ダニエル・シルヴァの小説『報復という名の芸術』de いながら旅 (3)

● ダニエル・シルヴァ
● ダニエル・シルヴァ報復という名の芸術

 第2部の続き、第23節からいながら旅を続けます。第26、28節のリスボンでは、かなり寄り道してしまいましたが、あしからず。


第2部 査  定 (続き)

23 レスター・スクエア、ロンドン

 レスター・スクエアは、ロンドンの中心に位置し、かつてこの場所にあったレスター伯爵邸宅にその名が由来。広場の真ん中の公園には、中央にシェイクスピア像の立つ噴水、周囲にニュートンの胸像チャップリン像などがあります。映画のプレミア上映が行われるロンドンのシネマランドの中心でもあり、毎年ここでロンドン・フィルム・フェスティバルが共催されます。

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 〈オール・バー・ワン〉は、レスター・スクエアの南西角にある大きな窓の2階建てのパブ。イギリスに50弱の店舗を有するチェーン店。中ではジャクリーヌがユセフの誘惑に成功します。

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 ジャクリーヌは、ユセフとともに彼の部屋に行き、ベッドをともにし、彼がシャワーを浴びている間に部屋に入るための3本の鍵の刻印を取ることに成功します。ですが、彼に気づかれたかもしれません。


24 メイダ・ヴェイル、ロンドン

 ガブリエルは、メイダ・ヴェイル駅から地下鉄でコベント・ガーデンまで行き、ジャクリーヌから受け取った鍵の刻印を協力者に渡します。オードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」のロケ地としても知られるコベント・ガーデンは、ロンドンの演劇とエンターテインメントの中心地ウエストエンドにあります。300年近く青果市場として栄えましたが、1980年に大改装を受け、ショッピングセンターへと生まれ変わりました。アップルマーケット、イースト・コロネイドマーケット、ジュビリーマーケットの3つのマーケットがあります。

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 続いて、ガブリエルは、歩いてセント・ジャイルズを進み、トッテナム・コート通りまで行きました。写真は、オックスフォード通りとトッテナム・コート通りが交わるセント・ジャイルズ・サーカス。トッテナム・コート通りは、家電ショップが集中するロンドンの秋葉原で、ユセフの部屋にあるものと同じ目覚ましラジオ、電話等を購入します。

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 その朝、ケメル・アズーリは、ポケベルにユセフからの暗号メッセージを受け取ると、会議を切り上げてロンドンに向かいました。パリ北駅までタクシーを飛ばしとありますが(チューリッヒからだと6時間半位かかったことでしょう)、スイスとフランスを結ぶ高速鉄道は、TGVが1981年にパリ-ジュネーブ間で運行を開始し、1996年にはチューリッヒ中央駅まで開通していますが、小説当時(おそらく1998~99年)にはまだ運用本数が少なかったのでしょう。現在はTGV Lyria(リリア)というブランド名で運用されています。パリ側のターミナルはリヨン駅(パリ東駅を利用した時期もあります)。写真は、TGVで唯一ダブルデッカーを採用したTGV Duplexという車両(リヨン駅)です。

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 パリ北駅は、北部鉄道のターミナル駅として1846年6月14日に開業しました。ユーロスターのパリ側のターミナルです。現在の駅舎は、フランスの建築家ジャック・イトルフによる設計で1865年に完成しました。ロマネスク様式のファサードには沿線各都市を象徴した23の女神像(最も大きい彫像は5.5mもあります)が飾られています。2024年のパリ・オリンピックに向けて、改装プロジェクトが進んでいます。

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 ユーロスターは、英仏海峡トンネルが開通した1994年の11月14日に開業した、ロンドンとフランスのリール、パリ及びベルギーのブリュッセルとの間を結ぶ高速鉄道です。パリからロンドンまでは約2時間15分。イギリスはシェンゲン協定に加盟していないので、ユーロスターに乗るにはパリ側で出入国審査を受ける必要があります。写真左は、2015年にオランダ、ドイツへの直通にも対応するために導入されたe320(Class374)型車両

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 ロンドンに着いたケメルは、ウォータールー駅からタクシーでチェルシー王立病院まで行きチェイニー・ウォークを歩いてバタシー橋でユセフで会います。1885年に建設されたバタシー橋は、テムズ川にかかる道路橋の中で最も幅が広く、側面に取り付けられた黄金のスパンドレルが美しいアーチ橋です。

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 ジャクリーヌのことを疑い始めたユセフに、ケメルはデートを重ねて親密な関係になるように指示します。


25 セントジェームズ、ロンドン

 イシャーウッドのギャラリーに迎えに来たユセフに、ジャクリーヌは展示室を見せます。ユセフは、川の風景を描いたクロードの風景画に見入ります。太陽が作品全体の明るさの源となっているとのことから、この《チボリの想像図のある風景》(1642年 コートールド美術館所蔵)のような絵ではないかと考えられます。ユセフは、予定を変更して彼の部屋に戻ろうと言い出します。

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 その頃、ガブリエルは、ヴィクトリア・エンバクメントのベンチに座り、テムズ川がブラックフライアーズ橋の下を流れるのを眺めながら、協力者が現れるのを待っていました。ブラックフライアーズ橋は、ジョセフ・キュービットが設計して1869年に開通した全長281mの5連のアーチ橋。現れた協力者を追って、テンプル駅から乗った地下鉄の中で、複製したユセフの部屋の鍵と報告文書を交換し、彼はパディントン駅から監視拠点に戻りました。

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 ガブリエルは、ユセフがジャクリーヌとのディナーで留守にしている間をねらって、複製した鍵を使ってユセフの部屋に侵入します。盗聴器を仕掛けていると、思いがけずユセフがジャクリーヌとともに戻って来ます。すぐに出ろというカープからの警告。彼は作業をやり通し、間一髪のところで部屋を出て、階段の踊り場で二人とすれ違います。


26 リスボン

 ケメルがタリクと待ち合わせたのは、ポルトガルの首都リスボンテージョ川河口の北側で、急勾配の石畳の坂道や階段が多く、「七つの丘の街」と呼ばれる丘陵地帯。長くムーア人(イスラム教徒)が支配していましたが、初代ポルトガル王アフォンソ1世が1147年のリスボン攻防戦によって奪還しました。写真は、市内で最も急な斜面の一つビカ・デ・ドゥアルテ・ベロ通りを走る、1892年6月28日開業のビカのケーブルカー

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 バイロ・アルトは、「高い地区」という意味で、カモンイス広場(おそらくケメルが横切った小さな広場)から北に向かって伸びるミゼリコルディア通りの西側一帯のことです。この広場の中央に立っているルイス・デ・カモンイスは、ポルトガルを代表するルネサンス詩人で、広場の白と黒のモザイクは、彼の代表作である国民的叙事詩「ウズ・ルジアダス」をテーマにしています。

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 リスボンの中で最も人気のある夜の歓楽街で、ポルトガル民謡のファドを聴きながら食事を楽しめるレストランや酒場(ファド・ハウス)が多く集まります。ファド・ハウスには、専属のプロ歌手が歌う「カーザ・デ・ファド」と、地元の喉自慢や店員が歌う「ファド・バディオ」があり、作中の店は後者でしょう。例えば、ディアーリオ・デ・ノチーシアス通りのファド・バディオ〈Tasca do Chico〉などが考えられます。ファドの起源については、諸説あるようですが、ブラジルの舞踏音楽ルンドゥーがポルトガルに伝わってモディーニャと融合し、リスボンの下町の貧しい人々に広まって、19世紀半ばに成立したとされます。通常、ファディスタ(歌い手)、ポルトガル・ギターを演奏するギターラ、クラシック・ギターを演奏するヴィオラの3名で構成されます。運命や宿命を意味するラテン語(fatum)に由来するように、「サウダージ(郷愁、憧憬、喪失感など)」をテーマにした哀歌を歌うもの多く、ケメルが心に沁みる美しい調べに聞き入っていると、男から声をかけられますが、最初はタリクと気付きません。

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 二人はバイロ・アルトからアルファマに向かいましたアルファマは、リスボンの東の丘に広がる下町地区で、1755年のリスボン大地震による大きな被害を免れたため、作中にあるように漆喰塗りの家々の間をくねくねと続く狭い路地と石段の迷路という昔ながらの光景が残っています。

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 狭い路地を壁面すれすれにレトロな路面電車も走っていて、リスボン大聖堂の前を通る28番トラムが特に有名です。リスボン大聖堂は、正式名称をサンタ・マリア・マイオール・デ・リシュボア大聖堂といい、アフォンソ1世によりイスラムのモスクの跡地に1147年から建設が始められたリスボンで最も古い教会です。砦として使用された歴史もあり、ファザードには銃眼も見ることができます。

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 当初はロマネスク様式で設計されましたが、完成までに何度も手が加えられ、ゴシック様式の回廊、バロック様式の内陣と祭壇など、様々な建築様式が混在しています。ちょっと寄り道をして中に入ってみましょう(開館時間はこちら(最終入場は閉館30分前まで)を、拝観料はこちらを、参照してください)。

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 正面入口(図A)を入ると、アーチでつながった柱で3つに区切られたロマネスク様式の身廊(図B)に通じており、中央身廊の天井はバレルヴォールト、側廊の天井はグロインヴォールトとなっています。

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 宝物庫のある2階に上がると、ベランダから身廊を見ることができます。

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 同じ場所からキリストと12使徒を描いたバラ窓も間近に見ることができます。

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 トランセプト(翼廊)との交差部(図C)には、オリジナルのロマネスク様式の丸天井が残っています。明るい主祭壇(図D)は、バロック様式で、天井の装飾も見どころです。中には、アフォンソ4世があり、左右に異なる形のオルガンが設置されています。

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 主祭壇の外側は、10個の礼拝堂(図3~12)を備え、リブヴォールト天井の半円形の周歩廊になっています。

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 一番奥の四角形のゴシック様式の回廊(図F)は、ディニス1世によって建設されたもので、中庭からは古代ローマや中世の遺跡が発掘されています。

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 アルファマには、白壁にオレンジ屋根の街並みとテージョ川が一望できるビュースポットが2か所あります。一つは、サンタ・ルジア教会のそばにあるテラスサンタ・ルジア展望台。ここからは、左手にサンタ・エングラシア教会サント・エステバン教会が一望できるほか、教会とテラスの壁面にアズレージョという青色を基調とする美しいタイルを見ることができます。

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 小さくてかわいいサンタ・ルジア教会は、大地震後にマテウス・ビセンテ・デ・オリベイラの下で改築されたものですが、外壁に施されたリスボン大地震前のコルメシオ広場と1147年に十字軍が城を包囲しムーア人と戦った様子を描いたアズレージョが白い壁によく映えており、ブーゲンビリアの開花時期には、写真のように、白、青、紫の美しい景色が見られます。教会の横にある胸像は、リスボンの歴史家フリオ・デ・カスティーリョのものです。

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 もう一つは、サンタ・ルジア教会のすぐ北側にある、「太陽の扉」という意味を持つ、ポルタス・ド・ソル展望台。広場中央にリスボンの守護聖人聖ヴィンセンテの像拡大写真)が立っています。ここからは、東側に遮るものがないので、サンタ・ルジア展望台から見える2つの教会に加え、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会も一望できます。キオスク型のカフェスタンド(写真右)があり、飲み物を飲みながら、眺望を楽しむことができます。

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 二人は、ユセフとジャクリーヌとのことやアロンの動きを話しながら、小さな広場を通り過ぎ、長い急な坂を上りました。タリクは、ジャクリーヌの写真を求め、計画を説明します。

 彼らが向かった高台はどこでしょう。アルファマの地区内なら、紀元前2世紀の古代ローマ時代の要塞を起源とする、サン・ジョルジェ城で、城門をくぐって展望台の広場から西側城壁沿いの坂道を進む経路が考えられますが、城に入るには入場ゲートを通過する必要があるので、これは違うでしょう。

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 考えられるのは、ポルタス・ド・ソル展望台からグラッサ展望台に向かう経路。途中、サントメ通りの広場には、ファドの女王として知られるアマリア・ロドリゲスへのオマージュ作品としてアレクサンドル・ファルトによって2015年に制作された「Calçada da Amália」と題するモザイク壁画があります。小説当時はこの壁画はありませんでしたが、小さな広場はここではないでしょうか。

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 もう一か所、小さな広場の候補と考えられるのが、トラヴェッサ・ド・アソウルゲという小判型の広場。この三叉路を右手にグラッサ展望台まで長い坂が続きます。広場前のフィゲイラ伯爵の宮殿(写真右)は、現存する大地震前の建物で、かつてはサント・アンドレの凱旋門が隣接していました。

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 グラッサ展望台は、グラッサ教会・修道院に隣接し、正式名は2004年に亡くなったポルトガルの詩人に因み「ソフィア・デ・メロ・ブレイナー・アンドレセン展望台」といいます。彼女の胸像が置かれ、ここからは、サン・ジョルジェ城やリスボンの中心部、テージョ川に架る4月25日橋を一望できます。

(左から、Wikimedia Commons/①

 タリクは踵を返して姿を消し、ケメルはファドを聴きにバイロ・アルトに引き返しました。


27 ペイズウォーター、ロンドン

 ガブリエルは、盗聴器から重要な情報が拾えなくなり、ユセフがジャクリーヌのことを疑っているのではと感じ、翌朝、シャムロンとパリで会うことにしました。待ち合わせたのは、ムフタール通りの喫茶店。該当の喫茶店は、通りの南側に近いところ、例えばジョルジョ・ムスタキ広場に面するブラッセリーLe Café Saint-Médard〉などではないでしょうか。

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 ムフタール通りは、パリ5区にある長さ605mの通り。起源はローマ時代まで遡るというパリでも特に古い通りで、様々な国籍のレストランや食材店が並び、「パリの胃袋」とも呼ばれています。二人は市場や露店を縫って丘を上っていったとされていますが、市場や露店はサン・メダール広場など通りの南側に集中し、通りは北に向かって上り勾配となっていることから、南側にある店から北に向かったと推理できます。

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 通りの南端のサン・メダール広場の北側には、サン・メダール教会があります。1622年に建設された歴史のある教会で、レ・ミゼラブルにも登場します。また、教会前のスペースは、映画「アメリ」にアメリの部屋に思い出と宝物を埋め込んだ少年ドミニク・ブルトドーに宝物を返すために使った電話ボックスがあった場所です。

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 通りを挟んだ教会の向かいには、凝った模様の壁面がユニークな建物が建っています。ガブリエルは、ジャクリーヌを外したいと申し出ますが、シャムロンに一蹴されてしまいます。

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 ガブリエルは、ロンドンへ帰る列車の中でトイレに入り、「ブラック・セプテンバー作戦」で精神を病んだ時の辛い経験を思い出します。1972年のミュンヘン・オリンピック開催時にイスラエル選手を殺害したパレスチナ武装組織「黒い九月」への報復として、メンバーの暗殺を謀った「神の怒り作戦」のことで、当時は、黒い九月による反撃により、モサド工作員等も殺害されました。作中ではトイレを施錠したとありますが、ユーロスターのトイレはドアの開閉だけでは施錠できないとの情報もあります。

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 ロンドンに戻ったガブリエルは、ウォータールー駅からリーアに会いにサリーに向かいます。彼女は、急性心的外傷後ストレス障害と抑うつ状態にあり、緑の中の赤煉瓦のヴィクトリア朝の建物の精神病院にいました。サリー(州)は、ロンドンの南西部、通勤圏内にありながら、森林と鮮やかな緑の野原が広がる都会離れした雰囲気のところです。最大の街はギルフォード。写真は、ギルフォード近郊のイーストン・クランドンにある、170haの庭園に囲まれたハッチランズ・パーク

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 ガブリエルは、ただ彼女の傍らに座るだけ。45分後、彼女の足元に屈み込み、もう行くと言葉をかけたところ、彼女は寂しげな笑みを浮かべて彼の横顔に触れます。リーアらしくないと感じ、自分の表情に何を感じたのだろうと考えを巡らせるのでした。


28 リスボン

 ケメルは、ドミニク・ボナールことジャクリーヌの写真を渡すため、再びファド・ハウスでタリクと待ち合わせました。写真は、ダ・ケイマーダ通りにあるカーザ・デ・ファドの老舗〈Café Luso〉。1955年にアマリア・ロドリゲスがここでライブ録音したCDは名盤中の名盤といわれています。ジャクリーヌの写真を見たタリクは、見せたいものがあると言って、アルファマの高台にある彼のアパートメントにケメルを連れていきます。

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 ダ・ケイマーダ通りを東に抜けたところ、ミゼリコルディア通りの24番トラムの停留所がある広場(Largo Trindade Coelho)の北側には、日本でお馴染みの聖フランシスコ・ザビエルとも関わりが深く,1584年にリスボンに辿り着いた天正遣欧少年使節が宿舎として約1か月滞在したサン・ロケ教会があります。外観は真新しい感じですが、起源はマヌエル1世がペスト被害者の守護聖人サン・ロケの聖遺物を祀るため1506年に建てた礼拝堂に遡ります。現在の建物は1553年に礼拝堂を取得したイエズス会によって1565~87年にマニエリスム様式で建造されたものですが、豪華な内装は必見の価値がありますので、寄り道して覗いてみましょう(付属の美術館は有料ですが、教会は入場無料です)。

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 長方形の形をした教会内部は、主祭壇と主祭壇を挟んで右に2つ左に3つ、身廊の両側に4つずつある礼拝堂で構成されています。

(原典:museusaoroque.scml.pt から抽出)

 当時の国王ジョアン3世は3つの身廊を持つ記念碑的な建物を建設するつもりだったようですが、戒律を尊重するイエズス会はこれに反対し、教会設計における簡素さと機能性を重視するトレント公会議の典礼勧告に従って、単一の身廊で、内陣が浅く、翼廊のないシンプルな構造を採用しました。この「講堂教会」と呼ばれるスタイルは他のイエズス会派教会の建築的手本とされました。とはいえ、内部は、地味な外観とは対照的に、金箔や象嵌、貴石で覆うなど豪華で美しい装飾が施されています。著名な画家の絵画も配置されており、側壁上部には、イエズス会の創設者であるロヨラの聖イグナチオの生涯のエピソードを描いた、ドミンゴス・ダ・クーニャによる一連の作品を見ることができます。

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 天井画(詳細写真)は、1587~89年にフェリペ 2 世の宮廷画家フランシスコ・ヴェネガスによって制作されたもので、3つのドームを有する樽型のアーチ天井のように見せるだまし絵の手法を用いており、アーチの間には四角いバルコニーも描かれています。中央には、イエズス会の依頼によりアマロ・ド・ヴァーレによって大きなメダリオン(聖十字架の高揚)が 書き足されています。1755年のリスボン地震で損傷しましたが、その後に再建されており、リスボンに現存する最古の塗装天井です。

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 主祭壇(図7)には、聖母子像を囲むようにイエスズ会の主要な4聖人、聖イグナチオ、聖フランシスコ・ザビエル、聖ルイス・デ・ゴンザーガ聖フランシスコ・ボルハの像が配置されています。聖母子像の上の階は、秘跡(サクラメント)を展示するための ”throne” と呼ばれるニッチとなっており、通常は新約聖書の一場面を描いた絵画で(季節に応じて7点を入れ替えて)覆われています。

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 身廊の右側最初の礼拝堂(図1)は、1634年に建設され、18世紀前半のバロック様式で装飾された、教義の聖母礼拝堂で、祭壇の中央に教義の聖母像(聖母マリアを抱いた聖アンナの像)が、その左右に聖ヨアヒムと聖アンナの像が置かれ、内部全体が金箔で覆われた煌びやかな礼拝堂です。祭壇下のガラスケースに収められているのは、死せるキリストの像です。

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 身廊の右側2番目の礼拝堂(図2)は、同じく1634年に建設された、聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂で、布張りの木製ザビエル像は、彫刻家ジェロニモ・コレイア制作によるものですね。こちらは、典型的なマニエリスムを示す簡素な装飾です。側壁の絵画は、ポルトガルの画家ホセ・デ・アヴェラル・レベロによるもので、左側が《インドへ出発する聖フランシスコ・ザビエルに謁見するヨハネ3世》、右側が《イエズス会の初代教父たちをポルトガルに派遣する教皇パウロ3世》です。

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 身廊の右側3番目の礼拝堂(図3)は、白い柱に金色のブドウのような植物がらせん状に絡まった装飾が施された、サン・ロケ礼拝堂です。中央の祭壇には、裾をめくって傷を負った足を見せ、傍らにパンを咥えた犬がいる、サン・ロケの像が、その左右に聖ヤコブと聖セバスティアンの像が置かれており(拡大写真)、左側の壁には、ポルトガルのマニエリスム画家ガスパール・ディアスによる傑作《サン・ロケへの天使の出現》があります。

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 身廊の右側4番目の礼拝堂(図4)は、ルイス・フロイスらによって1636年に設立され、当初は被昇天の聖母に(その後受胎の聖母と苦しみの中にある人々の救済に)捧げられた、至聖なる秘跡礼拝堂で、中央に聖母被昇天を表すバロック様式の像があります。側壁の絵画は、有名なポルトガルの画家ベント・コエーリョ・ダ・シルヴェイラによるもので、左側が《聖母被昇天と戴冠式》、右側が《聖母の死》です。こちらの礼拝堂も金色の装飾や大理石の象嵌細工で覆われた豪華なものですが、この礼拝堂の一番の特徴は、他の礼拝堂にはない黄金の鉄製の柱廊玄関です。

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 身廊の左側4番目の礼拝堂(図12)は、ジョアン5世がローマの建築家ルイージ ・ヴァンヴィテッリニコラ・サルヴィに依頼してローマで建設され、教皇ベネディクト14世によって奉献された後、解体してリスボンに輸送された、洗礼者ヨハネの礼拝堂です。ラピスラズリや瑪瑙、アンティークグリーン、アメジストなど様々な貴石やモザイクのほか、金銅や象牙の象嵌も使用された豪華な装飾で、トップにはポルトガル王家の紋章も付けられており、ガイドブックにイタリアン・バロックの傑作として紹介されています(るるぶの2020年版では、間違って教義の聖母礼拝堂の写真が引用されています)。

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 身廊後部にあるオルガンは、1784年に有名なオルガン製作者アントニオ・ザビエル・マシャド・エ・セルベイラの工房で制作され、元々は少し北にあるサン・ペドロ・デ・アルカンタラ修道院の教会にあったもので、1844年にここに移設されました。

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 アルファマに向かう途中には、リスボン地震で倒壊したカルモ修道院が遺構として保存されており、大地震の被害を今に伝えています。1389年の創建当時はリスボン最大の規模を誇っていたといいます。現在は考古学博物館が併設されています

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 アルファマへは途中に商業の中心地バイシャを通ります。「低い地区」という意味で、バイロ・アルトとの間には約30mの高低差があり、この間を結ぶユニークな交通手段が1902年に完成したサンタ・ジュスタのエレベーター(通称「カルモのリフト」)です。高さ45mの巨大鉄塔で、カルモ修道院の裏から通じる連絡橋を渡ります。螺旋階段を上がると展望台があり、サン・ジョルジョ城やテージョ川、碁盤の目のように整備されたバイシャの街並みが一望できます。

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 設計したのは、エッフェル塔設計者の弟子ラウル・メニエ・デュ・ポンサールです。ネオ・ゴシック様式のアーチと幾何学模様で装飾された鉄塔の内部を、レトロな木製キャビンで上り下りします(2回(往復)まで5.3€)。エレベーターは2基あり、現在は電動ですが、建設当初は蒸気で動いていました。長蛇の列ができる上りに比べ、下りは待たずに乗れるようです。

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 エレベーターを降りてサンタ・ジュスタ通りを少し進むと、バイシャの中心、コメルシオ広場からロシオ広場を南北に結ぶメインストリートのアウグスタ通りです。モザイクの石畳が美しく、歩行者天国になっていて、ブランドショップやカフェ、レストランが立ち並び、大勢の人で賑わっています。

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 こちらはアウグスタ通りを南に抜けたところ、テージョ川に面した、コルメシオ広場です。リスボン地震で崩壊したマヌエル1世のリベイラ宮殿があったことから、テレイロ・デ・パソ(宮殿広場)とも呼ばれます。ポンバル公爵によって再建された、広さ約30,600㎡、ポルトガル最大の正方形の広場で、中央にはホセ1世の騎馬像が、アウグスタ通りの入口には凱旋門が設けられています。凱旋門の上は展望台になっていて(毎日10時~19時(最終入場は18時30分)入場料は3.5€)、碁盤の目のように整備されたバイシャの街並みを一望できます

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 一方、こちらはアウグスタ通りを北に抜けたところにある、ロシオ広場です。正式名称をペドロ4世広場といい、波形模様のモザイクが美しい石畳の広場で、初代ブラジル国王となったペドロ4世の記念碑(1870年建立)と2基の噴水があり、北側にはマリア2世国立劇場が建っています。

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 ロシオ広場のすぐ東にあるのが、フィゲイラ広場です。1971年建立のジョアン1世の騎馬像がありますが、中央ではなく広場の南西隅にあるのは、コメルシオ広場から見えるように2000年に移されたからだそうです。

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 静かな中庭を見下ろす小さなベランダがあるというタリクのアパートメントは特定できませんでした。彼は、写真の女がチュニスでガブリエル・アロンと一緒にいた女と同じ女だと明かします。それからニューヨークでの作戦計画を再検討しながらアルファマの路地を歩き、和平交渉とアロンの両方を絶頂の瞬間に殺して世界を震撼させると話すのでした。


29 セントジェームズ、ロンドン

 ジャクリーヌは、画廊でガブリエル(差出人名はランドルフ・スチュアート)からの手紙を受け取ると、イシャーウッドに別れを告げて、ピカデリー駅へと歩き地下鉄でユセフのアパートメントに向かいました。写真は、デューク・ストリートとピカデリー大通りの交差点にあるフォートナム&メイソン本店。ウィリアム・フォートナムとヒュー・メイソンが1707年に創業した老舗百貨店で、英国王室御用達の紅茶専門店としても有名。2003年に仕事で英国に出張した際に立ち寄りました。

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 ユセフから彼がシャティラの生き残りであると聞かされ、動揺したジャクリーヌは、ガブリエルに作戦から抜けたいと話します。口論になり、チュニスのとき彼にとって自分がどういう存在だったかと尋ねるジャクリーヌ。彼は、恋人だったと告白し、その所為で家族が亡きものとなったとも語ります。今でも自分のことが好きかと尋ねる彼女に、彼はそれには答えず、逆に任務を継続できるかを尋ねるのでした。


30 ハイド・パーク、ロンドン

 翌日、ユセフが指示を受けるため仲間の男と接触したのは、ランカスター・ゲートの向こう、ハイド・パークのイタリアン・ガーデンズでした。ワイト島にあるヴィクトリア女王の離宮オズボーン・ハウスに着想を得て、1860年に夫のアルバート公により造園されました。ガブリエルは、カープとともに集音マイクを駆使して会話を聞き取ろうしましたが、噴水の音が邪魔をして、解析して判明したのは「心配無用だ、ユセフ。ガールフレンドはお前にノーとは言わない」など10%程度でした。

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 その夜、ユセフはジャクリーヌに大事な頼みがあると切り出しました。ガブリエルは盗聴器を通じて耳を傾けました。


31 パ リ

 ガブリエルは、ユーロスターの1等車両に座り、ユセフのアパートメントでの会話の録音を繰り返し聴きました。ユーロスターの1等車両(ビジネスプレミアとスタンダードプレミアの2タイプがあります)は、2列+1列の並びとなっており、新聞・雑誌のサービスのほか、食事が提供されます(彼は朝食を取りませんでしたが)。2等車両は、2列+2列で、窓と座席の配列が一致しておらず、柱で車窓風景が楽しめない座席が多いようです。

Wikimedia Commons他の写真

 ガブリエルは、タクシーでフォッシュ通りを目指しましたが、尾行の確認のため途中で下車し、別のタクシーでノートルダムへ行きます。パリ観光の中心ノートルダム大聖堂。ノートルダムとは「我らが貴婦人」という意味で,司教モーリス・ド・シュリーの指揮により1163年から建設が開始され、約200年かけて1345年に完成したゴシック様式の教会。ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』の舞台

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 2019年4月5日午後6時50分頃に火災が発生し、78mの尖塔や屋根が崩壊しました。2024年のパリ・オリンピックまでの再建を目指しています。

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 ガブリエルは、ノートルダムから徒歩で河を渡って、サン・ミッシェル広場へと向かい、そこからタクシーに乗ります。広場にある噴水は、ナポレオン3世の治世下の1858~ 60年に、建築家ガブリエル・ダヴィウドによって建設されたもので、中央の台座の上には悪魔と闘う大天使ミカエルの像があります。

2014年の旅行時の写真

 彼が最後に向かったのは、ブローニュの森近くのパリ16区、コロンビア広場にほど近い緑の多い通り(いずれもフランス元帥の名を冠した通りのスーシェ大通りランヌ大通り又はマレシャル・モノリー通りのいずれかと思われます)に面したアパートメント、4階の4B、グスマン名義の部屋でした。シャムロンが部下のウージ・ナヴァトと待っていて、ガブリエルが持参した録音テープを再生します。コロンビア広場は、コロンビア共和国に因んで名付けられたもので、同国の政治家フランシスコ・パウラ・サンタンデール生誕200周年と没後150周年を記念して、同人の銅像が立っています。

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 ユセフの依頼とは、あるパレスチナ人指導者がが重要な会議に出席するためにカップルを装って同行することでした。ガブリエルは敵の罠を疑いましたが、シャムロンは仮に罠であったとしてもまだこちらの方が優位に立っていると話し、誘いに乗ることについてガブリエルの決断を促すのでした。


32 セントジェームズ、ロンドン

 イシャーウッドの画廊で、ガブリエルとシャムロンは、ジャクリーヌに、彼女の生命が危険にさらされることがないようにすることを確約した上、ユセフの申出を受けてタリクを仕留める作戦に協力してもらえるかを尋ねました。自分を見ないでくれと言っているように、デル・ヴァーガの絵の前に立つガブリエルを横目に、彼女は決意を固めます。第22節(212頁)に登場する《キリスト降誕》は、1534年制作のワシントンのナショナル・ギャラリーの《幼子イエスの崇拝》をイメージしていると思われます。

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 ガブリエルとシャムロンは、車でオックスフォード・ストリートへと曲がり、トッテナム・コート・ロードを渡り、ホルボーンのニュー・スクエアに向かいました。写真は、セラル通りからニュー・スクウェアに入るゲート

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 シャムロンは、作戦のためいつでもすぐに飛ぶことができる飛行機を借りに、ベンジャミン・ストーンのところに向かいました。


33 セントジェームズ、ロンドン

 ジャクリーヌは、ユセフのアパートメントから、二人で紺色のボクスホールに乗り込み、出発します。ボクスホールとは、1857年に機械メーカーとして創業し、1903年から自動車製造に参入したイギリスの自動車メーカーで、現在はステランティス N.V.傘下のオペルの子会社となっています。写真は、ボクスホール・アストラです。

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 二人は、セントラル・ロンドンと郊外を結ぶクロムウェル・ロードを西に向かいました。クロムウェル・ロードは、リチャード・クロムウェルの名前に由来し、A4道路の一部を構成する道路で、道路沿いにはヴィクトリア&アルバート博物館ロンドン自然史博物館在英国フランス領事館などがあります。写真は、アストン・ウェッブが設計して1899年~1909年に建設されたヴィクトリア&アルバート博物館のメインエントランス

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 ロンドン自然史博物館は、ロンドン万博の跡地に1881年に開館した博物館です。

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 途中、グレーのトヨタに乗り換え、二人が行き着いたのは、ヒースロー空港近くのハウンズローの公営住宅団地でした。


34 ハウンズロー、ロンドン

 二人が入った公営住宅は、駐車場があり、コンビナートのような頑丈な赤レンガ造りの建物が連なったところで、建物を囲うフェンスの向こうにサッカー場があり、高架線を走る列車が見える、(階段を二折り上っているので)3階建て以上の建物。GoogleMapの航空写真では、その条件にずばり当てはまる建物は見当たりませんが、高架線はピカデリー線のことであり、その沿線のブレナム・センターには、ショッピングセンター一体型の大規模な集合住宅があり、隣には高校の運動場があります。

www.geograph.org.uk

 一方、ガブリエルは、深夜、オンスロー・ガーデンズにあるイシャーウッドの自宅を訪ね、ヴァチェリオを期限までに完成できなかった場合の保険だとして10万ドルを渡します。


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 今回の投稿での旅はここまでです。次回、第3部からいながら旅を続けます。

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