ダニエル・シルヴァの小説『報復という名の芸術』de いながら旅 (1)

● ダニエル・シルヴァ
● ダニエル・シルヴァ報復という名の芸術

 小説をガイドブック代わりに、登場人物たちの足跡を辿りつつ、時には寄り道もして、写真や観光資料、地図データなどを基に、舞台となっている世界各地を紹介しながらバーチャルに巡礼する、小説 de いながら旅の第1弾は、ダニエル・シルヴァの作品を取り上げます。同氏はアメリカ合衆国のスパイ小説作家で、現地取材が徹底しており、実在する場所等で物語が展開されていくので、作品を読み進める読者に登場人物と一緒にその舞台を訪れているかのような臨場感を与えてくれます。また、場所等が明示、特定されていないか、実在しない場合も、該当の場所等又はモデルとなっている場所等を探索、推理する面白さもあります。このいながら旅が扱う作品としてぴったりで、スパイ物独特の舞台展開により世界各地を駆け巡ることができるでしょう。

この旅のガイドブック

 今回の旅のガイドブックは、2000年(日本では2005年)に刊行された『報復という名の芸術』です。同作は、美術修復師であると同時にイスラエル諜報機関の元暗殺工作員のガブリエル・アロンを主人公とするシリーズの1作目(原題『The Kill Artist』)。”神の怒り作戦” に対する報復の手が妻子に及び、隠棲生活を送っていたガブリエル。時を経て起きたテロの犯人が彼から家族を奪った怨敵であることが判明し、再び復讐の現場に。ウィーンを皮切りに、イギリス(ロンドン、コーンウォール)、フランス(パリ、ヴァルボンヌ)、イスラエル(テルアビブ、エルサレムほか)、チューリッヒ、アムステルダム、リスボン、モントリオール、アメリカ(ワシントンDC、ニューヨーク)などを巡ります。主人公が美術修復師であることから各時代の名画も多く登場し、また、登場人物たちが乗る車の車種にも拘りが見られ、鉄道や航空についても詳しく見ていきたいと思います。

 本書は、翻訳者山本光伸自身も著述し、ネット上でも指摘されているとおり誤訳が多く、地名等のカナ表記も一般的なものと違ったりして、場所等を特定するのにKindleで原文を確認してからGoogleMapで検索する必要がありました。このサイトでは、必要に応じて誤訳と思われる点も指摘し、カナ表記も適宜一般的なものに修正等して記載しています。

 なお、本書は、既に販売を終了しており、新品を購入することはできず、中古品か洋書でしか入手できません。これからお読みになりたい方は、図書館を利用するかkindle版(英語版)を翻訳して読んでみてください。このいながら旅が訳読のビジュアルガイドになれば幸いです。


プロローグ

ウィーン ___ 1991年1月

 最初に登場する舞台は、主人公ガブリエル・アロンが美術修復師としての仕事をしているシュテファン大聖堂です。ウィーンの中心部シュテファンプラッツにある、オーストリアで最も重要な教会の一つです。「シュテッフル」の愛称で呼ばれるウィーンのシンボルであり、ウィーン観光必見の歴史的名所。教会の歴史は1137年の建設開始まで遡り、1147年に最初のロマネスク様式の教会が奉献されましたが、1359年からハプスブルク家ルドルフ4世によりゴシック様式の大聖堂に建て替えられ、完成まで300年の歳月を要しました。大聖堂には、2013年2019年の2回訪れたことがあり、外壁の洗浄が進んで砂岩本来の色に戻ってきたのが見て取れましたが、小説のプロローグの1991年当時は煤と排ガスで黒くなった外観だったと思われます。物語を辿って中に入る前に少しサイドトリップしましょう。

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 屋根のモザイクも見どころの一つで、写真は、東側の南側面にある、皇帝フランツ1世のモノグラム(中央)を付けた、双頭の鷲(オーストリア帝国の紋章)で、「1831」の数字は屋根が葺き替えられた年のようです。

(2013年の旅行時の写真)

 1433年に完成した南塔(シュテファンシュトゥルム)は、高さが136.44mで、ドイツのウルム大聖堂(161m),ケルン大聖堂(157m)に次いで、教会の塔として世界第3位の高さです。約72mの展望台に343段の階段で昇ることができます(入口は建物外、南東側にあります。毎日9時~17時30分(最終入場は閉館の15分前)、入場料5.5€)。第二次トルコ軍ウィーン包囲戦の際に放棄された大砲から鋳造された鐘(古いプリメン)が1711年から吊り下げられていましたが、第二次世界大戦による1945年の火災の際に落下して砕けてしまいました。

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 一方、北塔(アドラートゥルム)は、財政難や宗教改革による混乱のため1511年に建設が中止され、トルコの脅威が迫っていたため再開されることなく、未完成のまま1578年にドームだけが追加されました。高さは68.3mで、エレベーターで昇ることができます(毎日9時~20時30分(最終入場は閉館の15分前)、入場料6€)。寄り道して昇ってみましょう。

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 砕けた古いプリメンの破片などを集めて鋳造した新しいプリメンが1957年以来吊るされています。直径3.14m、重量20,130kgのオーストリア最大、ヨーロッパで3番目に大きな鐘で、元旦やクリスマスイブなど特別の日にだけ鳴らされます。

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 展望台からは、プラーター公園の大観覧車「リーゼンラート」のほか、ヴォティーフ教会の尖塔やシュピッテラウ焼却場のタワーなど、北側を遠くまで見渡すことができます。

2019年の旅行時の写真

 北側面の屋根のモザイクも近くから見ることができます。西側ファサードの塔の向こうに見えるのは、ペーター教会のドームです。

2019年の旅行時の写真

 写真は、東側の屋根にある、ウィーン市の紋章とオーストリア共和国の紋章。その下の「1950」の数字は、第二次世界大戦による破壊後に屋根を葺き替えた年を指しています。

2019年の旅行時の写真

 では、地上に戻って身廊内部に入ってみましょう。入口は自由に入れますが、身廊中央部は有料で、左側のチケットカウンターから入ります(9時~11時30分(月~土)、13時~16時30分(毎日)、拝観料6€)。

(原典:www.stephanskirche.at

 アントン・ピルグラムの説教壇。ブライデンブルンの石灰岩で作られた後期ゴシック様式の傑作で、柱の下ののぞき窓から身を乗り出しているのは作者本人です。

2019年の旅行時の写真

 高さ37.5m、全長107.2m、幅34.2mの身廊。モーツァルトの結婚式と葬式が行われた教会としても知られており、1991年はモーツァルトの没後200年記念の年に当たり、命日である12月5日にはこの聖堂で典礼ミサが行われ、ゲオルグ・ショルティがウィーン・フィルとモーツァルトのレクイエムを演奏しました。

2019年の旅行時の写真

 主祭壇の右側には、赤大理石によるフリードリヒ3世の墓フリードリヒ3世は、ハプスブルク家で正式に戴冠した初の神聖ローマ皇帝。凡庸な君主とされ、オスマン帝国に対抗できず、ウィーンから追放されたりしましたが、長命を保って53年もの間帝位を占有し続け、ハプスブルク家の帝位世襲を成し遂げました。

2019年の旅行時の写真

 主祭壇の左側には、ヴィーナー・ノイシュタットの祭壇。1447年にウィーンの南60km程にあるヴィーナー・ノイシュタットのベルンハルトシトー修道会のために作られた五連祭壇です。フリードリヒ3世が寄進したものとされ、オーストリアで現存する二重扉の両開き祭壇では最も古いものの一つです。

2019年の旅行時の写真

 1647年に奉献された、建築家ヨハン・ヤコブ・ポックと彼の弟で画家のトビアス・ポックによる主祭壇。トビアスによる主祭壇画には、守護聖人であり、キリスト教における最初の殉教者の聖シュテファン(ステファノ)が石打ちの刑によって殉教する場面が描かれています。

2019年の旅行時の写真

 作中、ガブリエルは、夕闇に目が慣れるのを待ち、絵画のステファノの脚にある矢で負った傷のちょうど下の極小さな一画を入念に調べ、細心の注意を払って損傷を直します。特殊な器材を使わなければそれとわからないまでに精緻に。

2019年の旅行時の写真からトリミング)

 そして、話しかけてきた魅力的なドイツ人女性の誘いを断って、聖堂の入口を通り抜け、シュテファンスプラッツ(シュテファンスプラッツ駅と誤訳されています)を横切りました。ロマネスク様式の西側ファサードの中央にある入口は、かつて北塔の基礎の発掘調査中に見つかった、教会建築に貢献した巨人の遺骨と伝えられる巨大な大腿骨(実際は86cmのマンモスの骨とのことです)がこの門の上に吊り下げられていたことなどに由来して、巨人の門(リーゼントール)と呼ばれています。また、その上にそびえる2つの塔は、異教の塔(ハイデントゥルム)と呼ばれ(由来は諸説あります)、高さは、左(北)側が66.3m、右(南)側が65.3mとなっています。

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 華やかな店やカフェが軒を連ねるローテントゥルム・シュトラーセを進み、ショーウィンドウに立ち止まったり、屋台で食べもしないケーゼヴルストを買ったり、電話ボックスで電話をかけるふりをしたりして、ユーデンプラッツ周辺のユダヤ人街にある小さなイタリアレストランを目指しました

Google マップ

 作中、ユダヤ人街が〈バミューダ・トライアングル〉と呼ばれているとされていますが、ウィーンの「魔の三角地帯」は、ルプレヒト教会周辺の夜の繁華街のことで、ユーデン・プラッツがある場所からは外れています。ルプレヒト教会は、かつてのローマ軍駐屯地ヴィンドボナの跡地に、740年に設立された、ウィーンに現存する最古の教会とされています。

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 かつてウィーンにいたユダヤ人は、宮廷ユダヤ人と呼ばれた特権階級のユダヤ人とそれ以外のユダヤ人に分けられ、ユーデン・プラッツ周辺は、主に前者のユダヤ人が居住していたようです。広場には、ホロコースト記念碑レッシング記念碑が立っています。

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 ガブリエルが妻子と待ち合わせたレストランは、ユーデン・プラッツ周辺の衣料品店やレストラン、ナイトクラブが連なる通りにあり、店のすぐ前に車を停めていたとのことから、クルレントガッセにあるOsteria Mangia e Ridi〉ではないでしょうか。息子はバター風味のスパゲッティを食べていました。

(左上から、Tripadvisorlh3.googleusercontent.com/①

 食事の後、ガブリエルは、妻子と別れて大聖堂の方角に戻ろうとしますが、背後から聞こえるエンジン音に違和感を覚え、身を翻して「やめろ」と叫びます。

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 車に仕掛けられた爆弾によって、息子のダニを亡くし、妻のリーアも命はとりとめたものの、大火傷を負います。


第1部 獲  得

1 ポート・ナヴァス、コーンウォール ___ 現在

 息子を爆破テロにより亡くしたガブリエルが隠遁生活を送ったのは、イギリスはコーンウォールのポート・ナヴァス、ヘルフォード・リバーが流れ込む入江にある、牡蠣養殖場からすぐの昔の親方のコテージでした。実際、該当の場所にはコーンウォール公領オイスターファームとして運営されていた牡蠣養殖場がありましたが、2017年に廃業となっています。これかなと思われるコテージも改装されたのか古くはありませんが、写真中央の2階建ての建物がモデルではないでしょうか。

helfordrivercruises.co.uk

 ティモシー・ピールは、遮るものなく入り江が見渡せる(おそらく写真のような感じ)自分の寝室の窓から、”よそ者”ことガブリエルの様子を監視するようになります。

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 そして、コテージに忍び込んだところをガブリエルに見咎められたことをきっかけに、彼と親しくなっていきます。


2 パ リ

 後にイスラエル大使を狙った爆破テロ事件に巻き込まれる、エミリー・パーカーが、ソルボンヌ大学のヨルダン出身学生レイラ・カリファと知り合ったのが、コルトー通り12番地にあるモンマルトル博物館。モンマルトルの丘で最も古いベレール邸やドゥマルヌ邸の敷地に1960年に設立された博物館で、ルノワールデュフィヴァラドンなどがアトリエを構え、ルノワールが描いた絵画に基づいて設計された「ルノワールの庭」やユトリロのアトリエを観ることができます。開館時間や拝観料については、こちらのサイトを参照してください。

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 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの《ディヴァン・ジャポネ》やテオフィル・アレクサンドル・スタンランの《シャ・ノワール》、アンドレ・ジルの《オ・ラパン・アジル》、ジュール・シェレの《ムーラン・ルージュ》など、ポスター・看板も見どころです。

(左から、Wikimedia Commons/①

 エミリーは、レイラに紹介されて恋に落ちたルネに会うため、モンマルトルのくねくねとした細い通りをノルヴァン通りへ、待ち合わせのビストロに向かいます。そのビストロは、深紅色のテントの目印から、テルトル広場の北側にある〈La Mère Catherine〉ではないでしょうか。

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 同じ日、イスラエルのゼヴ・エリヤフ大使は、冷え切っていたフランスとの関係修復のため、同国外務大臣と非公式に顔を合わせる機会を持とうと、オルセー美術館の中央通路で開かれたレセプションに出席します。同美術館は、1900年のパリ万博に合わせて建設されたオルレアン鉄道のオルセー駅の駅舎兼ホテルを、イタリアの建築家ガエ・アウレンティが改修して1986年に開館。印象派のモネ、ルノワール、ゴッホなどの作品が見どころです。

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 ルネが夕食後にエミリーにサプライズプレセントとしてブレスレットを渡し、そして、イスラエル大使に爆破テロを仕掛けた場所が、アレクサンドル3世橋。仲間が橋の上で衝突事故を装って車の流れを止め、渋滞に巻き込まれた大使のリムジンの下にルネがバックパックを投げ込んで爆発させ、更に乗っていた者を銃撃して皆殺しにします。

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 この橋は、フランス大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた仏露同盟の象徴として、ロシア皇帝ニコライ2世によってパリ万博に合わせて建設されパリ市に寄贈されたもので、アンヴァリッドグラン・パレプティ・パレの間を結ぶ、単一のアーチ橋です。4隅の高さ17mの柱の上には、芸術、農業、闘争、戦争を象徴する女神像が立っています。

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 ルネは、殺戮現場からエミリーのところに戻り、彼女をサブマシンガンで銃撃します。彼女は撃たれた衝撃で欄干から投げ出され、セーヌの川面に叩きつけられます。


3 ティベリア、イスラエル

 この小説では、イスラエル諜報機関(通称モサド)のことを〈オフィス〉と呼んでいます。〈オフィス〉の長だったアリ・シャムロンは、ティベリアで引退生活を送っていましたが、アンマンの過激派のイスラム教聖職者に対する暗殺失敗などによりダメージを受けた組織の立て直しを図るため、〈オフィス〉に復帰していました。ティベリアは、ガリラヤ湖の西岸に位置するイスラエルの都市で、紀元19年にローマ皇帝ティベリウスを記念して, ヘロデ・アンティパスによって建設された、ユダヤ教4聖地の一つ

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 パリ事件の発生により、シャムロンは、テルアビブの北部に位置するキング・サウル通りの〈オフィス〉の最上階の執務室に入ります。テレビに映し出される目撃証言から事件の状況を把握し、パリ支局長ウージ・ナヴァトに電話して、エミリー・パーカーの身辺を調査し、この件の陰にタリクがいる可能性を調査するよう指示します。写真の中央に走るその通りは、GoogleMap上、「Sderot Sha’ul HaMelech」と表記されています。ダニエル・シルヴァの『英国のスパイ』の著者ノートによれば、現在〈オフィス〉の本部はここからよそへ移ったとのことです。

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 シャムロンは、イスラエル首相の公邸を訪ねます。「ベイト・アギオン」と呼ばれ、現在はエルサレムのリハビア地区のバルフォア通りとスモレンスキン通りが交差する南東角にあります。彼は、パリ事件へのタリクの関与を示唆し、その抹殺の許可を求めた上、ガブリエル・アロンを探し出してこの件を任せたいと話します。

www.timesofisrael.com

 首相は、どんな痕跡も残らぬように事を進めるよう指示します。


4 サモス島、ギリシャ

 タリクは、パリでの襲撃後、ヨーロッパを南東に向かい、トルコのクシャダスからフェリーでギリシャのサモス島に渡りました。スクーターを走らせて、メソギオン村ピルゴス村の間にあるごつごつした丘の中腹に突き出した岩の上に建つ白漆喰の別荘に向かいます。サモス島は、哲学者エピクロスや数学者ピタゴラスの生まれた島としても知られ、1992年に登録された世界遺産「サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿があります。

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 タリクは、3日後にスイスとプラハを結ぶ列車の1等客車で会いたいというケメル・アズーリからのメッセージとチケットを受け取り、ケメルの使者アクメッドを射殺します。


5 テルアビブ

 ウージ・ナヴォトは、パリ発テルアビブ行きのエルアル航空に搭乗し、オルセー美術館から盗み出したビデオテープのコピーをシャムロンに届けました。しかし、シャムロンから返ってきたのは、皿に盛った食べ物はタンドリー・チキンだという一言だけでした。現在、シャルル・ド・ゴール空港からベン・グリオン空港までの飛行時間は4時間25分、機材はB737又はB777、B787-9(写真。シャルル・ド・ゴール空港)が使用されています。

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 意気消沈したナヴァトが沿岸道路を車を飛ばして訪ねたのは、カイサリアにいる元恋人ベラのところでした。カイサリアは、テルアビブとハイファの中間に位置し、ヘロデ大王によって紀元前25~13年頃に主要な港として建設された古代都市カイサリア・マリティマに由来する、イスラエルの観光名所です。

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 オルセー美術館の給仕がタリクの部隊に所属していたモハメド・アジズであったことや襲撃現場にタリクの指紋が残されていたことがわかり、シャムロンは、ルドルフ・ヘラー名義のタグの付いたガーメントバックを持ち出し、隠密行動の旅に出ます。


6 チューリッヒ

 タリクが率いるテロ組織の作戦立案と物資の管理保全に関する責任者を務めていたケメル・アズーリは、表向きはヨーロッパ最大の製薬会社シュロース・ファーマシューティカルズの中東販売部門の責任者でした。シュロースの本社は、チューリッヒ湖にほど近い、バーンホフ通りにありました。同通りのパレーデプラッツから南には銀行など荘厳な石造りの建物が立ち並んでいます。

Google マップ

 バーンホフ通りは、湖から中央駅に向かう約1.4Kmのメインストリート。ケメルは、途中銀行で現金を引き出し、この通りのきらびやかな店々の前を歩いて駅に向かいました

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 チューリヒ中央駅は、スイス最大の規模を誇る頭端式のターミナル駅。入口には美しい凱旋アーチがあり、正面にはスイス鉄道の父と言われるアルフレッド・エッシャーの像が立っています。

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 ケメルが尾行をチェックするために立ち止まりながら横切った正面ホール。ニキ・ド・サンファルによる金の羽根を持つカラフルな彫刻《守護天使》が吊り下げられています。

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 ケメルがタリクとの待ち合わせに使った、チューリッヒとプラハを結ぶ列車は、シティ・ナイト・ライン(CNL458/459)ではないでしょうか。ただ、この路線は2016年12月で廃止となっており、現在は、ナイトジェット(EN50467/50466)として運行しています。

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 客室で仕事をしているケメルの前にヤンキー男に姿を変えたタリクが現れます。ケメルは、アムステルダムにおける計画の進捗を知らせるとともに、シャムロンがパリの襲撃にタリクが関与していることに気づき、ガブリエルにタリク殺害を命じようとしていると告げます。


7 セントジェームズ、ロンドン

 シャムロンは、セントジェームズのメイソンズ・ヤードにある画廊〈イシャーウッド・ファイン・アーツ〉に経営者のジュリアン・イシャーウッドを訪ねます。実際メイソンズ・ヤードにその名の画廊はなく、”小さな輸送会社とパブに挟まれたヴィクトリア朝風の倉庫の建物”らしきものもありませんが、同じくダニエル・シルヴァの『亡者のゲーム』(第1節)に書かれている”石畳の中庭の端”(袋小路の北東角)には、小説と同じく1階の看板に”過去の巨匠たちの逸品を扱う”と記された画廊〈Matthiesen Gallery〉があり、斜め横にはナイトクラブがあります。

Google マップ

 シャムロンは、デューク・ストリートにあるレストラン〈グリーンズ〉にイシャーウッドを誘い、ガブリエルの居場所を尋ねます。その通りには、以前〈Green’s Restaurant & Oyster Bar〉というお店がありましたが、現在は閉業となっています。

sleepeatenjoy.com他の写真

 イシャーウッドは、オークションで手に入れた作者不詳の《羊飼い礼賛》という16世紀の宗教画が、実はヴェネツィアのサン・サルバトーレ教会から失われたフランチェスコ・ヴェチェッリオの作品であったことがわかったと言って、その絵を売りに出すために現在ガブリエルに修復してもらっている最中であり、彼の居場所を教えるわけにはいかないと断ります。ヴェチェッリオには、実際に《羊飼いたちの崇拝》という作品(ヒューストン美術館所蔵)があります。

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 シャムロンは、諦めず、イシャーウッドに、ヴェチェッリオが売れるまでの支援者を紹介するからガブリエルの居場所を教えるようにと食い下がります。


8 ポート・ナヴァス、コーンウォール

 コーンウォールのコテージを訪ねたシャムロンは、ガブリエルをドライブに誘います。ガブリエルは、リザードの町を抜け、灯台の傍で車を停めます。イギリス本土の最南端にある現在のリザード灯台は、1751年に建てられたもので、塔の高さは19m。1998年に無人自動化され、2009年にはヘリテージセンターが併設されています。

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 二人は崖の下に通じる小道(サウス・ウエスト・コースト・パス)を進み、崖の先にある小さなカフェに入ります。「イギリス最南端のカフェ」を看板に掲げる〈Polpeor Cafe〉でしょう。シャムロンは、ガブリエルに、タリクを倒せば、リーアとダニの事件のことを吹っ切って、自分の人生をやり直せるかもしれないと話し、作戦への協力を依頼します。

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 崖下の小さな灰色の砂浜にあるという水難救助員の詰め所跡というのはOld Lifeboat Stationのことでしょう。1859年に最初の救命艇基地が設置され、写真の建物(3代目)が1914年に完成しましたが、より大型でより高速な救命艇を採用する必要が生じたため、1961年に閉鎖されています。

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 ボルペオール洞窟は、詰め所跡の西側にあります。

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 リザード・ポイントの全景。二人は浜辺でシャムロンが復帰した理由や〈オフィス〉の作戦本部長レヴのこと、タリクへと導いてくれる人物のことなどを話しました。

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 ガブリエルのコテージから見える入江の朝の景色。彼は、プッチーニの『ラ・ボエーム』を聴き、ヴェチェッリオの修復作業に集中しながらも、「パリで大使夫妻を殺したのはタリクだ」、「タリクが私の同胞の血でセーヌ河を赤く染めた」、「タリクを殺すのに手を貸せば、ウィーンで起こったことから自分を許せるかもしれないだろう」と言ったシャムロンの言葉が頭を離れません。

Google マップ

 ガブリエルは村の公衆電話からシャムロンに電話をかけて彼の申出を受けます。そのときシャムロンが宿泊していたのが、ロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターのストランド通りにある、1889年創業の5つ星ホテルサヴォイ・ホテル〉でした。

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 ガブリエルは、意を決したようにこれまで見せたことがないような厳しい表情をピールに見せた後、年代物のMG製ロードスターでコテージを後にします。手を上げる少年にヘッドライトを一度ウィンクして

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 MGはイギリスのスポーツカーのブランドで、ロードスターは1980年に製造を終了した2ドア・オープンカーの代名詞存在です。


9 ホルボーン、ロンドン

 シャムロンが今回の作戦の資金援助を依頼しに訪れたのは、ロンドンのホルボーンのニュー・スクエアにある、国際的出版複合企業ルッキング・グラス・コミュニケーションのオーナー、ベンジャミン・ストーンのところでした。王立裁判所に隣接している場所柄、中庭のような広場をコの字型に囲む建物には、法律事務所が多いようです。ストーンから50万ドルの援助を取り付けたものの、イシャーウッドへのつなぎ融資は断られます。また、ルッキング・グラスの経営不振も懸念材料となりました。

Google マップ

 翌朝、シャムロンとガブリエルが落ち合ったのは、ロンドン北部にある320haの公園、ハムステッド・ヒース。ブナの木々が両脇に並ぶ歩道を歩いて、作戦の資金が確保できたことや連絡手段について話しました。

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 ガブリエルは、シャムロンにできるだけ早く英国を発つように言い置いて、足早にその場を後にします。


10 セントジェームズ、ロンドン

 オリバー・ディンブルビーの買収の申出に憤慨したイシャーウッドは、ガブリエルの動向を確かめるため、ビカデリーからタクシーに乗り、グレート・ラッセル・ストリートにある〈L・コーネリッセン&サン美術画材店〉を訪ねました。ガブリエルは、毎月の材料発送をキャンセルしていました。

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 翌朝、イシャーウッドは、5時間かけて、ブリストルからイギリス海峡に沿って南へデヴォンを走り抜けて、ガブリエルのコテージに向かいました。ブリストルは、イギリス西部、ロンドンから169kmの港湾都市で、街中を横切るエイボン川に沿って、色とりどりの建物が続く街並みが有名です。なお、写真中央の奥に見える塔は、イタリアの探検家で北米大陸の発見者ジョン・カボットがイングランド王ヘンリー7世の委託を受けて1497年にブリストルを出航して400周年となるのを記念して建てられた(1898年完成)カボット塔です。

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 写真は、ブリストルで最も有名な建造物の一つ、エイボン川に架るクリフトン吊り橋イザムバード・キングダム・ブルネルの設計により1831~64年に建設された、全長412m、幅9.4m、水面からの高さ75mの鉄製の吊り橋です。Googleマップ上の経路にはなっていませんが、イシャーウッドも車から遠くに見えたかもしれません。ガブリエルはコラージにはおらず、シャムロンと思われる男が訪ねてきた後、行方がわからなくなっていました。

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 一方、翌日夜遅くにテルアビブに到着したシャムロンは、エルサレムの首相官邸で最新情報を報告し、ストーンが破産した場合に面倒の種になるとの懸念を示しました。作中のロッド空港というのは、ベン・グリオン国際空港の旧称です。

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 首相は、ストーンのことはシャムロンの問題であり、適切に処理するように命じました。


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 今回の投稿での旅はここまでです。次回、第2部からいながら旅を続けます。

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