ダニエル・シルヴァの小説『報復という名の芸術』de いながら旅 (4)

● ダニエル・シルヴァ
● ダニエル・シルヴァ報復という名の芸術

 『報復という名の芸術』をガイドブックとした今回のいながら旅もいよいよ大詰めです。第3部から続けます。タリクとの対決後にも、イスラエルでの旅が展開されますので、お楽しみください。


第3部 修  復

35 シャルル・ド・ゴール空港、パリ

 ユセフとジャクリーヌは、ヒースロー空港からの乗り継ぎのためシャルル・ド・ゴール空港にいました。利用したエアラインはわかりませんが、直行便のエールフランスなら、飛行時間は1時間20分、機材はA220。到着ターミナルは2Eです。

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 ユセフは、ジャクリーヌを空港のカフェ・レストランに連れて行きます。彼女が独りで待っていると、リュシアン・ダヴォーの友人だとしてレイラが迎えに来ます。写真は、ターミナル2Eにある人気のカフェ〈Paul

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 そして、レイラに先導されてジャクリーヌが搭乗したのは、モントリオール行きのエールフランスでした。現在、エールフランスのパリ-モントリオール便は、飛行時間が7時間55分、機材はB777又はA350を使用しています。

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 ガブリエルは、シャムロンとともにストーンの専用機の中にいました。眠れないガブリエルが思い出したのは、3年前に修復したヴァン・ダイクの絵、ジェノヴァにある個人用チャペルのために《聖母マリア被昇天》を描いた作品でした。アンソニー・ヴァン・ダイクは、17世紀に活躍した肖像画家で、宗教画も描いていますが、聖母マリアの被昇天を扱った作品は検索できませんでした。因みに、写真はパレルモロザリオ・イン・サン・ドメニコ祈祷堂に所蔵されている《ロザリオの聖母》です。

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 ガブリエルのことを出版したいと言い出すストーンに、シャムロンは、この男を切り離す策を講じなければならないと考えるのでした。


36 パ リ

 空港を出たユセフが、尾行がないことを確認して向かったのは、ブローニュの森近くのパリ16区のアパートメント。部屋番号と名義に驚きの事実を知ることになります(なんと第31節でガブリエルが訪ねたあのグスマン名義の4Bの部屋だったのです)。ブローニュの森は、パリ16区の西側に位置する面積846haの森林公園。その名前は、フィリップ4世の命で造られたノートルダム・ド・ブローニュ・ラ・プティット教会に由来します。

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 その頃、テルアビブの〈オフィス〉本部では、オタワ支局がまるごと行方不明になっていることに疑問に思ったモルデカイの報告から、本部長のレヴは、シャムロンが極秘に作戦を行っていることに気付きます。


37 モントリオール

 空港を出たレイラとジャクリーヌは、レンタカーで高速道路を走りルネ・レヴェック通り西にある4つ星ホテル〈フェアモント・ザ・クイーン・エリザベス〉に入ります。ホテルのバーで二人を見ていたタリクは、1417号室の前で、40代の身なりのよい紳士然とした風貌でリュシアン・ダヴォーと名乗り、ジャクリーヌに対面します。

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 ホテルの前(南側)に建っているのは、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂を模して造られたというマリー・レーヌ・デュ・モンド大聖堂(世界の女王マリア大聖堂)。ビクター・ブルジョウの設計により1875年から建設が始まり、1894年に献堂されたモントリオールで3番目に大きい聖堂です。ファサードの屋根の彫像は、サン・ピエトロ大聖堂と異なり、12使徒を表す12ではなく13で、モントリオールの13の小教区を表しています。

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 クーポラの下には、ベルニーニが制作したサン・ピエトロ大聖堂の「バルダッキーノ」を複製した、大天蓋のある祭壇を配置しています。

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 更に大聖堂の南側には、14000㎡のカナダ広場があります。元々は後に紹介しますドーチェスター広場とともにコレラ犠牲者のための墓地でしたが、墓地移転後にモントリオール市が購入して公園として整備し、ドミニオン広場と呼ばれていました。1967年のカナダの連邦建国100周年のときに両者は分割されて、南側がカナダ広場と改名されました。

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 以前、広場西側には、初代首相を務めたジョン・A・マクドナルドの記念碑がありましたが、2020年8月29日に警察への資金提供停止を求めるデモの群衆によって引き倒され、現在は台座だけになっています。

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 ルネ・レヴェック通りを挟んでカナダ広場の向かい側は、ユニオンジャックの形をしたドーチェスター広場で、中央にあるのは、ボーア戦争記念碑です。

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38 モントリオール

 オタワ支局のズヴィ・ヤディンがガブリエルとシャムロンに最新情報を報告していると、タリクがジャクリーヌと買い物に出掛けたとの連絡が入ります。タリクは、尾行を確認してから、サント・カトリーヌ通りの地下街にジャクリーヌを連れていきます。モントリオールは、別名アンダー・グラウンド・シティとも呼ばれ、全長32kmの世界最大規模の地下街があり、地下鉄と地下街を利用すれば地上に出ることなく生活することができます。地下1階から2階まで吹抜け構造とすることで、地下街とは思えない開放感があります。

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 タリクがジャクリーヌを連れていったホテル近くのエスプレッソ・バーは、〈Starbucks〉のことではないでしょうか。そこで灰色の背広を着た男からブリーフケースを受け取ります。

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 その頃、ガブリエルは、ホテル支援者から受け取ったカードキーを使って、タリクの部屋に盗聴器を仕掛けていました。また、ヤディンは、クィーン・エリザベスからルネ・レヴェスク通りを(作中には原文においても北とありますが、南だと思います)数ブロック離れた〈シェラトン〉に指令本部を確保していました。

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 ビデオに映ったリュシアン・ダヴォーと名乗る男を見たシャムロンは、タリクに間違いないと断言します。


39 モントリオール

 タリクとジャクリーヌは、8時ちょうどにホテルを出て、地下に下りて短い距離を歩き地下鉄で西のサン・ドニ通りを目指しました。二人が訪れたレストランはどこでしょうか。サンギーネ通りと並行する地域で、連なるバー、タトゥーショップ、菜食主義レストランを通り過ぎたとのことから、利用した駅はシャーブルック駅と思われ、大通りから少し奥まったところにある古いヴィクトリア朝風の建物で、階上にも席があり、半ブロック北側の通りの向かいにイタリアレストランがあるとのことから、1658番地の地ビールレストラン〈3 Brasseurs Saint-Denis〉ではないでしょうか。

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 そして、ガブリエルがデボラと監視に使ったイタリアレストランは、1675番地にあった〈Napoli Pizzeria〉ではなかったでしょうか(現在は、閉業となっています)。

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 ガブリエルは、通りを横切り、外に出てきたタリクにベレッタを向けますが、1台の車が突っ込んできてタリクとの間に横滑りして止まりました。タリクは、ジャクリーヌを後部座席に押し込み、ガブリエルににやりと笑いかけて自らも乗り込むと、瞬く間に走り去っていきました。シャムロンはタリクを仕留めようとしなかったガブリエルを責めました。


40 サブルボワ、ケベック

 モントリオールからセント・ローレンス川を渡り1時間半でアメリカとの国境近くまで来ます。本書では通過したルートを順に40、10、35、113と記していますが、最後は誤植で、原文は133となっています。

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 ジャクリーヌは、レイアのパスボートで国境を通過します。タリクは、国境から充分に離れたところでジャクリーヌのこめかみにマカロフを突きつけます。


41 ワシントン

 ヤセール・アラファト議長が滞在していたのは、ホワイトハウスから程近い、15番街の〈ザ・マディソン・ア・ヒルトン・ホテル〉の貴賓室でした(5番街というのは間違いです)。

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 ジェイムズ・ベックウィズ米国大統領から一緒に過ごしたいと呼び出され、アラファト議長は、急遽着替えてホワイトハウスに向かいます。車列は(5番街というのは誤植で)15番街の南を走り、ペンシルバニア通りのバリケードを通り抜け、ホワイトハウス北側玄関に停まりました。

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 大統領がエリヤフ大使とモーゲンソー夫妻の殺害はタリクの仕業ではないかと切り出し、タリクにユダヤ人殺しを思い留ませることはできないかと話すと、アラファト議長は、彼は深刻な脳腫瘍を抱えており、死を目前に誰の言うことにも耳を傾けないと話しました。そして、そのことは議長自らアリ・シャムロンに知らせたと告げました。


42 バーリントン、バーモント州

 タリクは、ジャクリーヌを銃で殴打し、彼女がユセフに近づいた時から〈オフィス〉の人間だと見抜いていたと明かしました。ジャクリーヌは身元を偽ることをやめ、本名のサラ・アレビを名乗り、タリクも自分の名を名乗りました。ジャクリーヌは、ガブリエルは十分苦しんでいるので、彼の代わりに自分を殺すようにと迫ります。                 

 国境からは約6時間。夜明け近くに、二人はホワイトストーン・ブリッジを渡り、クィーンズに入りました。ブロンクス・ホワイトストーン・ブリッジは、イースト・リバーの北岸ブロンクスのスロッグス・ネックと南岸クィーンズのホワイトストーンを結ぶ、1939年開通の全長1100mの吊り橋

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 ラガーティア空港を通過して数分後、イーストリバーが現れ、ロウアー・マンハッタンの超高層ビル群に反射する朝日に目をすがめます。

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 コニー・アイランド・アヴェニューでは、歩道に溢れるフルーツ屋が並ぶ色鮮やかなパキスタンの市場、レバノンやアフガニスタンのレストラン、中東の旅行会社、カーペットやタイルの店、そして、古い商業施設の正面のレンガの外壁に据えられたまがい物の緑と白の大理石のモスクが目に入ります。写真のタイバ・イスラム・センターのことでしょう。

lh3.googleusercontent.com他の写真

 パークビル・アヴェニューの住宅街に入り、東8丁目通りの角にある四角い3階建てのレンガ造りの建物の外で車を停めました。建物の中ではレイアが待っていました。1階が板張りのデリカテッセンになっているという該当の建物は見当たりません。

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43 ニューヨーク・シティ

 シャムロンは、2番街の43丁目通りにある(800番地にある18階建てのオフィスビルには国連の事務スペースが収容されています)、イスラエル外交代表団の元に到着し、首相にモントリオールでの詳細を説明し、ガブリエルを首相の護衛に付けると話しました。

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 タリクは、アパートメントで、外形を変えてエミリオ・ゴンザレスになりすましました。そして、ジャクリーヌに、彼女の留守番電話を使ってシャムロンを出し抜いてガブリエルをおびき寄せると告げ、アパートメントを出て行きました。                   

 彼は、コニー・アイランド・アヴェニューをぶらぶら歩き、中東の商品を専門に扱う食料雑貨店で、チュニジア産の乾燥ナツメヤシを買います。同通りには確かにアジア食材店が点々としています。写真はそのうちの一軒〈Golan Dried Fruits〉です。

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 それから住宅街を東(西とあるのは明らかに誤訳です)に歩き、小さなアパートやレンガ造りの家々を過ぎて、ニューカークの地下鉄駅へ行き、トークンを買ってマンハッタン行きのQ列車に乗り込みました。ニューカーク・プラザ駅は、1878年7月2日に開業した、地下鉄BMTブライトン線B系統Q系統)の駅で、本作当時はニューカーク・アベニュー駅という名称でした。また、トークンというのは、地下鉄に乗車するために自動改札機に投入する代用貨幣で、メトロカードの普及に伴い、2003年に廃止されています。

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 Q列車をブロードウェイのラファイエット通り駅で降り、アップタウン線5番列車に乗ったとありますが、現在Q系統はラファイエット通り駅を通っておらず、IND6番街線を運行するB系統で行くか、Q系統から5系統への乗換えならアトランティック・アベニュー・バークレイス・センター駅や14丁目-ユニオン・スクエア駅を利用します。ブロードウェイ-ラファイエット通り駅は、IRTレキシントン・アベニュー線のブリーカー・ストリート駅に接続していますが、同駅からの乗換えは急行の5系統ではなく6系統になります。

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 86丁目で降りると、レキシントン・アヴェニューから5番街へ街を横断して、そこから88丁目まで歩き、セントラル・パークを見下ろすアパートメントの正面で立ち止まり、5番街を渡って陽だまりのベンチに腰を下ろして待ちました。

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 その頃、ガブリエルは、首相に付き従い、パーク・アヴェニューの4つ星ホテル〈ウォルドルフ=アストリア〉のパーティー会場に入りました。

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 ジャクリーヌは、トイレを口実にレイアに手足の手錠を外させ、浴室から爪やすりを手に入れます。そして、部屋に戻ると、振り向きざまレイアに躍りかかり、2度目の攻撃で彼女の首筋に爪やすりを突き刺し、レイアが落とした銃で彼女の心臓を撃ち抜きました。


44 ニューヨーク・シティ

 ジャクリーヌは、シャムロンに連絡を取ると、見張りの男を射殺し、コニー・アイランド・アヴェニューを渡らずに右に曲がりそのまま直進するようにとのシャムロンの指示に従い、通りを歩きました。パークビル・アヴェニューに向かって歩き、パークビルを左に折れてとの指示からすると、彼女が監禁されていたアパートメントは、パークビル・アヴェニューの北側にあり、出口が通りに直接面していないと考えられますので、写真の右側手前の5階建てのアパートメントの位置に当たると考えられます。

(原典:Google マップ

 その頃、ガブリエルは、オーシャンアベニューのユダヤ人コミュニティセンター(1625番地のイースト・ミッドウッド・ユダヤ人センターのことです)の講堂で首相の警護に当たっていました。シャムロンは、ガブリエルに電話を掛け、ジャクリーヌを向かいに行かせます。

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 ガブリエルは、コニーアイランドアヴェニューを北に向けて車を走らせアヴェニューHの交差点で彼女を見つけました。

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 車に乗り込んだジャクリーヌは泣き出し、ガブリエルは彼女を引き寄せ、しっかりと抱きしめました。


45 ニューヨーク・シティ

 ジャクリーヌから一切を聞いたガブリエルは、ブルックリン橋を疾走中、どうしてタリクはレイラを使って自分のことをおびき出そうとしたのかと考え、彼がイスラエル首相ではなく、アラファト議長を狙っていることに思い当たります。ブルックリン橋は、1883年に完成したアメリカで最も古い吊り橋の一つであり、鋼鉄のワイヤーを使った世界初の吊り橋で、ロウアー・マンハッタンのシヴィック・センターとブルックリンのダンボを繋ぐ長さ1834mの吊り橋です。

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 タリクは、セントラル・パークを見下ろす豪華なパーティー会場にいました。ガブリエルとアラファトを同時に殺す計画でしたが、 何か手違いがあったのかガブリエルの姿はありませんでした。用意したナツメヤシを盛り付けてアラファト議長に近づこうとしますが、電話が入って議長は退室してしまいます。

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 タリクは、ナツメヤシを使って警備員のところを通り抜け、議長のいる部屋に入りました。議長は、パレスチナ人だという給仕がタリクだと気付いたようで、タリクの思い出話を始め、今馬鹿な真似をしなければ、国を持つことができた暁には、学校で彼を国の英雄として伝承していきたいと語りました。そして、どうしてもやるというならさっさとやるがいい、やる気がないならすぐにこの場を去れと言い放ちます。タリクは、平安があなたとともにありますように兄弟よと言い置いて部屋を出ていくのでした。

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 会場に到着したガブリエルは、タリクを追って厨房から踊り場に踏み出しますが、タリクがマカロフを手に下の踊り場で待ち構えていました。放たれた銃弾がガブリエルの胸を裂き、彼は意識を失います。ジャクリーヌは、救急車を呼ぶよう叫び、タリクを追って階段を駆け下ります。

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 ジャクリーヌは、階段吹抜けの下部に着き、防火扉を開けると、通路の途中で振り返ったタリクに2発発砲しました。1発が彼の肩先に命中し、床に倒れこみました。彼女は弾丸がなくなるまで撃ち尽くし、タリク・アルホウラニが死んだことを確信するのでした。


46 エルサレム ___ 3月

 エルサレムの光景

 ガブリエルは、生きてエルサレムのシオン門を見下ろす快適な隠れ家(城壁の外と考えられ、病院そのものだとありますが、キッチンがあるアパート)にいました。シオン門は、ダビデ王の墓があるシオン山に通ずることからダビデ門とも呼ばれ、旧市街城壁に8つある門のうち一番南側にある門で、1540年にオスマン帝国のスレイマン1世によって築かれました。

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 エルサレムの光景について、作中「夜明けが訪れると、エルサレムとヨルダン川西岸の砂漠を隔てる山の尾根から太陽がのぞく。最初の暁光がオリーブ山の白亜色した斜面を徐々に染め上げていき、岩のドームに黄金色の炎を灯し、陽光がマリア永眠教会に降り注ぐ」と記されています。

 オリーブ山は、旧市街からケデロンの谷を隔てて東にあり、聖書には橄欖山(かんらんざん)と訳される標高814mの山で、キリストが最後の祈りを捧げたゲッセマネの園があり、また、世界最古にして最大のユダヤ人墓地となっています。

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 岩のドームは、東エルサレムの神殿の丘にあり、ウマイヤ朝の第5代カリフのアブドゥルマリクにより建設され、692年に完成したドーム付き八角形の記念堂です。外部のタイル装飾は、スレイマン1世の命によって1554年に建築家ミマール・スィナンが貼り直したものです。

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 預言者ムハンマドが天馬ブラークに乗ってマッカから夜の旅(イスラー)をして飛来し、そこから昇天(ミュラージュ)した場所であり、ユダヤ人とアラブ人の共通の祖先であるアブラハムが息子イサクを神に捧げようとした場所とされる「聖なる岩」を取り囲むように造られています。

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 マリア永眠教会(聖母マリア墳墓教会)は、ケデロンの谷にあり、東方教会教徒らによって聖母マリアが埋葬された場所であると信仰されています。

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 聖母マリアの墓は、教会東側の礼拝堂に置かれており、入口はイコンで飾られています。

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 聖母マリアの遺体の上にある石のベンチが展示されており、現在は礼拝堂のガラス越し(写真下部のライトがあたっているところ)に見ることができます。

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 ある日、ガブリエルは、アパートから通りに出て、ハリバット・イェルシャラム沿いに進み、ヤッフォ門から旧市街へと入りましたヤッフォ門は、旧市街城壁に8つある門のうち西側中央にある門で、1538年に建てられました。中央部に道路が通っているのは、1898年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がエルサレムを訪問した際に、馬車での通行を可能とするため壁に裂け目が造られたものです。門の南の城壁の上には、ヘロデ王が紀元前37~34年に増築したダビデの塔が建っています。

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 城壁に囲まれた旧市街は、ムスリム(イスラム教徒)街区、キリスト教徒街区、ユダヤ人街区及びアルメニア人街区の4つの区画からなり、1981年に全体が「エルサレム旧市街と城壁郡」として世界遺産に登録されています。

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 ガブリエルがぶらついたエル・バザールは、アラブ・スークとも呼ばれ、旧市街に約100エーカーの面積を占める大きな市場で、ムスリム街区とキリスト教徒街区を中心に路地に沿って約800店舗が並んでいます。写真は、キリスト教徒街区の南側に沿って階段状に約100軒の店が連なる、観光客に人気のデイビッド通りです。

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 市場の喧騒を離れると、くねくねと続く路地を東に神殿の丘に向けて歩きました。思いを巡らせながら歩き回り、施錠された門やヘロデ王の城壁に阻まれたり、陽光が降り注ぐ中庭に出くわしもしたようですが、真実との距離は縮まらなかったようです。神殿の丘には現在12の門があり、そのうち11が開放されていますが、観光客や非イスラム教徒が通れるのは、敷地の西側の最南端にある、ムグラビ門としても知られるモロッコ門のみです。写真は、鉄の門の近くにある、「小さな嘆きの壁」と呼ばれる中庭的な空間です。

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 その後、ヴィア・ドロローサに続く小道までやってきます。旧市街城壁に8つある門のうち東側にある、ライオン門から通じる通りです。門の名前は、1517年にオスマン帝国のスレイマン1世がマルムーク朝を破った戦勝を祝ってゲートの両脇の壁面に向き合うように作らせた2対のライオンのレリーフに由来します。後に紹介しますヴィア・ドロローサの巡礼のスタート地点になっているようです。

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 因みに、1996年から、ヴィア・ドロローサの始点近くへは、嘆きの壁の北端西側から西壁に沿って北へ通じる西壁トンネルからも行くことができるようになっています。ガブリエルも通ったかもしれませんね。

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 ヴィア・ドロローサの道行き

 ヴィア・ドロローサとは、ラテン語で「悲しみの道」の意味で、イエス・キリストが総督ピラトから死刑宣告を受け、十字架を担いで刑場のゴルゴダの丘まで歩いた道のり(先ほどの旧市街の図中の聖墳墓教会に至る青線)のことで、道中に起こった出来事に沿って「留」と呼ばれる14の中継点(ステーション)が設けられています。

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 毎週金曜日には、フランシスコ修道会士によって実物大の十字架を担いでこの全長約600mの道程を道行きする巡礼が行われており、観光客向けのツアーもあるようです。ガブリエルも途中のベイト・ハバド通り(キリスト教徒街区とムスリム街区の境界)までこの道に沿って進んでいると思われますので、辿ってみましょう。

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 第1留は、キリストが死刑宣告を受けた場所とされ、現在のアラブ人のウマリヤ小学校の校庭にあたるため、この巡礼は学校が休みの金曜日に催されています。キリストは総督ピラトの官邸で裁判を受けたとされていますが(ヨハネによる福音書18章28節)、ここの地下からローマ軍の駐屯地であったアントニア要塞の遺跡が発見されており、キリスト教では長く、1857年にエッケ・ホモ教会の地下から発見された敷石(リソストロス)がヨハネによる福音書19章13節に記されているキリストが裁判を受けた「ガバタ」だと考えられたことから、総督の官邸はアントニア要塞にあったと信じられてきましたが、考古学的には、敷石はハドリアヌス時代のものであり、総督の官邸もダビデの塔辺りにあったヘロデ宮殿にあったと考えれています。

(左 Wikimedia Commons、右 lh3.googleusercontent.com

 第2留は、上記キリスト教の伝承に基づき、捕らえられたキリストが鞭で打たれて茨の冠を被せられ、死刑宣告を受けた後、十字架を担がされて歩き始めたとされてきた場所で、近く(東側)には鞭打ちの教会があります。

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 教会の起源は十字軍時代に遡りますが、現在はフランシスコ会の修道院に所属し、建物は、1928~29年にイ夕リア人建築家のアントニオ・バルッツィによって再建されたものです。内部は、単一の身廊で、主祭壇は、3つの聖書の場面(キリストの鞭打ち(奥)、手を洗うピラト(左)、バラバの釈放(右))を描いたステンドグラスに囲まれ、天井には茨の冠をデザインしたモザイクで覆われています。

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 また、同じ修道院の西側には罪の宣告と十字架賦課の教会があり(写真左のドーム)、通り側の壁に第2留の標識が小さく見えています。写真右の門の上には、ヨハネによる福音書19章の3節(右:1節の鞭打ち、左:13節のピラトの法廷、下:16節の十字架賦課)が刻まれており、先程の鞭打ちの教会は、ここを入って右側にあります。なお、最近の写真によると、この門の右側に第1留を示す標識と彫像が設置されているようです。

lh3.googleusercontent.comに加筆)

 教会の内部には、主祭壇に張り子の人形で造形した十字架賦課が、その左右にはキリストへの有罪判決十字架賦課の彫像が、身廊右側には刑場に向かうキリストの姿をマリアに見せまいとするヨハネの人形が配置されています。

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 標識を横目に見て、ハドリアヌス帝によって135年に建設された凱旋門の一部で、現在エッケ・ホモ教会の一部となっているエッケ・ホモ・アーチをくぐります。

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 エッケ・ホモ教会は、1857年にマリー=アルフォンス・ラティスボンヌによって創設されたシオン修道女修道院の敷地にあります。エッケ・ホモとは、ラテン語で「この人を見よ」という意味で、キリストに何の罪も見い出せなかった総督ピラトがこの場所でユダヤ人の祭司長たちに向かってキリストを指してそう叫んだと信じられていたことに因んで名付けられました。

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 先に紹介しましたように、ここの地下から発見され、キリストが総督ピラトによって引き出されたガバ夕だと信じられてきた敷石は、考古学的研究により、ハドリアヌス帝がヘロデ王の巨大貯水槽(ストルシオンのプール)の上にアエリア・カピトリナの東のフォーラムの床として建設したものであることがわかっています。敷石には、ローマ兵士が刻んだと言われるゲームボードも見つかっています。

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 第3留は、キリストが十字架の重みに最初に倒れた場所で、エル・ワド通りを南に左折してすぐのところにある、アルメニア使徒教会の小聖堂です。

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 中の祭壇には、十字架を背に倒れるキリストの彫像が置かれており、ここの天井のドームにも茨の冠がデザインされています。

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 第4留は、聖母マリアが十字架を背負ったキリストに出会った場所で、第3留のすぐ側にあります。ここを過ぎると、通りの両側に店が並ぶ市場に入ります。

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 ここには、1881年建立の悲しみの聖母マリア教会があり、エルサレムとアンマンのアルメニア・カトリック総主教総督府とホスピスになっています。

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 第5留は、市場の途中を右折した角にあり、留の標識の右手には、倒れかかったキリストが手をついたという手形の石があります(当時の道は地下になっていますから、本物ではないでしょう)。ここから再びヴィア・ドロローサ通りを西に進みます。

Wikimedia Commonsに加筆)

 これ以上十字架を担いで歩けなくなったキリストに代わって、キレネ人のシモンが十字架を担がされた場所で、キレネのシモン礼拝堂があります。

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 第6留は、ヴィア・ドロローサ通りの登り坂の途中で、ベロニカという女性がキリストの顔の血と汗を拭うと、その布にキリストの顔が浮かび上がったとされる場所で、その布は「ベロニカのベール」と呼ばれ、後にローマ皇帝ティベリウスの病を癒したと伝えられ、バチカンのサンピエトロ大聖堂に保管されています。

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 そこはかつてベロニカの家があった場所とされ、ギリシャ正教会の聖ベロニカ教会となっています。

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 第7留は、ヴィア・ドロローサ通りが市場のあるベイト・ハバド通り(ハーン・アル=ザイド通りともいいます)に交わる角で、キリストが2度目に倒れた場所です(現在はフランシスコ会の礼拝堂があります)。当時はここに城外に抜ける門があり、そこで死刑囚に対する罪状を読み上げ、門の上に罪状書きを貼り付けていたことから「裁きの門」と呼ばれいたようですが、キリストはその敷居につまづいたとされています。ガブリエルは、ここからベイト・ハバド通りを北へ右折したと思われますが、もう少しヴィア・ドロローサに従って寄り道したいと思います。

(左から、Wikimedia Commons/①

 第8留は、嘆き悲しみ付き従う女性たちに対し、キリストが『私のために泣くな。自分と自分の子のために泣け』と言われた場所です。ベイト・ハバド通りから一本路地を入ったところに、聖カラランボスの名を冠したギリシャ正教会があり、この教会の壁に、ラテン十字と「勝利者イエス・キリスト」と刻まれた石がはめ込まれています。次の第9留へは、市場の通りに戻り、南進します。

(左から、Wikimedia Commons/①

 第9留は、ゴルゴダの丘の処刑場の近くでキリストが3度目に倒れた場所です。ベイト・ハバド通りの途中、西へ向かう階段を上った、コプト正教会のエルサレム総主教座が置かれた聖アンソニー教会入口付近にある、石柱のところです。

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 ベイト・ハバド通りに戻って南進し、アレクサンドル・ネフスキー教会のある角を西へ右折し、聖墳墓教会に向かいます。第10留から第14留は、ローマ帝国においてキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の命により、キリストが磔にされ、埋葬されたゴルゴダの丘(大帝の母ヘレナが磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見した場所)に336年に建てられたという、聖墳墓教会の中にあります。入ってみましょう。

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 聖墳墓教会は、キリスト教にとって最も重要な巡礼地で、現在、ギリシャ正教会、ローマ=カトリック教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、エチオピア正教会及びシリア正教会の6つの教派によって共同管理され、それぞれ異なる聖地があって管理を巡って対立があるため、入口の鍵は古くからイスラム教徒の2つの一族が管理しているそうです。

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 第10留は、キリストが衣を脱がされた場所で、教会の入口右手外側の階段を上がった、フランク人の礼拝堂又は苦しみの礼拝堂と呼ばれる小聖堂です。

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 第11留は、キリストが十字架につけられた場所で、第10留から直接に行くことはできなくて、教会の正面入口を入り、右手からゴルゴダの丘とされる2階に上がった正面のフランシスコ会礼拝堂で、釘で十字架に打ち付けられるキリストを描いたモザイク画がある礼拝堂です。

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 第12留は、キリストが息を引き取った場所で、2階の左側にある、煌びやかなギリシャ正教の礼拝堂で、テーブル下には十字架が立てられたとされる場所を示す銀製の円形プレートが置かれています。また、テーブルの両側の足元にはガラス越しにゴルゴダの丘の岩を見ることができます。

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 第13留は、十字架からキリストの遺体を降ろした場所で、第11留と第12留の間にある、ローマ=カトリック教会のス夕ーバトマーテル礼拝堂です。

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 多くの巡礼では、以前に第13留とされた、階段を下りた教会入口付近にある、塗油の石と呼ばれる1畳程の赤い大理石も訪れるようです。背後には、アリマ夕ヤのヨセフがキリストの遺体を取り降ろし、石の上で香油を塗り、亜麻布で包んで埋葬した場面を描いた大きなモザイクがあります。

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 ヴィア・ドロローサの終点、第14留は、キリストが葬られた場所で、キリストの墓は1階左手のロタンダの中央にある、エディクラと呼ばれる小聖堂の中にあります。

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 聖墳墓教会は何度も戦禍にさらされ、1009年には完全に破壊され、現在の建物はその後に再建されたものです。そのため、ここが本当にキリストの墓と特定された場所なのか疑問視されてきました。伝承によれば、キリストの遺体は石墓と呼ばれる石の棚に安置され、大理石の板で覆われていましたが、2016年10月26日、エディクラの修復工事に際し、アテネ国立技術大学の研究チームによって、覆っていた大理石が外されたところ、石墓の上にもう一枚、表面に十字架が彫り込まれた古い大理石の板が割れた状態で発見され、石墓との間から採取された漆喰が年代測定にかけられ、分折結果から、一番古いものは古代ローマ時代のものと判明しました。

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 物語に戻りましょう。ガブリエルは、ベイト・ハバド通りを北進し、ダマスカス門を抜けて旧市街を出ました。ダマスカス門は、旧市街城壁に8つある門のうち北西にある門で、かつてシリアの首都ダマスカスへの道の起点とされていたことからそう呼ばれており、スレイマン1世によって1537年に造られました。左右に胸壁がついた小塔を持ち、それぞれに出し狭間があります。

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 恐らくCIAのエイドリアン・カーターのリークにより、タリクに対する作戦の全容が『ニューヨーク・タイムズ』に掲載され、ガブリエルやジャクリーヌの名前も明るみに出ます。シャムロンは、家に帰りたいと言うガブリエルを解放し、彼はイスラエル各地への旅に出ます。

 イスラエル各地への旅

 まず、エルサレムから南、ネゲヴ砂漠のクレーターに向かいましたネゲヴ砂漠は、イスラエルの南部にある約13000㎡の砂漠で、ラモンクレーターは、長さ約40km、幅2~10km、高さ500mという大きさを誇る世界最大級の窪地。クレーターと呼ばれますが、隕石の落下や火山とは無関係で、1億年以上にわたる地殻変動と浸食作用で形成されたものです。写真は、クレーターの北の崖の上に位置するミツペラモンラクダの形をした展望台

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 そこからエイラットに向かい、紅海のビーチに。エイラットは、シナイ半島のつけ根、紅海の北、アカバ湾に臨むイスラエル最南端の港湾都市

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 翌日、北に向け、ネゲヴの西から、ユダヤ荒野やヨルダン川西岸地区を通る黒い帯状に続く幹線道路を、ベエル・シェヴァまで走りましたベエル・シェヴァは、聖書の創世記に記載がある町で、アブラハムが造ったとされる井戸があります。紀元前12世紀頃からイスラエル人が集落を作って住み始めた古代イスラエルの最南端の町で、戦いによる崩壊と再建を繰り返し、15層のテル(遺丘)となっており、古代の水利施設の遺構もあり、メギド、ハツォルとともに、「聖書ゆかりの遺丘群」として2005年に世界遺産に登録されています。

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 その後、何かに突き動かされるように登ったという「スネーク・パス(蛇の道)」は、世界遺産マサダに向かう細い登山道のこと(写真手前)マサダは、死海西岸の砂漠にそびえる切り立った岩山の上に建設された古代要塞の遺跡で、マサダ索道というロープウェイを利用することができます。

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 午後は、ヘブロンやジェニンのアラブ市場を回りました。ヘブロンは、ヨルダン川西岸地区南端の町で、アブラハムの墓であるマクペラの洞穴がある、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地の一つです。 旧市街が2017年に世界遺産に登録されています。

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 ジェニンは、ヨルダン川西岸北部にある町

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 ジェズリール谷を走り抜けて、ナザレに向かう道にあるアフラ郊外の農業入植地(『さらば死都ウィーン』では、ラマト・ダヴィッドと特定(第15節))の門前で停車しました。ジェズリール谷は、エズレル平野ともいうイスラエルの北部地区に東西に広がる肥沃な平野で、旧約聖書にも登場します。

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 北は下ガリラヤの山々、南はギルボア山、西はカルメル山に接しています。写真は下ガリラヤ地域にあるおわん型のタボル山。アフラ付近から北のガリラヤ(本書中では「ガラリヤ」と訳されていますが誤訳でしょう)に向かう際は、この山の袂を通ったと思われます。

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 ガリラヤ湖(ティベリア湖)を回り、サフェドを上って、ゴラン高原に入りました。サフェドはアラビア語表記で、ヘブライ語ではツファットといい、ユダヤ教4大聖地の一つで、ユダヤ教神秘主義カバラの発祥地。現在はユダヤ人芸術家が数多く移り住み、アートの町としても有名です。写真は、アルロゾロフ通りの街角

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 朝になると、湾岸に広がる肥沃な平野を横断し、地中海に沿って南へ、アッコー、ハイファ、カイザリア、ネダニヤと車を走らせて、ようやくヘルツリーアの海岸に辿り着きましたヘルツリーアは、テルアビブのすぐ北に位置し、近代シオニズムを確立したテオドール・ヘルツルに因んで名付けられました。ジャクリーヌは欄干に寄りかかり、太陽の沈む海を眺めていました。

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 ガブリエルは、ジャクリーヌに、国境からニューヨークへ向かう車中でタリクが彼女に語ったタリク側の言い分を聞きました。そして、彼女をこんな仕事に巻き込んでしまったことを詫びましたが、彼女はむしろ感謝していると応えました。

 テルアビブ

 ガブリエルは、夕食を取るためテルアビブに立ち寄りました。車を置いてバルフォア通りからシェインキン通り、アレンビー通り、プロムナードへ歩き、歩道にせり出した丸テーブルのあるレストランに腰を据えます。アレンビー通りは、テルアビブの4大通りの一つで、写真はカルメル市場との交差点のマゲン・ダビッド・スクエア

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 尾けられているような気がしていたところ、食事が運ばれてきて顔を上げると、歩道の外側にユセフ・アルタウフィークを見つます。ガブリエルは、ユセフの腰にベレッタの銃口を押し付けて彼の銃を奪い、ユセフを歩かせてプロムナードの明かりが届かなくなるまでビーチを進みました。そして、ユセフから、すべてシャムロンの指示で動いていたことを聞かされます。

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 ガブリエルが別荘を訪ねると、シャムロンは、ユセフを少年の頃からタリクの組織に潜入させるまでの経緯や、タリクが脳腫瘍を患い、死ぬまでにちょっとした地獄を引き起こそうと考えていることを知って、タリクを仕留めるためにガブリエルを餌として任務に復帰させた一切を明かしました。こんな手の込んだ策を弄したのは、アイヒマンを誘拐した夜に靴ひもを結び忘れたために躓き、あやうく取り逃がすところだったという経験から、一部の隙も残してはならないという教訓を学んだからだと話しました。そして、ガブリエルがユセフを見かけるようにしたのは、真実を彼に知らせたかったからだと認めました。

 ガブリエルが朝4時にエルサレムのアパートに戻ると、テーブルの上には、ロンドンへの航空券、国籍の違うパスポートが3冊、アメリカ・ドルとイギリス・ポンドの紙幣が入った〈オフィス〉の封筒が載っていました。

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エピローグ

ポート・ナヴァス、コーンウォール

 最後は、ガブリエルがコーンウォールのコテージに戻ってきた場面で締めくくられます。

www.cornwalllive.com

 コテージに停まろうとしていたガブリエルのMGにピールが懐中電灯を2度点滅させると、ガブリエルもMGのライトを点滅して応えました。

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 第1弾のいながら旅は、以上で完結です。次の旅を楽しみにしてお待ちください。

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