ダン・ブラウンの小説『インフェルノ』de いながら旅 (8)

● ダン・ブラウン
● ダン・ブラウンインフェルノ

 第3部からいながら旅を続けます。ラングドンは、エリザベス・シンスキーに再会して、どうしてフィレンツェを訪れていたのかその理由を聞き、総監からこれまでの偽装工作とゾブリストやシエナについて真実を明かされます。そして、ゾブリストが仕掛けた病原体を見つけるため、最後の舞台イスタンブールに向かいます。そのころ、FS-2080のコードネームを持つシエナも、イスタンブールを目指していました。


第3部 イスタンブール

33 アタテュルク国際空港

 ラングドンは、右手前方にイスタンブールの街明かりが見える中、シンスキーらとともにC-130輸送機でアタテュルク空港に到着します。

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 トルコの初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの名の付いたアタテュルク国際空港は、イスタンブールの中心部から南西に約15kmのところにある同国最大の空港でしたが、2018年10月のイスタンブール新空港の開港に伴い、2019年4月に旅客便の全面移行が完了し、貨物便も2022年2月に移行しています。写真は、2012年に旧トルコ航空を利用して乗り継いだときに撮影したターミナルです。

 シンスキーの調査で、アヤソフィアの地下に浸水池があることがわかり、ゾブリストの詩にある「聖なる英知のムセイオン」がアヤソフィアであると確信します。


34 ケネディ通り ~ スルタンアフメット公園

 ラングドンとシンスキー一行は、空港をあとにして、海沿いの道路をイスタンブール中心部に向かいます。途中、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディに因んで名付けられたケネディ通りを通ります。同通りは、空港近くを通るラウフ・オルバイ通りに続き、アタキョイ・マリーナから海の城壁と呼ばれるコンスタンティヌスの城壁の一部に沿って東へ進みます。写真は、マーブル・タワーの付近です。

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 映画では、小説のラングドンがそこまでは行けないと思った、左の丘の上にトプカプ宮殿が立つ地域が映っています。

(93分11秒)

 ラングドン達が乗ったバンがケネディ通りを離れて市街を進み、右に曲がってトルン通りに入ったとき、左側にブルーモスクが姿を見せます。小アヤソフィア通りからの曲がり角辺りのことでしょう。そこは、トルン通りに並行して約80軒の店が並ぶアラスタ・バザールの入口に当たります。

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 カバサカル通りへ曲がって、スルタンアフメット公園の端でバンを降ります。シンスキー、ブリューダー、ラングドンが横切った公園には、作中にあるように様々な観光スポットがありますので、少し紹介しましょう。


35 スルタンアフメット公園

 「ブルーモスク」として知られる、スルタンアフメット・モスクは、オスマン帝国の第14代スルタンのアフメト1世の命により、メフメト・アーの設計で1609~16年に建造された、世界で最も美しいと評されるモスクで、2019年にチャムリジャ・モスクができるまでは、世界で唯一6本のミナレットを有するモスクでした。写真は、2012年8月の旅行時、午後8時過ぎに撮影したもので、ミナレットのシェレフェに灯りがともり、ドームの前には「LA ILAHE ILLALLAH(アラーのほかに神はなし)」の文字が点灯しています。また、手前に見える噴水が、ラングドンが立ち止まった公園の中心に位置する円形の池です。

 公園の西側の細長い広場は、現在、スルタンアメフット広場又はアト広場と呼ばれていますが、203年皇帝セプティミウス・セウェルスが建設し、コンスタンティヌス帝時代に修復完成した長さ約450m、幅約130mの競馬場(ヒポドゥローム)跡で、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂のファサードに設置されたサン・マルコの馬は、この競馬場にあった装飾品でした。

 広場には、3本の石柱が立っており、広場中央に聳えるのがテオドシウスのオベリスクと呼ばれるもので、もとはトトメス3世が古代エジプトの都テーベ(現在のルクソール)に建てた護石で、コンスタンティヌス大帝時代に戦利品として運ばれ、テオドシウス1世の時代に現在の場所に建てられたものです。因みに、第4次十字軍を招き入れて即位したアレクシオス5世は、この柱の上から突き落とされて処刑されました。

 その後ろには、3匹の蛇が絡み合う青銅製の蛇の柱(蛇の頭の一つはイスタンブール考古学博物館にあり、残りの二つは行方不明)があります。プラタイアの戦いでペルシアに勝利したことを記念して、デルフィ神殿に建てられた古代ギリシャの犠牲の三脚の一部で、こちらもコンスタンティヌス大帝時代に移されたものです。

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 広場の南端にあるのが、作中にあらゆる距離を図る際の基準点となっていたミリオンの石柱と紹介されているもので、テオドシウス帝が建てたものをコンスタンティヌス7世が碑文を加えた青銅板で覆って修復したことからコンスタンティヌスのオベリスクと呼ばれています。青銅の銘板は、第4回十字軍によって奪われたとされています。

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 また、広場の北端には、ドイツの噴水と呼ばれる、ネオビザンチン様式の八角形のドーム付きの噴水があります。1898年のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のイスタンブール訪問2周年を記念して建設されたものです。

 そこへ、シエナが、WHOの封鎖を掻いくぐり、リド島のニチェリ空港からジェット機を使ってヘザルフェン私設飛行場に到着したという情報が入ってきます。


36 アヤソフィア

 「聖なる叡智」という意味のアヤソフィアは、コンスタンティヌス大帝が着工し、360年にコンスタンティヌス2世によって完成された後、2度の焼失を経て、537年にユスティニアヌス1世によって再建された大伽藍で、献堂時、同帝が「ソロモンよ、余は汝に勝てり」と叫んだと伝えられています。その後も地震による崩落や聖像破壊運動(イコノクラスム)によるモザイク破壊などがありましたが、その都度修復して維持されてきた、ビザンチン建築の最高傑作です。作中(下巻121~2頁)には、建造物というよりも山のようだと形容され、銀白色の畝がある中央のドームは、信じられないほど大きく、まわりに積みあげられたほかのドーム状建築物の上に載せられているかのように見え、バルコニーを一つ備え、尖頂が銀白色の尖塔が四隅からそそり立っていると表現されています。

 この建物は、360年からギリシャ正教会、第4回十字軍後ラテン帝国の支配下に置かれた間はカトリック教会、1261年からは再びギリシャ正教会、1453年にメフメト2世のオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落した後はイスラム教のモスクとなり、第一次世界大戦後の1934年(公開は翌年から)に隣国ギリシャとの関係改善のため博物館(ムセイオン)となり、1985年世界遺産「イスタンブール歴史地域」に登録されました。ところが、本作後の2020年7月、アヤソフィアをモスクに回帰させることが決定され、「アヤソフィア大モスク(アヤソフィア・イ・ケビール・ジャーミィ・イ・シェリフィ」として再びイスラム教の礼拝場となりました。

 ラングドン一行が博物館の協力者ミルサットと落ちあったのは、アヤソフィアの南西角にある、八角形の屋根に覆われ、華やかな柵で囲まれた、浄めの泉(シャディルヴァン)でした。1740年にオスマン帝国のマフムト1世によって追加されたものです。

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 一行は、ミルサットの案内で、小さな広場を抜け、一般観光客用の入口を通り過ぎ、アヤソフィアの正面入口へ向かいました。物語に従って、モスク化される前の状態で入ってみますが、2024年1月15日以降、1階は礼拝専用となり、外国人観光客は2階部分のみ入場可となりました(開館時間、入場料等はこちらを参照してください)。

Wikimedia Commons に加筆)

 アヤソフィアの正面入口は、建物の北西側にあり、作中(下巻132頁)にあるように、大きく引っ込んだ3つのアーチに、巨大な青銅の扉が設けられています。

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 扉を入り、一行が足を踏み入れたのは、ラングドンが「宗教の濠」と呼ぶ、外拝廊(エソナルテクス)でした。

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 続いて、内拝廊へと進み、皇帝の扉へ向かいます。高さ7mはアヤソフィア最大で、青銅の枠にオーク材を青銅板で覆ったこの扉は、皇帝とその随行員のみが通行を許されました。

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 ラングドンが見とれたのは、扉の上のティンパヌムに9世紀後半から10世紀前半頃に描かれた《キリストと皇帝》のモザイク画で、中央に、左手に新約聖書を持ち、右手で祝福を与えているキリスト、左右の円の中に、聖母マリアと大天使ガブリエル、キリストの前に、膝まづくレオ6世賢帝が描かれています。

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 因みに、同じ内拝廊の南側の扉の上のティンパヌムにも見るべきモザイク画がありますので、南出口から退出するとき振り返って見てください。10世紀末から11世紀初めの《聖母子に献上する皇帝》のモザイク画で、中央の玉座に座る聖母子に向かって、左側のユスティニアヌス1世がアヤソフィアの建物を、右側のコンスタンティヌス大帝がコンスタンティノープルの街を献上する図が描かれています。

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 皇帝の扉を抜け、壮大な内陣に歩み入ったラングドンは、訪問者を瞬時に圧倒するその広さにまず驚きます。南北約70m、東西約75mという大きさは、ラングドンが知っているとおり、四角い空間にすべてを凝縮する一点集中型のビザンチン様式の設計が、錯覚も一役買って、見る者を驚倒させるほどの巨大さを感じさせるのでしょう。光り輝くいくつものシャンデリアが頭をぶつけてしまいそうなほど低く吊られているように見えるのも、この空間の広大さが生み出す目の錯覚なのです。

 なお、モスク化後は、床面にターコイズブルーの絨毯が敷かれています。

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 視線を上へ向けると、55.60mの高さに、黄金のドームが大きく広がっています。558年の地震で崩壊した後、563年に再建されたもので、計画では真円になる予定でしたが、建築中の歪みで南北31.87m、東西30.86mの楕円形になっています。中心には太陽が描かれて、それを囲むようにコーランから抜粋されたアラビア語の碑文があり、そこから40本の肋材が陽光のごとく放射状に延び、40個のアーチ窓が並ぶ円形の拱廊につながって、窓から差す光が黄金のタイルに反射して神秘の光を生み出しています。

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 「天国そのもののドーム」と称される、輝く黄金の丸屋根は、ペンデンティブを用いた4つの巨大なアーチに支えられ、そのアーチもいくつもの半円ドームと三角壁、拱廊に支えられており、作中の表現(下巻136頁)を借りれば、構造物が天から地へと滝のように連なって落ちていく効果を生み出しています。

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 4つのペンデンティブには、6枚の翼を持つ、天使セラフィム(熾天使)又はケルビム(智天使)が描かれています。オスマン帝国時代に星の形をした金属製の蓋で顔が覆われておりましたが(モザイク自体も漆喰で塗られていました)、2009年の修復の際、そのうち1体の蓋が除かれ、顔が見えるようになりました。因みに、西側の2体は、19世紀にフォッサティ兄弟による修復の際、モザイクではなくフレスコ画で修復されました。

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 先を急ぐ一行の思いをよそに、ミルサットはアヤソフィアの見所を説明し始めます。彼が指し示した後陣の半円形の壁龕には、キリストのモザイク画と翻訳されています(下巻137頁)が、実際は《聖母子》のモザイク画(拡大)があります。見落としがちですが、その右側には《大天使ガブリエル》のモザイク画も残っています。

 なお、モスク化後は、これらのモザイク画は、白い布で覆われています。

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 聖母子の両脇にはアラー(右)とムハンマド(左)のアラビア語名を示す飾り文字が記された巨大な円盤(メダリオン)が掛けられています。聖母子が見下ろす位置には、メッカの方角を示すミフラーブ拡大)があり、右側のメダリオンの下には、ミンバルという導師が礼拝を執り行う台があります。

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 ミンバルの反対側(後陣左側)には、ガスペレ・フォッサティが設計して1847年に建て替えた、八角形のテラスを持つ、スルタンのロッジがあります。スルタンを暗殺者から守り、スルタンが人目につかずに儀式に参加するために使用されたものです。

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 写真手前が、内陣の中央にある、オンファリオンと呼ばれる5.65m四方の区画で、東ローマ帝国時代には世界の中心と考えられ、ビザンチン皇帝の戴冠式などが行われていました。また、写真奥に見えているのが、作中(下巻140頁)に柱と屋根で囲まれた区画で、礼拝告知係が導師の祈りに合わせて膝まづいて詠唱する場所と紹介される、ムアッジン・マフフィリです。

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 先を急かされたミルサットは、疑問を抱えたままエンリコ・ダンドロの墓へ案内すべく、清めの壺の一方の前を通ります。ムラト3世の治世中にペルガモンから持ち込まれた一個の巨大な大理石から作られたもので、かつては外に置かれ、イスラム教徒が祈りの前にその水で身体を清めたようです。

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 エンリコ・ダンドロの墓は上にあると言うミルサットは、一行を階段の方へ案内します。2階へ上がるには、内拝廊の北側から石畳のスロープを上ります。要人が馬に乗ったまま上がれるようにスロープになっているのです。

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 ラングドンは、ブリューダーとシンスキーの不安を感じとり、自身も2階に登るのは意味がない気がしながらも、ダンドロの墓が上にあるならば、ゾブリストの詩のとおりそこへ行くしかないと先に進みました。


37 エンリコ・ダンドロの墓

 2階に着くと、ミルサットは、三人を右へ案内します。ラングドンは、バルコニー(南西側)のへりから見下ろす内陣の眺めに一瞬息を呑みますが、気を散らさずに前を向くのでした。さきほど紹介したミフラーブほかが見えています。

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 小説に記述はありませんが、ダンドロの墓に至るには、この「天国と地獄の門」と呼ばれる大理石の門を抜ける必要があります。

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 ラングドンが密かに研究をしていると勘ぐり、彼が本当に見たいものだとミルサットが推測したのがこちらの《請願図(デイシス)》です。カトリックから正教会への回帰を果たした1261年に制作されたものとされ、中央のキリストに聖母マリアと洗礼者ヨハネが最後の審判の日に人々の罪を許すようとりなす様を描いています。下部3分の2は地震等により消失していますが、モザイクの細かさや色調、柔らかい顔立ちなどその巧みな表現力から、ビザンチン美術の最高傑作と評価されています。

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 バルコニーには、ほかにも素晴らしいモザイク画を見ることができますので、奥に進んで見ておきましょう。南東側(後陣側)のバルコニーに窓を挟んで並んでおり、左側にあるのが、11世紀に制作された《キリストと女帝ゾエ夫妻》のモザイク画です。右側の人物が東ローマ帝国を実質的に支配していた女帝ゾエです。ゾエは生涯で3度結婚しており、その度に夫の顔を描き直させており、左側の人物は3番目の夫である東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスです。

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 窓の右側にあるのが、1122年に制作された、アヤソフィアへの献上の場面を描いた《聖母子と皇帝家族》のモザイク画です。中央の聖母子を挟んで、左側で金貨の入った袋を持っているのが皇帝ヨハネス2世コムネノス、右側で目録を手にしているのが皇后イレーネです。右側の柱のところには、彼らの息子アレクシオス・コムネノスの姿もあります。

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 物語に戻って、エンリコ・ダンドロの墓は、《請願図》と向かいあう壁面近くにあります。作中(下巻144頁)のとおり、白大理石の直方体が磨かれた石の床に埋め込まれ、鎖を渡した柵で囲まれています。彼は1205年にイスタンブールで亡くなり、アヤソフィアに埋葬されましたが、墓は既に破壊されたとされており、ここにあるのは彼が埋葬されたと推定される場所に設置された慰霊碑です。

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 映画のエンリコ・ダンドロの墓は、1階の内陣にある設定で、「ヘンリクス・ダンドロ」の銘の入った墓碑は実際のものを真似ていましたが、台座のようなものがあるいかにも墓というセットでした。

(98分46秒)

 ラングドンが両膝を突いて左耳を墓碑に押し付けると、流れる水の音が聞こえます。そして、ミルサットから、その水の行き先は、街の貯水池であり、「沈んだ宮殿」という意味のイェレバタン・サラユだと聞かされるのでした。


38 イェレバタン・サラユ

 イェレバタン・サラユは、トルコ語で「沈んだ宮殿」という意味で、アヤソフィアの南西150mに位置し、地上には、作中(下巻152頁)にあるように、赤と白の煉瓦でできた建物があります。

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 6世紀にユスティニアヌス1世が再建拡張した、長さ138m、幅65m、面積約9,800㎡、貯水量78,000㎥の貯水槽で、高さ9mの円柱を、5m間隔に12本、28列、計336本並べた、東ローマ帝国時代の貯水槽としては最大のもので、世界遺産の構成遺産にもなっています。

(参考図書⑮93頁から引用)

 映画『007/ロシアより愛をこめて』の舞台となったことでも有名ですが、2017〜8年には、柱やアーチ、石造物等の補修と清掃がなされ、イスタンブールでも人気の観光地として多くの観光客が集まっています。訪れた人は地表から52段の階段を下り、神秘的なその姿を見ることができます。入ってみましょう(チケットについてはこちらを参照してください)。

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 その日、貯水池では、イスタンブール国立交響楽団のコンサートが開かれていました。起源を1872年に遡る1945年設立の楽団で、日本にも来演しています。演奏していたのは、フランツ・リストの『ダンテ交響曲』でした。ダンテの『神曲』をモチーフとし、「地獄」と「煉獄」という2楽章からなる珍しい交響曲で、赤い光に照らされた地下洞窟に地獄を髣髴させる音楽が鳴り響いていました。

(102分4秒)

 ラングドンは、メドゥーサを示す案内板を見て、ゾブリストの詩の「沈んだ宮殿に至れば・・・かの地の闇に地底世界の怪物が待ち・・・」から、メドゥーサが道を示していると考え駆け出します。そして、上下逆さまに置かれたメドゥーサを見て、時獄篇の最終歌にある大地の中心では重力が逆さになる(参考図書③142~3頁)ことから、ここがゾブリストの爆心地だと悟ったのです。

(103分15秒)

 円柱のほとんどは廃墟となった建物から回収されたもので、ローマ帝国の様々な地域から運ばれてきたものと考えられています。本作に登場する逆さまに置かれたメドゥーサの頭は、貯水槽の北西隅の(映画の映像とは異なり)小さな区画のプールに1体だけ置かれています。その起源は解明されておらず、ローマ時代の建物やギリシャ神殿などから取り外されたものという考えや地下宮殿のために特別に作られたものとする考えなど様々です。

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 伝承によれば、この施設を危害から守るために設置されたものとされ、メドゥーサの視線の力を失わせるために逆さまに置かれたと考えられており、隣にはもう1体、横向きに置かれたメドゥーサもあります。

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 そのほかにも、コリント式やイオニア式、飾り気のないレンガの柱など様々な様式の円柱が混在しているほか、北東角には軸に螺旋状の溝が彫られた柱、南東角にはねじれた軸と華やかな彫刻が特徴的なソロモンの柱と呼ばれる柱、北西角には象牙の彫刻で飾られた柱や泣いている女性の像によって支えられ、耳を当てると柱が泣いている音が聞こえるという嘆きの柱、そして、鶏の目のような彫刻が彫られた柱(写真)もあります。

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 近くの水中にゾブリストのビデオに映っていたプレートを見つけます。

(104分42秒)

 映画は、小説と異なる展開をし、ゾブリストの遺志を実現しようと爆弾で病原体の入った袋を破ろうとするシエナらとその仲間の企てを格闘の末に阻止し、ウィルスの封じ込めに成功します。

(111分46秒)

 一方、小説では、袋は既に溶けてなくなっており、シエナはその場から逃走し、ラングドンがその後を追います。


39 金 角 湾

 ラングドンは、カラダ橋に向かう市バスに飛び乗ったシエナを、近くにいた白いターバンの男に協力を求めて車で追跡します。バスが進む前方、金角湾のほとりに見えるのが、平たく長い建物と名高い1対の尖塔の高さ(52m)でそれとわかるとする、イェニ・モスクです。「新しい」という意味ですが、建設は1597年にメフメト3世の母サフィエの命により始められました。メフメト3世の死去に伴い建設は放棄されますが、メフメト4世の母トゥルハンによって再開され、1663年に完成(開館は1665年)します。

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 エジプトから納められた貢物により、イェニ・モスクのキュリイェ(複合施設)として建設されたのが、エジプシャン・バザールで、写真のとおりL字型をしており、香辛料専門店が軒を連ねていたことから、スパイス・バザールとも呼ばれ、屋根のある市場としては世界最大級のものです。

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 バザールの入口は、ゴシック様式のアーチを備えた巨大な石造りの門になっています。渋滞のため身動きがとれなくなったバスを降りたシエナは、そのアーチ門に向かい、バザールの群衆に紛れ込みます。ラングドンも車を降り、シエナの後を追いました。

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 シエナは、バザールの西翼の端の出口に向かい、派手に転倒したかと思ったら次の瞬間には姿を消していました。

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 出口から大きな広場に飛び出したラングドンの前には、多車線の幹線道路の向こうの金角湾に延びるガラダ橋があり、右手にはイェニ・モスクの二つの尖塔が聳えていました。この写真では、ガラダ橋は確認できませんが、左手奥に対岸のガラダ塔を見ることができます。

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 岸辺に辿りついたラングドンは、ボスボラス海峡のラスヴェガスと形容する、けばけばしく飾り立てられ、円蓋や金メッキの装飾、点滅するネオンサインを備えたディナークルーズ船の横を走り過ぎます。

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 シエナは、モーターボートへの同乗を断られると、発進したボートに飛び乗って、操舵手の青年を放りだし、ボートを走らせました。ところが、途中で金角湾を旋回し、ラングドンのところへ戻ってきます。ラングドンにすべての真実を話すために。


40 イェレバタン・サラユ

 そのころ、貯水池では、ブリューダーほかSRSチームの隊員たちは、次善の策を実行すべく、PCRユニットを使って検査を開始します。

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 ブリューダーが戦慄して見守る中、すべてのPCRユニットが赤く明滅しはじめます。地下の全域にウィルスが充満していたのです。そして、アトランタの疾病予防管理センターからの連絡で、ウィルスが既に世界中に蔓延していることが知らされます。


41 金 角 湾

 シエナは、小さな公園にラングドンを誘い、二人は湾を一望できるベンチに腰を下ろしました。彼方の対岸では、ガラタ塔が丘陵に点在する家々を見下ろしていました。

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 シエナによれば、ゾブリストは、人のDNAを改変して生殖機能を奪うウィルスを作り出していました。ただし、活性化するのは3分の1。そして、シエナは、ゾブリストの遺志を実行しようとしていたのではなく、政府機関にわたって兵器として利用されないよう、ウィルスを自ら探し出して跡形もなく破壊するつもりだったのです。

 ラングドンは、逃げようとするシエナを、今や世界がシエナの知識を必要していると言って引き止めます。


42 在イスタンブール スイス領事館

 ラングドンは、ワン・レヴェント・プラザにある、凹面状の青いガラスのファサードが古の大都市が形作る輪郭に囲まれた未来の石板といった風情を醸し出している、瀟洒な高層ビル内にある、在イスタンブールのスイス領事館の臨時オフィスにエリザベス・シンスキーを訪ね、シエナを引き合わせました。

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 シエナから全てを聞いたシンスキーは、世界中の主要な健康機関の代表者が集う会議にシエナが参加することを求めます。シエナに彼女の話を一言一句信じると言って。


43 アタテュルク国際空港

 ラングドンは、夜明け前のアタテュルク国際空港で、シンスキーとともにジュネーブに向かうシエナを見送ります。

(2012年の旅行時の写真)

 ラングドンの唇にキスをして、さびしくなると囁くシエナに、ラングドンは、「今宵を忘れるな・・・永遠のはじまりなのだから」と、ダンテの言葉とされている格言を送るのでした。


第4部 再びフィレンツェ

44 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

 ラングドンは、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で催された、イニャツィオ・ブゾーニの葬儀に出席しました。

 第23節では、ドゥオーモのファサードには目もくれなかったラングドンとともに洗礼堂に急ぎましたので、ここでじっくりお見せしましょう。アルノルフォ・ディ・カンビオが手掛けた当初の装飾は、1587年に取り壊され、その後何度も計画が頓挫しましたが、最終的にエミリオ・デ・ファブリスの設計によりルイージ・デル・モロによって1887年に現在のゴシック様式のファサードが完成しました。3色の大理石は、キリスト教の3美徳(信仰・希望・慈愛)を表しており、白(信仰)はカラーラ産、緑(希望)はプラート産、赤(慈愛)はシエナ産の大理石が使われています。

 最上部の円の中には父なる神が、その下には、ジョット、ダンテ、ブルネレスキ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどフィレンツェで活躍した著名人が横一列に並び、バラ窓の下には、中央の聖母子を挟んで十二使徒が並んでします。

 左の扉の上には、「フィレンツェの慈善事業の創設者たちと慈愛の擬人像」のモザイク画、左右の壁龕には、1296年に礎石を置いたピエトロ・ヴァレリアーニ枢機卿と、1357年ドゥオモ最初のピラスター(飾り柱)を祝福したアゴスチーノ・ティナッチ司教の彫像

 右側の扉の上には、「聖母マリアに贈り物をするフィレンツェの職人、商人、人文主義者」のモザイク画、左右の壁龕には、1436年に完成した大聖堂の献堂式を執り行った教皇エウゲニウス4世と、ドームの起工を祝福したフィレンツェの大司教アントニオ・ピエロッツィの彫像

 中央の扉の上には、「玉座のキリストと聖母マリア、洗礼者ヨハネと聖人たち」のモザイク画。モザイク画は、全てニコロ・バラビーノのデザインです。

 中央扉は、聖母の生涯を描いたアウグスト・パッサリアによるブロンズの扉で、左右の壁龕には、フィレンツェの守護聖人の聖レパラータとフィレンツェの初代司教の聖ザノービの彫像が置かれています。

 では、中に入ってみましょう(入場は無料です)。作中(下巻259頁)に表現されているとおり、華やかなファサードに比べ、大聖堂の内部は飾り気がなく、禁欲的なほど簡素です。3廊式の身廊は、長さ153m、幅38mと世界で4番目の大きさです。

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 ラングドンは、ドゥオーモ内部を歩きまわり、ブゾーニが愛した芸術品を賞美しました。こちらは 中巻118頁に評判が悪く、悪意ある議論が戦わされたとされた、ドーム内面に描かれたヴァザーリの《最後の審判》です。図像は言語学者のヴィンチェンツォ・ボルギーニが考案し、ヴァザーリ死亡後はフェデリコ・ツッカリが引き継いで完成させました。写真は、2018年にドームに登った際、歩廊から撮影したものです。

 ドームの基礎のドラム部分には、7つの丸窓が設けられ、ステンドグラスがはめ込まれています。こちらは、ドナテッロによるステンドグラス《聖母の戴冠

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 ギベルティによるステンドグラス《キリストの昇天

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 同じくギベルティによる《ゲッセマネでの祈り

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 ファサードのバラ窓も、ギベルティの《聖母被昇天

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 バラ窓の下にある、パオロ・ウッチェロの24時間時計

(2010年の旅行時の写真)

 こちらは2010年の旅行時に購入した絵葉書ですが、床のモザイク装飾がよくわかると思います。

 そして、身廊左の壁面にある、第3節に登場した、ミケリーノによる《ダンテ、『神曲』の詩人

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45 ホテル・ブルネッテスキ

 ラングドンがサンテリザベッタ広場を渡って戻ったのが、〈ホテル・ブルネッレスキ〉です。広場には、現在、ホテルの一部(地下は博物館)となっている、パリアッツァの塔が残っています。起源については諸説ありますが、6世紀ころビザンチン帝国によって市壁の一部として建てられたとされる、フィレンツェに現存する最古の建物の一つで、女性刑務所(塔の名前は、囚人が寝具として使用した藁(paglia)に由来)や教会としても利用されました。

 部屋に戻ったラングドンを待っていたのは、シンスキーから届いた包みで、中には、ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅のロッカーから回収されたダンテのデスマスクのほか、彼のお気に入りのハリス・ツイードのジャケットやローファー、そして、愛用のミッキー・マウスの腕時計が入っていました。


46 ヴェッキオ宮殿

 ラングドンは、マルタ・アルヴァレスとの約束を果たすため、ヴェッキオ宮殿を訪れ、案内された五百人広間へ向かいますが、彼女は子供が生まれたため、現れません。

 そこで、ラングドンは、ダンテのデスマスクを展示ケースのあるべき場所にこっそり戻し、ギャラリーに戻る途中で若い女のガイドに照明を点けた方がいいと告げます。デスマスクはないという彼女に、今見てきたところだと言ってその場を立ち去ります。映画でも、同じ設定の場面が映ります。

(116分8秒)

 後ろの扉の向こうに階段がある、デスマスクの展示室前とされる、この廊下のロケ地がどこなのかはわかりませんでした。


エピローグ

 ラングドンは、ビスケー湾の黒い海原の上空、アリタリア航空のボストン行きの機内で、ペーパーバック版の『神曲』を読みながら、ここ数日のあらゆる出来事に思いをさまよわせます。そして、危難の時代に無為でいることほど重い罪はないと自覚しつつ、天空に視線を向け、今まさに真っ向から未来を見据え、複雑に変容した世界の舵をとろうとしているふたりの勇気ある女性に思いをはせるのでした。

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 アリタリア航空は、慢性的な経営不振と新型コロナウイルス感染症の世界的流行を原因とする国際線需要の喪失のため、2021年に再び国営化され、新会社ITAエアウェイズに移行しました。因みに、同社のボストン便は、ローマ発の午前中の1便のみとなっています。


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 第5シーズンのいながら旅は、以上で完結です。次の旅を楽しみにしてお待ちください。

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