小説をガイドブック代わりに、登場人物たちの足跡を辿りつつ、時には寄り道もして、写真や観光資料、地図データなどを基に、舞台となっている世界各地を紹介しながらバーチャルに巡礼する、【小説 de いながら旅】の第5弾。今回は、『ダ・ヴィンチ・コード』(2003年)の発表によって一躍ベストセラー作家となりました、アメリカ合衆国のミステリー作家ダン・ブラウンの作品を取り上げます。彼の作品では、歴史的な秘密や宗教上・科学上の謎、シンボル・暗号などに焦点を当て、主人公がスリリングな冒険に巻き込まれながら、シンボルや暗号などを手掛かりに、過去と現在の出来事をつなぎ合わせ、謎を解き明かしていきます。読者は、主人公と同様のスピード感を持って、追跡、発見などを追体験していきます。映画化・ドラマ化もされているとおり、小説の舞台が実在の場所等で展開しており、このいながら旅においても、臨場感をもって各場面を再現することができるでしょう。また、風景や建物、芸術作品等について、ユニークな描写がなされている場合は、そのまま引用したりしていますので、写真で実際と表現の面白さを確認していただければと思います。
この旅のガイドブック
今回の旅のガイドブックは、2013年に刊行された『インフェルノ』です。同作は、ハーバード大学の宗教象徴学専攻の教授ロバート・ラングドンを主人公とするシリーズの4作目(原題も同じ『Inferno』)。フィレンツェの病院で、数日の記憶を失った状態で目を覚ましたラングドンは、闇の組織「大機構」が派遣した刺客ヴァエンサに襲われ、医師のシエナ・ブルックスとともに脱出。疫病蔓延によって人口爆発を解決しようという大富豪ゾブリストが仕掛けた生物化学テロを阻止すべく、ダンテにまつわる謎を解き明かしながら、物語の舞台はフィレンツェからヴェネツィア、そしてイスタンブールへと展開します。
なお、引用する頁数は文庫本のそれによっており、見出し(部・節)は投稿に際して私が付けたものであり、小説のそれとは一致していないので、ご留意ください。
本作は、ロン・ハワード監督によって、トム・ハンクスが主演して、『ダ・ヴィンチ・コード』及び『天使と悪魔』に続くシリーズ3作目『インフェルノ(INFERNO)』として2016年に映画化されましたが、このいながら旅では、同映画のロケ地もサイドトリップしていきます(引用した画像の下には引用元のリンクの代わりに映像の時間を表示しました)。
なお、フィレンツェには2018年と今年(2024年5月)、ヴェネツィアにも今年訪れ、実際に聖地巡礼もしましたので、その時の写真もお見せしながら(両年の画像については、画像下の引用元のリンクを省略)、復習のいながら旅を行います。
おって、旅の資料として、次の図書も参考にさせていただきました(本文中に引用する場合は、参考図書①等と表記します)。
① ダン・バーンスタイン アーン・デ・カイザー『インフェルノの「真実」』(竹書房)
② マイネル・ハーグ『インフェルノ・デコーデッド』(角川書店)
③ 村松真理子『謎と暗号で読み解くダンテ「神曲」』(角川書店)
④ ダンテの謎研究会『誰も書かなかったダンテ「神曲」の謎』(中経出版)
⑤ 阿刀田 高『やさしい〈神曲〉』(角川書店)
⑥ 宮下孝晴 佐藤幸三『フィレンツェ美術散歩』(新潮社)
⑦ 中嶋浩郎 中嶋しのぶ『図説 フィレンツェ 「花の都」2000年の物語』(河出書房新社)
⑧ 山口俊明『フィレンツェ 旅の雑学ノート メディチ家の舞台裏をのぞく』(ダイヤモンド社)
⑨ 若桑みどり『フィレンツェ』(講談社)
⑩ ウフィツィ美術館『ウフィツィ美術館:公認ガイドブック 日本語版』(GIUNTI)
⑪ 渡部雄吉 須賀敦子 中嶋和郎 『ヴェネツィア案内』(新潮社)
⑫ 塩野七生 宮下規久朗 『ヴェネツィア物語』(新潮社)
⑬ 陣内秀信『迷宮都市ヴェネツィアを歩く』 (角川書店)
⑭ 宮下 遼『物語 イスタンブールの歴史 「世界帝都」の1600年』(中央公論新社)
⑮ クリス・フィッチ『図説 世界地下名所百科 イスタンブールの沈没宮殿、メキシコの麻薬密輸トンネルから首都圏外郭放水路まで』(原書房)
プロローグ
小説は、「わたしは影だ」という男、ゾブリストの逃避行の場面で始まります。アルノ川を岸沿いに走り、左に曲がってカステラーニ通りを北へ進み、ウフィツィ美術館の陰へ身を隠します。同通り(グラーノ広場)に通じている、同美術館の出口辺りでしょうか。映画の方は、ヴェッキオ橋からポル・サンタ・マリア通りを北上し、ヴァッケレッチャ通りを走り抜けています。
その後、狭間胸壁を備えた塔と一本針の時計がある宮殿(後に登場するヴェッキオ宮殿のことです)をあとにして(上巻8頁)とあることから、ヴェッキオ宮殿の前を通ってシニョリーア広場を横切り、ゴンディ通りを抜けて、サン・フィレンツェ広場に向かったものと思われます。
サン・フィレンツェ広場は、サン・フィレンツェ複合施設(右・東側。現在は写真のとおり改修中でその姿を見ることができません)と、ジュリアーノ・ダ・サンガッロが設計したゴッディ宮(左・西側)に挟まれた広場で、映画『冷静と情熱のあいだ』にも登場しています(115分58秒)。
写真は、2018年に訪問した際のサン・フィレンツェ複合施設です。同施設は、聖フィオレンツォに捧げる小さな礼拝堂を前身として17世紀にできた二つの教会を、1745~49年の改修でザノービ・デル・ロッソがファッチャータを造って繋ぎ、サン・フィレンツェ教会と総称されるようになったバロック様式の建物で、2012年までは裁判所としても利用されていました。2017年からはゼフィレッリ美術館(写真中央)が入り、サン・フィリッポ・ネリ教会(写真左側)はフィレンツェにおける海外挙式の会場としても紹介されていました。
ゾブリストは、北(前方)に向かい、バルジェッロ国立博物館の前を過ぎ、バディア・フィオレンティーナ教会の尖塔をめざしました。
バディア・フィオレンティーナとして知られるサンタ・マリア・アスンタ修道院は、978年にトスカーナ辺境伯ウーゴの母ウィラによってベネディクト派の修道院として創建され、1285〜1307年にアルノルフォ・ディ・カンビオによってゴシック様式に建て直されました。ダンテは、その詩集「新生(Vita nova)」の中で、思い人のベアトリーチェと初めて会ったのがこの教会のミサだとしています。
カンビオは、既存のロマネスク様式の教会の軸線を維持しながら拡張したので、古い後陣の外壁は今でもプロコンソロ通りに面しています。
写真は、ギベッリーナ通りから見た、バルジェッロ国立博物館(左側)とバティア・フィオレンティーナ教会(中央奥)です。
プロコンソロ通りのポータルは、上部のルネットがベネデット・ブリオーニによる施釉テラコッタで飾られています。中に入ってみましょう。開館時間等はこちらを参照してください。
入口を入った柱廊回廊の中庭(上の図1)からは、バラ窓があるゴシック様式のファサードと、ゾブリストが飛び降りた、1310〜30年に建てられた六角形の鐘楼(図4)を見上げることができます。ここには丸石は敷かれておらず、後述する丸石敷きの広場ではないようです。因みに、2024年訪問時は、教会の改修工事のための足場に遮られて見ることはできませんでした。
身廊も覗いてみましょう。内陣(図7)には、フランチェスコとマルコ・デル・タッソによる聖歌隊があり、上部にはジョヴァンニ・ドメニコ・フェレッティによる美しいフレスコ画が見られます。
木製の天井には、フェリーチェ・ガンベライによって精巧な彫刻が施されています。
身廊左側には、この修道院の見どころの一つ、フィリッピーノ・リッピが1482〜86年に描いた祭壇画《聖ベルナルドへの聖母の出現》があります。
同じ身廊左側には、ミノ・ダ・フィエーゾレが1469~81年に白いカラーラ大理石と暗赤色の斑岩で制作したトスカーナ辺境伯ウーゴの葬儀記念碑があり、その上にはジョルジョ・ヴァザーリの《聖母被昇天》があります。
身廊の右側上部には、金メッキの彫刻が施された1717年建造の木製オルガンがあります。
オルガン下の入口を入ったところがサン・マウロ礼拝堂(図9)です。天井のフレスコ画は、ヴィンチェンツォ・メウッチ の作品で、祭壇には、足の不自由な人を癒しているサン・マウロを描いたオノリオ・マリナーリの絵が飾られています。
階段の上り口に向かうゾブリストの前に立ち現れた鉄扉、鐘楼への入口はこの礼拝堂にあります。礼拝堂に入って右側の隅です。2024年に訪問した時、扉の取っ手をまわしてみましたが、施錠されていて鐘楼に入ることはできませんでした。
ゾブリストは、扉を開け、螺旋状に伸びる狭い大理石の階段を上りました。頂上に着いて見下ろすと、そこには丸石敷きの広場が静かなオアシスのように手招きしていました(上巻11頁)。
礼拝堂に入って反対側(左側)の扉を出たところには、この修道院のもう一つの見どころ、1432〜38年にベルナルド・ロッセリーノによって建てられたオランジュの回廊があります。鐘楼からこの回廊の広場も見渡せますが、ご覧のようにここにも丸石は敷かれていません。
回廊の上層階には、ポルトガル人画家のジョヴァンニ・コンサルヴォが聖ベネディクトの生涯を描いた一連のルネット(フレスコ画)があります。
ゾブリストが見下ろした「丸石敷きの広場」というのは、上の航空写真の右側下方にあった(見取り図からは外されています)、こちらの中央に彫像のある大きな中庭の方ではないでしょうか。小道に小石が敷かれているようです。
追っ手に追い詰められたゾブリストは、「私が贈るのは、未来だ。・・・救済だ。・・・地獄だ。」と祈りを唱え、最後の一歩を踏み出し、飛び降りるのでした。映画では、ベン・フォスター演じるゾブリストが鐘楼から飛び降りる場面が映ります。
バックに地上の映像が見えますが、これは鐘楼からのものではなく、実際はヴェッキオ宮殿の上からシニョリーア広場を見下ろした画像です。
第1部 フィレンツェ
1 サン・ジョヴァンニ・ディ・ディオ病院
狂気じみた夢にうなされ、ラングドンは、頭部を負傷し、ここ数日の記憶をなくした状態で、病院の集中治療室のベットで目を覚まします。そして、病院に来たとき、彼が「ヴェ・・・ソーリー・・・」と繰り返しつぶやいていたと聞かされます。この病院は、トッレガッリ通りにあるとのことから、トッレガッリ病院としても知られる、サン・ジョヴァンニ・ディ・ディオ病院のことでしょう。
窓から、上部に凹凸のある胸墻と300フィートの塔を備えた、堂々たる石造りの要塞で、塔の頂上付近はふくらんで外側へ張り出し、石落としのある強大な狭間胸壁になっている(上巻23頁)と形容されるヴェッキオ宮殿を見て、自分がイタリアのフィレンツェにいることに気付きます。病院は、旧市街中心部から5km以上離れており、丘を隔てた宮殿を見ることができるかどうかはわかりません。写真は、同方向手前の丘の上にあるホテル・トッレ・ディ・ベッロズグアルドからの旧市街の眺めです。
なお、ラングドンが目覚めた日は、(参考図書①265頁によれば2013年の)3月18日の月曜日の未明でした(上巻25頁)。
そこへ全身を黒いレザーに包んだスパイクヘアの女(ヴァエンサ)がサイレンサー付きの拳銃を持って闖入し、マルコーニ医師を銃撃します。ラングドンは、女医のシエナ・ブルックスから頭部の傷が銃撃されたことによるものであることを聞かされ、彼女に病院から連れ出され、タクシーで彼女のアパートメントに向かいます。
2 シエナのアパートメント
なぜフィレンツェにいるのかを思い出そうとしたラングドンは、アカデミア美術館で初めてミケランジェロのダヴィデ像を見たときのことを思い浮かべます。アカデミア美術館は、1563年にヴァザーリらによって設立され,トスカーナ大公コジモ1世が初代総裁を務めた美術アカデミーを前身とする美術館で、ダヴィデ像は、ミケランジェロの 《若き奴隷》、《目覚める奴隷》、《髭面の奴隷》、《アトラス》の4体の奴隷像が展示されているギャラリーを抜けた奥のホールにあります。2018年に訪問しましたので、こちらを参照してください。
ラングドンが心打たれたという、ダヴィデ像の ”コントラポスト” と呼ばれるポーズ。ミケランジェロが1501〜04年に制作し、ヴェッキオ宮殿前に設置されていましたが、1873年にここに移されました。
なお、このダヴィデ像も、4体の奴隷像も、そのレプリカが後で登場します。
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シエナのアパートメントの場所は、後にアパートメントから脱出してマキャヴェッリ大通りを走っていく展開から、ボーボリ庭園の南、アルチェリ地区辺りと考えられますが、小説では特定する情報はありません。ラングドンが領事館への電話でそこにいると偽って話した〈ペンシオーネ・ラ・フィオレンティーナ〉が道の向かいにあるということが唯一の手掛かりですが、そういう名前のペンシオーネは実在していないようです。
映画では、アパートメントの窓から〈Pencione La Fiorentina〉のネオンサインが見える通りが映ります。ロケ地をサイドトリップしてみましょう。
この通りは、サンタ・マリア・ノヴェッラ広場の南東へ伸びるベッレ・ドンネ通りで、「美しい女たち」を意味する通りの名前は、かつて世界最古の職業の美女たち(娼婦のことでしょう)がこの辺りで商売をしていたことに由来するそうです(参考図書⑧156頁参照)。通りの出口には、参考図書⑧157頁に紹介されている、上部にキリストの磔刑、下部に教皇シストを諸聖人が囲むフレスコ画があるタベルナコロが見られます。
こちらがペンシオーネに仕立てられた、同通り6番地の建物です。映画では、右側の雨どいのところに〈Pencione La Fiorentina〉のネオンサインが付けられていました。
映画では、WHOの追跡チームがラングドンが使用したパソコンのIPアドレスから「ドルロサ通り12番地アパルトメント3C」と所在をつきとめ、その地図も映し出されます(中央の緑色のフラッグがその場所を示しているようです)。
該当の場所をGoogleマップで確認すると、スパーダ通り19〜21番地辺り(赤の矢印で示した〇印)のようです。
追跡チームがシエナの部屋に踏み込んだときに、オマール・シー演ずるクリストフ・プシャールが部屋の窓から外を覗く場面が映ります。
緑色の鎧戸や白い窓枠などの様子から、シエナのアパートメントは、写真の左側に写る、スパーダ通り19番地の建物の2階の部屋と推察されます。
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小説に戻ります。ラングドンのハリス・ツイードの上着の隠しポケットに入っていたバイオチューブから円筒印章を見つけます。それは骨で作ったレーザーポインターで、投影されたのは、サンドロ・ボッティチェッリの《地獄の見取り図》でした。ダンテ・アリギエーリの『神曲』の写本のためにボッティチェッリが描いた92点の挿絵のうちの一枚です。この漏斗状に描かれた地獄図から、書き加えられた「C・A・T・R・O・V・A・C・E・R」の文字と、疫病医の仮面、「真実は死者の目を通してのみ見える」の一文を見つけます。
そのとき、クリストフ・ブリューダー隊長率いる監視・対応支援(SRS)チームがアパートメントを急襲したことから、ラングドンは、シエナに促されて三輪バイクで逃走します。
映画では、シエナが運転する車に乗ってアパートメントを出ます。少し跡を追ってみましょう。
シエナの車が出てきたのは、スパーダ通りへ通じる、写真左中央のアーチ状の門からでした。上の映像と同様、右側に〈Fratelli Coppini〉というお店があり、通りの向こうにタベルナコロが見えています。
タベルナコロの近くに寄って見てみました。
シエナは、前方に追跡チームがいるのを見て、この交差点を左折します。
ここは、正面の壁面に見える、壁の繋ぎ目や格子がはまった窓、その下の窪みなどから、スパーダ通りからベッレ・ドンネ通りやソーレ通りへ通じる、写真の四叉路の角と推察されます。
シエナは車を進めますが、前方に黒塗りの車が停まるのを見て、途中の駐車場で車を停め、レンタカーに乗り換えます。
シエナが車を進めた通りは、黄色いGARAGEのネオンサインから、参考図書⑧158頁に「太陽横町」と紹介されている、ソーレ通りです。
そして、車を停めた駐車場は、ソーレ通り16番地にあるこの駐車場です。
黒塗りの車を降りて現れたのは、シセ・バベット・クヌッセン演ずるWHOのエリザベス・シンスキー事務局長でした。傍には、金色のドアノブの付いた扉と8番地の住居表示、Hotel Sole の金のプレートが見えています。
ここはソーレ通り8番地で、金色のドアノブは〈Hotel 900 Toscana〉への扉。2024年の訪問時、金のプレートは、〈Residenza Fiorentina〉に変わっていました。
シンスキー事務局長は、ソーレ通りをシエナのアパートメントの方に歩いていきます。
バックに映っているのは、ソーレ通りを北西に進んだ先のサンタ・マリア・ノヴェッラ広場の角にあるタベルナコロで、参考図書⑧156頁に、フランチェスコ・ダントニオが医師と薬剤師のギルドのために描いた聖母子のタベルナコロ(レプリカ)と紹介されているものです。映画には、隣のジェラート屋さんの看板も少し映っていますよ。
小説(上巻130頁)の方では、ラングドンは、三輪バイクの横を通り過ぎていくバンの中に、兵士に挟まれた、魔除けのネックレスをつけ、銀白色の長い巻き毛を垂らした年嵩の美しい女性(幻覚に出てきた女)の姿を捉えるのでした。
3 マキャヴェッリ大通り ~ ロマーナ門
朝8時の鐘が鳴るころ、シエナが運転する三輪バイクは、緑豊かな風景の中、マキャヴェッリ大通りのS字カーブを次々と曲がり、アルノ川西岸の高級住宅地に入っていきました。そして、二人は《地獄の見取り図》に秘められた謎を解読するため、旧市街に向かいます。マキャヴェッリ通りは、ガリレオ広場とロマーナ門を結ぶ長さ1.8 kmの曲がりくねった通りで、かつて旧市街を囲んでいた城壁があったルートに沿って、1865年に建築家ジュゼッペ・ ポッジによって建設された道路です。写真は、ガリレオ通りに繋がるガリレオ広場です。
映画の方でも、二人は乗り換えたレンタカーでマキャヴェッリ通りをロマーナ門方面に走っていきます。ただし、小説と違って、どこに行くべきかわかった上で。
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ラングドンは、謎について考える過程で、かつてウィーンのオーストリア科学アカデミーで開かれた、ウィーン・ダンテ・アリギエーリ協会主催の会議において、ダンテの『神曲』〈時獄篇〉について講演を行ったときのことを思い出します。
科学アカデミーの建物は、新講堂(Neue Aula)といい、ウィーン1区のイグナス・ザイぺル広場にあり、1753~55年に建築家ジャン・ニコラ・ジャド・ド・ヴィル・イッセイによって建てられた、かつてウィーン大学であったロココ様式の建物です。中には、フェストザール(祝祭の間)という、シェーンブルン宮殿の大広間の天井フレスコ画を手掛けたグレゴリオ・グリエルミによる、医学、哲学、神学、法学の4つの学部を表すフレスコ画が見事な広間があり、1808年3月27日、ハイドンが公の場に姿を現した最後の機会となった、彼の『天地創造』の演奏会(サリエリ指揮)が開かれた場所として知られています。ラングドンの講演もここで開かれたかもしれませんね。
講演に際してラングドンがスクリーンに映しだした、一枚目の絵はアンドレア・デル・カスターニョによる、哲学書を持って戸口に立っているダンテの肖像画でした。この作品は、現在、ウフィツィ美術館に所蔵されています。
次に映したのは、ボッティチェッリによる、月桂冠を被ったダンテでした。
そして、ダンテ像のしめくくりに映したのが、サンタ・クローチェ広場にある、ダンテ生誕600年を記念して設置されたエンリコ・パッツィによるダンテの像と、
ダンテの最古の肖像画とされる、バルジェッロ博物館(宮殿礼拝堂)にある、ジョットのフレスコ画でした。左から5番目の人物がダンテです。
次に映したのは、ドゥオーモであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に掲げられている、ダンテが『神曲』を片手にフィレンツェの城壁の外に立っている、ミケリーノの《ダンテ、『神曲』の詩人》でした。
ラングドンの講話は、システィナ礼拝堂にあるミケランジェロの《最後の審判》に及びます。ミケランジェロはこの絵を〈時獄篇〉に触発されて描いたとして(参考図書③71頁にもその旨の記述があります)、右下部分を大映しにしたものを見せ、〈時獄篇〉第3歌に出てくる地獄の渡し守カロンがもたつく死者を櫂で打っている場面ですと説明します。
そして、〈時獄篇〉に現れる象徴の意味を解き明かすには、ダンテとともに地獄を旅するのが一番と話し、ボッティチェッリによる《地獄の見取り図》こそ、ダンテの描いた地獄を最も正確に再現していると語り、赤い衣のダンテが案内人のウェリギリウスと地獄の門の外に立っている左上の部分を示し、出発点である地獄の門の画像として、ギュスターヴ・ドレの版画を映しました。
「はいりましょうか」と呼びかけたとき、ラングドンは現実に引き戻されます。三輪バイクがロマーナ門の手前で横滑りして止まり、シエナの背中にぶつかったのです。カラビニエーリ(軍警察)が門のところで検問を行っていました。映画でも、検問に気付いて急停車しています。
下の写真はロマーナ門へのマキャヴェッリ大通りの出口で、左にライオン(フィレンツェのシンボル)、右に狼(シエナのシンボルの双子に乳をやる牝狼)の像が立っています。上の映画の方は、ロケを隣のポッジョ・インペリアーレ大通りの出口で行ったようで、左に映っているライオン像が少し違いますね。
ロマーナ門は、フィレンツェの城壁の最後の拡張の際、その一部として1326年に建設された最南端の門です。門の名前は、そこからローマへ至る道が始まっていたことに由来します。作中にあるように、門前のポルタ・ロマーナ広場で6つの道路が交わっています。二人は、近くの工事現場で三輪バイクを乗り捨てます。
鉄の鋲が打たれた大きな木造の扉や閂が残っており、扉の上のフレスコ画は、フランチャビージオ作の《聖母子と四聖人》です。
門の南の芝のロータリーには、ミケランジェロ・ピストレットによる彫像が置かれています。作中(上巻161頁)には、ひどくかさばる荷物を頭に載せて、門から去ろうとする女の彫像と表現されていますが、「Dietrofronto(まわれ右)」という彫像で,頭に載せているのも女性で、下の女性はローマの方(南)を向き、上の女性は反対側のフィレンツェ(門のある北)を見ており、フィレンツェから出ていっても,思いはフィレンツェに残っているとか、またフィレンツェへ戻って来たいというメッセージを表しているようです。2024年の旅行時も、フィレンツェからモンテリッジョーニ、シエナ方面にツアーで向かうときに脇を通りました。
ラングドンは、プロジェクターが映し出す《地獄の見取り図》の最下層の10個の濠の順序が書き換えられていることに気付きます。そして、頭の中で各濠から見つけた文字を正しい濠の順序で入れ替えると、自分がフィレンツェにいる理由がわかった、旧市街の特定の場所を指しており、そこに答えがあると言って、歩き出します。
二人は、フィレンツェに職探しの下見に来た美術の教師とその兄を装って、学生たちに紛れ、ポルタ・ロマーナ美術学校の校舎へ続く、大ぶりのナラの木々がゆるやかに枝葉を広げて天然の天蓋を作る道を進みました。美術学校は、作中(上巻172頁)にあるとおり、三連アーチのポルチコ(玄関柱廊)と楕円形の広い芝生の前庭を備えた、くすんだ黄色の大きな建物です。
二人は、学生たちから、古い踏み台を使って屋根に上ってボーボリ庭園の擁壁を飛び越えられる、校舎脇の駐車場にある物置の場所を教わります。
4 外交問題評議会(CFR)、ニューヨーク
2年前、WHO事務局長のエリザベス・シンスキーが、国連における講演後、その男(ゾブリスト)に会ったのは、パーク・アベニューと68丁目通りの角にある、米国の外交政策と国際関係を専門とするシンクタンク、外交問題評議会のニューヨーク本部でした。
男は、これが我々の未来図だと、人間の海 - 裸の人々がもつれ合い互いの上によじ登ろうともがこうとしている、ギュスターヴ・ドレがダンテの見た地獄を再現した陰惨な絵を映し出しながら、人口過剰問題を指摘し、思い切った手段を講じなければ、マキャヴェッリが論じたように自然そのものが生み出した地球規模の淘汰(疫病)が発生すると警告しました。
シンスキーは、WHOは疫病の世界流行の予防に自信を持っていると言い、また、男が世界の理想の人口という数値を既に超えており、手遅れだと取り合いませんが・・・
5 ボーボリ庭園
ボーボリ庭園は、コジモ1世の妃エレオノーラ・ディ・トレドのために、1550年に造営された4万5000㎡のイタリア庭園で、設計はニッコロ・トリボロが手掛け、その後バルトロメオ・アンマナーティ、ベルナルド・ブオンタレンティに引き継がれました。
擁壁を飛び越えたラングドンとシエナは、庭園の南端、苔やシダの生えた空き地に立っていました。映画では、レンタカーを乗り捨ててすぐに、自転車を踏み台にして擁壁を乗り越えます。
目の前には豆石敷きの小道があり、小道が木立の中へ消える辺りには大理石の彫像が立っています。写真のような場所でしょうか。
写真は、2018年にこの庭園を訪れた際、庭園を貫く大通り(ヴィオットローネ)の南西端付近から東方向を見通したものです。
ラングドンは、正しい文字列は「CERCATROVA」であり、「チェルカ・トローヴァ(cerca trova)」のことで、聖書の格言-”尋ねよ、さらば見いださん”と同じ意味をなし、その句はヴェッキオ宮殿の〈五百人広間〉にあるジョルジョ・ヴァザーリの壁画《マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い》に小さな文字で記されているとを話します。ラングドンが病院で呟いていたのは、”ヴェリー・ソーリー”という謝罪の言葉ではなく、ヴァザーリの名前だったのです。
6 ポッジョ・インペリアーレ大通り ~ ロマーナ門
ラングドンを捉えそこねて任務から排除されたヴァエンサは、旧市街を目指してポッジョ・インペリアーレ大通りからロマーナ門付近に着いたところで、道路が封鎖され、ラングドンがブリューダーの追跡をかいくぐったことを知ります。ポッジョ・インペリアーレ大通りは、ポッジョ・インペリアーレ広場にあったメディチ家の別荘とロマーナ門を結ぶ長さ1.3kmの直線の通りで、マリア・マッダレーナ大公妃の命令により、1622年頃にジュリオ・パリージによって建設された道路です。
ラングドンの行き先に心当たりのあるヴァエンサは、仕事をやり遂げようと決意し、来た道を引き返します。旧市街に入る別ルートとしてグラッツィエ橋を思い浮かべます。
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今回の投稿での旅はここまでです。次回、第1部の続き、第7節からいながら旅を続けます。
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