第1部フィレンツェ編の続き、第20節からいながら旅を続けます。アテネ公の秘密の通路を使って、無事ヴェッキオ宮殿から脱出したラングドンとシエナは、イニャツィオが残した「天国の25」という言葉を手掛かりに、フィレンツェ市街へダンテのデスマスク探索の旅に出ます。
第1部 フィレンツェ(続き)
20 ニンナ通り ~ ダンテの家
アテネ公の扉を出たラングドン達は、ニンナ通りを東へ進み、レオーニ通りを北に向かいました。交差点の南東角に建っているのは、コジモ2世の命により1619年にジュリオ・パリージによって造られたグラーノのロッジアです。アーチの上にあるのが、コジモ2世の胸像です。2018年旅行時は、革製品や衣料のマーケットで、改修のための囲いが設置されていましたが、今回は、きれいに改修され、カフェバ―になっていました。
角の柱にあるのは、マスケローネの噴水です。
レオーニ通りを少し進んだところにある広場は、プロローグにゾブリストが通り抜けたサン・フィレンツェ広場で、右側には、バルジェッロ国立博物館のいかめしい石造りのファサードが見えます。2018年旅行時に訪問しましたが、ドナッテロのマルゾッコのオリジナルやダヴィデ像、後に紹介する洗礼堂の扉制作のコンペの出品作品《イサクの犠牲》などを見ることができます。
左側には、建物群の向こうに、ゾブリストが身を投げたバディア・フィオレンティーナ教会の先細の尖塔が突き出ています。
教会前を過ぎてプロコンソロ通りからダンテ・アリギエーリ通りへ左折すると、サンタ・マルゲリータ通りの路地を入ったところに、ダンテの家(博物館)が見えてきます。左側の建物は、1911年にダンテが生まれた当時の建物を模して建てられたもので、ダンテの生家ではありません。本当の生家はここから少し西側にあったようです。
作中(中巻95頁)にあるとおり、石造りのファサードには(博物館の入口を示す)大きな旗が掲げられています。2018年旅行時は、右側の塔状の建物(2階)から博物館にも入館しました。
ラングドンが目指した土産物店は1階にあり、参考図書①300頁によれば、14,000行に及ぶ『神曲』の全文を極小文字で印刷したポスターも当時は売っていたようです。私は、先に紹介した、ミケリーノの絵の絵葉書を買いました。
安息日(月曜日)のため開いておらず、ラングドンは、ダンテの愛読者が集まる教会を目指して、通りを北へ向かいます(1分程です)。
21 ダンテの教会
サンタ・マルゲリータ・デイ・チェルキ教会は、サンタ・マルゲリータ通りの狭い路地に面して、1032年に建てられた、切妻造りのファサードを有するブロック積みの小さな教会です。その名は、アンティオキアのマルゲリータに捧げられ、フィレンツェの名家チェルキ家が主な後援者となったことに由来しています。
入口の看板にも掲示されているとおり「ダンテの教会」として知られており、作中(中巻103頁)、ダンテが9歳のとき生涯恋い焦がれるベアトリーチェに出会い、妻ジェンマともここで結婚したと紹介しています。
2018年訪問時は閉館していましたが、今回は平日午前中に訪問して入ることができました(入場無料)。ラングドンが中に入ったときは、音楽が流れ、一風変わった芸術作品が展示されていたようですが(中巻106頁)、今回訪問時はそのようなものはなく、狭い身廊に多くのツアー客が立ってガイドを聞いていました。
この教会にベアトリーチェ・ポルティナリが埋葬されているとされ(異論もあります)、ラングドンが見た簡素な墓は、身廊左の床にあり、彼女への祈りの手紙を入れる枝編み細工の籠は、台の上に置かれていました。小説(中巻107頁)によれば、相手にもっと愛されたり、真実の恋が見つかったり、死んだ恋人を忘れる強さを身に付けたりする御利益があるようです。
身廊右側の床には、ポルティナリ家の乳母で看護師のモンナ・テッサが埋葬されています。
ラングドンは、老婦人からiPhoneを借りて、ダンテの『神曲』天国篇第25歌を検索し、「わたしの洗礼盤の前で・・・」との文句から、ダンテが洗礼を受けた、八角形の建物を思い浮かべます。そして、開かれている門とは、「天国の門」だとわかるのです。
22 ストゥディオーロ通り ~ ドゥオーモ広場
ラングドン達は、教会を出てストゥーディオ通りを北へ向かいました。途中、サンタ・マルゲリータ通りからコルソ通りへの出口には、こんなタベルナコロがあります。
同通りの中程には、「地球の歩き方」にも掲載されている、創業1860年の老舗スーパー〈Pegna dal 1860〉があります。お菓子等のおみやげ品購入に便利です。
お店の向かいには、花が供えられた可愛いタベルナコロがありました。
ラングドン達は、ドゥオーモ広場の南側に出ました。東側の建物の中央の柱には、「Sasso di Dante(ダンテの石)」と彫られた銘板があります。ダンテがこの場所でドォーモの建設工事を見ながら工事に使われる大理石に腰掛けて瞑想にふけっていたとされ、彼の記憶力と頭の回転の良さを示す逸話も残っています(参考図書⑦)。現在、このダンテの石は、近くにあるその名も〈Il Sasso di Dante〉というレストランの前に置かれているとか。
ラングドンは、まばゆい緑とピンクと白の大理石でできた大聖堂の側面を見て、その芸術性と大きさに息を呑みます(身廊の長さは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次いで世界3番目です)。その彩りに反して、建物の造りは古めかしく、堅固であり、最初は俗悪に感じたラングドンですが、何度か訪れて見ているうちに、その特異な美的効果に心惹かれ、華麗な美しさを賞賛するようになったとしています(中巻118頁)。
ドーム建設をめぐる熾烈な競争というのは、フィリッポ・ブルネレスキとロレンツォ・ギベルティの対決のことで、ふたりは後に紹介する洗礼堂の扉制作でも争い(1401年)、そのときはギベルティが勝ちましたが、ドーム建設ではブルネレスキの斬新なアイデアが採用され、1434年に当時としては世界最大のドームを完成させます。作中(中巻119頁)に登場するブルネレスキの彫像(ルイージ・パンパローニの作品)は、広場の南側のカノニチ宮の正面柱廊(右側)の壁龕にあります。
因みに、柱廊左側の壁龕には、1296年に大聖堂を設計・着工したアルノルフォ・ディ・カンビオの彫像(作者は同じ)があります。
赤いタイル張りのドームを見上げたラングドンは、閉所への恐怖という試練に耐えながらドームに登ったときのことも思い出します。現在、大聖堂関連施設(大聖堂本体は入場無料。①サンタ・レパラタ教会、②付属美術館、③洗礼堂、④ジョットの鐘楼、⑤ドーム)に入場するには、①~⑤に入場できるブルネレスキ・パス(30€)、①~④に入場できるジョット・パス(20€)及び①~③に入場できるギベルティ・パス(15€)という3種類のチケットが販売されています。 なお、ラングドンがドームに登ったことをきっかけとして読んだロス・キングの傑作ノンフィクションというのは、『天才建築家ブルネレスキ フィレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか』です。
大聖堂の建築に感嘆するあまり足を止めていたラングドンですが、シエナに呼ばれて、再び広場の外周に沿って進みました。
23 ジョットの鐘楼
二人の目の前にそびえていたのは、大聖堂の敷地にある3つの建築物のうちの2番目にして、ラングドンが地震や悪天候に耐えて何世紀もの間直立し続けていることに驚きを覚えたという、ジョットの鐘楼です。
大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られた、一辺14.45mの正方形の底面、高さ84.7mのゴシック様式の鐘楼です。鐘楼にその名が付いているジョット・ディ・ボンドーネは、先に「西洋絵画の父」と紹介した人で、大聖堂の造営主任に任命されたものの、本体には手を付けず、鐘楼の設計・建設に専念して、1334年に着工しますが、基底部(第1層)まで建築が済んだ1337年に彼は亡くなってしまいます。以後は弟子のアンドレア・ピサーノ(第2層)とフランチェスコ・タレンティ(第3~5層)が引き継いで、鐘楼は1359年に完成しました。
第1層には、科学や天体観測などをテーマにしたユニークなレリーフを見つけることができます。
頂上の見晴台には、414段の階段で上ることができます。物語では素通りしますが、フィレンツェ観光の目玉の一つですので、是非登ってみてください。写真は、ドームの展望台からの鐘楼です。
見晴台からは、旧市街を360度見渡せます。私は、2010年と2018年の2回登ったことがありますが、特にここから眺めた大聖堂は圧巻で、私のお気に入りの景色の一つです。
二人が大聖堂の真正面の開けた場所に出ると、多くの観光客が大聖堂の色彩に富んだファサードにカメラを向けていました。
ランブドンは、ほとんどファサードには目を向けず、その真向かいにある、3番目にして最後の建築物に視線を据えていました。この旅でも、ドゥオーモは後でしっかり紹介することにして、先に進みましょう。
24 サン・ジョヴァンニ洗礼堂
ラングドンが一番のお気に入りとしている、サン・ジョヴァンニ洗礼堂は、3つの建築物の中で最も古く、5世紀に建てられた守護聖人サン・ジョヴァンニ(洗礼者ヨハネ)に捧げる教会が起源です。この場所には、ローマ時代には軍神マルスの神殿があったと言われています。現在の建物は、1059年に教皇ニコライ2世によって奉献されたロマネスク様式のもので、サンタ・レパラタ聖堂の建立に伴い、1128年から洗礼堂として使われるようになりました。
作中(中巻121頁)には、大聖堂やジョットの鐘楼と同じく三色の石(と横縞の片蓋柱)で外壁を飾られていると訳されていますが、原文には、ジョットの鐘楼の文字はなく、かつ、同じく多色の石でとあり、実際は白と緑の2色だけの大理石が用いられています。3つの建築物を(サン・ジョヴァンニ広場の北西角から撮影して)ワンフレームに収めたこの写真で違いがわかると思います。
こちらも別角度(サン・ジョヴァンニ広場の南西角)からワンフレームで撮影しています。ラングドンは、他の2つの建物との大きな違いである八角形のデザインは、キリスト教における再生と再創造(永遠の命)が実現される「8日目」を目に見える形で表しているものだとしています。
小説では、外観の次に、「天国の門」と呼ばれる扉に触れています。洗礼堂には、北・南・東の三方に青銅製の扉が設けられており(現在オリジナルの扉はいずれも付属美術館にあります)、そのうち洗礼堂の出口として機能している南扉が最も古く、アンドレア・ピサーノが1329〜36年に制作したもので、洗礼者ヨハネの生涯とキリスト教における「徳」の姿をテーマにした28枚のパネルで構成されています。完成当初は東側にあり、後にギベルティの第1の扉によって置き換えられたと言われていますが、サイズが違うことから異論もあるようです。
洗礼堂の入口として使われているのが北扉で、フィレンツェの美術工芸のギルドが開いた洗礼堂2番目の扉の制作者を選ぶ1401年のコンペでブルネレスキに勝利したギベルティが1403〜24年に制作したもので、新約聖書の物語をテーマにした28枚のパネルで構成されています。写真は、2018年旅行時に付属美術館で撮影したオリジナルです。
そして、こちらがギベルティが1425〜52年に制作し、ミケランジェロに「天国の門」と賞賛された東側の扉です。その出来栄えの良さに、それまで東側に設置されていたギベルティの第1の扉を北側に移動させて、大聖堂正面の東側に設置したと言われています。
金箔を施した縦横80cmの10枚のパネルは、旧約聖書の物語をテーマにしていますが、作中(中巻124頁)、人気投票で1位に選ばれているとしているのが、左列中央(3番目)の「ヤコブとエサウ」のパネルです。見たところギベルティの署名は確認することはできませんが。
1966年の洪水で損傷を受けたことから、1990年に日本の企業の寄附でコピーに置き替えられ、こちらのオリジナルは、修復の後、2012年から付属美術館で展示されています。また、作中(中巻125頁)には、もう一つのギベルティの扉の偽物として、サンフランシスコのグレース大聖堂の扉も紹介されています。
作中(中巻127頁)にある、先端が太陽の紅炎のようにくねりながら尖って、金色に塗られているという、住宅用の柵とあまり変わらない、黒い錬鉄製の防護柵と、柵に取り付けられている小さな案内板はこちらです。ただ、現在の案内板には、イタリア語と英語で、天国の門は1990年にコピーが作成され、オリジナルはドゥオーモ付属美術館にあることだけが書かれているようです。改めての発見もありました。
小説では、シエナが誰かが飛び降りようとしていると叫んで広場の人々の注意を鐘楼の頂に向けさせ、そのすきに錬鉄製の柵を押し開け、イニャツォが開けてくれていた天国の門の扉を開いて中に入りました。映画では、改修工事の囲いを引き開けて同じ扉から入っています。
映画では、二人が入った天国の門の内側も映ります。
写真が内側から見た天国の門(東側扉)で、普段は中から横木を渡して閂が掛けられています。これをイニャツィオが開けておいてくれていたのです。
ラングドンは、洗礼堂に足を踏み入れるや自然と上を向き、神秘的な力に引かれて、天井に釘付けになります。小説(中巻132頁)によれば、天井は、琥珀を思わせる艶やかな金色で、モザイクの百万個を超えるズマルトの輝きが不規則に反射し、それが6つの同心円を作るように配され、聖書の様々な場面が描かれており、また、頂の円窓から自然光が差し、壁の高い位置にある小さな窓からも鮮やかな光線が伸びて、刻々と角度を変えながら建物を支える梁さながらに揺るぎなく見えたと表現されています。天井のモザイク画は、チマブーエ、コッポ・ディ・マルコヴァルド、メリオーレ・ディ・ヤコポなどが協力して、1270年頃から1300年頃に完成したと思われます。
主祭壇の真上に描かれているのが「最後の審判」の場面です。中央に巨大なイエス・キリストが描かれ、その両側に3段に分けて、一番上の段には、キリストの受難を示す道具を持つ天使が描かれ、2段目には、左側に聖母マリアを、右側に洗礼者ヨハネを、それぞれ先頭に十二使徒が続きます。3段目には、作中(中巻133頁)にあるように、左側には、罪から救われ、永遠の生という報いを受けた人々がおり、右側には、罪ある者たちが石打ちにされたり、串刺しにされて炙られたり、様々な生き物に食われたりしています。
その他の部分は、円の中心から順に、①天使の階層(聖歌隊)、②創世記の物語、③ヨセフの物語、④マリアとイエスの物語、洗礼者聖ヨハネの物語が描かれています。
拷問を監督するのは、若きダンテを震えあがらせ、地獄の最後の圏を鮮明に描かせるきっかけとなった、人間を食らう冥界の獣の姿をした巨大で角の生えた悪魔で、むさぼり食った人間の両足が口からぶら下がり、ダンテの地獄の第8の圏、悪の濠で逆さに埋められた罪人たちが脚をばたつかせている姿にそっくりだとしています。
天井のモザイク画は、2022年から大規模な修復工事が行われて、足場が組まれて幕で覆われており、現在見ることはできませんが、付属美術館のツアーに参加(65€)すると修復現場を見学することができるようです。修復中の写真も今しか撮れません。
足場の周りのボードには、今回の修復についての説明がなされていました。
モザイク画について、分解して解説するパネルも展示されていました。
主祭壇の後陣の丸天井にあるモザイクは、1225年からフランシスコ会修道士ヤコポによって制作された、洗礼堂の中で最古のモザイクで、中央には植物の要素で装飾された車輪の中に聖母と使徒と預言者に囲まれたアニュス・デイが、その両側には聖母子と洗礼者聖ヨハネが描かれています。
ラングドンは、天井から視線を下げ、2階のバルコニーと歩廊を一瞥します。
次に、ラングドンが目を留めたのが、主祭壇の右側にある、1422〜28年にドナテッロとミケロッツォによって制作された、1419年にフィレンツェで亡くなった対立教皇ヨハネス23世に捧げられた埋葬記念碑です。高い位置にある遺骸を奇術師の空中浮遊のようだと表現しています(中巻134~5頁)。
やがてラングドンの視線が辿り着いたのは、凝った装飾を施したタイル張りの床でした。作中(中巻135頁)には、中世の天文学に関係していると信じる向きも多いとしていますが、中東の織物からインスピレーションを得ているようです。
最後に、この洗礼堂に来た目的である、ダンテが洗礼を受けた場所を見つめ、シエナに指し示したのは、床の中心にそこだけ模様がなく、大きな穴を埋めた跡のような、赤茶色をした八角形の大きな敷石でした。元々の洗礼盤は八角形の大きな水槽で、ラングドンは、16世紀のどこかの時点でふさがれたと説明しています。映画では、ちょうどこの八角形が映っています。
映画のラングドンが指し示した洗礼盤はこちらです。この場所(後ろに映っているもの)を覚えておいてください。
左側に、蓋にグッチオ・デ・メディチの埋葬に利用された際に追加されたメディチ家の紋章が彫られた、イノシシの狩猟風景が描かれたローマ時代の石棺が、右側に、コジモ3世から寄贈された、ジョヴァンニ・ピアモンティーニ作の洗礼者聖ヨセフの像がある、この場所は南扉の右の壁際ですが、見ての通りこの前に洗礼盤はありません。
実際は、まさに小説のラングドンが見つけた、天国の門の右の壁近くの円柱の間のスペースに、作中(中巻136〜7頁)に表現されているとおり、飾り立てられた柵があり、大理石に彫刻を施した背の高い六角形の台座が小型の祭壇か供物台のように置かれ、外側に真珠貝のカメオを思わせる精巧な彫刻があって、直径3フィートほどの磨かれた木の天板が載った、洗礼盤が置かれています。
ラングドン達は、洗礼盤の木の蓋を傾け、中にダンテのデスマスクを見つけます。
そして、デスマスクの裏側に塗られた水溶性のジェッソをこすって、ゾブリストが残した謎の詩を見つけ、ヴェネツィアに手掛かりがあることがわかります。
追っ手を攪乱するため、飛行機でジュネーブに向かったかのような形跡を残します。
25 サンタ・マリア・ノヴェッラ駅
ラングドン達は、洗礼堂で合流した、WHO職員のジョナサン・フェリスとともに(映画ではプシャールとともにですが)、ドゥオーモ広場を離れ、ハイヤーでパンツァーニ通りを北へ、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に向かいます。途中、ウニタ・イタリアーナ広場の南にある〈グランドホテル・バリョーニ〉の前を通ります。2018年旅行時に宿泊した、屋上テラスからドゥオーモ正面が見えるホテルです。
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅は、フィレンツェ旧市街の北西、同名の聖堂の後陣の向かい側に位置する、イタリアで4番目の乗降実績を有するターミナル駅です。
小説では、イタリア国鉄を引き継いだトレニタリアの高速鉄道、”銀の矢” を意味するフレッチャルジェントで、映画では、民間鉄道のイタロ(.italo)9982便を利用して、ヴェネツィアに向かいました。所要時間は2時間15分程度です。2024年の旅行時、ヴェネツィアからフィレンツェへ逆向きですが、イタロを利用しました。
ラングドン達は、ヴェネツィアへの車内で、デスマスクに書かれた螺旋状の詩を分析し、目指すべき先は、馬の首を断ち、盲人の骨を奪った総督のいる博物館か美術館ではないかとし、サン・マルコ大聖堂が黄金色をしたムセイオンではないかと考えます。
26 タッシニャーノ空港/ペレトラ空港
陽動にかかり、ラングドン達の身柄を確保しようとシンスキー事務局長が到着したのは、フィレンツェ市内から西へ約1時間のところにある、ルッカ・タッシニャーノ空港(LCV)でした。ここは、ヘリコプターや航空クラブなどの小型機用の空港になっており、参考資料①269頁によれば、サイテーション・エクセルには滑走路が短すぎるとのことです。
映画の方は、最寄りのフィレンツェ=ペレトラ空港(FLR)がロケ地に使われました。
2024年の帰国時、シンスキー事務局長とシムズ総監が空港2階で話をする場面に使われた場所を探してみましたが、見当たりませんでした。
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第1部フィレンツェ編はここまでです。次回は、第2部ヴェネツィア編です。
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