第1部フィレンツェ編の続き、第13節からいながら旅を続けます。前回、ラングドンとシエナの逃避行は、ヴァザーリ回廊を抜けてヴェッキオ宮殿の入口まで辿り着きました。宮殿内に進む前に、お約束どおり、フィレンツェ観光では外せないスポット、ウフィツィ美術館をサイドトリップしましょう。
第1部 フィレンツェ(続き)
13 ウフィツィ美術館
写真は、ルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリからウフィツィ美術館の南側回廊を見上げたところです。
ウフィツィ美術館は、トスカーナ大公国の行政機関の事務所を一つに集約するため(「ウフィツィ」は、オフィスの意味です)、コジモ1世がヴァザーリに命じて1560~80年に建設した、ドーリア式回廊を有するルネサンス様式の建物。1591年から息子のフランチェスコ1世が建物の最上階で美術品を公開したのが美術館の始まりで、近代型の美術館としてヨーロッパ最古と言われています。メディチ家の断絶に際してその美術品を相続したアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチが遺言によりそのすべてを寄付し、収蔵作品はイタリア国内で最大の質と量を誇り、「ルネサンス芸術の宝庫」とも謳われます。この写真にも大勢の来場者が写っていますが、イタリアで最も訪問者の多い美術館です。
通常の方法で入場した場合、セキュリティチェックを受けた後、まず階段を上がり、最上階に向かいます。
写真奥がロレーヌのロビー(案内図のA1)で、写真右側のドアを抜けたところが前節で辿り着いたエレベーターホールになります。見どころを中心に見ていきましょう(展示位置は案内図を参照して表示したいと思いますが、写真は2018年訪問時のものなので、バック等が変わっているのはご容赦ください)。
① 13~14世紀の絵画エリア
A4の部屋では、イタリア・ルネサンスの先駆けとなったチマブーエやその弟子ジョットの作品を見ることができます。ジョット・ディ・ボンドーネによるマエスタ(荘厳の聖母)は、オンニサンティ教会のために描かれたものであることから、別名《オンニサンティの聖母》とも呼ばれ、ビザンチン美術からの脱却を示す最初の作品とされており、彼は「西洋絵画の父」としてその後のフィレンツェの画家たちに影響を与えました。
この部屋には、チマブーエやジョットとともにルネサンスへの橋渡しをし、シエナ派の祖と言われるドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの代表作で、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のルチェライ家の礼拝堂に置かれていたことから《ルチェライの聖母》と呼ばれる作品も展示されています。
② 初期ルネサンスの絵画エリア
A9の部屋では、15世紀前半のフィレンツェ派を代表する画家で、ボッティチェリの師でもあります、フィリッポ・リッピの作品を見ることができます。この《聖母子と二人の天使》は、「ウフィツィの聖母」とも呼ばれ、その柔和な表情やヴェールの繊細な描写など、彼の作品の中で最も賞賛を受けているものの一つです。遠近法を用いて背景を描き入れた手法は、ダ・ヴィンチにも影響を与えたと言われています。
同じA9の部屋には、初期ルネサンスを代表する画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ の代表作《ウルビーノ公夫妻の肖像》もあります。古代ローマのメダルの肖像をヒントに、傭兵隊長として活躍したウルビーノ公爵フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとその妻バッティスタ・スフォルツァの横顔を描いたルネサンス期の最も有名な肖像画で、こちらも背景の描写に遠近法が用いられています。
なお、この作品は表裏両面に絵が描かれており、この絵の裏には、詩人ペトラルカの詩集『勝利』から題材を得た《勝利の馬車の寓話》が描かれています。
A11〜12の部屋には、フィリッポ・リッピに学び、メディチ家に見いだされ、初期ルネサンスで最も業績を残した画家であり、本作のキーアイテム《地獄の見取り図》の作者サンドロ・ボッティチェッリの作品が集められています。A11の部屋には、この美術館で必ず見ておきたい彼の代表作の一つ、1480年ころに制作された《プリマヴェーラ(春)》があります。そのタイトルはヴァザーリの注釈 「春を表す美麗の花が咲くヴィーナス」 に由来しますが、さまざまな解釈があり、絵の意味するところは謎。ロレンツォ・デ・メディチのいとこロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの結婚を祝う目的で制作されたと考えられており、愛、平和、繁栄を讃えたものというのが一般的な解釈です。
A12の部屋には、彼のもう一つの代表作にして最も有名な、1485年ころに当時としては珍しくキャンバスに描かれた《ヴィーナスの誕生》があります。友人アンジェロ・ポリツィアーノの詩から主題を得ており、誕生というタイトルに拘わらず、愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)のキプロス島への上陸を描いたもので(参考図書⑩71~2頁)、その当時の新プラトン主義の影響を受けていると言われます。ヴァザーリによれば、上の《春》とともに、かつてメディチ家のカステッロの別荘に飾られていたようです。
③ トリビューン
A16の部屋は、フランチェスコ1世が美術品を公開するに際してブオンタレンティに命じて増築させたトリビューンと呼ばれるハ角形の部屋で、ランタンを備え、真珠貝で装飾されたドームに覆われています。
部屋の中に入ることはできませんが、両サイドの入口から中を見ることはできます。部屋全体が宇宙とそれを構成する元素を表しているとされ、ランタンが空気を、貝殻が水を、赤い壁が火を、大理石の床が土を象徴しています(参考図書⑩86頁)。
④ 盛期ルネサンスの絵画エリア
訪問時2階にあったレオナルド・ダ・ヴィンチの部屋は、A35に移っています。こちらは、ダ・ヴィンチが師匠アンドレア・デル・ヴェロッキオを手伝って左の天使とバックの風景を描いたという《キリストの洗礼》という作品で、ヴェロッキオが弟子の腕前が自らを凌いでいると感じ、絵筆を絶ったという逸話が残っています。なお、右の天使はボッティチェリが描いたという説もあるようです(参考図書⑩77頁)。
そして、こちらが様々な謎が隠されているという《受胎告知》です。ダ・ヴィンチがヴェロッキオの工房で修業中に受けた最初の仕事で、ヴェロッキオとの共作だとも考えられています。また、聖母の右腕が左腕より長く描かれているのは、右斜め下から鑑賞されることを予定したものだという説もあるようです。
A38の部屋には、「トンド・ドーニ」と呼ばれる、ミケランジェロが完成し、フィレンツェに唯一現存する絵画《聖家族》があります。フィレンツェの商人アニョロ・ドーニがマッダレーナ・ストロッツィとの結婚と第一子の誕生を祝うために依頼したもので、円形のフレームは、ミケランジェロがデザインし、フィレンツェ木彫りの第一人者であるフランチェスコ・デル・タッソが彫ったものです。
現在、同じA38の部屋には、ラファエロの作品も展示されています。こちらは、2018年訪問時2階の部屋に展示されていた、1506年ころに制作されたラファエロ・サンティの《自画像》です。
そして、ピッティ宮殿のパラティーナ美術館の《小椅子の聖母》と《大公の聖母》に続き、ラファエロのもう一つの聖母画、《ヒワの聖母》があります。友人のロレンツォ・ナージの結婚祝いとして制作されたもので、ラファエルがフィレンツェ時代に完成させたという、聖母マリアとイエス、幼い洗礼者ヨハネを二等辺三角形の構図で描いたものの一つです。
⑤ 屋上テラス
順路を外れますが、西側廊下の突き当たりの先には、ランツィのロッジアの屋上テラスがあります。写真は、ヴェッキオ宮殿のカミナメント・ディ・ロンダ(中世の歩廊)から撮影したものです。
こちらはテラスからのヴェッキオ宮殿です。
2階に移りましょう。
⑥ 16世紀の絵画エリア
D4の部屋にあるのが、ルネサンスからマニエリスムへの移行期の代表格パルミジャニーノの《長い首の聖母》です。異常に長い聖母の首やイエスの胴体が注目ポイントのようです。
D12の部屋には、ロッソ・フィオレンティーノの《リュートを弾く天使》があります。かつては他の画家の作品と考えられた時期もあったようですが、発見された署名などから1521年のロッソの作品と考えられています。また、以前の修復の際に、この作品がより大きな作品の一部を成す断片であったことも判明しています。
同じD12の部屋には、前節で紹介した、画家ヤコポ・ダ・ポントルモの《祖国の父コジモ》があります。コジモ・イル・ヴェッキオ(老コジモ)として知られる、コジモ・デ・メディチの肖像画として有名な作品です。
D23の部屋にあるのが、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1538年ころに制作した《ウルビーノのヴィーナス》です。この官能的な作品は、公爵の若き新婦ジュリア・ヴァラーノに教育上のお手本を示すものであったようです(参考図書⑩127頁)。
⑦ 17世紀の絵画エリア
カラヴァッジョの部屋では、有名な《メドゥーサ》が見られます(現在はE4にあります)。メドゥーサには2つのヴァージョンがあり、1つ目は2012年に彼の真筆と認定され、2016年に日本にも初公開されましたが、こちらのバージョンは、ひと回り大きく、フェルディナンド 1 世にその息子コジモ2世の結婚祝いとして贈呈する目的でデル・モンテ枢機卿から制作依頼されたものです。
こちらも、上のメドゥーサと同じ目的で、デル・モンテ枢機卿から依頼された《バッカス》です(現在はE5で展示)。2016年に日本初公開されました。実に写実的な作品で、当時のNHKの番組によると、テーブルの左手に置かれたワインのデキャンタには、ガラスに映るカラヴァッジョ自身の顔も描かれているということでした。
物語に戻りましょう。
14 シニョリーア広場
ヴァザーリ回廊を進んでヴェッキオ宮殿深部まで直接向かっていますので、この広場を通ることはありませんが、ラングドンの頭の中にその情景が現れます。プロローグにも登場するシニョリーア広場は、13〜14世紀のフィレンツェにおいて政治の中心とされた場所であり、ヨーロッパに数ある広場の中でもラングドンが特に気に入っているものの一つとされる広場です。
広場の中央には、バルトロメオ・アンマナーティによる《ネプチューンの噴水》があります。作中(上巻261頁)、4頭の海の馬を踏みしめるたくましい姿をフィレンツェにおける海の支配の象徴だとしているのは、コジモ1世がオスマン帝国に対抗するために創設した海軍の力を誇示する意味が込められていることに基づくのでしょう(参考図書⑦87頁)。
2018年訪問時は大規模修繕中でしたが、きれいに改修され、勢いよく水を噴き上げていました。
中央のネプチューンの像は、「白い巨人」とあだ名され、その顔はコジモ1世の顔を模しているとされています。
広場中央にある、ジャンボローニャ作の《コジモ1世の騎馬像》と見比べてください。メディチ家の権威と栄光を示すため、フェルディナンド1世が制作を依頼したものです。こちらも修復を終え(2022〜23年)、その雄姿が戻ってきていました。
ネプチューンの噴水の右側には、フィレンツェの紋章を掲げた、ドナテッロの《マルゾッコ》があります。ただし、こちらはレプリカで、オリジナルはバルジェッロ国立博物館に所蔵されています。
余談ですが、マルゾッコの左側、ネプチューンの噴水の向こう側に、狭間胸壁を備えたバルジェッロ国立博物館の塔が見えていますが、塔の先の避雷針にはライオン像が付けられています。
また、ネプチューンの噴水の手前の床には、ジローラモ・サヴォナローラの火刑跡(銘板)があります。彼は、メディチ家がフィレンツェから追放された後、1494~98年の間、フィレンツェの実権をにぎり、美術作品を焼き払うなど厳しい神政政治を行いましたが、極端な禁欲政策に人心が離れ、教皇アレクサンドル6世とも対立して破門され、1498年5月23日にこの広場で絞首刑の後火あぶりに処せられたのです。
彼が修道院長を務めたサン・マルコ修道院の院長室には、彼の遺品とともに彼の火刑の様子を描いた絵が飾られています。
ラングドンが広場に面した野外彫刻展示場(ランツィのロッジア)にあるメディチ家の獅子像の見学は欠かせないと評しているのは(上巻262頁)、かつてはローマのヴィラ・メディチにあり、1789年にここに移設された2体のライオン像のことです。この左側のライオン像は、フラミニオ・ヴァッカが制作したものです。
一方、右側のライオン像は、古代ローマ時代のものとされており、ライオンの表情が大分違いますね。また、いながら旅の第3旅でも比較しましたが、ミュンヘンの将軍廟前に置かれているライオン像とも比較してみてください。
いよいよヴェッキオ宮殿に向かいます。宮殿内は、今回参加しましたガイド付きツアーの見学コースに沿って紹介していきますので、物語の展開順に辿っていない部分もありますが、ご容赦ください。
15 ヴェッキオ宮殿
① 宮殿前
シニョリーア広場の南東角を守るように建っているのが、巨大なチェスのルークの駒に似ていて、堅牢な四角形のファサードと上部に凹凸のある粗面仕上げの胸墻を備えた堂々たる建造物と表現される(上巻261頁)、1299〜1314年にアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設された、ゴシック様式のヴェッキオ宮殿です。当初は、シニョリーア宮殿と称しましたが、1540年にコジモ1世が住まいをここに移した際にドゥカーレ宮殿と名前を変えられ、その後大公の住まいがピッティ宮殿に移った後、ヴェッキオ宮殿と改められました。
宮殿の正面玄関前には、「間違いなく世界で最も賞賛されている男性裸像」と紹介されている、ミケランジェロの《ダヴィデ像》のレプリカがあります。彼が1501〜04年に制作したオリジナルは1873年にアカデミア美術館に移され、1910年にルイージ・アリゲッティによってこの複製が制作されました。
玄関を挟んで右横には、「ふたりの裸の大男を刻んだ像」と紹介されている、バンディネッリが1534年に制作したヘラクレスとカークスの像があります。
小説には出てきませんが、ヘラクレスとカークスの像の後ろのヴェッキオ宮殿の壁には、ミケランジェロの落書きと呼ばれる彫刻があります。ミケランジェロが個人的恨みを晴らすためにさらし絵を壁に背中をむけて後手に彫ったという伝説がありますが、イタリアの美術雑誌 Art e Dossier に掲載された新説によれば、ルーブル美術館にあるミケランジェロが16世紀初頭に描いた横顔に非常によく似ていることから、彼が市当局の許可を得て彫刻されたものだとされています。
② ガイド付きツアー
今回のいながら旅の参考にさせていただいた、ヴェッキオ宮殿主催のガイド付きツアーについて紹介します。
なお、今回は日程の都合から1日に2つのツアーをブッキングしましたが、その場合宮殿の入場料は1回分で足りました。
Special tour of the Palace(宮殿特別ツアー)
2018年旅行時にあった、いわゆるインフェルノツアー(The secrets of “Inferno”)がなくなっており、このツアーなら、五百人広間をはじめとする宮殿の主要なスポットだけではなく、特別に地図の間の隠し扉とビアンカ・カッペッロ大公妃の秘密の書斎も見られるということで参加しました。参加料は、入場料12.5€のほかに5€が必要です。所要時間75分で、英語のほかイタリア語・フランス語・スペイン語・ドイツ語のツアーが毎日10時30分・12時・15時・16時30分(木曜日は10時30分・12時のみ)に予約制で実施されています(いずれも2024年9月現在)。
ラングドンが数年前に参加したという「秘密の通路」ツアーにも参加しました。アテネ公の階段や五百人広間の天井裏など通常の入場券では見ることができない秘密のエリアをガイドとともに見学します。参加料は、入場料12.5€のほかに5€が必要です。所要時間75分で、英語のほかイタリア語・フランス語・スペイン語・ドイツ語のツアーが毎日10時・11時30分・14時30分・16時(木曜日は10時・11時30分のみ)に予約制で実施されています(いずれも2024年9月現在)。
なお、ラングドンが参加したときと違い、現在このツアーでは、地図の間(アルメニア)の隠し扉を通ることはできません。
③ 第1の中庭(ミケロッツォの中庭)
正面玄関を入ると、1453年にミケロッツォ・ディ・バルトロメオが設計した、第1の中庭が広がっています。
壁面の装飾は、1565年のコジモ1世の息子フランチェスコの結婚式の際、ヴァザーリによって改装されたものです。「秘密の通路」ツアーでは、冒頭にここもガイドされます。
映画では、ラングドン達を捜索するためやってきたプシャールがこの中庭で部下に指示する場面が映ります。
中庭の中央にあるのは、ヴァザーリ設計の噴水の上に置かれた、アンドレア・デル・ヴェロッキオの《イルカを抱いたキューピッド》です。ただし、ここにあるのはレプリカで、オリジナルは宮殿内に展示されています。
吹き抜けの上には、アルノルフォの塔が見えます。
第2の中庭へ進みます。映画でも、ダンテのデスマスクを盗んでいたことが発覚して逃走するラングドン達が、第1の中庭で追跡チームを目撃して第2の中庭へと戻ります。バックにヴェロッキオのキューピットが見えています。
上の画像にも階段前の案内板が見えていますが、第1の中庭と第2の中庭の間には、五百人広間に通じる階段があります。下の見取り図にある「宮殿」のマークのところです。その向かいの「塔」のマークの階段からはアルノルフォの塔に直結します(後に紹介する上階から下りる階段でもあります)。
映画では、逃走するラングドン達がこの階段の前を通ります。画面向こう側が前者の階段で、手前が後者の階段です。この後二人はアルメニア(の地図)を目指して、アルノルフォの塔への階段を上ります。
④ 第2の中庭(ドガーナの中庭)
第2の中庭は、五百人広間の真下に当たり、1494年にイル・クロナカとして知られるシモーネ・デル・ポッライオーロによって建てられた巨大な柱があり、ハプスブルク家のトスカーナ大公レオボルド2世の時代からこの柱廊に税関が置かれていたことから、ドガーナの中庭とも呼ばれます。上の見取り図の緑の網掛け部分にある、インフォポイントやカフェテリア、ブックストア等に通じています。
ここが見取り図の1の位置にある、インフォポイントです。宮殿のチケット購入や宮殿主催のガイド付きツアーの受付を行います。右側の通路を奥に進んだところにトイレや無料ロッカーがあります。
中庭の西側中央部のアーチの下に、2頭のライオン像と噴水のモニュメントがあり、今回参加したガイド付きツアーでは、いずれもここが集合場所でした。
映画では、宮殿から脱出しようと第2の中庭からシニョリーア広場への出口を目指すラングドン達のバックに少し映っています。
⑤ 第3の中庭
一番奥の第3の中庭は、アンマナーティとブオンタレンティによって建設された最も新しい中庭で、市役所エリアに囲まれているので、ここなら始業前の市職員がエスプレッソを飲みながら雑談を楽しんでいたという作中の状況(上巻263頁)が見られるかもしれません。2023年7月、中庭の中央に、20世紀の立ち上がったライオンが古い台座の上に立ち、紀元前2世紀のローマ人の頭を噛み砕こうとしている様子が表現された、フランチェスコ・ヴェッツォーリの彫刻《ラ・ピエタ》が設置されました。
⑥ 五百人広間
地上階の「宮殿」マークのところから階段を上ると、下の見取り図の★印のところに五百人広間への入口があります。
このガラス扉のところで宮殿の入場券を提示し、五百人広間へ入ります。二重扉になっていて、外側は質素な木の扉になっており、前述したラングドンが辿りついた扉かもしれません。
映画でも、ラングドン達は、午前9時13分に、この格子の入ったこのガラス扉から五百人広間に入りました。
五百人広間(Salone dei Cinquecento)は、長さ54m、幅23m、高さ18mのイタリア最大の広間であり、フィレンツェ最高の建築、彫刻、絵画を見せつける、ヴェッキオ宮殿一番の見どころです。因みに、ラングドンがいつも最初に目を引かれるのは、12,000平方フィートの平面に重厚感と深みと調和を与える、黒い格子柄が描かれた深紅の石を張った床だとしています(上巻297頁)。この広間は、サヴォナローラの時代、1495~96年にクロナカによってフィレンツェ共和国の総勢500人で構成される大評議会の会議場として建設されたもので、その後コジモ1世の時代に宮殿が大公の邸宅とされるに伴い、1555~72年にヴァザーリにより大公の謁見の間に改修されました。
ヴァザーリは、天井を7m高く持ち上げて、四方の窓から自然光を採り入れるようにしたほか、フランチェスコ1世の結婚式に合わせて、1563〜65年にかけて、格天井を金色の彫刻で装飾し、39枚の格間を埋め尽くす絵画を制作しました。中央の列には、フィレンツェの都市建設や拡張の歴史、フィレンツェ4地区の寓意の絵画が並び、東西の列には、東西の壁画に対応して、東側にはシエナとの戦争の、西側にはピサとの戦争のエピソードを表す絵画が並んでいます。
そして、中央の格間には、ラングドン達が天井裏を逃走する場面に登場し、シエナに攻撃されて天井裏から転落したヴァエンサが引き裂いた(中巻74頁)、コジモ1世を中心にフィレンツェやギルドの紋章が囲んで彼の栄光を寓意した《コジモ1世の神格化》があります。
ただし、映画のヴァエンサが転落時に穴をあけたのは、ジョヴァンニ・ストラダーノが描いた《フィレンツェ拡張計画を示すアルノルフォ》でした。
ラングドンが床の次に目を向けたのは、両サイドの壁に沿って並ぶ、躍動感あふれる彫像群でした。ヴィンチェンツォ・デ・ロッシは、師匠バンディネッリが制作した宮殿前のヘラクレスとカークスの像にインスピレーションを受け、ヘラクレスの12の功業を題材とした作品を7つ完成させ、そのうち6つがこの広間に置かれています。そのうち作中(上巻268頁)に登場するのは、裸のふたりがぶざまなレスリングでもするように組み合い、”ペニスつかみ” のポーズをとっていると表現され、ラングドンがつとめて視線を向けないようにした《ヘラクレスとディオメデス》の像で、東壁の一番南側にあります。
一方、はるかに目に心地よいとしているのが、ミケランジェロの《勝利》の像です。元々は教皇ユリウス2世の墓のために作られたものでしたが(若者の頭上の樫の葉の冠がユリウス2世のローヴェレ家を表しているようです)、ミケランジェロの死後、ヴァザーリの勧めによりコジモ1世に進呈され、息子フランチェスコの結婚式の際に、大公家の財産のシンボルとして挙げられました。作中には南壁の中央に鎮座しているとありますが、現在東壁の南側から3番目に置かれています。
広間には、ほかにもメディチ家の偉人像など多くの彫像が飾られています。写真は、広間北側のステージ(謁見トリビューン)で、中央はメディチ家出身の教皇レオ10世の像(バンディネッリとロッシの合作)、右側はアレッサンドロ・デ・メディチの像(バンディネッリ作)、左側はコジモ1世の父で傭兵隊長のジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの像(バンディネッリ作)です。
ステージ左側の壁龕には、バンディネッリのコジモ1世の像があります。
ステージ右側の壁龕には、ジョヴァンニ・バッティスタ・カッチーニのフランチェスコ1世の像があります。
ステージ右側奥の壁龕に置かれているのは、メディチ家出身の教皇クレメンス7世が対立していたカルロ5世と和解し、神聖ローマ皇帝への戴冠を行った様を表した像です(バンディネッリとカッチーニの合作)。
ラングドンが最後に視線を向けたのは、壁を飾る巨大な絵画でした。作中(上巻269頁)にも紹介されているように、サヴォナローラ処刑後にフィレンツェ共和国の終身国家主席となったピエロ・ソデリーニは、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロにフィレンツェの戦勝を讃えた壁画の制作を委嘱し、この広間を舞台にルネサンス2大巨匠の競作を演出しました。有能な軍事技術者でもあったダ・ヴィンチの国外流出をくい止めたかったマキャヴェッリの策略だとも言われ、制作契約書には立会人として彼も名を連ねています。
1503年にダ・ヴィンチに託された画題は、1440年6月29日にフィレンツェ共和国軍が傭兵隊長ニッコロ・ピッチーノ率いるミラノ公国軍を撃破した「アンギアーリの戦い」。彼は、長い構想と研究の末、東壁の南側に《アンギアーリの戦い》の制作に着手しましたが、実験的な手法(エンカウスティーク)が失敗して、絵具が溶け落ち、完成を諦めてしまいます。しかし、軍馬が衝突し、兵士が軍旗を奪い合う激しい戦闘を描いた中心部分は賞賛され、多くの画家によって模写されました。写真は、2012年に東京富士美術館からウフィツィ美術館に寄贈され、2015年に開催された『レオナルド・ダ・ヴィンチと 「アンギアーリの戦い」展』において、日本で初めて公開された《タヴォラ・ドーリア》です。後ほど、この宮殿にある別バージョンもお見せします。
ダ・ヴィンチが着手した10か月後、ミケランジェロは、向かい側の西壁のスペースをあてがわれ、ピサ軍に対して勝利した1364年7月28日の「カッシナの戦い」のフレスコ画を託されます。彼は、水浴びをしていたフィレンツェ軍がピサ軍に奇襲される場面を描いた《カッシナの戦い》の下絵を仕上げたものの、教皇ユリウス2世によってローマに呼び出されて完成に至りませんでした。写真は、2015年の上記展覧会に同時出品された、バスティアーノ・ダ・サンガッロがミケランジェロの原寸大の下絵を模写した板絵です。
両者の未完の作品は1512年まで飾られていましたが、ミケランジェロの下絵は、彼の才能に嫉妬したバンディネッリによって切り刻まれてしまいます。その後、ヴァザーリの改修によって、両壁は彼と彼の工房によるフレスコ画で置き換えられました。現在、東壁には、《シエナの占領》、《ポルト・エルコレの制服》、《マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い》の3枚からなる「シエナ攻略の壁画」が飾られています。
一方、西壁には、《サン・ヴィンチェンツォの塔でのピサ軍の敗北》、《オーストリアのマクシミリアンがリヴォルノの包囲を解く》、《ピサがフィレンツェ軍に攻撃される》の3枚からなる「ピサ攻略の壁画」が飾られています。
ミケランジェロの《カッシナの戦い》に替えて飾られたのが、西壁の向かって左にある《サン・ヴィンチェンツォ塔におけるピサ人の敗走》です。
そして、ラングドン達が目指してきた絵が、反対の東壁の向かって右にある《マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い》です。
小説でも映画でも、ラングドン達は、上部中央の丘に2軒建っている農家のすぐ下あたりにある、小さな緑の旗にヴァザーリが描き込んだ「チェルカ・とローヴァ」という秘密のメッセージを見つけ、何のためにここに来たのか、「真実は死者の目を通してのみ見える」というフレーズを繰り返しながら、どのような謎が隠されているのかを探り当てようとするのでした。
美術界では、ヴァザーリは、広間の改修に当たり、ダ・ヴィンチの絵を破棄したのではなく、壁画の裏に隠し、このメッセージを残すことでそのことを後世に伝えようとしたのではないかと噂されてきましたが、マウリツィオ・セラチーニ教授らによる2012年の調査で、壁画の裏に奥行き2.5cm程の空洞の存在が明らかとなり、ダ・ヴィンチが《モナ・リザ》や《洗礼者聖ヨハネ》で使用したものと成分が酷似している顔料も採取されたことから、改修により失われたとされていたダ・ヴィンチの幻の壁画が現存している可能性が高まりました。
⑦ フランチェスコ1世の書斎
ラングドンは、広間を横切って、「チェルカ・トローヴァ」という秘密のメッセージ(マルチャーノの戦いの壁画)の反対側にある、ガラスのドアに歩み寄りました。作中(上巻276頁)「窓のない小さな部屋」と形容されている、フランチェスコ1世の書斎(Studiolo di FrancescoⅠ)です。この部屋は、後ほど「秘密の通路」ツアーで訪ねます。
ヴェッキオ宮殿の女性職員マルタ・アルヴァレスから、前日にドゥオーモ付属美術館館長のイニャツィオ・ブゾーニとともにダンテ・アリギエーリのデスマスクを見に訪れていたことを聞き、彼女とともにデスマスクのある上の階に向かいます。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第1部の続き、第16節からいながら旅を続けます。
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