖家族》のことではないでしょうか。聖母の顔が第5旅(第13節⑥)で紹介したウフィツィ美術館にある彼の《長い首の聖母》にそっくりです。
紫外線ランプの光を受けてカンバス全体が真っ黒になる絵がほかに2点見つかります。同じように窓を開くと、1点は、雲が浮かぶ空の下で風にそよぐ木々、草むらに広がったスカート、でっぷりと太った女の裸体が描かれており、同じサイトで検索すると、パニョール=シュル=セズの美術館(アルベールアンドレ美術館のことです)から1981年3月13日に消えた、ピエール=オーギュスト・ルノワールの《田園の若い女たち》の画像が現れました。写真は、ブザンソン美術館・考古学博物館に所蔵されている、1916年の同名の作品です。
もう1点は、青緑の背景に花柄のブラウス、薔薇色の頬の上に眠たげな大きな目の作品で、1997年2月18日にイタリアのピアチェンツァのリッチ・オッディ近代美術館から姿を消した、グスタフ・クリムトの《女の肖像》です。この作品は、2019年12月10日に庭師が同美術館の外壁を覆う蔦を取り除いていたところ、金属製の隠し扉から発見されています。
ブラッドショーは、密輸美術品を扱うプロのネットワークとも関わりを持ち、盗難美術品を隠すために模写という手法を採っていたようです。ガブリエルは、ブラッドショーの写真を手に入れ、彼の履歴書を肉付けできる人間を訪ねるため、翌朝のヒースロー行きの飛行機を予約します。次に、電話の着信履歴に残っていた番号が湖畔を北に二、三キロ行ったブリエンノにあるサン・ジョバンニ福音教会の司祭館であることを突きとめ、また、電話の傍にあったメモ用紙を鉛筆でこすると、ブラッドショーの筆圧で残った「4、8、C、V、O」という文字と「サミール」という単語が浮かび上がります。
8 ストックウェル、ロンドン
ガブリエルは、”楽園(パラダイス・ロード)”と呼ばれているものの、実際はみすぼらしい芝生と子供のいない公園があるだけで、赤煉瓦の公営アパートが並ぶ荒廃した通りで足を止め、尾行がないことを確認します。
クラパム・ロードを左へ曲がって地下鉄のストックウェル駅まで歩き、もう一度曲がると、テラスハウスが並ぶ静かな通りに出ました。ガブリエルは、8番地の玄関ドアの呼鈴ボタンを押して、合言葉を話して家の中に入ります。MI6の長官グレアム・シーモアに会うのが目的でした。彼は、シリーズ前作の『The English Girl』において、MI5の副長官からMI6の長官に任命されていました。
到着したシーモアからロンドンにやって来た用件を尋ねられると、ガブリエルは、ブラッドショーが殺された事件を調べていることを話した上、彼は外交官ではなく、MI6のスパイだったのではないかと指摘します。それから、3点の絵画、ジュネーブ・フリーポートの貸し倉庫、サミールという名の人物のことを探りだしたと明かします。すると、シーモアは夕方までのアポイントをキャンセルします。
9 ストックウェル、ロンドン
シーモアによれば、ブラッドショーは、MI6の伝説的スパイでオックスフォード大学の教授となっていたシーモアの父からスカウトを受けてMI6に入り、イスラム過激派のエキスパートとしてキャリアを重ね、中東に潜入した局員のトップとなったものの、支部長人事から外れ、ベイルートへ異動。そこでレバノンの実業家アリ・ラシードの妻ニコル・デヴローという女性と出会い、不倫関係に。それを耳にしたKGBから誘いを受け、ニコルの身を案じてロシアに中東における英国の戦略すべてを流出。アメリカからの情報で発覚しますが、スキャンダルを表沙汰にしたくない当局は、この件を伏せ、そして、MI6を離れたブラッドショーが非合法ビジネスに関わっていたことを疑っていたものの、見て見ぬふりをしたということでした。ニコルは、不倫を知った夫がコネを持つシリアの情報局に殺害させたという。ガブリエルは、彼女がブラッドショーと同じ方法で殺害されていることに気付きます。
ガブリエルは、ケンジントン・ハイストリートから少し奥まった静かな一角にある、イスラエル大使館を訪れ、キング・サウル通りにメッセージを送り、アリ・ラシードに関する情報を入手します。ラシードは、シリア情報局の工作員でしたが、2011年に自動車爆弾により死亡していました。
ガブリエルは、更に盗品絵画の世界的取引の手掛かりを掴むには、名人級の絵画泥棒の助けが必要と考え、翌朝、暗いうちに大使館を出て、地下鉄でセント・パンクラス駅まで行き、7時半のパリ行きユーロスターに乗車します。第1旅(第14節)で紹介したとおり、ユーロスターは、開業以来、ロンドン側はウォータールー駅をターミナルとしていましたが、英仏海峡トンネル連絡鉄道(CTRL)開業に伴い、2007年11月からセント・パンクラス駅にターミナルが変更されました。
パリ北駅に到着すると、客待ちのタクシーの横を通り過ぎ、尾行されていないことが確信できるまで、駅の周囲を1時間ほど歩き回りました。
それからパリ8区のミロメニル通りに向かいました。
10 ミロメニル通り、パリ
ガブリエルは、ミロメニル通りのブラッスリーで、カフェ・クレームを飲みながら、モーリス・デュランが現れるのを待ちます。エリゼ宮の方から歩いてきた彼が〈アンティーク理化学機器専門店〉という小さな店に入るのを見つけると、ブラッドショーについての情報を得るために店を訪ねます。写真は同通り9番地の〈Cafe Beauvau〉です。
絵画泥棒の裏の顔を持つデュランは、ガブリエルと店を出て、ブラッドショーについて知っていることを話しながらパリ8区の通りを歩き、マティニョン通りのクリスティーズのパリ支社を通り過ぎます。
二人がシャンゼリゼ通りに入ったロータリーには、ロナンとエルワンのブルレック兄弟がデザインした6基の噴水があります。高さ13mの青銅製のマストにスワロフスキー製の発光クリスタルを備えたアームがぶら下がっており、回るアームに沿って水が噴き出すしくみになっています。
デュランは、ブラッドショーは絵画泥棒と買い手の仲介役であり、高級故買屋として、スイスの市場でヨーロッパのディーラーのネットワークへ盗品を流していたと話します。二人は、コンコルド広場を渡ってチュイルリー公園に入りました。
左に見えるという、ジュ・ド・ポーム国立美術館は、第2旅(第19節)でも紹介したとおり、ナチスが略奪したフランスの美術品を保管した場所です。デュランは、ブラッドショーには、特定の個人のためにブラックマーケットで大量の絵画を取得していたという噂があることを話し、
また、ブラッドショーには数十年前から行方不明になっているバロック絵画の巨匠が最後に描いたキリスト降誕の絵の取引を仲介していたという噂もあると明かします。デュランからその巨匠の名をミケランジェロ・メリージと聞いたガブリエルは、ブラッドショーのメモ用紙に残っていた3文字「C・・・V・・・O」が「Caravaggip(カラヴァッジョ)」であることに気付きます。
11 チュイルリー公園、パリ
チュイルリー公園の中央に伸びる砂利敷きの散策路を歩きながら、ガブリエルは、デュランにカラヴァッジョが売りに出ている可能性を尋ねます。
ガブリエルは、池のほとりで足を止め、ブラッドショーのヴィラから模写の下に隠されていたバルミジャニーノ、ルノワール、クリムトという3点の盗難絵画が見つかった経緯をデュランに話します。
すると、デュランは、模写で覆い隠すのは売りに出す準備で、模写作品として売買した後、模写を取り除いて元の絵画を飾るのだと話します。ガブリエルは、デュランをルーブル美術館のピラミッドの方に引っぱっていきます。途中に通るカルーゼル凱旋門は、1806~8年に前年のドイツ・オーストリア戦役の勝利を祝してチュイルリー宮殿の正面に建てられた、高さ19m、幅23m、奥行き7.3mのコリント式の新古典主義建築物です。門上のクアドリガの馬は、当初は、第5旅(第32節)で紹介したとおり、ナポレオンの没落までは「サン・マルコの馬」が戦利品として飾られました。現在は、複製に置き換えられています。
お互いに絵の偽造について話が及び、カルーゼル広場に出たところで右に曲がり、川の方に向かいました。広場から見える、ルーブル・ピラミッドは、ミッテラン大統領のグランド・ルーブル計画に基づき、建築家イオ・ミン・ペイが設計して1989年に完成した、高さ20.6m、底辺35mのガラスと金属でできた構造物で、ルーブル美術館のメイン・エントランスとして使用されています。
自分が絵を盗むときは盗んだ絵の代わりに偽物を置いていくというデュランは、イブ・モレルという名の偽造者を雇っていると話し、ブラッドショーも同じモレルを雇っていたこと、そのため彼の仕事内容に詳しかったことを明かし、モレルが「失われしものの画廊」と呼ぶジュネーブのフリーポートの一室でブラッドショーの仕事をやっていたと話します。写真は、セーヌ川側から見たルーブル美術館の南門ファサードで、アーチの上にあるのは、1877年にナポレオン3世の像から置き換えられた、アントナン・メルシエによる《芸術の天才》の浅浮彫りです。
ガブリエルは、モレルはサクレクール寺院の近くにいると言うデュランを伴って、地下鉄の駅に入り、モンマルトルへ向かうのでした。
12 モンマルトル、パリ
モレルが住んでいるというラヴィニョン通りのアパルトマンからは応答がなく、彼がいつもいるというサクレクール寺院近くのテルトル広場に行ってみます。戸外のカフェとストリート・アーティストで賑わっていますが、モレルはいつもの場所にいませんでした。
贔屓にしているノルヴァン通りのバーにも姿はありませんでした。写真右側には写っていますが、以前はピアノバーがあったようです。
二人はアパルトマンに戻り、デュランが持つ合い鍵で玄関を開け、アトリエを兼ねたリビングに入ると、デュランが依頼したピエール・ボナールの風景画の偽造用模写が描きかけになっていました。写真は、ニース美術館(1932年にニースで亡くなった画家ジュール・シェレの名を冠してジュール・シェレ美術館とも呼ばれています。作中、Musée des Beaux-Arts をボザール美術館と訳されていますが、Beaux-Arts は名称ではありません)所蔵の《ベルノンの窓からのセーヌの眺め》です。
そして、アトリエ中央の大きな長方形のテーブルまで行くと、防水布が被せられたモレルの死体が見つかります。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部からいながら旅を続けます。
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