第2部からいながら旅を続けます。
第2部 査 定
11 パ リ
モデルのジャクリーヌ・ドラクロワが撮影のため訪ねた、ファッション・カメラマンのミシェル・デュヴァルのスタジオは、サン・ジャック通りのアパートメントにありました。サン・ジャック通りは、ルテティナと呼ばれたローマ帝国時代の古代都市におけるメインストリートであり、また、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の起点でもありました。現在は、パリ大学(ソルボンヌ)など多くの教育機関が集まる学生街カルチエ・ラタン(ラテン区)の入口となっています。
ミシェルのセクハラに手痛い反撃をした彼女は、カルチエ・ラタンからリュクサンブール地区を横切り、トゥールノン通りから少し離れたところに住んでいるエージェントのマルセル・ランベールのところに行きます。写真は、1612年にマリア・デ・メディチがリュクサンブール宮殿に付随する庭園として造園させた、22.45haの広さリュクサンブール公園です。
12 ベイズウォーター、ロンドン
ガブリエルがユセフ・アルタウフィークを監視するための拠点として借りたのは、オックスフォード・ストリートに近く、ハイド・パークも目と鼻の先にある、サセックス・ガーデンズのアパートメントでした。GoogleMapには載っていませんが、ウェブ検索すると、〈Sussex Gardens Apartments〉という貸切アパートがあるようです。
作中、ユセフはエッジウェア・ロードにある〈ケバブ・ファクトリー)というレバノン料理店でアルバイトをしており、ガブリエルは、通りの向かいにある小さなイタリアン・レストランで監視に当たります。GoogleMap上、確かにレバノン料理店が複数存在しますが、該当のレストランは見当たりませんでした。エッジウェア・ロードは、ロンドンでは珍しい直線道路で、マーブル・アーチから北西にロンドン郊外のエッジウェアまで長さ14kmにわたって走っています。
マーブル・アーチは、バッキンガム宮殿のために、1828年に建築家ジョン・ナッシュがローマのコンスタンティヌス凱旋門を基に設計したものでしたが、1855年にハイド・パークの北東角に移設されました。
13 アムステルダム
インゲ・ヴァンダーホフは、バーで知り合ったレイラをアムステル川の兄のハウスボートに泊めましたが、レイラは、フランス人の友人ポールを1週間程泊めてあげてほしいと言い置いて、インゲに見返りのコカインを渡して出ていきます。
ハウスボートとは、運河に浮かぶ居住型の船で、オランダ語で「woonboot」と表記します。その歴史は古く、1652年には市議会の記録に登場します。1950年代、第二次世界大戦後の住宅不足を補うために次々と運河に住むようになり、現在ではアムステルダムだけで約2千500世帯もあります。
14 ベイズウォーター、ロンドン
ガブリエルは、音声技術者ランドール・カープの協力を得て、ユセフのアパートとエッジウェア・ロードの彼の仕事場に盗聴器を仕掛けます。エッジウェア・ロードには、地下鉄の駅が二つあります。一つは、パディントンとファリンドンの間に世界で初めて開業した地下鉄(メトロポリタン鉄道)の一部として1863年1月10日に開業したもので、通りから東に少し入ったところにあり、現在サークル線等の駅となっている駅です。駅前には、アラン・スライの窓拭きの銅像が立っています。
この駅を訪れると、チャペル通りを挟んで南に建っている、赤色の瀟洒な建物群が目に入ります。キャベル通りとトランセプト通りをそれぞれ挟む形で同じような造形の赤色のファサードが連なっている様はなかなかのものだと思います。
もう一つは、エッジウェア・ロードとハロー・ロードの交差点の北東角にあるベーカールー線の駅で、建築家レスリー・グリーンの設計により1907年6月15日に開設。正面は艶のある赤いテラコッタのアーチ型のファサードで、南側壁面全体が緑の植物で植栽されているのが特徴です。
翌朝、ガブリエルは、マーブルアーチまで歩き、地下鉄でウォータールーまで行って、ユーロスターのチケット・ターミナルにあるカフェで、待っていたシャムロンの協力者に、極秘と書いたメモをはさんだ新聞を渡し、パリ行きのユーロスターに乗り込みました。
ウォータールー駅は、1848年7月11日にロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道のウォータールー橋駅として開業しました。上の写真は、第一次世界大戦時にメインエントランス上部に付けられた「ヴィクトリー・アーチ」です。
北側にパリ等へのユーロスターのロンドン側のターミナル(ウォータールー国際駅)が増設され、本作でもここを舞台にしていますが、2007年の英仏海峡トンネル連絡鉄道の全線開業により、ロンドン側のターミナルはセント・パンクラス駅に変更されています。
15 アムステルダム
アムステルダムは、「北のヴェネツィア」とも呼ばれ、165の運河が縦横にめぐり、1281本もの橋がかけられています。中でも、中央駅を中心に同心円状に広がる環状運河地区は、「運河のガードル(Grachtengordel)」として知られ、2010年に「シンゲル運河の内側にある17世紀の環状運河地域」として世界遺産に登録されています。17世紀にヘーレン、カイゼル、プリンセンの三運河が建造されましたが、ヘーレン運河は、その中でも最も早く建造された運河です。
タリクの次のターゲットは、イスラエル首相の友人であり、デザイナーズブランドのメガネ企業オプティークの社長イヴィッド・モーゲンソーで、彼の瀟洒な家が建っていたのが、ライゼ通りとファイゼル通りの間の「黄金の湾曲 (Gouden Bocht)」と呼ばれる、両岸に三角形や階段状の破風を備えた建物が連なる素晴らしい地域。運河を見下ろす大きな窓が並び、そびえ立つ破風(ペディメント)がある広大な屋敷で、玄関までステップがあり(192頁)、運河の反対側にカフェがあるということから、476番地のプリンス・ベルンハルト文化財団の建物などがそのモデルとして考えられます。
タリクがモーゲンソー夫妻の屋敷の様子を観察した、運河の反対側のカフェは、〈Kramer〉がモデルではないでしょうか。
午後4時、彼は夫妻の帰宅を確認してから、アムステル川のインゲのハウスボートに戻ります。
16 ヴァルボンヌ、プロヴァンス
ミシェルとの一件後、ジャクリーヌは、プロヴァンスのヴァルボンヌで過ごしていました。ニースから西に30Km、カンヌから北に13Kmほど入った山の中に位置し、自然に囲まれた小さな村です。村の見所は、ローマ時代の都市計画に基づいて作られた碁盤目に区切られた街並み
インテリアや雑貨の可愛いお店が並び、花の季節にはジャスミンや夾竹桃、アジサイなどが街を彩ります。
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ジャクリーヌには、シャムロンに工作員の女性アシスタント(バット・レヴェイヤ)として雇われていた過去があり、彼から訓練を受けたときのことを回想します。その際登場するのが、テルアビブ・ビーチに面して建つオペラタワー。1993年にかつてのオペラハウスの跡地にショッピングセンターと高級マンションとして建設されたものですが、ホテル付きの複合施設〈Herbert Samuel Opera Tel Aviv〉に改修されています。
尾行を見破るテストを行ったのが、ハビマ劇場から南に走るロスチャイルド通り。キング・サウル通り、アレンビー通り、シャバジ通りとともにテルアビブの4大通りの一つ。テルアビブで最初にできた通りの一つで、その名はイスラエル建国に貢献した銀行家エドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルド男爵に由来します。両側にヨーロッパから移住したユダヤ人建築家によって建設されたバウハウス様式の白い建物が立ち並び、2003年に「テルアビブの白い都市」として世界遺産に登録されています。
訓練後にシャムロンと合流したのが、ロスチャイルド通りに交わる、シェインキン通りのカフェ〈タマール〉。57番地にあった同カフェは、1941年にオープンし、66年から名物サラおばさんが引き継いで、芸術家、ジャーナリスト、左翼の政治家たちの溜まり場でしたが、2015年に閉店し、74年の歴史に幕を閉じました。
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そして、ジャクリーヌが最初にガブリエルと出会ったのは、チェニスでの作戦の前、彼がキリストの昇天を描いたフレスコ画を修復していたトリノの教会でした。トリノの教会といえば、キリストの遺体を包んだ布で、その姿を写し出しているという聖骸布が保管されている、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂が有名ですが、大聖堂にはキリスト昇天のフレスコ画はありません。
マルセルからの留守電が知らせたとおり、ガブリエルがヴァルボンヌの彼女の家を訪ねてきます。
17 テルアビブ
CIAの高官エイドリアン・カーターがキング・サウル通りを訪れ、パリの襲撃へのタリクの関与が判明したら、法廷にかけるべきであり、陰で処刑して報復すべきではないと警告しました。キング・サウル通りの北側広場には、テルアビブ美術館、テルアビブ舞台芸術センター、ベイト・アリエラ(中央図書館)などの芸術文化施設が集まっています。
シャムロンが首相に作戦の続行を望むかを尋ねると、首相は、CIAに気づかれずに作戦をやり通すよう命じます。
18 ヴァルボンヌ、プロヴァンス
ガブリエルは、ジャクリーヌに、ユセフ・アルタウフィークの部屋に入るため彼を誘惑するように求め、彼女は5万ドルで引き受けます。二人は車で高速道路を北に山脈を目指し、高速道路から脇道にそれ、細い道路を西へ山間に入り、壊れた門を通って空地へ向かいます。そこで、ガブリエルはジャクリーヌがまだ拳銃を扱えるかを確認します。
GoogleMapによれば、上の写真のようなところ(ヴァルボンヌから、ニース道路とロックフェラー道路を北東に向かい、途中の脇道を西に行ったところ)ではなかったでしょうか。
19 アムステルダム
その日の午後、タリクは、ハウスボートから歩いてアムステルダム中央駅に行き、アントワープへの夜行列車のチケットを購入しました。アムステルダム中央駅は、ピエール・カイペルスとドルフ・ファン・ゲントの設計により、1889年10月15日に開業した、ネオゴシックとネオルネサンスを融合させた煉瓦造り3階建ての駅舎です。
駅から飾り窓地区へ向かい、麻薬売人からヘロインを買います。飾り窓地区は、ポルノショップ、ストリップ劇場などもある、合法的な売春宿街で、道路に面したガラス張りの部屋はピンク等で照明され、裸や下着姿の女性が立ち客待ちをしています。軒に赤いランプを灯しているため、英語では”Red-light district”と呼ばれます。また、この辺りのコーヒーショップとは、大麻やマリファナなどのソフトドラックを扱う店のことをいいます。
タリクが路面電車に乗り込んだ、中央駅から南に約750mのところにあるダム広場は、元はアムステル川をせき止める堰(ダム)のあった場所で、アムステルダムの語源となったところです。広場の西側に面して王宮が、その北に新教会が、南側にマダム・タッソー蝋人形館、東側に第二次世界大戦戦没者記念塔があります。
街を南に抜け、シンゲル運河に浮かぶ花市場で、オランダの花で作ったブーケを注文します。コーニングス広場とムント広場の間に15軒のフラワーショップが軒を連ねる、1862年に設立された世界で唯一の水上フラワーマーケット
ハウスボートに戻ったタリクは、インゲをヘロインの過剰投与に見せかけて殺害します。そこへ思いがけずインゲの兄マーチンに戻ってきたことに慌て、やむを得ず消音装置を付けることなく彼を射殺してしまいます。ヘーレン運河を西に街を横切りながら、計画の中止が頭をよぎりますが、兄マハムンドの死を知らせる手紙が届いたときのことを思い出し、タリクは、モーゲンソー夫妻の屋敷に向かいます。花束の配達を装って中に入ってメイドを射殺し、モーゲンソー夫妻の帰りを待ちました。
20 パ リ
翌朝、シャムロンが緊急に会うためにガブリエルを呼び出した場所は、パリのチュイルリー公園でした。夫であったフランス王アンリ2世の死後、摂政となったカトリーヌ・ド・メディチによって1564年にチュイルリー宮殿の庭園として造られたもの
二人は足早にチュイルリーの小道を進んで、コンコルド広場を横切り、シャンゼリゼ大通りに向かって歩きながら、モーゲンソー夫妻の殺害がタリクの仕業であったこと、CIAが警告してきたこと、ジャクリーヌが協力を応諾したことを話しました。コンコルド広場は、ルイ15世の騎馬像の設置場所として、建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルの設計により1772年に完成し、当初はルイ15世広場と呼ばれました。フランス革命が勃発して、革命広場と改められ、ルイ16世やマリー・アントワネットはここでギロチンに架けられました。
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午後3時半、ガブリエルは、ロンドンのメイソンズ・ヤードにジュリアン・イシャーウッドを訪ね、カモフラージュのためジャクリーヌを秘書として雇うように頼みます。イシャーウッドの酔いを醒まさせようと連れ出したのがグリーン・パークで、ハイド・パークとセント・ジェームズ・パークの間、バッキンガム宮殿の北にある公園。自生する水仙がみられるほかは緑一色です。
21 メイダ・ヴェイル、ロンドン
パリから職を探してロンドンに来た、ジャクリーヌ扮するドミニク・ボナールに用意されたのは、ロンドンのメイダ・ヴェイルの中庭を見下ろす窓が一つあるきりの狭苦しいワンルーム・アパートメントでした。メイダ・ヴェイルは、ビクトリア様式の優雅な住宅と静かで広い道路が特徴の豊かな住宅地。1ブロックごとに専用のエントランスホールを有し、建物の後ろに共同庭園のある建物群が並んでいます。
22 メイダ・ヴェイル、ロンドン
翌朝、ジャクリーヌは、イシャーウッドのギャラリーに通うため、エルジン・アヴェニューを歩いて地下鉄の駅に向かいました。メイダ・ヴェイル駅の駅舎は、1915年開業の歴史的建造物で、古くはヒッチコックの映画『ダウンヒル』に、最近では映画『パディントン』にウェストボーン・オーク駅として登場します。ベイカールー線でピカデリー・サーカスまで行ってメイソンズ・ヤードへ
ジャクリーヌがイシャーウッドが来るのを待ったデューク・ストリートのカフェは、通りを見渡せてメイソンズ・ヤードへの連絡通路が見える位置にあったことから、ブラッスリーの〈Maison François〉ではないでしょうか。
イシャーウッドはジャクリーヌをギャラリー3階の展示室に案内します。天井の高い部屋でガラスの円形の天窓があるとのことから、やはり第7節で紹介しました〈Matthiesen Gallery〉がモデルではないでしょうか。
ジャクリーヌは、展示室で、ベルナルディーノ・ルイーニの《ヴィーナス》(写真右)、デル・ヴェガ(ウェブ上では、ペリーノ・デル・ヴァーガと表記されています)の《キリスト降誕》、パリス・ボルドーネの《イエスの洗礼》(写真左)、クロードの風景画に目を奪われます。
午後4時、ケバブ・ファクトリーのユセフに電話が入り、その夜9時に彼がレスター・スクエアの〈オール・バー・ワン〉に行くことがわかります。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部の続き、第23節からいながら旅を続けます。
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