第1部フィレンツェ編の続き、第7節からいながら旅を続けます。前回、レーザーポインターが映し出した《地獄の見取り図》に秘密のメッセージ「チェルカ・トローヴァ」が隠されていることを解き明かしたラングドンとシエナですが、そのメッセージが何を示すのか謎解きのための逃避行を続けます。現在閉鎖中のヴァザーリ回廊も通過します。
第1部 フィレンツェ(続き)
7 ボーボリ庭園
ラングドンとシエナは、頭上にラジコンヘリコプターの無人偵察機が現れ、何に巻き込まれているのかを突き止めるためには、ヴァザーリの壁画を見る必要があると腹を決めます。二人は、はるか左に小島(イゾロット)にレモンの木と彫像がある楕円形の池がある場所にいました。映画にも映っている、1618年にジュリオ・パリージとアルフォンソ・パリージ親子によって設計された、島の水槽(Vasca dell’Isola)です。
中央にあるのは、ナイル、ガンジス及びユーフラテスの川の神が支えるネプチューン、ジャンボローニャによる大洋の噴水です。作中(上巻210頁)には、楕円形の池にペルセウスの像があるとしていますが、以前は南東側にペルセウス、北西側にアンドロメダの像がありましたが、現在はいずれも像がなくなり、写真(北西側)のように台座だけになっています。
上の映画の画像では無人偵察機が半分隠してしまっていますが、島とつなぐ歩道への門にはトスカーナ大公の権力を象徴する山羊座の像が立っています。
ラングドンは、イゾロットとは反対の、ピッティ宮殿がある東の方角を指しました。その方向にあるヴィオットローネは、糸杉の大通りと呼ばれ、17世紀初めに植樹された樹齢400年の糸杉の高木が両脇に並ぶ、二車線道路並みの幅がある、庭園を東西に走る主要通路です。
二人は、偵察機から身を隠すために、ヴィオットローネと並行に走る細い小道に入ります。
小説(上巻211頁)では、トキワガシが隙間なく立ち並ぶこの細道のことを、頭上で絡み合う枝が木の葉の天蓋を作って、樽の箍(チェルキ)に似ていることから、ラ・チェルキアータと呼ばれているとしています。
映画でもここを走り抜けています。
ラ・チェルキアータを出ると、栗の草原(Prato delle Castagne)という開けた芝地を通りますが、そこにはギリシャ神話に出てくるスパルタ王テュンダレオスをテーマとするイゴール・ミトライの彫刻作品があります。
そこを抜けて、ラングドンがコルクガシの林から見たものは、ストルド・ロレンツィ作のネプチューンの噴水でした。三叉の槍を握っていることから、作中(上巻214頁)には地元の人々から ”フォークの噴水” と呼ばれているとあります。後の階段の上に見えているのは、豊穣の像です。
ピッティ宮殿を目指して、急勾配の土手をおり、馬蹄型をした円形劇場を突っ切ります。そこは、かつて宮殿のための採石場であったところを利用して1630〜34年に造られました。2018年に訪問した時は、野外展示の設置のために重機が入っていました。
中央には、エジプトから運ばれたラムセス2世時代のオベリスクと、ラングドンが ”世界最大のバスタブ” と表現した(上巻216頁)、ローマの古代浴場から運ばれた花崗岩の水盤が置かれています。
小説(上巻214頁)では、ピッティ宮殿について、石造りの建物は左右に広がってあたりの風景を圧し、ふくらみを持たせた粗面仕上げの石壁が建物に確たる威厳を与え、鎧窓と半円形の明かりとりがずらりと並ぶさまも、厳めしさをいっそう際立たせている、庭園から見下ろした宮殿は、まるで山崩れで長い急斜面を転がり落ちた大量の岩が谷底で積み重なって高雅な要塞の形になったかのようだと表現しています。
二人が着いた宮殿の裏側に見えているのは、フィレンツェの彫刻家ジョヴァン・フランチェスコ・スシーニらが1639〜42年に制作・設置した、アーティチョークの噴水です。
8 ピッティ宮殿
ピッティ宮殿は、1457年に銀行家ルカ・ピッティの依頼によりフィリッポ・ブルネレスキによって設計、着工され、1472年のピッティの死亡に伴い中断されていたものを、その後コジモ1世が妻エレオノーラのために買い取り、1558~70年にアンマナーティが増築を行い、以後歴代のトスカーナ大公の住まいとなった建物です。その後も改修が行われ、200mを超えるファサードとなりました。小説(上巻216頁)では、ファサード前のピッティ広場を ”舗装された巨大なゲレンデ” と表現されています。
二人は、ボーボリ庭園から狭い通路を下り、宮殿の中庭(コルティーレ)に出ます。アンマナーティによるマニエリスム建築の特徴をよく表しています。
宮殿は、現在、パラティーナ美術館、近代美術館、銀器博物館、衣装博物館、君主の居室、馬車博物館及び陶磁器博物館となっています(陶磁器博物館はボーボリ庭園のカジノ・デル・カヴァリエーレ内にあります)。
入口から2階に上がったところが、かつての舞踏室(図ⓑ)で、白い装飾が特徴の白の間です。
二人は追っ手を避けてすぐに宮殿内を逆戻りしますが、寄り道して、歴代トスカーナ大公のコレクションを展示しているパラティーナ美術館を少し覗いてみましょう。ラファエロとティツィアーノのコレクションが必見です。
図16のポッチェッティのギャラリー(Galleria del Poccetti)を通り抜けます。かつてはベルナルディーノ・ポッチェッティが天井画を描いたとされ、部屋の名前になっていますが、実際のところは弟子のマテオ・ロッセリが描いたようです。
図17のプロメテウスの間(Sala di Prometeo)には、突き当たりの中央に、フィリッポ・リッピの ❼《バルトリーニのトンド》があります。
図27は、天井画のモチーフが古代ギリシャ時代の叙事詩「イリアス」であることからイリアスの間(Sala dell’ Iliade)と呼ばれています。天井中央には、ルイージ・サバテッリによってオリンポスの神々に囲まれたゼウスが描かれています。
アンドレア・デル・サルトの《パンチャティキ家の聖母》が展示されています。
図28は、ラファエロのコレクションで有名なサトゥルヌスの間(Sala di Saturno)です。7つの作品が展示されており、こちらは ❶《小椅子の聖母》です。
こちらが ❷《大公の聖母》。この2つは是非とも見てください。
❸《トンマーゾ・インギラーミの肖像》。レオ10世の友人で、ヴァチカン附属図書館を創設したヴォルテッラの貴族です。斜視を隠すために右下から描いています。
図29は、かつて王座の間(謁見の間)として使われた、ジュピターの間(Sala di Giove)です。
天井画はピエトロ・ダ・コルトーナの作で、コジモ1世が勝利者とヘラクレスに導かれてジュピターの前に立つ場面を描いたものです。
こちらには、ラファエロの ❹《ヴェールの女》があります。肌の輝き、ヴェールや衣装の質感など、ルネサンス肖像画の最高峰と言われる作品です。
図30は、かつて王座の間の前室であった、マルスの間(Sala di Marte)で、こちらの天井画もコルトーナによるもので、中央にメディチ家の紋章を置き、戦いに勝利する栄誉を描いて、メディチ家の繁栄を表しています。
こちらには、バロック期のイタリアの画家グイド・カニャッチの《昇天する聖マグダラのマリア》があります。後出のティツィアーノの作品と見比べて見てください。
図31は、かつての来賓の控えの間、アポロの間(Sala di Apollo)で、天井にはこちらもコルトーナによって若きコジモ1世が太陽神アポロンと会う場面が描かれています。
この部屋には、ティツィアーノの傑作2点が展示されています。こちらは、ウルビーノの宮廷のために描かれた、❺《マグダラのマリア》です。
❻《若者の肖像》。「灰色の目の男」とも呼ばれています。
図32は、アントニオ・カノーヴァの傑作である《イタリアのヴィーナス》が飾られていることから、ヴィーナスの間(Sala di Venere)と呼ばれます。
サルヴァトール・ローザの《日没の港》
9 ボーボリ庭園、ブオンタレンティの洞窟
物語に戻りましょう。二人は、庭園から来たときの通路に戻り、階段を上がった突き当たりを左に折れ、高い擁壁に沿って進みましたが、警官が観光客に聞き込みをしながら迫ってきます。
反対方向の衣装博物館を目指しているかのように装った上、見通しのよい広場の先をくだって小道を進むと、ドゥオーモの赤い瓦の丸屋根や緑と赤と白のジョットの鐘楼が目に入り、ヴェッキオ宮殿の狭間胸壁のある塔も見分けられるようになりました。
なお、途中、小道を右に逸れたマダマの庭の奥に、トリボロの義理の息子ダヴィデ・フォルティーニの指揮のもと1553〜55年に造られた、マダマの洞窟と呼ばれる小さな洞窟があります。マダマ(奥方)という名前は、ジョヴァンナ大公妃に由来するという説と、マリア・マッダレーナ大公妃に由来するという説があります。
洞窟中央の山羊は、この後幾度となく登場するバッチョ・バンディネッリの作品です。
小道をそのまま下ると、バンディネッリによるジュピターの像があるジュピターの庭が続きます。
ラングドンは、小石敷きのパティオへ向かい、生け垣の外側を進んでいきました。
ラングドンが進む先には、作中(上巻222頁)、肥えた裸の小男が大きな亀にまたがり、睾丸が亀の甲羅にあたって押しつぶされ、気分でも悪いのか、亀の口から水がしたたり落ちていると表現されている、バッキーノの泉が見えます。彫刻家ヴァレリオ・チョーリによって1560年に制作されたものです。小男とはコジモ1世の宮廷小人のブラッチョ・ディ・バルトロのことで、酔ったバッカスに見立てられています。
ラングドンは、角を右に曲がって階段を降りていきました。行く手を見たシエナには、大きく開いた入口の上に短剣のような鍾乳石が並んで見え、うつろな穴の奥では、鉱物を含むらしい液体がにじみ出て、壁をうねうねと伝いながら滴り、それが様々に変形し、壁から半分突き出た人間もどき(2体の女の坐像)が石に喰われているように見えました。1583〜93年にフランチェスコ1世の依頼によりベルナルド・ブオンタレンティによって建設された、ブオンタレンティの洞窟です。
ラングドンは、洞窟の左にある小さな灰色のドアへ向かいました。小説(上巻223頁)には、取っ手がなく、真鍮の鍵穴があるだけとありますが、実際は写真のように小さな取っ手があります。
なお、後述のとおり、2024年に訪問した時は、洞窟前の通路が改修工事中のため、このドアを見ることはできませんでした。
ドアが開かず、かつ、偵察機が向かってきたのを見て、ラングドンは、シエナの手をつかんで洞窟に走り、鍾乳石が垂れさがる洞窟に身を隠しました。
10 ブオンタレンティの洞窟
偵察機が動きを止め、甲高い音をたてる中、ラングドンとシエナは、”ピッティ宮殿を訪れた子供たち向けのお化け屋敷” と形容される、薄暗い洞窟の中、三つに分かれた岩屋のうち手前の一番大きい岩屋で、中央の噴水盤もどきの後ろに隠れていました。上部にはベルナルディーノ・ポッチェッティによるフレスコ画が、周囲にはラングドンの回想に登場した、ミケランジェロの《4人の囚人》の複製などの像があります。
兵士が洞窟へ向かってくるのを見て、二人は2番目の岩屋へ這って後ずさり、中央に鎮座する、からみあう恋人たちの作品の後ろに隠れました。ヴィンチェンツォ・デ・ロッシの《テセウスとアリアドネ》の像です。
兵士は洞窟に入らず、左の灰色のドアを叩き始めると、二人は更に奥へ這い進み、最後の岩屋で、中央にあるジャンボローニャの《水浴びするヴィーナス》の彫像の台座の陰に隠れました。
ブリューダー隊長が洞窟に入ってきて、第3の岩屋の入口まで近づきますが、見つかることはなく、遠ざかっていきました。二人は、洞窟を出て、小さな灰色のドアを叩いて警備員に中から開けさせます。映画のラングドンとシエナは、宮殿や洞窟に入ることなく、灰色のドアを通過しています。
小説では、シエナが警備員の手首に痛みを与え、経穴を圧迫して、ヴァザーリ回廊へ通じる入口の解錠番号を聞き出し、格子扉を通過します。
11 ヴェッキオ橋
ヴェッキオ橋は、1345年に再建されたフィレンツェ最古の橋です。第二次世界大戦時、ドイツ軍が撤退する際、アルノ川にかかる殆どの橋は破壊されましたが、歴史的遺産であるこの橋だけが破壊を免れました。写真は、ヴァエンサが旧市街に入ったグラッツェ橋から撮ったもの(2018年訪問時)です。
グラッツィエ橋は、ヴェッキオ橋の東にある、1957年に建造された5連アーチの橋です。13世紀に建設された最初の橋(ルバコンテ橋)はヴェッキオ橋よりも古く、1345年に再建された9連アーチの橋はフィレンツェで最長のものでした。写真は、ヴェッキオ橋からグラッツィエ橋方面を眺めたものです。
旧市街をひとまわりしてオートバイを停め、ヴェッキオ橋まで歩いて観光客に紛れ込みました。ポル・サンタ・マリア通りから通じるこの交差点を渡ったのでしょう。
一方、映画のヴァエンサは、ロマーナ門からアルノ川の北岸を通って、ヴェッキオ橋にオートバイで入ります。
ヴァエンサが陣取って寄りかかった橋の真ん中あたりの柱というのは、橋の上を渡るヴァザーリ回廊を支える柱のことでしょう。因みに、回廊に設けられた大きな窓は、「ムッソリーニの窓」と呼ばれ、ムッソリーニがドイツとの同盟関係を強化するため、1938年5月のヒトラーの公式訪問に合わせて設置したものらしく、ナチスの指導者らはこの窓からの眺めを大いに気に入ったとか(そのため上述のとおり破壊を免れたとも言われています)。
なお、映画の冒頭部分には、追っ手に追われるゾブリストが橋のこの辺りを走り抜けていく場面が映ります。
ヴァエンサが寄りかかった柱の反対側(2つ上の写真左端)には、フィレンツェの金銀細工の父ベンヴェヌート・チェッリーニの胸像があります。映画『ハンニバル』のパッツィ主任刑事がレクター博士の指紋を手に入れる方法を思案する場面(54分35秒)にも登場します。
北側の建物(3つ上の写真左側)の上には、ヴェッキオ橋と同じ年に造られた日時計が載っかっています。
ヴァエンサは、ラングドンがロマーナ門を迂回して徒歩で旧市街に向かうなら、この橋を通るだろうと考え、ピッティ宮殿の方を向いて歩行者に目を配りました。
映画でも、ヴァエンサは、観光客をかき分けてこの辺りまでオートバイを進めています。
ボーボリ庭園上空を飛んでいた偵察機は、ヴェッキオ橋に近い庭園の北東の一角を探り、それから高い石塀の向こうへ降りて視界から消えました。
12 ヴァザーリ回廊
ヴァザーリ回廊は、コジモ 1 世が息子フランチェスコの結婚の機会にジョルジョ・ヴァザーリに命じて1565年に建設させたもので、私邸ピッティ宮殿から、ボーボリ庭園の北東角を通り、サンタ・フェリチタ教会、ヴェッキオ橋、ルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリ及びウフィツィ美術館を経由して、執政所であるヴェッキオ宮殿に至る約1kmの回廊です。こちらに回廊を通り抜ける映像があり、見学ツアーも用意されていました。市消防局からの指導により2016年7月12日から閉鎖され、コロナの影響もあって改修工事後も度々再開が延期されてきましたが、直近告知のあった2024年5月27日もオープンされなかったようです。ヴァザーリ回廊の再開や新しいアクセス方法等に関する最新情報は、今後こちらのサイトで配信されるようです。
① ピッティ宮殿側の出口
ピッティ宮殿側の出口は、2か所あり、一つはラングドンとシエナが通ったブオンタレンティの洞窟横の灰色のドア(2024年訪問時は改修工事の囲いで見ることができませんでした)、もう一つは写真左の通路(他の写真)の手前に当たるピッティ宮殿にあります。以前の発表によれば、新しい見学コースでは出口を選べるようです。
灰色のドアから、二人が辿った経路を追ってみましょう。
② サンタ・フェリチタ教会
小説にも映画にも出てきませんが、ボーボリ庭園の敷地を抜けた回廊は、サンタ・フェリチタ教会のカウンターファサードを横切ります。サンタ・フェリチタ教会は、グイッチャルディーニ通りに面したサンタ・フェリシタ広場にある、フィレンツェの中でも最も古い教会の一つです。
現在の建物は、入口両サイドにあるカッポーニ礼拝堂(右)とカニジャーニ礼拝堂(左)及び聖歌隊を残して、18世紀にフェルディナンド・ルッジェーリによって改修されたもので、内部は端正な印象のインテリアです。
入口すぐ右手のカッポーニ礼拝堂には、マニエリスムの巨匠ヤコポ・ダ・ポントルモの秀作《十字架降下》があります。右側の後ろに描かれている男がポントルモ(自画像)とのことです。
カウンターファサードには、「大公の舞台」と呼ばれるテラス席があり、メディチ家の大公たちはヴァザーリ回廊から広間に降りずに宗教行事に参加できるようになっています。
③ マネッリの塔
続いて、回廊はバルディ通りをまたぎ、マネッリの塔を迂回します。回廊の建設に際し、ヴァザーリは塔の撤去又は改造を依頼しましたが、フィレンツェの貴族マネッリ家が拒絶したため、やむを得ずこのような形になったもので、張出し部分をブラケットで支える特徴的な建築工法が見られます。
④ ヴェッキオ橋
次に、ヴェッキオ橋に並ぶ東側の店舗の2階部分を通ってアルノ川を渡ります。
映画でも映り、小説(上巻254頁)にもあるように、ヴァザーリ回廊の内部は、ウフィツィ美術館における自画像のコレクションが展示されていることで知られていました。
以前の発表によれば、リニューアル後は、自画像を含む700点以上の絵画コレクションに代わって、約30点の古代彫刻のほかギリシャとローマの碑文のコレクションが展示され、閉じられていた73の窓も開かれるようです。また、冷暖房やLED照明が整備され、床や漆喰などの内装も修復されて、アンティークなテラコッタで再建されるそうです。
下の観光客の声に歩みを止めたラングドン達は、窓から外を眺め、自分たちがヴェッキオ橋の上にいるのを見てとります。
作中(上巻255頁)にあるように、回廊建設当初橋の上には肉屋が並んでいましたが、回廊を往来する大公やメディチ家の人々が肉屋が放つ悪臭を嫌い、肉屋を退去させて営業権を金銀細工組合に売り渡し、以来宝飾店が両サイドに軒を連ねています。
ヴェッキオ橋の北の端まで行き着くと、回廊はアルノ川北岸のルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリの方へ直角に折れています。
角の上部には、メディチ家の紋章も見られます。
そして、ルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリへの最初のアーチの上に、ラングドンが思い出した1216年のブオンデルモンテの殺害事件にまつわる、ダンテの『神曲』天国篇16歌の詩句が記してあるプレートを見ることができます。
⑤ ルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリ
かつてはこの部分の回廊もヴェッキオ橋のように店舗が川に張り出すように造られていましたが、現在は、アルノ川に沿って、15スパンのアーチで柱を繋ぎ、一つ一つの柱もアーチで支える構造となっています。
写真は、回廊の下からヴェッキオ橋を眺めたものです。
東端は、再び直角に北側に折れ、ウフィツィ美術館に接続しています。
この場所は、ヴェッキオ宮殿とルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリの回廊を撮影できるスポットの一つです(写真は2018年に撮影したものです)。
⑥ ウフィツィ美術館
ルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリから接続してすぐに階段を上がります。
上の写真の階段を上がった先を右に曲がったところがこの部屋で、更にこの階段を上がると、ウフィツィ美術館の最上階への扉に辿り着きます。
小説では、美術館内をどのように移動したかには触れていませんが、映画では、この扉からラングドン達が現れ、写真の右側に進みます。
最上階(日本でいう3階)の西側廊下にあるこの扉です。写真は、ヴァザーリ回廊閉鎖中の2018年訪問時のもので、ドアレバーの色は違いますが、扉の左右の彫像か”同じです。
映画では、ラングドン達は、この案内図の▲印の扉から西側廊下を左の方(順路の矢印どおり)に進んでいますが、ヴェッキオ宮殿へ向かうのであれば、同図の左上にある【プリンチペの通路】を目指して、西側廊下を右の方(順路とは逆方向)に進みます。
西側廊下を突き当たった、南側廊下の右側の窓からは、ヴェッキオ橋と同橋に繋がるルンガルノ・デッリ・アルキブシエーリの回廊がよく見えます。
南側廊下からこの彫像の脇を曲がり(写真の右側へ)、東側廊下を北へ進みます。
東側廊下からロレーヌのロビー(案内図のA1)を抜けて、左側のエレベーターホールへ
ラングドン達は、美術館を素通りしてヴェッキオ宮殿に急ぎましたが、折角ですので、2018年訪問時の展示をベースに、後ほど美術館をサイドトリップしたいと思います。
⑦ プリンチペの通路
ヴェッキオ宮殿に繋がるヴァザーリ回廊の最終部分は、ウフィツィ美術館と宮殿の間のニンナ通りを渡る空中回廊で、プリンチペの通路と呼ばれています。こちらの情報によれば、1871年から久しく閉ざされていましたが、2017〜18年に期間限定で公開されたことがあるようです(私が2018年に訪問した時は非公開でした)。
期間限定で公開されたときは、ヴェッキオ宮殿からウフィツィ美術館への一方通行だったようで、美術館側にセキュリティチェック用のゲートが用意され、ゲートを通過した先が、案内図の左上のこの場所、エレベーターホールだったようです。
ラングドン達は、ゲートや施錠された扉の障害もなく、この通路を進んだことになります。数メートルといったところでしょうか。
通路は、宮殿の2階(日本でいう3階)に繋がっています。窓から、後で登場する五百人広間のバルコニーの窓やサトゥルヌスのテラスが見えています。
こちらが宮殿側の出口の扉で、後に紹介する緑の間の一角にあります。
ラングドン達は、ここから五百人広間に向かいますが、小説(上巻263~6頁)では、市職員の声がする左手の遠くのほうの中庭に向かって長い通路を進み、中庭を壁に沿って回り込んだ反対側から柱廊に至り、そこから角を曲がって広間に通じる質素な木の扉に辿りついています。しかし、後ほど宮殿の中を紹介しますが、上記の中庭はどこなのか、今いる2階から地上階へどの階段を下り、五百人広間のある1階へどの階段を上ったのか全くわかりません。この旅では、断片的に可能性だけを示して、その過程を繋げて辿ることはしません。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第1部の続き、第13節からいながら旅を続けます。
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