パスカル・メルシエの小説『リスボンへの夜行列車』de いながら旅(3)

● パルカル・メルシエ
● パルカル・メルシエリスボンへの夜行列車

 第3部の続き、第26節からいながら旅を続けます(第30、32、33、35、37、39~41節は割愛)。グレゴリウスは、プラドの周りにいた人々との交わりを深め、また、プラドが青春時代を過ごしたコインブラの街にも出掛けていきます。

 なお、コインブラに到着したときの駅の画像の引用元(画像下のキャプションに「PC-Googleマップ」と表記しているもの)がスマホのGoogleマップアプリでは表示されませんので、ご留意ください。


第3部 試 み(続き)

26 アドリアーナの魂の解放

 プラドの原稿を返しに、アドリアーナを訪ねます。どこにいたのか尋ねる彼女に、唐突に「あなたは何を期待していたのか」と切り出し、「お兄さんのような人が何が正しいか考えなかったとでも? あれほどの非難を受けて、簡単に日常生活に戻れると期待したわけではないでしょう」と激しく言い放ち、6時23分で止まっている置時計を指さして「アマデウは死んだんですよ、あなたはそれを知っている。この時間だったんだ」と話します。この女性を硬直した過去から解き放ち、現在形で流れる人生へと連れ戻すことが自分の使命だと考えたのです。すると、アドリアーナは、立ち上がり、置時計の針を現在の時間へと動かし、彼女の瞳は自信と明るさを取り戻します。

(47分28秒)

 別れ際、アドリアーナは、目を閉じてグレゴリウスの顔をかすかに触れながらなぞっていきました。グレゴリウスは、彼女の肩に両手を置いて「また来ます」と言うのでした。


27 ホテルへの来客

 映画では、グレゴリウスのホテルに、マリアナ・エッサが訪ねてきます。肺気腫を患っている伯父のジョアンに煙草を差し入れたグレゴリウスを非難しますが、グレゴリウスは、ジョアンの楽しみを奪うべきではない、監獄を思い出させるあの介護施設の方が体に悪いと反論し、そして、マリアナを食事に誘います。

(65分40秒)

 現在、この建物は〈ペンション・シルヴァ〉ではなくなっているようで(新型コロナの影響で廃業したのかもしれません)、以前看板があった場所にはスクリーンがかかっていました。

(2025年の旅行時の写真)

 グレゴリウスは、マリアナに、妻と別れたのは自分が退屈だからだと話します。

(66分28秒)

 2025年の旅行時に訪ねることはできませんでしたが、サン・ジョルジェ城が見渡せる屋上テラスのある、このレストランは、シアード地区にあるリスボア・ペソア・ホテル内のレストラン・バー〈Mensagem〉ではないでしょうか。

lh3.googleusercontent.com

 一方、小説では、青の家から出ることのなかったアドリアーナが自らホテルに訪ねてきて、「この手紙を知っているのが私だけなのが嫌なんです」と言って、グレゴリウスに2通の封筒を渡します。一つはプラドが父親に宛てた手紙の束、もう一つはプラドの父アレシャンドルがプラドに宛てた手紙で、いずれも相手に渡されることがなかったものでした。


28 ”ペルシャ”

 グレゴリウスは、プラドの手紙を読むために、もう一度かつてのリセウを訪れます。コルテス校長の部屋の壁に、シュニーダー夫妻からもらった写真集から切り取ったイスファハンの写真を貼り、そこを ”ペルシャ” に変えました。それから、校舎の中を歩き回ると、若きアマデウが本を読むために閉じこもったという地下の図書室を見つけます。

(33分23秒)

 映画では、アウグスト・ディール演じる若きジョルジェ・オケリーが見つけた禁書の本を隠れて読む場面で、図書館が映ります。

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 グレゴリウスは、シルヴェイラから夕食に招待されます。シルヴェイラの屋敷は、ベレンにあり、玄関ホールにはまるで大使館のようなシャンデリアが灯っていました。Google検索すると、実際ベレン地区には大使館の建物が複数あるようです。写真は、そのうちの一つ、レステロ通りにあるアズレージョの外壁が美しいカーボベルデ大使館です。

Googleマップ

 因みに、こちらのシャンデリアのあるホールは、ベレン地区にある大統領公邸で、2004年からその一部が博物館として一般公開されています。

lh3.googleusercontent.com

 同公邸は、1559年にマヌエル・デ・ポルトガルによって建てられ、後にジョアン5世が購入したベレン宮殿の建物で、宮殿の前に広がるアフォンソ・デ・アルブケルケ庭園の広場には、1902年に建立された、アフォンソ・デ・アルブケルケの像が立っています。

Wikimedia Commons

 シルヴェイラは、グレゴリウスから古いリセウで過ごす奇妙な時間の話を聞いて、子供たちが使わなくなったキャンプ用品を提供してくれます。そして、”ペルシャ” に行っているとき以外は、ここに住んでくれていいと申し出ます。


29 ホテルを出る

 グレゴリウスは、シルヴェイラの申出を受け、まるで世界一周旅行に出るかのように興奮して、荷物をまとめました。

(89分37秒)

 一方、映画では、チェックアウトのためフロントへ下りていくと、キルヒェンフェルト橋で救った女がそのときの礼を言うために会いに来ていました。彼女は、あのメンデスの孫娘で、プラドの本を読んで秘密警察の将校であった祖父の残虐性を知ったとのことでした。


31 エステファニア・エスピノーザ

 ジョアン・エッサのもとを訪ねると、彼は、グレゴリウスが尋ねる勇気がなく訊くことができないと思っていることを察して、エステファニア・エスピノーザについて話し始めます。

(70分26秒)

 ジョルジェ・オケリーの恋人で、読み書きができない者のための教室を主催して、そこを隠れ蓑にレジスタンスの会合を開いていましたが、1971年秋のある晩、教室にアマデウが来てから、彼女の方がアマデウに夢中になり、オケリーとの関係がぎくしゃくするようになりました。ところが、2月の末、メンデスの手先の男が現れてから、彼女の存在がレジスタンスにとってアキレス腱となりました。彼女は、信じがたいほどの記憶力の持ち主で、仲間のネットワークをすべて頭に入れていたので、彼女が捕まると仲間も道連れになる危険があったのです。映画では、メラニー・ロランが若きエステファニアを演じています。

(70分43秒)

 アマデウからジョルジュがエステファニアを殺すつもりだと聞き、ジョルジュが彼女を引き止めておけない苦しみから逃れようとしていると考えたエッサは、アマデウに彼女を国外に逃がすよう指示を与えます。映画では、拳銃を持ったジョルジュが逃げる二人を止めようとする場面が映ります。

(85分16秒)

 同じ場所で撮った写真がこちらで、アマデウの家とされた建物前の広場がバリアフリー化され、ジョルジュが駆け下りた段差のところがなくなっていました。

(2025年の旅行時の写真)

 アマデウは、1週間留守にして戻ってくると病気になり、ずっと後になって、エステファニアは、サラマンカの大学で歴史を教えていると聞いたとのことでした。話し終えたエッサは、勢いよく煙草を吸い込み、グレゴリウスは何を言っていいかわからず、ふたりとも黙ります。そして、グレゴリウスは、震えて寄る辺なさのこもった荒い声を漏らしてしがみついてきたエッサの頭をなでるのでした。


34 赤い杉

 グレゴリウスは、最近襲われる目眩の理由が悪いものであると知らされるのを恐れてマリアナ・エッサに電話することを避けていましたが、診療所の近くで彼女にばったり会い、診療所でコーヒーを飲みながら、色んな話をします。ベルンに一度戻ったことを除いて。そして、目眩のことを不安に思っていることも告白します。検査をしたマリアナは、危険なものではない、腫瘍なら別の発作が起きているはずだと言って、グレゴリウスの腕を撫でます。

(2025年の旅行時の写真)

 診療所を出たグレゴリウスは、メロディの家に向かいました。アマデウと父がそれぞれに宛てた手紙を渡すと、彼女は、まるで兄が父を死に追いやったみたいで不公平だと言いました。また、アドリアーナを訪ねたときのことを話すと、アドリアーナが青の家を時間が止まったままの博物館と寺院に変えてしまったこともあり得ることだと話し、そして、アドリアーナが兄に人生を捧げることになった出来事について話してくれました。

(2025年の旅行時の写真)

 アドリアーナが19歳のとき、医師国家試験を目前に控えたアマデウが家に帰ってきていた食事の席で、彼女が誤嚥して息ができなくなったのです。そのとき、アマデウは、意識を集中させ、アドリアーナの喉にナイフを突き立て彼女の命を救いました。

(55分43秒)

 アドリアーナは、後にメロディに、アマデウがナイフを刺す直前、窓の向こうの杉の木が血のような赤に染まったと言ったそうです。


36 プラドの最期

 青の家を訪ねると、アドリアーナはもう黒い服を着ていませんでした。グレゴリウスがアマデウと父親の手紙を返し、アマデウの机に置いてある覚え書きを見せてもらうために屋根裏の部屋に足を踏み入れると、そこも過去のままではなくなっていました。

(2025年の旅行時の写真)

 机の上にジョアン・デ・ロウサダ・デ・レデスマの『O MAR TENEBROSO(暗い海)』が置かれており、アドリアーナからアマデウがスペイン最西端のフィニステレ岬に取りつかれていたと聞きます。エステファニアと行った場所だったのでしょう。アドリアーナは、ポルトガルにはそこより更に西に位置する場所があるのに、どうしてスペインなのかと言って、アマデウにその地点を地図で示したそうです。アドリアーナが示したのは、北緯38度47分、西経9度30分、ユーラシア大陸最西端のロカ岬のことです。

(2025年の旅行時の写真)

 ここには、詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地果て 海始まる」が刻まれた石碑が立っています。

(2025年の旅行時の写真)

 アマデウは、エステファニアを連れて車で逃げますが、1週間が経ったとき、ひとりでタクシーで帰ってきたそうです。アドリアーナは、あの旅でアマデウに何が起こったかはわからないが、兄の気持ちを混乱させ、魂の深奥にある岩層がずれたかのようだと語りました。

(85分35秒)

 亡くなる1日前、アマデウは、頭痛を訴えて眠り込みます。翌朝、ベッドから抜け出たアマデウは、アウグスタ通りで倒れました。アドリアーナは、屋根裏部屋の時計の針をアマデウが亡くなった時刻6時23分に戻し、振り子を止めたのでした。


38 マリア・ジョアン

 マリア・ジョアンは、カンポ・デ・オウリケに住んでいました。プラゼーレス墓地がある地区で、写真は、墓地の東に、カスティーリャ王国からポルトガルの独立を守った1383~85年の危機において貢献したヌーノ・アルバレス・ペレイラに敬意を表して、建築家ヴァスコ・レガレイラがネオゴシック様式で設計したサント・コンデスターヴェル教会です。

Googleマップ

 教会の北側には、1934年に開業した大規模市場、カンポ・デ・オウリケ市場があります。

Googleマップ

 マリア・ジョアンは、アマデウのことを、真っ白で静謐、言葉そのものだったと表現し、自分はアマデウが秘密を打ち明ける相手としての役割を担っていたと語りました。アマデウはエステファニアに出会ってから、自分に何かを隠しているように感じられ、ジョアンは彼女に会うためにレジスタンスの会合に出かけていったようです。エステファニアを見て、彼女はアマデウにとって男として「まったき存在」となるためのチャンスのような存在に違いないと感じたようです。最後に、アマデウは、大学を卒業した後も、ジョアニナ図書館や帽子の間を見るために、何度もコインブラへ出かけていたと話してくれました。


42 コインブラ

 コインブラへの旅立ち

 月曜の朝、グレゴリウスは、マリア・ジョアンの言葉に触発されて、アマデウが大学時代に過ごしたコインブラへ列車で向かいました。彼が列車に乗ったのは、最初にリスボンに到着したときに降り立ったサント・アポローニャ駅です。

(2025年の旅行時の写真)

 ポルトガルの鉄道を運営しているのは、ポルトガル鉄道(CP=Comboios de Portugal)で、国内路線には、全席指定の特急列車アルファ・ペンドゥラール(AP。写真)、同じく全席指定の急行列車インテルシダーデ(IC)、全席自由席の普通列車レジオナル(R)・インテルレジオナル(IR)及び主要都市と近郊をつなぐウルバノス(U)の4種類があり、リスボンからコインブラまでは、APで1時間45分程度、ICで2時間、Rでも3時間半程度で行くことができます。

Wikimedia Commons

 リスボンからの列車は、市街地から離れたコインブラB駅に着きます。

PC-Googleマップ

 連絡の列車に乗り換えると、約5分で町の中心にあるコインブラ駅に到着します。グレゴリウスがどの列車に乗ったのかはわかりませんが、列車を降りたのは夕方でした。

PC-Googleマップ

 コインブラは、リスボン、ポルトに次ぐポルトガル第3の都市で、1255年にリスボンに遷都するまで首都が置かれていました。グレゴリウスは、モンデゴ川対岸(西岸)のホテルで部屋を取りました。写真は、サンタ・クララ地区にある3つ星ホテル〈JR Studios & Suites〉から見たアルカソヴァ丘の旧市街です。

Googleマップ

 グレゴリウスも渡ったであろう、モンデゴ川に架かる橋が、サラザール時代の1954年に開通したサンタ・クララ橋です。

Googleマップ

 橋を渡って旧市街の入口にあるのが、ポルタジェン広場で、広場の中央には、立憲君主制時代のポルトガルで閣僚評議会の議長などを務めた政治家ホアキン・アントニオ・デ・アギアルの像が立っています。

(2025年の旅行時の写真、以下同じ)

 広場から旧市街のメインストリートを北上すると、中程にドラ・トラカナによるファドのモニュメント「コインブラのカンタレス」が見えてきます。コインブラのファドはコインブラ大学の学生がギター片手に愛や郷愁、人生の哲学などを歌ったのが始まりとされ、男性歌手が歌うことが多く、リスボンのファドに比べて静かなムードです。

 グレゴリウスは、まずプラドとオケリーが学生時代に住んでいた旧市街の急な細い小路にある、〈レプブリカ〉と呼ばれる学生寮を訪ねます。写真は、ファドのモニュメント近くからから急な細い小路の一つ(ケブラ・コスタス通り)に通じる、バービカン門です。少し寄り道してみましょう。

 右に曲がって、かつての城壁の入口、アルメディーナ門を抜けます。

 坂と階段が続くケブラ・コスタス通りを上ります。2025年に訪れたときは、セイヨウハナズオウが満開でした。

 階段の途中には、2008年にセレスティーノ・アルベス・アンドレによって制作されたコインブラのトリカーナがあります。多くのポルトガル文学やファドに登場するポルトガルの洗濯女の像です。

 階段を上りきると、旧大聖堂として知られるサンタ・マリア・デ・コインブラ大聖堂のゴツゴツしたファサードが現れます。初代ポルトガル王アフォンソ1世によって1162〜84年に建設されたロマネスク様式の教会で、後に紹介する世界遺産の構成遺産にもなっています。

 グレゴリウスが辿り着いた学生寮の場所はわかりませんが、Googleマップでは、旧大聖堂の近くの小路に〈House Coimbra〉という学生住宅センターを見つけることができます。写真に写っている壁面の銘板には、「ポルトガルのシンドラー」とも呼ばれるアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがここに1902〜04年に法学生として住んでいたことが記されています。

Googleマップ
 コインブラ大学

 コインブラ大学は、1290年にディニス1世によってリスボンで創立され、数回の移転を経て、1537年にジョアン3世によってコインブラに恒久移転。ポルトガル最古、ヨーロッパでも屈指の歴史を誇り、2013年に「コインブラ大学 ― アルタとソフィア」として世界遺産に登録されました。

 大きな彫像が置かれた学舎の間を抜けて旧大学に向かいます。こちらは医学部前のヒポクラテスとガレノスに挟まれた医学の寓意像です。

(2025年の旅行時の写真、以下同じ)

 こちらは女神アテナの像です。

 こちらは総合図書館です。1308年にコインブラへ最初の大学移転が行われたとき、「エストゥドス・ヴェリョス(Estudos Velhos)」 として知られるこの辺りに設立されました。

 グレゴリウスが大学に着いたときには、帽子の間やジョアニナ図書館を見学できる時間を過ぎており、開いていたサン・ミゲル礼拝堂だけ見学し、翌日(本作では第43節に)ジョアニナ図書館を見学します。現在、コインブラ大学の見学時間は、こちらのサイトのとおりとなっています。2種類ある入場チケットのうちジョアニナ図書館も見学できるものを利用して旧大学を順に見ていきましょう。

 「無情の門」とも呼ばれる、旧大学への入口の鉄の門です。毎年5月の卒業シーズンには、ケイマ・ダス・フィタスというリボンを焼くお祭りが催されますが、門の格子のところには、学生が卒業記念に結んだリボンの残骸が見られます。

 鉄の門の足元には、恵の女神ミネルヴァを描いた大学紋章のモザイクがあります。

 門を抜けると、広い中庭に出ます。

 中庭の中央に立っているのは、リスボンに戻っていた大学を1537年にコインブラに永久移転させた、ジョアン3世の像です。

 見えている旧大学の建物や時計塔は、元々はジョアン3世のアルカソヴァ宮殿でした。早速、中に入ってみましょう。

 階段を上がった廊下が、かつてここを通るときはラテン語を話すことが義務付けられていたというラテン回廊です。

 中の階段を上ると、かつての宮廷学術憲兵隊の武器が展示されている武器の間に出ます。壁に飾られているのは、マテオ・コロナードが旧約聖書のトビトの生涯を描いた絵画です。

 隣には、壁が黄色の絹で覆われ、歴代学長の肖像画が飾られた黄色の間があります。宮殿であった当時は王の居住区域であった部屋で、教授が会議をする際に使用されていました。壁の色が学部を象徴しており、黄色は医学部を表しています。向こうに見える水色は理工学部の公式色です。

 3階の廊下の窓からは、モンデゴ川と旧市街の街並み、右側手前には先ほど紹介した旧大聖堂のドームが見えます。

 こちらは、3階にある帽子の間。かつての王座の間で、1639年に建築家アントニオ・タバレスが改修し、現在、学位授与など大学の式典の会場として使われています。

 続く個人試験の間には、16〜18世紀に総長を務めた38人の肖像画が展示されています。天井にはポルトガル王国の紋章と大学創立時の4つの学部のエンブレムが描かれており、写真の十字架と太陽のデザインは、神学部です。

 中庭の左側に向かい、グレゴリウスが最初に見た、サンミゲル礼拝堂を見学します。

 入ると、精巧なアズレージョ・タイルに覆われた壁や天井の美しさに圧倒されます。

 身廊中央には、グレゴリウスが見て教会に行った様々な機会を思い起こしたという、バロック時代のオルガンがあります。

 現在の礼拝堂は、マルコ・ピレスが設計し、彼の死後、ディオゴ デ カスティリョが完成したもので、金箔を施した木工細工の主祭壇は、1605年にベルナルド・コエーリョが設計し、彫刻家シマン・ダ・モタが制作したものです。

 天井画は、フランシスコ・F・デ・アラウホによって完成されたもので、中央には、ミカエル、ラファエル、ガブリエルの三大天使に囲まれた王室の紋章があります。

 グレゴリウスは、立ちあがったときに目眩に襲われ、講義室に向かいますが、私たちは、最後に、チケット購入時に予約した時間に、1728年にジョアン5世の命で建てられたジョアニナ図書館を見学しましょう。左横の階段を下りて、下の階から入場します。

 1階には、教授や学生用の牢獄があります。1畳程の広さの独房もありますが、こちらは大部屋の共用房です。左の階段のところは、最上段に穴が開いていてトイレになっています。

 2階から上が図書館になっています。作中にあるように、蔵書は30万冊に及びます。昨今はデジタル化が進んでいますが、現在も年間800冊程借出しがあるとのことです。

 3階が、グレゴリウスがまるでおとぎ話の中にいるようだと感じた、バロック様式のジョアニナ図書館です。作中にあるように、金と熱帯地方(南米)の木とで装飾され(シノワズリ装飾)、赤い長絨毯が華麗な印象を強めている豪奢な空間です。凱旋門を思わせるアーチで繋がった、大きな2部屋で構成されており、サイドには教授用の閲覧室もあります。写真撮影不可なので、下の画像は絵葉書ですが、手前の部屋は赤っぽい色合いです。

 緑っぽい色合いの奥の部屋には、ジョアン5世の肖像画が掲げられています。この部屋は、エマ・ワトソン主演の2017年の映画『美女と野獣』に出てくる図書館のモデルになっています。

Wikimedia Commons

 グレゴリウスは、書棚から『オデュッセイア』を手に取り、ただ一度きり出てくるホメロスの言葉を探してページをめくりますが、出てきません。雲の層が身体の中を通り過ぎていくかのような感覚を覚え、再び目眩に襲われ、外に出ます。

 2025年の旅行時に撮影したこの大学のほかの写真は、こちらを参照してください。

 サンタ・クルス教会

 グレゴリウスは訪れていませんが、世界遺産の構成遺産になっており、ポルトガル史上重要な教会の一つに寄り道したいと思います。1131年にアフォンソ・エンリケスによって城壁外に建てられた修道院の一部で、ソフィア地区の5月8日広場の北側にある、ロマネスク様式とバロック様式によるサンタ・クルス教会です。

(2025年の旅行時の写真、以下同じ)

 単一の身廊で、壁一面がポルトガルの歴史上の出来事が描かれたアズレージョに覆われています。るるぶなどには必見と評価されていますが、アズレージョの青色の濃淡が不揃いであったり、タイルの絵が合っていなかったり、仕上がりが粗悪だとも言われています。

 歴史上重要であるというのは、主礼拝堂にポルトガルの最初の2人の王アフォンソ1世(アフォンソ・エンリケス)とサンシュ1世の王墓が祀られており、リスボンのサンタ・エングラシア教会と同じ国立パンテオンの地位にあります。

 左側がアフォンソ1世の墓です。1139年にポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝の初代の王で、「征服王」とも呼ばれます。

Wikimedia Commons

 右側がサンシュ1世の墓です。アフォンソ1世の息子で、殖民を奨励して領土を開拓し、内政を確立したことから「殖民王」とも呼ばれます。

Wikimedia Commons

 身廊左上部に設置されたオルガンは、マヌエル・ブリト・ゴメス・エレラが1724年に完成した作品で、4000本のパイプで構成された、バロック様式の華やかなものですが、演奏方法が複雑で、実際に演奏できるのはわずか4人だけと言われています。

(2025年の旅行時の写真)

 2025年の旅行時に撮影したこの教会のほかの写真は、こちらを参照してください。


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 今回の投稿での旅はここまでです。次回、第3部の続き、第43節からいながら旅を続けます。

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